機関誌『半文』

転調鳴鐘アニメ論 Change-ringing Animology-別のものが結ばれるということ-

長田 祥一 / 小松 祐美

第6回 ビタリス(1)

ビタリスは、彼の初めての登場からして少しおかしかった。逆説めいたことを言うようだが、『家なき子』においてキャラクターが初めて登場するときの下記の形式に照らしてみれば、彼は登場しなかったという方が近い。ビタリスは、いつのまにか居た。

『家なき子』におけるキャラクターの初登場には形式があって、それは、キャラクターが静止したまま画面に出現することを登場の契機とするものだ。例えば第1話、母とのいつもの楽しい夕食にそなえて手を洗おうと庭で井戸水を汲んでいた上機嫌のレミの元へ、父ジェロームの出稼ぎ仲間が訪ねてくる。このときショットの連鎖は、レミが笑顔でつるべをたぐり上げ足下の桶に水を空けるショット、誰かの両足がざっざっと足音を立て田舎道を歩いて来て立ち止まるクロースアップ、こちらを向いて額の汗を袖で拭うレミの背後に少し離れて大男が佇むショット、と続く。最後のショットにおいてレミがはっとして大男を振り返ると、微笑む大男のアップショットに切り替わって会話が始まる。それから大男がレミ母子に父の息災を知らせ彼から預かってきた金を渡す、という、物語的には穏当な交流がなされるに過ぎないのだが、気にかかるのは、レミとその背後の大男が映るショットにおいて大男は既に立ち止まっていて足音は鳴っておらず、レミが背後を振り返ったのが足音を聞きつけたからだというふうにはどうしたって見えない、ということだ。たしかに前のショットにおける両足の歩みに合わせて足音は鳴っていたが、ショットが切り替わりレミが額の位置に挙げていた腕を降ろし振り向くまでには、ほんの一拍とはいえ前のショットから間隔があって、足音に反応したものとして見るには彼の振り向きはタイミング的にいかにも遅い。その間に直立不動の大男の画面への出現があって、レミが背後を振り返る契機としてはそれしか見当たらないのだが、そうした消去法でやっと浮上する程度の契機として大男の出現を見過ごすことは、じっさいの試聴体験においてほとんど不可能である。やや浮かれた子ども、近づく足、背後に直立する大男、となればこれはほとんどホラー、あるいはスリラー。直後に理不尽な暴力が振るわれてもおかしくはない。というのは冗談として措くにしても、場合によってはホラーにもスリラーにも展開可能な不穏さが、直立不動の大男の出現に感じ取られうるのは確かである。

しかしその不穏さは、実写のホラーやスリラーにおける加害者の登場とは重要な点で内実を違えている。かの大男の出現における不穏さは、彼が膂力にまかせて暴力振るえそうな大男であることによってでも、レミに気づかれぬまま背後に立っていることによってでもなく、彼が完全に静止して瞬時に画面に現れることによって生じている。彼はアニメ絵であり、通例「止メ画のキャラクター」などといった制作用語を用いて受け流されもするその姿は実のところ、形態においても持続性においても人として見るにはあまりに不完全な、人型の視覚対象である。

完全に静止したアニメキャラクターの瞬間的な出現というものは、ベタ塗りのセル画がもたらす平面的な視覚的圧迫感も手伝って、非常に明白に我々に視覚的な衝撃を与える。そうした衝撃を筆者は「拍」と呼んでいる。拍は時にキャラクターの躍動における静動緩急切り替えの要点でタイミング良く画面から打ち出されてきて、我々にアニメ視聴の愉悦を与えもする。しかし元来、コマ数少ない静止画の連続映写に過ぎないアニメ画面において、拍は「出せる」というよりも「出てしまう」ものであり、キャラクターがギクシャク、カクカク動き、あるいはただ止メ画で画面に映るだけで不用意に出て、時に不快に我々の目を打つ。ジャパニメーションにおいては止メ画でのキャラクター出現は珍しいものではなく、イケメンがキメたり美少女が視聴者のハートをずっきゅんするショットで類例を多く観察することができるが、それは要するに、静止して出現する際の衝撃がメリットフルに応用されうるからである。拍とともに打ち出されるそれらの姿にはイケメンぶりや美少女ぶりが被せられていて、視聴者にもよるだろうがよく訓練された視聴者には何よりもまずイケメンぶりや美少女ぶりがぶつかってくる。そうしたキャラクターが視聴者にサクセスフルに受け入れられるときには、視聴者にはまず「かっこいい」とか「かわいい」とかいった部分への認識が先に来て、その認識が終わらぬうちに、つまり止メ画が長く続きすぎて視聴者が疑問を持つなどする前に、ショットが変わるかキャラクターが動くかなどするのが常である。その際視聴者が持ちうる疑問というのは、誰も実際口にはしないだろうけれど敢えて言えば、「かっこいいはかっこいいけれど、そのかっこよさを帯びた、画面に映るコレは一体何だろう」といったものであるかもしれない。その戸惑いがもしも、「これはアニメ絵であり、止まっているのをいつまでも鑑賞するべきものではない」といったような答えに至ってしまえば、物語アニメを見る体験は破綻する。言うなれば、「かっこいい」とか「かわいい」とかいった形容は、何かを修飾する前置修飾として置かれてはいても、それは都度、その何かにあたる非修飾部に至るのを遅延させ修飾機能を全うせぬために置かれていると言って良いだろう。

