機関誌『半文』

往復書簡 -文体研究-

第1の手紙

拝啓

随分久しぶりだが、君は元気にしているだろうか。僕の方は少し体調に変化があって若干苦労しているものの、それもまあ世人が一口に「年を取るといろいろと体にガタが出てくる」と言って済ませている中に色々あるだろう内のひとつだと思うから、どうか心配しないでほしい。むしろ体調の変化に合わせて立ち座りやらなにやら細々したところから日々様々工夫していると、生活というか人生というか要するにひっくるめてLife、その営みにおいては僕もだれも様々に工夫しながらそれぞれ生きていけるように生きていっているはずであり、僕が例えば偉そうに何かについて考えているように思ってみても、それは僕が僕なりに生きていけるように様々工夫しているうちの自覚可能な一側面、あるいは進んで自覚する気になる一側面に過ぎないとも言えるのだ、ということが改めてごく生活的なレベルから実感されてくるような気がする。そうした個々の側面がそれぞれ、生という総体が持ついくつかの側面のうちのひとつに過ぎないのだとすれば、いっそこの際に、互いに接続しない多くの方面に時折なにか散りぢりになっているようにも思える自分の生というものが、ぼんやりとだが統合されて意識されてくる気がしないでもない。そんなわけで、僕は概ね相変わらずといった調子で日々生活している。

さてこうして手紙を書いたのは、僕が最近出くわしたある事件について君に話してみたいと思ったからだ。とはいえそれを事件と呼ぶべきかどうか、つまりこれから僕が話そうとする事柄に何か事件性があるとして、その事柄にどう関わるどのあたりにどのような事件性があるのか、現時点ではよくわかっていないのだが――ありていに言えば、こうして君に送りつけているのが「往復書簡」になるべきものであるならまずは僕からの一通目は手紙の体裁で書いてみよう、そしてその手紙をある老人のおかしな死を巡るものにすると決めたからにはどこそこミステリー風に書いてみよう、と思って書き出したは良いものの、安直に事件という語を出した結果、そも今回の話題において事件性とはなんぞやと自縄自縛で囚われて呻吟する羽目になり、しばらくのあいだ筆が進まなかったのだった。結果として残ったのは、ここまでの文面がなんだか妙に自己言及の多い現代ミステリーみたいになった、ということだけだったように思えて少し後悔しているが、なにしろこれは「往復書簡」であるし、場合によっては他の人も巻き込んで「循環書簡」になるかもしれず、何がどう面白い方向に転がっていくかわからないから、上記はこのまま残しておく。

いい加減率直に本題に入るとして、君に話したいのは『呪術廻戦』という昨今流行のアニメの主人公である高校生の虎杖(イタドリ)君、その祖父の訝しい死についてである。どこが訝しいかというと明確には言いづらいのだが、敢えて一言で言ってみれば、祖父がチョイ役であるにしては彼の死に様があまりに御丁寧に映りすぎ、またその死を主人公の虎杖君があまりに理屈づくでポジティヴに受け入れすぎる、といったあたりではなかろうかと思う。先に事件性の所在についてくだくだしく書いたのもそのあたりと関係があって、つまり件の死に関して上述のような「あまりに~すぎる」という過剰さがひとまず感受されうるとして、その過剰が『呪術廻戦』に固有の現象なのか、現代のバトルものアニメないし漫画に共有されている現象なのか、あるいはさらにずっと大きな問題なのか、ということがいまいち判然としないのだ。ひとまず性急に判断しないことにして、以下なるべく具体的なところから話そうと思う。

君も作品名くらいは聞き及んでいると思うが、アニメ『呪術廻戦』というのは一言で言えばオカルト系バトルアニメであり、2021年春に第一期が放送され先頃にはスピンオフ映画が公開された。どちらも大変な好評を博しているという。原作として同名の漫画があり、これは2022年1月23日現在週刊少年ジャンプに連載中であり未完である。漫画とアニメを区別する必要はこの手紙において最終的にはなくなるかもしれないが、まずはアニメ版第一期に限ったものとして話を聞いてもらいたい。

その第一話前半では、虎杖君が楽しげに高校生活を送る一方、いずれすぐ彼の仲間になる伏黒(フシグロ)君がその高校に来て、作品内では「呪い」と呼ばれるところの怨霊系クリーチャーについて何事か調査している。そして虎杖君の祖父が死ぬのを挟んでから後半で、伏黒君に巻き込まれるかたちで虎杖君がバトルに参入する。構造としては、ドタバタポップな虎杖君の生活シーンと、伏黒君が担う比較的シリアスなバトル導入シーンがパラレルに進んでいたのが、祖父の死を結節点としてシリアスなバトルシーンに一本化する。僕が訝しんでいるのはその結節のあり方なのだが、まずは祖父の死のシーンについて話を聞いてもらうのが良さそうに思う。

そのシーンは虎杖君の祖父が初めて長尺で登場するシーンで、彼はなにかの理由で入院中であるらしく、彼を見舞って虎杖君が病室を訪れると半身を起こしてしばらく元気に「仲良く喧嘩しな」状態で憎まれ口を叩き合った後、虎杖君に背を向けて横臥し、脈絡なく次のように言う。「悠仁(ユウジ)、お前は強いから人を助けろ。手の届く範囲でいい、救える奴は救っとけ。迷ってもいい。感謝されなくても気にするな。とにかく一人でも多く助けてやれ。お前は大勢に囲まれて死ね。俺みたいになるなよ」。こう言ったあと祖父の声は途絶え、虎杖君が「じいちゃん?」と呼びかける。ナース室にコールがかかって、虎杖君が「じいちゃん、死にました」と告げる。

もちろん(と言っていいと思うが)僕が気になったのは、祖父がどんな難局を想定して「人を助けろ」と言ったのかとか、なぜ「手の届く範囲でいい」という留保を設けたのかとかいったことではないのだ。彼による訓告めいた発言の数々はたしかに謎めいてはいるものの、それらにおいては物語的な謎が謎として提示されていることが明白であって、その限りにおいて訝しくはない。さらには、祖父は虎杖君に与えた訓示の全てにかつて自ら反するようなことをしたのだろう、その仔細はいずれ明らかになるだろう、ということもまた明白だと言っていいだろう。要するに上記の訓告が、物語的な機能としてヒキの機能をもっぱらにしているということ自体はほとんど自明だ。