レミの元に訪れる大男はイケメンではないし、当然美少女でもなく、彼の姿に「かっこいい」とか「かわいい」とかいった修飾を認めることはできない。実のところこれまで彼を「大男」と呼んで来たのも、名もない彼を呼ぶために便宜的にそう呼んで来ただけのことであって、別段彼がアオリで映るなどして「大きい」ことが強調されるわけでもない。問題のショットが映って彼の姿が我々の目に飛び込んできたとき、我々は「なにかいる」とか「なにか出た」とか思うくらいがせいぜいなのだが、その「なにか」という認識は、「誰だか分からない者」を見たという人物同定不能の戸惑いというよりは、「何だか分からないモノ」を見たという存在把握不能の戸惑いを帯びている。

その出現から会話を始めるに至る間に、ソレは声を発し他のキャラクターと交流ができるような、物語的に人と見なされるようなものとして、そしてまたレミにとっての父の仲間として、『家なき子』の世界に場を占めるようになる。その「なにか」から『家なき子』の世界へ場を占めるまでの飛躍を本稿では登場と呼んでいる、ということになるだろう。『家なき子』における登場の形式は、つまり他のアニメでも基本的には似たようなかたちで行われうるキャラクターの作品世界への飛躍が、修飾のない拍の打ち出しを伴う画面への出現をもって、視覚に対し文字通り「衝撃的に」始められる形式であると言えそうである。

勿論そうした視覚的衝撃が、物語におけるキーマンの登場を囃し立てる類の衝撃として受容され、物語的衝撃に変換されることが制作者によって望まれていた、と考えることは可能だ。しかしそれは単に可能だというに留まる。そもそも大男の出現が気にかかったのは、彼が物語的にはそう大したキーマンではないからだ。彼の到来後ほどなくして父の順風満帆は破綻し母子の生活は転落を余儀なくされるが、その破綻と転落の凶兆として大男登場の不穏さがあると考えるのは、死亡フラグとかいう定義ガバガバの尺度をゴキゲンに適用したとて無理がある。

それよりも大男は、レミ母子以外で初めて画面に現れるキャラクターである。レミは野原を駆ける動作から、バルブラン夫人は雨の降り出した窓外を見やる動作から画面に映り始めて、どちらもしばらくずっと静止して映ることはない。そうした映り方は、彼らが『家なき子』の世界に登場するのでなくずっと前からその世界にいたものとして我々に見える点で特別である。彼ら以外の主要キャラクターは彼らとは別の形式で登場するが、大男登場のシーンにはその形式におけるエッセンスの全てが入っている。そのエッセンスというのが先述した出現の拍、加えて全画面的な運動とリズムである。

大男の画面への登場においては、レミが水を汲む動作が画面およそ1/3ほどの範囲に映った後で、歩く両足が画面に大きく映り、次のショットで大男が画面に出現する。これらのショットの連続は、運動範囲に即して言い直せば、局所的な運動、全画面的な運動、拍の打ち出し、という連続である。局所的な運動については後で述べるが、全画面的な運動は、やや俯瞰の角度で正面から画面いっぱいに映った両足が左右代わる代わる踏み出されることで生じる。正面からの俯瞰であるから、左右の足は、踏み出されるにつれ、画面上方の奥から画面下方の手前に動いて、また元の位置に戻る。その往復が画面に見えはするのだが、しかし画面いっぱいに広がった運動というものは、画面上下や奥・手前といった方向、言い換えれば仮想のカメラを相手とする相対方向はどうあれ、その運動が画面いっぱいに映っている限り、画面を地平とする方向に広がる運動たるを無視されえない。つまり歩く足とはいえ畢竟足の形を構成する線と色がテレビ画面上をつるつる滑っているだけという、その、画面の地平での運動が目前にどっと広がるのが認知される。画面一杯になにかが旺盛に動いている画面を見て、何がどの方向に動いているのか分からず、ただただ画面に広がる運動を漫然と眺める羽目に陥った経験はおそらく誰にもある。大男の両足のショットにおいては勿論仮想のカメラと相対する方向への運動も把握されるが、次のショットにおける拍の打ち出しとの連鎖において重要なのは、画面を地平とする運動の、画面いっぱいの充溢である。その充溢を眺めていた視線に、大男が画面に出現するときには画面から垂直方向に衝撃が打ち出されてくる。大男の姿へ向けてぎゅっと集中した視線の先から、大男出現の拍がまともにぶつかって来る。