僕が気になったのは、上記の訓告がヒキの機能を持つ一方で、シーン全体としては祖父の悲しい死の場面として見てもらう機能を担っているようだということなのだ。悲しい死の場面として見てもらう、というのがうまく説明できるかわからないが説明を試みると、例えばまず「悠仁」と呼びかける直前には、画面に収まりきらないほどの大写しで祖父の顔が映っている。その顔中には夥しい数の皺があり、その随所に影が落ちていて、皮膚のたるみが大変立体的に見える。それ以外のショットで陰影の少ないつるっとした顔に数本皺が寄っていたのと同じ奴の顔だとは、にわかに思いにくいほどだ。その顔は映るとすぐにゆっくり目を閉じるのだが、その際には眉目および周囲の皺という皺が全てじわっと動く。これだけでもう既に思わせぶりじゃないか。このショットからは彼が年のいった老人だということが見て取れるだけじゃない。『呪術廻戦』というのは、アップでもミドルでも細部の密度に大して変わりがないような米国産の3DCGアニメではなくて手描きのジャパニメーションなんだから、このショットを見る者が少しアニメ漫画文化に通暁していれば、この老人にこれからなにか重大なことが起こるだろうということは一目見てわかる。そして実は虎杖君が病院に来る少し前からはつま弾きのギターの音楽が流れていたのだが、祖父がゆっくり目を閉じていくときにそのギターが最後にひと弾き、シャラーンと鳴って消える。いかにも物悲しげである。

おかしいと思わないか。悲しむのが早すぎる。試みに比較すると、例えばある古い架空のアニメで、少年主人公が祖父と山奥に暮らしているとする。その祖父が病気か何かで死んで、死んだ後で彼らの住むあばら屋なんかが映って物悲しげにシャラーンと音が鳴るとする。その場合ならばその音は「悲しかったね」ということを視聴者が作品世界と共有する(ということをした気になる)ための音だと言って良いかもしれない。そうであれば「悲しかった」ことは作品世界内の少年も共有しているかもしれず、となればその音の鳴り終わりはほとんどそのまま、少年が「悲しかった」ということを受け入れた区切りでもありうる。それでその後で少年が南無南無と手を合わせて「じいちゃんも死んじゃったし里にでも下りようか」とか言って物語が始まる、というなら僕は特に訝しがったりしない。しかし上記の病室のシーンの場合、シャラーンは老人がこれからひとくさり喋ろうという段階で既に鳴っているのであり、この場合その音は、「悲しかったね」と区切りをつける音ではなく「これ以降をおろそかには見るな」と、「神妙に見よ、耳を傾けよ」と、のみならず「悲しいものを見聞きするものとしてそうせよ」と、そう宣告していることにならないだろうか? そうなるとすれば、老人が死ぬよりも先に、シーンが(と言うことが可能だとして)その死を悼み始めている。

不穏だよ、これは。ありふれているとすれば、ありふれているということ自体が不穏だ。もちろん僕は、そのシーンを見るときに老人の死が予感されることについてそう言っているのではなく、我々が即席の悲しみを背負って、ろくに知らない老人の死に立ち会わされようとすることについてそう言っているのだ。我々は、なぜこんなに急いで、それでいて御丁寧に、悲しまされねばならないのだろうか。もしも、ひとまず悲しいできごとだということにして以降見ていきましょう、ということであるならもっと簡潔に、それこそ建物外観が映ってシャラーン一音、みたいなのでもべつに良さそうなものじゃないか?

ミステリーであれば、誰かが死ぬ前にその死への向き合い方を決め込んで周囲を誘導してくるやつがいたら、まず間違いなくそいつは来たるべき殺人事件の犯人候補だ。無論読者にそう思わせておいて、そいつは真犯人とは別の目的でその誘導を行っていたに過ぎず、真犯人はもっと恐ろしい目的をもって事件の全体を仕組んでいた、あるいは真犯人がどうというよりも、ずっと昔に根付いた因習が数十年数百年をまたぐ間に人々の間に堆積させてきた泥々の怨念みたいなものが今になって、一斉にあちこちで吹き出して事件を複雑にしていた、というような展開もありうるだろうけれども、存外今回もそんなふうかもしれない。例えば祖父の死が上記のように、見たら悲しみが纏いついてくるようなかたちで予告されていることは事件の水面に現れた事象であるに過ぎず、その下の容易に見通せぬ暗い水底では、悲しみなるものそれ自体が現今とるようになったある奇怪なかたち、あるいはその悲しみなるものを摂取し消費する理想的な視聴者のかたちが、いまいち不定形のままおぞましく蠢いているのかもしれないじゃないか。虎杖君達につきまとっている「呪い」というのは、つまりはそれらのことなのかもしれないね?

とまあ、そんなようなことは、上記1ショットを見た一瞬に脳裏をかすめた曖昧な疑念を今になって、少し先走りつつ言語化してみたに過ぎない。しかし上記のショットに続いて窓外の夕焼け、祖父、虎杖君が順次映りながら祖父の訓告が続くにつれ、「これは悲しい場面である」という宣言がいよいよ明瞭に聞こえてくるように思えたのだ。ひとつには夕焼けというものがセンチなものだというのがあり、もうひとつには祖父の、噛んで含めるように訓示を呟く声が情感たっぷりだというのがある。ギターの音が消えた後で聞くべきものはその、物語的なヒキの機能を持つだろうわけのわからない訓告をしみじみ垂れる祖父の声以外にない。その言葉を聞くということにおいて、発話内容を聞き取るということと、訥々と語る彼の声を聞くということが僕の中で整合しない。ヒキの機能と悲しみの機能が諸共に発揮されてくるのを受け取るのが、僕にとって過負荷だったのだ。だって大変じゃないか、そんなことを両方同時に処理するなんて。そしてまるで、祖父の言うことはどうでもいい、とシーンが宣言しているようじゃないか。