我々が彼の出現に際して「なにか出た」と思う時、その「出た」というのは、我々が意識するとしないとに関わらず、慣用的には画面に何かが出た=映ったことを意味し、直接的にはまさしく拍が「出た」ことを意味する。

レミによる水汲みのショットが大男の両足のアップショットに切り替わるとき、運動範囲はおよそ画面1/3から画面全体へと拡大する。そうして両足のショットに画面を地平とする拡大の運動が加わることで、大男の出現を見るにあたって視線凝縮の度合いが高まる。要するに『家なき子』的登場のエッセンスは全て大男の出現における拍の射出に向けて、その射出力増加に寄与すべく収斂するのであり、大男の足音のリズムもそれに寄与する。ざっざっと等間隔に鳴った足音のリズムが途切れ、訪れるはずだったその一拍に我々の注意が集中したところへ、大男の出現の拍が画面から打ち出されてくる。これと似たショット繋ぎは、アクションシーンにおける射出物描写の画面に多く観察される。画面片隅で巨神兵にハッパをかけるクシャナの奥で画面いっぱいに映って全身ドロドロ崩れていく巨神兵の口部から発せられるビーム一閃を思い出してもいいかもしれない。またリズムが続いた後にトドメの強拍が打たれるなどは、枚挙にいとまがない。

『家なき子』における主要キャラクターは、全画面的な運動とリズムの両方ないし片方を予備段階とした画面への出現を待ってからでなければ、他のキャラクターと交流を始めない。その法則は登場キャラクターが物語的なキーマンであればあるほど正確に守られる。第一話においては大男来訪のおよそ半年後、やはり父ジェロームの出稼ぎ仲間としてバルブラン家を訪れて父の大怪我を告げ、レミ母子の幸せな生活に転機をもたらすもう一人の訪問者は、数歩歩く両足、バルブラン家の扉を数回叩く拳のアップショットののちに、レミが開けた扉の向こうに静止した姿を現す。それまでの間、訪問者とレミ母子は互いに呼びも答えもしない。同じく第一話の終盤、バルブラン家に近づく両足は、仕事中に労働継続不可能な大怪我を負い、賠償金を求め雇い主を相手どって裁判を起こし、妻子に無心した金をつぎ込みながら敗訴して荒みきった父ジェロームのものであるのだが、そのジェロームは戸口から一歩入ってなおしばらく顔だの手だの動かし続けていて、彼が動いている間、レミ母子は彼を遠巻きに見つめるのみで彼を父だと認識しない。バルブラン夫人が「あなたなのね!」と夫を認識し彼と交流を始めるのは、彼の全身が大写しのパンアップで全画面を動いたのちに顔が止メ画で映った後である。またレミが旅芸人となってのち、ビタリス投獄のために彼と別れて金も底を突き、犬達を連れて途方に暮れ川原でハープなど弾いている時、のちに生みの母と知れるミリガン夫人が船に乗って彼の目前の川を流れてくるのと出会う時にも、その出会いはまずレミの歌に拍手するミリガン夫人の両手のアップショットから始まる。その拍手が続く間にレミはミリガン夫人を見やり、拍手を続ける彼女の全身が画面に映りもするのだが、「なぜ(歌を1)やめておしまいになるの?もっと聞いていたいわ」と彼女が宣ってレミと交流を始めるのはもちろん、彼女が拍手を止めてリズムが止んだあとに、彼女が静止して画面に映ってからだ。

『家なき子』における主要キャラクターは、まず顔なり全身像なりで拍を出してからでなければ他のキャラクターに声をかけないし、他のキャラクターから声をかけられもしない。それはなぜか。

声を出すというのは、アニメ絵であるキャラクターが我々によって人みたいなものとして認識されるための最重要条件である。しかし画面に映っているのは絵であり、絵というのはふつう声を出さない。アニメキャラクターが声を出すことができるのは、彼らが口パク等の動きによって拍を出すからである。口から声が出て見えるのは口パクの拍と声が同期しているからに過ぎず、例えば後ろ姿で肩なり頭なりがカタカタ動いているだけでも、声がその動きに同期していれば、我々はその声がそのキャラクターから出ているものと認識する。逆に言えばキャラクターは、声を出すためには肩でも頭でも、画面に映っているところをカタカタ動かさねばならない。声は口ではなく、拍につく。

どうやら『家なき子』においては、キャラクターはまず画面の姿が拍を出しうることを実証してからでなければ、登場するべき者と認められない疑いがある。誰に認められないのかはなお検討を要する。制作者がらみの可能性を言えば、『家なき子』放映当時、まだ現在よりもずっと鋭敏に感知され、その監督の出崎統をも悩ませていたらしいセル画アニメ絵のカンタンさ、言うなれば人物の像を描出するにおける絵画的劣等が、出崎らをして、拍の打ち出しという劣等絵画の不可避的随伴現象を、謂わばキャラクターの実存に向けた方途へと転換せしめた、という可能性は高い。

『家なき子』における主要キャラクター達は、物語的なキーマンとしての「キー」具合に応じて衝撃的に登場するのではなくて、物語的なキーマンたればこそ、まず『家なき子』における「マン」たりうることを証立てねばならず、そのために明確に拍を出し衝撃的に登場するものと目される。大男の場合、彼は物語的なキーマンであるというよりも、他のキャラクターに先立って登場し『家なき子』的登場の先例となるキーマンである。彼はジェロームの無事を知らせ金を運んでくるが、なに、そんなものは郵送で事足りるのだし、無事の便りだけなら単に無沙汰で済むともいう。父の破滅だって母子生活の壊滅だって彼なしで十分発生する。彼の「キー」具合はまさに登場するという部分にかかっていて、それだから彼の登場には他のキャラクターの登場に含まれる全てのエッセンスが入っているのだろう。

さて、ビタリスの出現は違う。彼の登場は以下のとおりだ。

荒んで帰宅したジェロームがレミを連れ、昔馴染みの営む酒場へ行って酒場の主人相手にクダを巻く。孤児院代わりに捨て子のレミを育てた養育費を役場から取り立てるだの、レミが立派な産着をつけていたから拾っただのと、彼が金に関する話ばかりしていると、酒場の奥の暗がりにいる人影が画面に映る。それがのちにビタリスと知れる人影であり、その人影が映るとき、「ジェロームさんとやら」と、のちにビタリスと知れる声がする。

ビタリスは、『家なき子』における登場の形式に照らして、ジェロームと交流するのが早すぎる。上記の画面に映るまでに、人影は前もって歩いてはいないし、体の他の一部が画面に映ってもいない。人影は静止して映りはするが、粗い筆致による無数の黒線で影が落とされていて、輪郭部付近にわずかに灰色がかっているとはいえ、その姿は概ね黒い塊である。セル画のアニメキャラクターというよりは背景画に近く、その姿には拍の打ち出しに寄与するベタ塗りセル画の視覚的圧迫感は認められない。人型と見えるかどうかも実際微妙なところで、彼の周りに朧に視認される椅子だのなんだのが、なんとなくそこを酒場の片隅であろうと思わせはするもの、椅子の脚にあたるだろう木部や何かに囲まれて微動だにせず、輪郭部に灰色を纏って暗がりにあるその人影ふうの黒い塊は、闇夜に月光で稜線を照らされた背景の山と大差ない。

そこに「ジェロームさんとやら」と、バリトンが響き渡る。そこ、というのはどこなのか。画面に映る人影から出たという証拠は画面内にないし、画面外に隣接する近隣から響いたことを証拠立てるショット繋ぎもこのショットまでの間にない。とはいえ次のショットではジェロームが振り向くから、彼にはその声が聞こえたのだろう。続くショットで人影はのっそり立ち上がる。まるで山が動いたようである。それからビタリスはジェロームに歩み寄る。そのとき彼はもはや人影ではなくセル画の姿で、『家なき子』における登場の形式どおり両足のアップで歩み寄り、全身の静止ショットへと移行する。立ち上がった山のような人影とセル画のビタリスは同じものであるだろうが、「同じもの」というのはどういう意味でか。人影がセル画の姿に変化したと見えるその姿は、まるで、なんというか、現世における仮の姿のようである。

暗がりにいた人影は山と見えなくもないとはいえ、闇夜に見える山がそうであるように、大きさ遠さの判断材料となるような細部が自身の体と周囲になく、大きさが判然としない。しかしセル画で映る時、彼の全身は極端なアオリで映っており、明確に大きい。そのショットにおいて出現の拍とともに打ち出される姿に被さっていてまず我々の目に飛び込んでくるのは、彼の体躯の大きさである。加えて言えば、ジェロームから買い取ったレミを迎えに後日ビタリスがバルブラン家を訪れるとき、彼の歩く姿も立ち止まる姿も極端なアオリで画面に映る。なぜビタリスはセル画の姿で映るに際し、そんなに大きくあらねばならないのか。