その過負荷状態は、しかし「俺みたいになるなよ」という祖父の最期の一言が発せられて以降、段々と整理され始めたのだ。その一言が聞こえる時には再度虎杖君の頭越しに祖父が映っていて、彼を含めて画面内に動くものはなく、画面全体がじっくり引いていく。祖父が喋り終えてからもしばらく続くその引きの動きは、喋らず動かなくなった祖父が、そうは言っても画面枠に対して相対的に動くことでまだ辛うじて事切れずにいるようでもあり、シーンが祖父との別れを惜しんで離れ難がっているようでもある。そしてその後虎杖君が「じいちゃん、死にました」と告げるときに画面に映っているのは夕焼け空と病院外観なのだが、その空がまた、暮れ終わる間際の暗さの中に赤と青が入り交じり、黒々と影になった雲と雲の隙間からはまだ眩しい陽が一条だけ照り射していて、総じて絢爛と言って良いほどなのだ。悲しみに沈んでいるようでもあり、祖父を晴れやかに、というよりは豪勢に送るようでもある。目を惹かれる一方、一言で言えば、くどい。彩りが、そして祖父の死との連関が、いかにも色濃い。

思えば僕はこれらを見た時すぐに、以下のことに思い当たって然るべきだったのかもしれない。引きの動きも夕焼けの絢爛さも祖父の声も、それら全てがアニメでなければ――つまり漫画であったら――存在しえない、ということは明白な事実なんだから。少なくとも物理的には、漫画の紙面に動くものはなく、白黒漫画なら赤も青もなく、紙面から光が射してきたりもしない。ギターがひと弾き鳴るだとか、眉目と皺が動くだとかいうことも当然ない。つま弾きのギターが鳴らないとなれば、ことによると漫画版では、いざ死が判明するまではシーン全体が「仲良く喧嘩しな」的ドタバタポップの側に大きく傾いていて、その中には、祖父がアップになって顔を晒し、老いを晒してしんみりと目を閉じる、純粋にそれだけのためのコマなどはそもそも存在しないのかもしれない。この手紙の冒頭で「あまりに~すぎる」と述べた過剰さというのは、つまり上で「死ぬよりも先に」とか「くどい」とか言って言及している各種のズレに由来するのだが、僕が老人の死について見て聞いて上に述べた諸々のもの、感傷に結びつく過剰なものをそこから感じ取ったところの全ての視聴覚要素が、アニメ版にのみ付与されている謂わばアタッチメントなのかもしれない。アタッチメントであるなら問題はなぜズレがあるかではなく、まあいくつか取りうる方向はあるだろうが例えば、なぜズレが生じうるにも関わらずそれが付与されなければならなかったか、とかいうことではないだろうか。

それでアニメ第一期視聴後に漫画を読んでみたところ、上で述べた視聴覚要素は当然全て紙面になかった。そればかりかまるごと存在しなかったシーンがふたつあって、それがふたつながら、アニメ第一話前半のドタバタポップな虎杖君の生活パートに妙に溶け込まずに浮いて見えた次のシーンだった。一方はOP直後に虎杖君が簡素な自宅の廊下の暗いどんづまりで小窓から射し込む日を受けながら、病院に電話して明日行くと告げるほぼ逆光シルエットのシーン、他方は虎杖君が病院に行く前に花束を買って信号待ちをする間に細かい挙措動作をしているのが映るという、たぶん「日常描写が丁寧」だとか言われかねないシーンであり、そしておそらく言うまでもなくどちらも夕方で、つま弾きのギターが流れていたのだった。一言で言えばそれらのシーンは「妙に溶けこま」ないもなにも、そもそも虎杖君の生活ではなく祖父の死に即したシーンだったのだ。夕陽を受けた逆光の虎杖君が病院にかけた電話がナース室から内線で病室に繋がれてきたときに祖父は1ショットのみ映り込んで初登場し、やかましい来んなって言っとけ、と怒鳴るのだが、つまり祖父は初めて登場する前からその死を悼まれていたのだった。

まあもうひっくるめて「夕焼け色したワンシーン」的要素というかなんというか、上記センチな諸々が、どうしてアニメ版で祖父に関してくっついているのだろうか。このように言うことで僕は制作者がそうした理由を想像しているのだが、そんなものは想像する以外にないし誰か制作者に尋ねたところで言語化されうるとも限らない、ということをわきまえた上で、少し想像するくらいは構わないだろうね? まあ推理(と言ってよければ)の一環として仮構してみるだけだ。実はアニメ第一話にくっついているシーンがもうひとつだけあって、それがOP前のアバン、既に諸々あって大怨霊をその身に宿した後の虎杖君が伏黒君の属す組織に囚われているシーンなのだが、それが上記「夕焼け色」云々とともに付加されているというあたりから架空の制作者を仮構してみることができそうな気がするのだ。

そのアバンで虎杖君は大人気キャラの五条先生というのに対峙しており、だからそのシーンに大人気の彼のいち早いお披露目という側面はありうるのかもしれないが、そんなことよりも、縛り上げられて目を覚ました虎杖君が正面を見ると五条先生、右後ろを見下ろすと行灯、左後ろを見上げると壁いっぱいに貼られたお札(そのままスライドで移動して再び五条先生)、と短いアバンの中に虎杖君の主観ショットが立て続けに3つ並んでいるということの方が、よほどこちらの視聴を左右してくる。この3つを見て、虎杖君が主人公であることがわからない視聴者がいるだろうかね? さらには彼と擬似的に視界を共有することでなんとなく虎杖君の側に立って本編に臨む、少なくともそういう態度で臨むべきだということになっているということを理解する、というのでない視聴者がいるものだろうか? つまり僕はこう思うのだ。架空の制作者は、虎杖君を主人公として、さらに言えばバトルヒーローとして立てねばならないというミッションと、彼の祖父の死を悼まねばならないというミッションを、両方抱えていたのではないかと。さて彼はなぜ後者のミッションを抱えたのだろうか。その理由についてはこの手紙の本題、祖父の死を結節点として第一話後半で起こるところの、僕から見ればしみったれた惨事、に関する以外にないと思うが、そうだとして架空制作者の彼は、その惨事において祖父の死がないがしろになっているからせめて悼みたいと思ったのだろうか、それとも、それが惨事などではなく立派に祖父の死の悲しみを受け入れて虎杖君がヒーローとして立つ大事だから、あるいは現今ヒーローとか悲しみとかいうのはそういうものになっているようだから、先立って祖父の死をうんと悲しくしておきたいと思ったのだろうか。僕としてはどちらかといえば前者を望むが、どうも世間全般を見るに、後者かもしれない。君はどう思うだろうかね。