もちろん体の大きさは重要なのだ。例えばレミが加わってのちのビタリス一座が野道を歩くとき、一行の真横水平位置から一列縦隊の一座を映し出すショットにおいて、レミの頭上には大きく空が広がっている。その大きな空があるがゆえ、あるとき喜び勇んだレミが頭上に投げ上げた帽子なども高く空を飛んでいくことができるのだが、画面内においてそうして大きく空を戴いたバランスでレミが画面に映ることができるのは、ビタリスの体の大きさあってこそである。その空の大きさは、ひときわ背の高い突出点としてビタリスを中心に据える一座が画面に収まる時に、背の低いレミの頭上にのみ広がる大きさである。空というのはアニメ画面においてとりわけ描き込むべきものの少ない区域であり、レミや犬たちだけが画面に映るときには空はもっと狭くなるのだし、仮にレミや犬たちだけが画面下端に映り、その頭上にあまりに大きく空の区域が広がるとすれば、その空虚な青色の区域で多くを占められた画面から生じるのは空の大きさではなく、レミの小ささ、ないし孤立でしかなかっただろう2

ビタリスはレミのため高く聳える。それは街々が画面に映るたびに街の中央に聳え、その高さをもってレミが向かう街の上に大きく空を導入する教会と同じである。前稿述べたビタリス教会化の詳細は次稿でさらに考えねばなるまいが、どこから響くか分からぬ声を発し、仮の姿で歩いたかもしれぬビタリスが、何であってもおかしくはない。ビタリスという名前は、彼が旅芸人をするための仮の名だそうである3

2019.4.10

(おさだ・しょういち/城西大学付属城西高校)

第7回 ビタリス(2)

レミです。僕がこうやって話してるってことに、みなさんは驚くかもしれません。でも、もともと僕にはそういうことができるのです。つまり時々1僕は、僕の旅で起こることなら、遠くの街で起こっていることでも先に起こることでも分かっていて、そのことについてみなさんにお話しするということができるのです。

いつも2の僕は、そういうことはできません。ビタリスおじいさんが死んでしまったとき、僕は気を失っていてそのことに気づいていません3。でも起きる前に4、僕の声がして、こういうふうに言います。「レミです。偶然僕は、アキャンという人に助けられた。でもビタリスおじいさんは死んでしまった。そんな僕をアキャン一家は親切に看病してくれた。そんなとき、思いがけないことからおじいさんの過去が分かったんだ。ほんとうの名前はカルロ・バルザーニといって、世界的に有名なオペラ歌手だったんだ。次回の『家なき子』をお楽しみに」。

そうやって僕がしゃべっているとき、みなさんの目に見えているのは、ベッドに眠るレミをアキャンさんたちが見守ってくれてるところとか、ビタリスおじいさんが安らかに横たわっているところとかで、僕の声をそのレミが出してるふうには見えません。もしそう見えてしまったら、それはもうレミが喋っているところでしかないから、どうしてレミが先のことまで知っているのか分からなくなってしまうと思うし、そんなレミが旅してるのなんかをみなさんが見守ってくれるのかどうかもきっと分からなくなってしまう。そういう困ったことにならないのは、僕が声だけだからです。みなさんの目に見えているレミに、僕の声は、というか僕っていう声は、くっついていないので、どこにいて、いつにいても、おかしくない。おかしい理由がないんです。

僕とレミとはあんまり違うから、かえって僕は、いくつか同じところがあるってことにびっくりしてしまう。じつは声だって、僕が「レミです」と言って話し始めて「僕は」と言って話し続けるからなんとなくレミがしゃべってる感じになるんだけど、そうでなかったら同じ声だって思わない人もいると思う。それに言葉づかいだって違う。僕は「分かったんだ」とか「オペラ歌手だったんだ」とかって言うけど、レミはそんな言葉づかいはしません。レミはまだ見習いだけど旅芸人だから、他の言葉づかいだったらいろんなお芝居をやったりお客さんに口上を言ったりするときにするんだけど。

でもじつはそこのところが一番、僕とレミが同じところなんじゃないかと思うんだ、つまり、そのときやらなくちゃならない役をするっていうところが。僕はたしかに、先に起こることについて、もう過ぎたことをしゃべるみたいに「アキャンという人に助けられた」とかって喋るけど、僕はどこにいついるか決まってないから、未来にいるって決まってるものでもありません。未来にいると思ったっていいんですけれど、でも、僕がこういうしゃべり方をするのは、僕がいる時間から決まってることじゃなくって、「看病してくれた」、「分かったんだ」、「オペラ歌手だったんだ」ってしゃべっていって最後に「お楽しみに」って終わらせる、そういうしゃべり方の型5から決まっていることなんです。そうやって「次回の『家なき子』」をみなさんに紹介するのが僕の役割で、役なのです。