まあ話はその惨事について話してからだね。なに、その内容自体は簡単な描写で済むと思うし、たぶん君にもおおよその察しはついているものと思うから、話はすぐ済む。

祖父が死んだ日の夜、病院にいた虎杖君のところに伏黒君が来る。そして諸々話した結果、その夜に虎杖君の部活の先輩が学校にいて、まもなく怨霊系クリーチャー「呪い」に襲われて死ぬかもしれない、ということが判明するわけだ。それで伏黒君とともに高校までかけつけた虎杖君は、この時点では虎杖君を一般人だとみなしている伏黒君に校門前で「ここにいろ」と制止されて、一旦は食い下がるものの結局その場に留まり、留まっておいて悶々と自問するのだ。「俺は何にビビってる」「死の気配がここまで来る」「死ぬのは怖い」「怖かったかな?」「泣いたのは怖かったからじゃない、少し寂しかったんだ」「じいちゃんの死と、いま目の前の死、何が違う?」「短気で頑固者、見舞いなんて俺以外来やしねえ」「俺みたいになるなって、たしかにな」等々。勿論その間に校内では先輩を絡め取ったクリーチャーを相手に伏黒君がきっちりピンチに陥っていて、その現場に虎杖君は窓ガラス蹴破って飛び込むや、空中で体勢変えながら先ほどの自問に自答して、「じいちゃんは正しく死ねたと思うよ」とほざくのだ。その後は「けど!」と叫んでクリーチャーを殴り倒し、「こっちのは」と続けつつ先輩を抱えて飛び退き、着地するなりキッと顔を上げクリーチャーを睨み付けて「間違った死だ!」とキメる、すっかりバトルヒーローの虎杖君なのだった。

これが惨事だと思われてくるのは、まあだから正直なところ肝心要のここのところが僕にもよくわからなくてこの手紙を書いているのだが、まず確実なこととして、虎杖君が「じいちゃんは正しく死ねた」と思う根拠がどこにもないことによる。もちろん虎杖君が祖父の死を「正し」いと思った事情が、いずれ明かされる可能性はなくはないかもしれない。しかし問題はそうなる前に上記のようにして、つまりうまく書けているかどうかわからないが自省的なモメントを一切抜きにして音楽とカットとアクションのリズムで昂揚的にシーンが完結し、虎杖君のヒーローデビューはこれで成った、これで事足れり、となっているようであることだ。そうでなければ虎杖君はキメないと思うのだが、どうだろう。ちなみに既刊18巻を数える漫画単行本でも、当然アニメでも、今のところ虎杖君が「正し」い云々と思った事情は明かされていないのだが、このことは傍証になるだろうか。つまり虎杖君のデビューは上記のようで事足れりとなっていて、祖父の死もそれで用済みで、彼が祖父の死を「正し」いと思った根拠はもう永遠に明かされないどころか存在の可能性すら省みられていないのではないか、と僕は疑っているんだがね?

虎杖君はなぜ、どういう権利で、あるいはどういう事情で、祖父の死を「正し」い云々と言ってヒーローデビューをしようとするのだろう。なぜそれをダシにしてクリーチャーに殴りかかるのだろうか。物語上第一話の祖父には「生活というか人生というか要するにひっくるめてLife」などと悠長に言っていられるような生はないのだが、であれば上記シーンの虎杖君はただ、先輩に「間違った死」が訪れようとしているということを理由にクリーチャーに殴りかかるためだけに祖父を「正しく死」んだ側に置いた、ということになってしまわないだろうか。あるいは無念の祖父の死を「正し」かったと肯定するようなことをすれば視聴者に好かれる、もしくは認めてもらえるのかな? 昨今どうやら、否定しさえすれば拒絶され、肯定しさえすれば許容されたりもするようだものね?

虎杖君のヒーローデビューが、祖父を失った悲しみを彼が処理するその仕方に支えられているとして、そのマッチアップが、アニメ版を見る際には「夕焼け色した」諸々によって明瞭に感知されてしまったことは確かだ。漫画版ではそうした諸々はあまりないが、反面、上記デビューシーンについてもリズムによる繋がりが少ないがために虎杖君の自問自答の文言を辿って読み進めていく側面が強いので、その文言の「正し」い云々における繋がらなさは漫画版の方が感知しやすい。彼の自問自答は黒背景に四角のフキダシが点在するだけのコマ3つを含めて延々続くのだが、それはそれで、彼の文言が辿られることによってこそ彼のデビューがそれとしてなされるはずだという筋道の設定が明瞭に見て取れるのだ。言いそびれていたが虎杖君は「気の良い馬鹿」タイプの主人公で、それなら戦いに参加する動機などは「気がついたら考えるより先に手が出ていた」といったところでも十分であろうになぜくどくど煩悶する必要があるのだろう、もしかして上記みたいに「気の良い馬鹿」などといって一言で片付けられてしまうような、そう、ジャンプヒーローの類型に収められてしまうような事態を避けたかったのだろうか、煩悶によって内面を補強し一癖あるジャンプヒーローになったところでそれ自体がとっくにヒーローの一類型でしかないのに? あるいはそれが「キャラの厚み」みたいなものだということになっているのだろうか? それで「死」だとか「正し」いだとかテキトーに深刻そうな言葉を使って祖父の死をジャッジしてみました、というわけだろうか?

問題があるのはアニメ『呪術廻戦』だろうかね? それとも漫画『呪術廻戦』、あるいは両方? あるいは広くバトルもの? それともこれはフィクションにおける主人公についての問題、ないしは主人公と親近者、家族との関係についての問題だろうか? あるいはさらに広く、悲しみとかいったもの自体に関する問題? あるいはさらにさらに広く、そう……脈絡とかそういうものに関する問題だろうか? まとまりのつかないことで申し訳ないが、君の意見、あるいは知見を聞かせてくれたら嬉しい。もしも『呪術廻戦』を見たいならアニメ版はNetflixやAmazon Primeで、漫画版第一話はジャンプ公式サイトで無料で、それぞれ閲覧することができる。

それでは元気で。くれぐれも健康には気をつけて。もしもつまらない不摂生なんかが元で君がうっかり万が一の事態に至ってしまうなんてことになったら、それによる悲しみを僕が馬鹿どもの前で乗り越えて見せつけて一目置かれてしまってやるから、そのつもりで。

敬具

2022年1月23日

支倉 研持

第2の手紙

前略

お手紙どうもありがとう、届いた封筒を一瞥したときにぎこちない朴訥な文字が書いてあったので、真っ先に思い浮かんだのが古風なあなたのお顔でしたが、期待に違わず封筒の裏にあなたのお名前が書いてあって安心しました。そして相変わらず本題に入るのが遅いですね、それがあなたから届くお便りの楽しみの一つでもありますが、むしろ以前に比べて少々せっかちになられているのではないかなとも思えたり。これもお歳のせいなのかしら。日々発生する小さな困難を乗り越えつつ相変わらず元気にしておられるところ、すでに私は一目置いておりますので、私が日々の不養生のせいで散りぢりの骨粉になってしまったとしてもどうか捨て置いてください、そしてご自身の生活の幅をますます広げつつ、手の届く限り世界を縦横無尽に飛び回っていてください。


さておき、アニメの主人公のおじい様のお話でしたね。あなたは知っているかもとおっしゃってますが、私はその『呪術廻戦』というアニメも、原作の漫画も知りません。もっとも、あなたならそんなことくらい百も承知でしょうから、下世話なことも含めて何かしらあることないこと書いてしまう私の気質を利用して少しでも何かご自身にとっての手がかりを得ようとしている、というところでしょうか。普段は他人をあてになどしないあなたが私相手にそんな手立てを講じるところ、やはり少し慌てておられるような気がします。何があなたをそんなに急かしているのでしょうか。急かされると言えば、最近私は何の因果か朝の通勤ラッシュの時間帯に満員電車に揺られるという人生的拷問を受けております。乗り換えも多くて、二回ほど電車を乗り換えるのだけど、少しだけ急げば早い時間の電車に乗れるものだからと、つい早足になって頑張ってしまいます。よく考えれば次の電車でも十分に時間に間に合うのですが、なぜでしょうね。満員電車に乗ると、気持ちの余裕も、何かを考えるような隙間も全部追い出されてなくなってしまうのかしら。あなたの方はいかがですか?

それはそうと、『呪術廻戦』のお話でしたね。手紙の中にあった『呪術廻戦』のお話の中で私がまず疑問に思ったのは、あなたのおっしゃるおじい様って、主人公の男の子の父方のおじい様なんでしょうか、それとも母方? 私には小さい頃から、父方にはおじい様、母方にはおばあ様しかいませんでしたので、長い間、おじい様おばあ様は、お父さんお母さんと同じように各家庭で一人ずつしかいなくて、しかも、お年寄りになったらおじい様とおばあ様は別々に暮らすものなんだ、と思っていました。これは小さな頃の誰にでもあった他愛もない思い込みなんですが、もしあなたの仰る事件というのが「ミステリー」なのであれば、亡くなった人がいたらまず、どこ姓のなにそれさんなのか、みたいな情報が出てくるでしょうから、それが出てこないのが少し気になってしまいました。もちろん、あなたのおっしゃる事件にとってはそんなことはどうでもよいでしょうけど、それでも私はおじい様が亡くなったら葬儀とか相続とか、あるいはお家のたたみ方とか諸々の引き受け先や処分先なんかが真っ先に心配になる性質なのです。

あなたの言う「ミステリー」の見方でお話するとすれば、つまり私はおじい様の死の周辺について気になっているということです。ついでにミステリー的な目線で気になったことを言えば、主人公の男の子、なんでおじい様が死んだってわかるのかしら? 私は人の臨終に立ち会ったことがありませんので普通というのがわかりませんが、見舞っていた親族の方が何の確認もせず、自ら「死にました」と言ってしまうものなのでしょうか、普通はお医者さんなんかに来ていただくようにしてから、ちゃんと確認してもらうまではどうにかしようとするのではないかな、と、なにか気にかかります。あなたからはかつてさんざんアニメに対するお考えについて聞かされましたが、そこで聞いた中から記憶している幾ばくかのアニメのお作法以外のことは、私にはあまりわかりません。ただ、常識的に言って、お医者さんの代わりに主人公の人が「死にました」と言えば、それでもうおじい様は亡くなったことになるのはどうにもおかしくないですか? そもそもアニメのキャラクターが死ぬってどういうことなの? これが成り立つのであれば、きっとアニメのお作法の中では、そうやって「死」を与える役割を負う人は何か重要な役目を持っているのだと思いますが、でもその判断基準はきっと、現実世界とは異なるのでしょうね。アニメって全部絵なのだし。現実の私たちであれば文字通り微動だにしなくなった時に死んだんだとか言われるんでしょうけど、でもアニメではきっとなにかがずっと動いているということはないような気がします。そんなようなお話も、あなたにかつて聞いたような気がします。ただその話ではっきりと覚えているのは、そこであなたが語っていたアニメではひたすらに犬死にが映えるといったようなことで、どういう名前のアニメだったかも、そこであなたが熱っぽく語っていた内容もほとんど覚えていないのだけれどもね。それよりも大事なのは絵が動く動かないという話ですが、そこであなたが語っていた内容を頑張って思い出すと、確か、アニメ絵というのはしょせん止まった絵をいっぱい描いて動かしているように見せているだけだから、動かそうと思わなければ動かなくって、だからキャラクターが微動だにしないということもしょっちゅうあるんだ、というような内容だったはず。もしそれが本当なら、アニメでは微動だに動かなかったとしても、それだけじゃ「死なない」んでしょうね。だから、主人公くんが「死にました」って言ってアニメを見ている(あなたを含めた)皆さんにおじい様の死を認めさせてて、この主人公くんはなんてすごい人なんだ、と私などは思うんです。でも一方で、いったいどうやったらそんなことが可能になるのかと、とても不思議に思いました。きっと、そのアニメのその場面を見れば、私も同じように、ああおじい様は亡くなったんだなと感じてしまうのかもしれません。でも、私はそのアニメを見ていなくて、あなたの話をお手紙で読んでいるだけなので、そのことがとても不思議に思えてしまう。あなたより世間もアニメも知らず(ついでに言うならエスプリもユーモアも解さない)私なんかは、まずこの主人公くんが生殺与奪の権利を持っていること自体、すごい不思議だなと思います。そしてもしおじい様を「殺す」人がいたのだとすれば、そういう権利を持っている主人公くんにしかできないように思えます。