レミも自分がしなきゃならない役をするんだけど、僕とは少し違う。レミは僕より大変です。レミはふたつの役をこなさなきゃならない。レミはまず、大道芸をやらなくちゃなりません。これについては、レミはすぐにやれるようになりました。そりゃ最初はできなかった。旅芸人の格好をするだけのことだって、最初は泣いて嫌がってました。お芝居でとんまな下男の役をするときにもすぐには台詞を覚えられなかったし、ビタリスおじいさんに歌を教わったときには音を外して怒られた。でもいつだってすぐに6できるようになって、ハープなんかは、練習もせずにいつのまにか弾けるようになりました。けれどレミは、もうひとつの役もやらないといけないんです。つまりレミは、なんていうか、レミをやらないといけない。道化みたいな服を来てとんまの役をやることを泣いて嫌がったり、でもそのうち受け入れたり、台詞を覚えられなかったり音を外したり、でもいつしか身につけたり、そうやって旅をしていくところを、みなさんに見てもらわなくちゃいけない。

そのふたつの役は、似てるけどちがう。レミの大道芸は服を替えることから始まるんだけど、ビタリスおじいさんに新品の服をひとそろい買ってもらったとき、レミは「町の子みたいだ」なんて言ってはしゃいでました。でもおじいさんはその服を切って飾って、青い帽子なんか赤いリボンでぐるぐる巻いて白い羽根なんか挿しちゃった。レミはその格好で大道芸の稽古に連れていかれてずっとぐずぐず泣いていたんだけど、そのときおじいさんは「目立つということが旅芸人では一番大切なことじゃ」、「お前はもう村の子レミではない、今から旅芸人レミじゃ」と言ってレミを叱った。「目立つということ」はレミたちにとってほんとに「大切なこと」なんです。レミたちが街を行進してお客さんを集めるときや街角で大道芸をするとき、レミがほんとに「町の子」みたいだったら、街のお客さんたちはきっとすぐにはレミを見つけることができません。でも街のお客さんたちがレミをすぐに見つけるってことは、ほんとは、なにかを見てる街の人をみなさんが見て、そしてみなさんがレミをぱっと見て見つける、っていうことです。レミにとってほんとに大切なのは、みなさんに見つけてもらうことなんです。青い帽子にリボンと羽根なんかついてるのがそのいちばんの証拠で、これはもうぜったい、街のお客さんがレミを見ることとは関係ありません。だいたいビタリス一座が街角で大道芸をするときには、レミたちと街の人たちとは間が離れていて、ほんとはあまりレミを見つけにくかったりしないんです。それよりレミを見つけにくいのは、レミが大道芸なんかしないで街や山を歩いてるときです。レミが買ってもらったのは青い「フェルトの帽子」と「藤色のシャツ」、赤い「ビロードのチョッキ」、青い「羅紗のズボン」で、そんなの全部着たらそれだけで十分目立つんだけど、でも、空から見たときだけは違います。どんなに派手な色ばっかりの服を来ていても、レミは空から見たら青色の帽子だけになってしまう。そしたら、レミが人混みにいたっていなくたって、ぱっと見ただけじゃ、それがレミかどうかなんてこと分かりません。青色の帽子にわざわざ赤いリボンや白い羽根なんかがついてるのは、そういうときでも空から見つけて、すぐにそれをレミだって思ってもらわなくちゃいけないからです。空からなんて、そんなところから街の人はレミを見ません。だいたい街の人たちには、レミだってことは分かってもらわなくたってかまやしない、大道芸人が来たってことを分かってもらうだけでいいんです。レミがその格好をするのは、みなさんに見つけてもらうためで、それは大道芸をしていないとき、レミがレミをしてるだけのときにも大切なんです。

レミが両方の役をするのの何が大変って、レミがレミをする方が大切なのに、そっちはあんまりにも大切でぜったい失敗しちゃいけない、レミがその役をしてることにだって気づかれちゃいけないってことです。言ってみたらレミは、その役がぜんぜん大切じゃないってふりをしなきゃならない。町の子が着るみたいな服をへんに飾りつけた、レミがあんなに嫌がってた格好、山道なんか歩きにくいに決まってるあの格好を、レミは、お客さんなんかいるわけない荒れ地でも、吹雪の雪山でも、いつでもしています。それはそんなときでもみなさんがレミを見てるからなんだけど、レミはみなさんに、レミが見ていてもらわなくちゃならないってことは知られないまま、見ていてもらわないといけません。たいてい知られてるのかもしれないけど、だとしても『家なき子』を見ながら思い出してもらっちゃいけない。それは、レミがみなさんに見ていてもらわなくちゃいけないのはどうしてかっていうことの答えが、レミが主人公だからっていう以外にないからです。レミが主人公になっている理由は、『家なき子』の中にはありません。レミはべつにとりわけ大道芸が上手いからとか、とりわけ聡い子だからっていう理由で主人公になってるんじゃないんです。『家なき子』の外にはレミが主人公にされた理由があるのかもしれないけど、それは『家なき子』の中では言えません。それを言うのは『家なき子』が作りモノだって言うことで、それはつまり、レミはいない、って言うことだからです。