そもそも、人が、それも身内の方が亡くなったのに、そのすぐ後になってその人の死を「正しい死」なんて、自分が世間を断罪する側にあるっていうことを寸分も疑わず思い込むことのできる人しか言わないものでしょう? そうやって他の人のやったことに「正しさ」を預けて自分が「正しい」側を決定できる地位にあるってことを見せつけて有無を言わさないっていうのは、それこそ下世話な話をすればその辺の職場内闘争なんかでもよく聞く身の処し方の一つだし、要はこの主人公くんは、自分がこれから生きていくことになる場所での権力の土台を事前に固めるために、おじい様をその手にかけたのではないかしら。足場固めっていうのは根回しを抜かりなく抜け目なくやらなければならないというのも古今東西共通了解ですけれど、その抜かりのなさが、アニメでおじい様の皴がその一本一本に至るまで克明に描かれることに出ているんでしょうね。そうまでして丁寧に殺してやろうって考えたのかも。もっとも、こうなるともうアニメをどう作るかというお話になってしまって主人公くんが殺した殺さないとかいう話からはさっそく遠ざかるような気がしますが、なんかさっそく自分の言ったことが変わってしまうというのも癪だから、もう少しだけ主人公くんに犯人役をやってもらいましょう。

あなたはこのアニメが「手描き」っておっしゃってたけど、前にあなたから聞いたお話をそのままオウム返しにお伝えするなら、アニメの絵って基本的に線でできてますよね。私もほんの少しだけ、気が向いたときに戯れに絵なんかを描いたりするんですけれど、お年を召した方のお顔、だけじゃなくお体の絵って、少し線を消してあげるだけですぐに若返るんです。年季の入った、とか、深い知恵を持つ、とか、それこそそこにいるだけでアニメで何か重要な役割を担っていそうなご高齢のお方にとっては、そういう存在であるための、全部とは言わないけれども、その役割の一部を、皴を描く線が担っていると言えるのかもしれないですね。そうなると、主人公くんが「死にました」と言っておじい様を殺害したときに本当に殺そうとしたのは、おじい様がおじい様であるということ、というか、おじい様がそういうものとして存在していることそれ自体なのでは、と思えてきます。そうやっておじい様を皴の一本に至るまで描いているところを丁寧に見せつけて、これから殺される対象が何なのか、どういうものなのかを克明に見せてから、そこに見えるものすべてを「死にました」の一言で綺麗に片付ける。そうやって、おじい様の遺体をコンクリートに塗りこめたうえで外海に沈めて完全消却したようなつもりになって、その分の「正しさ」をその身に纏おうなんて、いかにもな「主人公」だと思うのだけれど、どうでしょうね?

ただ、少し気になるのですが、「悲しみ」の不穏さをこのアニメの背後に感じるあなたが、その表面にあるはずの「正しさ」を見逃すはずはないですよね。いえ、この言い方はあなた的には正しくないですか、目に見えるもの耳に聞こえるものだけがアニメには存在するのですから、背後もくそもないですね。わざとなのかしら、何か試されているような気もしますが、そういうことを普段あなたはなさらないから、どうしても私には何か「ミステリー」なものをお手紙から感じとってしまいます。さてどうしましょう。でもとりあえず先に進めるしかなさそうです。というより、このままあなたのお手紙に書いてあったことについて考えていく内に、あなたについての何かが一層わかってきそうな気がしますから、あなたの様子が気になってしまった私はもう、この続きを進めるしかないのです。これ自体、既にあなたの罠だったり「life」だったりするのかも。


主人公くんに犯人役をやってもらったところで、次に気になることを言ってみるとすれば、おじい様に直接手をかけたのは主人公くんだとして、じゃあおじい様をそんな風に丁寧に殺してやろうって「考えた」のは誰、ということです。いえもちろん、主人公くんもそう「考えた」かもしれないですけれど、これまた以前あなたに聞いたところによれば、映像に登場する彼らは私が見て聞いてわかること以外のことは考えてない、考えられない、そういう生き物ということでしたから、そういう意味では彼は屈託なく「正しさ」を言うしかない生き物なんでしょう。まあそうでなくとも、あなたからのお手紙を読む限り、あなたの言う「ジャンプヒーロー」的な、普通の意味での無邪気さは持っていそう。それこそ「正しい」とか言ってのけるんですからね。まあこのアニメの主人公くんはあまりにもバカっぽくあっけらかんとしているわけではなく、いちおう逡巡するとのことだけれど、でもクライマックスとなるようなシーンで「正しい死」とかを理由に敵を殴りつけているのであれば、「ジャンプヒーロー」の系譜としてはそう変わらないのでしょう?(違ってたらごめんなさい) そしてそういう無邪気さ、屈託のなさを感じる程度には、何か彼が「考える」類の存在には、私には思えないのですよね。むしろそういう無邪気さ、屈託のなさを利用して主人公くんを動かす誰かさんがやっぱりいたんじゃないのかなと、そう思えてなりません。というかそう考えたほうが面白いでしょ?

遺留品はたくさんあるし手つきも見えるし手段もわかるけれども、誰がやったかは判らないなんて、まるで三億円事件じゃない?(古すぎ?) 主人公のこの男の子の裏についている参謀役の誰かさんは、あなたを惑わせるくらいには優秀な頭脳の持ち主なんですよきっと。それこそ、あなたが「過負荷」になってしまうくらいに。とりあえず、さっきの件も含めて、あなたが本当に「過負荷」になってしまっていたということにしておきましょうか。こういう手段を使う人は、だいたい目立つヒント、しかも結局役に立たないデコイを残していって捜査を混乱させる、という原則がありますが、その犯行の道行き自体が原作である漫画のほうにすっきりとした形で残っているというお話は面白いですね。こう道筋がすっきりと残っていると、まるで、かつてそれを成し遂げたかった人がいて、その人が用意した色んな道具を使って別の誰かさんが犯行を成し遂げたかのようにすら思えますね。その誰かさんはすでにあったその道筋を辿って、あなたの目の前で、しかしあなたの預かり知らないところでおじい様に手をかける画策をし、主人公くんにとどめの一撃を入れさせた。漫画とアニメの関係を考えるなら、漫画のほうに残っていたその足跡をアニメで追って、犯行を成し遂げたと考えるのが自然でしょうね。

こういう風に捜査現場を混乱させるものがいっぱいあるときに、一昔前にはお昼時に流れてた再放送の刑事ものドラマなんかで、それこそおじい様により近い年齢の、現場たたき上げみたいなベテランの刑事さんが、犯人の気持ちになって後を追え、みたいなことをしたり顔で言ったりする場面があったりするのだけれど、この場合、いったい私はどこの「誰」の気持ちになればいいのかしら? 果たしてあなたの言う「架空制作者」はそれに適う人なの? 確かに主人公を作ったのは「架空制作者」なのでしょうし、アニメの制作者が作るものは、さっきの絵の話で言えば動くものでしょうから、主人公を動かすのも「架空制作者」だろうと思われます。そんな風に「作られ」、「動かされる」主人公くんの発揮する無邪気さ、屈託のなさというのは、別の言葉で言ってしまうと、つまり後ろ暗いところが何一つない、ということですよね。でも、アニメの中ではなにやら誰にも自分の気持ちなど理解されないという態で悩んでいたり、あるいはそのことが原因で他人に対して非常に屈折した気持ちを持っているようにふるまっていても、そのようなことどもはすべて視聴者の私たちに伝わらないといけないものなのですよね、きっと。そうでないと、そんな気持ちは存在しないのと同じなわけです。「正しさ」の件は恐らくほとんどの場合、彼一人だけが抱える彼の悩みであって、それにまつわることも彼の独り言か、あるいは心の声という名前の実質ナレーションみたいな形で語られるのだと思いますが、どうでしょう? おじい様にまつわるシーンが漫画から追加されたというお話がお手紙の中にありましたが、アニメの「架空制作者」の立場としてみれば(それが監督さんなのか演出さんなのかはさておき)、私たちに漫画よりはっきりとわかるような形で、彼が十分「死」について、あるいは「正しい死」について「考える」ものであるように見せなければならない理由があったということでしょう。少なくともそう見えるように仕事をしているはず。そうした意味で言えば、アニメの「架空制作者」の方もまた、自分の仕事に対して無邪気に、屈託なく、つまり「考えなし」に、主人公くんに「考えなし」な逡巡をさせていると言えますし、そうであれば「架空制作者」さんも主人公くんを動かす「誰か」ではなさそうです。むしろ、その「誰か」さんは、「架空制作者」さんを駆り立てて仕事をさせることで、主人公くんを「動かして」いるんでしょうね。だんだん面倒なことになってきて、私の頭も「過負荷」気味になってきました。


頭を冷やすついでに思い出したけれど、あなたにとっては、おじい様が死んだりそういう予感があったりすることにこだわるのではなくて、そういう場面に私たちが立ち会うことになってしまうそのこと自体に何かしらの「不穏さ」を感じたということの方を重要視しておられましたね。そして私たちをそういう場面に引き込んでしまうということ自体を、あなたは主人公くんに仮託された「呪い」と呼んでいた。であれば、「架空制作者」さんや主人公くんを「動かす」のも、あるいはそういう場面に私たちが立ち会うように仕向けるのもすべて「呪い」のせいだということですよね。その「呪い」を私たちにかけるのが「誰か」だとするとして、「呪い」の仕組みとしてはその「誰か」さんが直接なにかをするわけじゃなくて、神霊だったりそういう何かよくわからない、人じゃないものを経由して「呪う」はずだから、もしその「誰か」を特定するのなら、「呪う」ものそれ自体を追いかけるよりは、その仕組みを理解して、それを逆に利用することで「呪詛返し」をして、誰にその「呪い」が返っていくのかを観察するというほうが筋かと思われますよ。ただ、あなたが書いているように、その「呪い」はもはや、「真犯人がどうというよりも、ずっと昔に根付いた因習が数十年数百年をまたぐ間に人々の間に堆積させてきた泥々の怨念みたいなものが今になって、一斉にあちこちで吹き出して事件を複雑にしていた、というような展開」の中で駆動しているようですし、「呪詛返し」ができるようなものでもなさそうです。そうであれば、いままで私がやろうとしていた「誰か」を特定しようとすること自体が、あなたの「ミステリー」にとってミスリードであるのでしょう(私にはよくあることです)。おじい様が「死」を迎えたこと自体は事件なのかもしれないけれど、その事件を解明するにおいて特定の「誰か」を吊るし上げること自体がお門違いなのであれば、あるいは「因習」にも似た何かによって結果的に生じたものなのであれば、それが「因習」であること自体を暴くことが先決であるはずです。ホラーゲームであればまっとうなストーリー展開と言えるでしょうね。そして「因習」であることを暴くには、やはりその仕組み自体を知る必要があるでしょう。そしてその「因習」の大部分はアニメ、つまり漫画版から付加されたおじい様にまつわるものでしたね。ならば結局のところ、その「因習」を理解するには、いつもあなたがやっていることをするしかないのだと思います。つまり、アニメで見えるもの聞こえるものについて考える。「怨念」を生み出した「因習」が、アニメと漫画の「ズレ」との間に垣間見えるのだとすれば、その「ズレ」を克明にする。「正しさ」について、漫画版の主人公くんがなんか繋がりのよくわからない話をしているのであれば、アニメではその繋がりをよくするために、場面が追加され、絢爛さや音の導入が用意されているのでしょうし、あるいはそうした要素によってもはや漫画版とは似ても似つかないような「正しさ」、つまりアニメとして繋がりのよくなった「正しさ」としてあなたの目の間に現れているのかもしれません。そうであればなおのこと、アニメに付き合うことのほうが大事になるのではないでしょうか。少なくともおじい様の死にまつわる謎はアニメの話なのだろうと思われます。そうやってお祓いをすることで、おじい様は初めてきちんと死ぬことができるのかもしれませんね。