その格好をいつでもしている理由を、レミは自分で言うことができません。そのかわりにビタリスおじいさんが、知ってか知らずか、上手に言ってくれます。「目立つということが旅芸人では一番大切」だ、レミは「今から旅芸人レミ」だ、って。だからレミは、ずっと、目立つ服を着てなきゃならなくなった。もちろんビタリスおじいさんは大道芸のことだけ考えてそう言ってたのかもしれない、でもおじいさんがどう考えていたとしても、大道芸も、レミがレミをやることも、役をやるってところは同じで、目立たなくちゃいけないってところも同じなんです。そしておじいさんがどう考えていたとしても、みなさんはきっと、おじいさんが大道芸のことしか考えていないと思いながらそれを聞いてくれると思います。おじいさんは、主人公の役がぜんぜん大切じゃない、とは言わないけど、おじいさんが大道芸を大切にしてることで、主人公の役の大切さが引っこんでる。そういう意味では、レミがレミの役をやるために、大道芸もやっぱり大切なんです。

レミがレミをして旅してくことに『家なき子』の中で名前はついてないけど、レミは「旅芸人」だっておじいさんが何度も言うから、レミがレミをして旅する芸は「旅芸」とか言ったらいいかもしれない。その旅芸を、レミはビタリスおじいさんに支えてもらってます。レミが見習いなところは、ビタリスおじいさんみたいに大道芸を大切にすることができなくて、旅芸をおじいさんに支えてもらってるところだっても言えるし、レミがどうも聡すぎる感じがするところは、そうやって見習いの分をわきまえてるみたいなところがあるからだとも言えます。

レミはビタリスおじいさんを「お師匠さん」と呼びます。そこが僕とレミの一番違うところです。僕はみなさんにしゃべるっていう役はやるんだけど、「目立つということ」が「大切」な大道芸はやらないし旅芸もやらないから、「お師匠さん」ではなくて、「ビタリスおじいさん」とか「おじいさん」と呼びます。

レミは、旅をしながら大道芸なんかの芸をする「旅・芸人」でなきゃいけないし、それ以外のときでもレミの旅芸を見せる「旅芸・人」でなきゃいけないから、けっきょくレミは、どっちにしても「旅芸人」にならなきゃいけないんだと思う。

でもレミはまだ見習いです。そのことが目に見えて出てくるのが、レミが大道芸をするときです。ビタリスおじいさんは、レミたちが「街の立派な劇場で入場料をとって舞台に立つ芸人ではな」くて「旅芸人じゃ」と言ったけど、レミが大道芸でするお芝居はじっさいのとこ、「街の立派な劇場で入場料をとっ」たりしてみなさんに見てもらうような、その芸だけで見てもらえるような芸じゃありません。だからレミのお芝居は、初演のときでもすぐに途中で終わっちゃうし、その後はみなさんに見てもらえる時間がどんどん短くなっていきます。

だけど、っていうか、だから、レミの大道芸が始まるときにビタリスおじいさんがハープを弾きます。レミが「よたよたよた」とか言いながら、とんまの下男の役を始めるとき、ビタリスおじいさんがハープの上で手を動かし始めてハープの音楽が鳴る。その音楽は、下男につけられた伴奏です。でもレミが下男を演じる芸がみなさんにお見せできるものでないことはすぐに隠せなくなってきてしまう、そうすると、たどたどしくセリフを思い出しながら「えー……おいらは、おいらは」なんてやってるレミの、ぶきっちょに初舞台をふむっていう旅芸だけが、みなさんにお見せできるものになる。そのときちょうど、ビタリスおじいさんの手の動きがぜんぜんハープの音楽と合っていないことが、みなさんに分かってきます。そうすると、少し滑稽でおだやかな感じのハープの音楽は、どこから鳴っているのか分からなくなって、もういつの間にか、下男についてる伴奏ではなくて、たどたどしく大道芸をやるっていう旅芸をするレミについてて、その様子を見守るみたいな伴奏になってる。

なんてすごい芸なんだろう、と僕は思います。ハープの音楽が、レミの大道芸と旅芸をわたってつながっていることが、すごい芸だと思うんです。同じ音楽が鳴っていることで、レミの大道芸もなんとなく旅芸につながってく。レミには悪いけど、大道芸だけじゃなく旅芸だって、レミはべつに上手じゃないんです。よたよた歩くのをたどたどしくやるなんていうのはすごく難しくって7、「よたよた」とか「たどたどしく」とかいうよりは、こわれた機械みたいにレミは動いちゃってるんだけど、でもそうやってへんな動きしかできないところもハープの音楽が見守ってる感じで、あまり気になりません。はっきり言っちゃうと、レミが大道芸をすぐにできるようになったのは、レミに大道芸の才能があったからじゃなくて、うまく大道芸ができないっていうレミの旅芸がへたくそだからなんだけど、でも、レミがそんなふうにしかやれないことまで包み込んで音楽が見守ってる感じもする。そんなことまで音楽が包み込めるのか分からないけど、それが分からないということ自体、なんだか音楽がおおってしまって、気にならないようになってるみたいだ。

ハープの音楽はすごいけど、でも、それがだれの芸なのかははっきり言えません。ビタリスおじいさんは途中からもうハープを弾いているみたいじゃないから、その音楽がビタリスおじいさんの芸なのかどうか分からない。ビタリスおじいさんの演奏から出ることができるっていう、ハープの音楽の芸なのかもしれない。

ビタリスおじいさんの、とは言い切れないけど、ビタリスおじいさんと関係がある芸が、レミの旅を包んでつなげるようです。ビタリスおじいさんは旅芸人について、「いま親切にしてもらったことを忘れてはならんぞ」とか、「旅芸人の身分は低い」とか言って、レミにいろいろ話すんだけど、そういうお話が、レミが出くわすたくさんのできごと、ほっといたら起きるはしから散らかっていくたくさんのことを、旅芸人レミの旅に合わさっていくようにつないでいきます。

親切を忘れるなってビタリスおじいさんが言ったのは、真冬、「旅芸人の身分が低い」せいでレミたちがつらい目にばっかりあってたときに、たまたま出会ったお百姓さんの一家に芸を見てもらったあとです8。その一家のひとたちは、レミたちが水を切らして困っていたら井戸水をくれて、レミたちが水とパンだけでごはんにするって知ったら一緒のテーブルに招いてくれて、あついスープを出してくれて、レミたちがお礼に大道芸をしたら楽しんでくれた。「こんなに楽しい気分で芸をするのはうれしいな」って、レミは思ったみたいだ9

レミたちはそのとき、「旅・芸人」としてお百姓さんに親切にしてもらったんだけど、でも「旅芸・人」としても、みなさんに、親切にしてもらったんです。もしもみなさんが「レミよかったね」とかって思ってくれたら、ですけど。そういうふうに思ってくれることはレミへの親切だと、僕は思います。それは、思ってくれたことの中身が「この卑しい芸人め」なんかじゃなくて「よかったね」だったからじゃありません。それもあるんだけど、そのためにまず、「よかったね」って思う相手として「レミ」を、いる、って思ってくれたからです。それは親切っていうことじゃないのかもしれないけど、でも、レミにはぜったい必要なことで、そして、みなさんにしてもらう以外にないことです。

みなさんにそういうふうに思ってもらえるっていうのは、あたりまえのことじゃありません。「旅芸人の身分は低い」んです。「旅・芸人」の身分も低いんだけど、「旅芸・人」の身分だって高くはありません。低くもないんだけど、なんていうか、低いよりももっとどうにもなりません。つまりもともとレミには、身分をもらえるような、ずっとつながってる体がありません10、体って言っていいのか、みなさんだったら持っているかもしれない、ずっとつながってる自分が、レミにはないんです。自分ってものは、体があれば自分もあるってものじゃないと思うけど、体がかんたんに変わっていっちゃったらきっと持てない。その体ってものが、レミにはありません11。だから「旅芸・人」の身分は、低いとかってより前に、ただ、ないんです。

そこのところが、レミにとって旅芸が大切だってことのいちばんの理由です。レミにはつながった自分がないけど、ないから、旅芸をして、みなさんを通して、それを作らないといけません。なにを作るかっていうのは、ほかの芸だったら、べつに自分じゃなくたっていいんだと思う。大道芸だったらとんまの下男を作る。芸をするときには、なにかつながってるものを作ります。旅芸のばあい、レミは主人公だから、つながった自分を作る。でも、自分がつながってるだけじゃ、だめだと思う。だって自分や、自分のすることがつながってるだけだったら、レミはいつまでもひとりぼっちの、なんていうか、「家なき子」のままになってしまう。

「前に進め、じゃ」とビタリスおじいさんは言うけど、お話っていう、前につながっていくものをつないでいって、その中をレミが進んで旅していけるようにしてくれるのがビタリスおじいさんです。その旅をレミは前に進んでいって、そして、なにをするんだろう。どういうふうにつながって、なにとつながれば、レミは「家なき子」じゃなくなって、「ほんとによかったね」って思ってもらえることになるんだろう。そういうことは、僕か、だれか別の人に芸があれば、またの機会にお話しできるかもしれません。

2019.8.12

(おさだ・しょういち/城西大学付属城西高校)