もっとも、何度も言うようにこういう考え方は全部、かつて私があなたから学んだことであって、改めて私から言われるまでもないことだと思います。あなたほどの人が、「問題があるのは──」とわざわざありうる可能性を列挙して私なんかに尋ねるなんて、もしかしたら「体調の変化」が何か関係しているのかしら? それとも単に締め切りに間に合わせるため? 何かがあなたにあった時のためにジェネリック支倉を私の中に棲まわせておきたいの? どれもこれも、いつものあなたなら考えもしないことだと思いますし、何か奥さんにでも逃げられたのかしらとか思ってしまいます。それも些細なきっかけ、例えばゴミ捨ての日を間違えたとか、目覚ましの時間を間違えてしまったとか、お子さんの帽子を忘れて登園させてしまったとか、そういうあなたにとってはそれほどの失点にもならないと思われてしまうようなことから喧嘩が始まって何か思わぬ結果に行き着いてしまい、そういう戸惑いの気持ちそのままにお手紙を書いたのかも、と思ってしまったりします。いずれにしても、私にとってはそのことのほうがよほど「事件」です。まだあなたの生はその一つ一つが散り散りのままであるべきだと思うし、まだ何か「統合されて意識されてくる気が」するようなお歳では到底ないのだから、それははっきり気の惑いと言うべきでしょう。あなたこそ何かの「怨念」にあてられてしまっているのでは?いっそのことお祓いでも受けたほうがよさそう。あるいは惑っているのならもっともっと混乱的なものであってほしかった、というのが私の勝手な期待でした。

最近、時々感じるのだけれども、締め切りや一巻の終わりがあるということが書くことにとってとても大事なのは重々承知の上で、でもずっと締め切りに追われ続けていくうちに、書いているものそれ自体が焦燥に追われていって、次第に余裕もなくなり摩耗していくような感覚に襲われる時があります。そういう時、ふと直感的に思うのは、締め切りのない書き物を書き切ることができたという経験があると、そうした焦燥や摩耗はずいぶんと抑えられるのでは、というようなことです。締め切りのない書き物なんて果たしてこの世の中に存在するのかは大いに疑問ですが、でも、なぜかそういう気がします。ある時点で他者に書くものを委ねることは大切なことなのだろうけど、平たく言えば委ねる前にやるべきこともまだきっとあって、他人に委ねる前のその段階でどこまで粘れるか、どこまで書くべきことを人生の全てにおいて優先できるか、そのラインを都度見定めるために、己のその限界を知るというのは一度はやっておくべきものなのかもしれないですね。富士山を一度も登らぬバカ、二度登るバカ、って言葉を小学生の時分に聞いた気がするのだけど、締め切りのない原稿に取り組むのってたぶんそういうのと同じ経験なのかも。見切りって言えば格好いいかもしれないですが、そうやって不自由の中に一片の自由を見出すのが私たちの仕事でしょう? なら締め切りがないという不自由のなかで追求できることを探し求めてみるのもまた面白いと思います。そこで得られる自由が何かは私には何かまだわかりませんが、恐らくわかってしまったような気になった暁には、その身軽さゆえに「俺みたいになるなよ」という軽口でも叩いて人に呪いをかけたいような気分になるのでしょうね。その気持ちだけは何となくわかります。案外おじい様もそうなのかも。もうしそうなのであれば、事はそう深刻なことでもなさそうですね。そうだといいのですが、そうなると引き換えに「正しさ」に縛られてしまって、恐らく次第に摩耗していく主人公くんの方が不憫になってしまいますね。本当は主人公くんこそが「俺みたいになるなよ」と愚痴りたいのかもしれません。いっそそういう屈託のない愚痴がこの先語られるアニメならばずっと見ていたいですけれども。そうした愚痴をあなたと一緒に楽しむ余裕がこの先あるといいのだけれど、世間にも私にも、そしてあなたにもそういう時間を差し挟む隙間がなくなってしまっていて、そうも行かないのかもしれません。こういう、何というか気の巡りの悪い状態に陥ったときに頼れる祈祷師みたいな人が身近にいると助かりそう。でもそういう人なんて今はそうそう居ないだろうし、自分でお祓いできるような方法があればなおいいかも。そういうヒント、『呪術廻戦』にはないのですか? あったらまた今度、ぜひお聞かせくださいね。


直接人と会うことが憚られるようになってからかれこれ数年が経って、世間の人にとっては気の滅入る日々が続いているようですが、それとは裏腹に、私の体は人と会わないことで日々健やかさを増しているような状態です。健康に過ごす一番の工夫は、いかに人に会わないようにするか、あるいはいかに自分の人である部分をなくしていくようにするか、ということにあるように思われるのですが、それが完璧に達成されてしまった暁にはもう人ではなくなってしまうのだろうし、工夫するべき「Life」もなくなってしまうのかしら。拾い上げる骨すらなくなりそう。もし私がそうなってしまったなら、笑って空でも見上げてやってくださいませ。

怱々

2022年6月15日

間蔵 漣

第3~第100の手紙

伍助旦那、手紙は読み終わったかね。ちっと庭木のことで相談してえことがあるだがね。

支倉もういま読み終わるところだよ。少し待っていなさい。ところでお前、俺のところに持ってくる前にこの手紙を盗み読んだろう。

伍助読みゃあせんですよ。どういうわけでそんなことを言いなさるね?

支倉そりゃあお前が俺に手紙を渡して随分経ってから、読み終わったかどうかを聞いてきたからさ。それというのは手紙の長さを知っていたからじゃないのかね?まあ無論封筒が少しばかり厚いから、それならさぞかしたっぷり便箋が入っているだろうと考えてそう言ったのかもしれないし、特に理由なんかないのかもしれないがね。カマをかけてみたのだ。しかしいずれにしたって、べつに読んで構わないのだよ。読まれて困るような手紙はこの家には届かないし、だから俺への手紙は封筒の口を切って持ってくるように言ってあるんだからね。

伍助そんなら言うがね、読んだよ。まあおらだって、読んでも良いだろうと思ったから読んだんだが、人に届いた手紙を読むってのは、なんだね、良くねえことのような気がしちまうね。

支倉そうだろうね。しかしなぜこの手紙に限って読んだのかね。

伍助封筒の口がこう、ほとんど開きかけてたもんで、中身が気になっちまってね。

支倉なにほとんど開きかけてた……そうか、面白いね。

伍助そうかね、面白いかね。

支倉今やりとりしている手紙は、いろんな人が読んでしまう方が良い手紙だからね。そうか、どこかで誰かが開けたかな……。

伍助そんな手紙があるもんかね。よくわからんがね、しかし旦那はよく手紙なんか読みながら、おらと話ができるね。

支倉うんまあお前の話と、この手紙にある話が、全く性質の違うものだからかな、意外とできたね。しかしいま読み終わった。面白いね。お前はどう思ったね。

伍助どうって、おらにゃあよくわからなかっただがね。

支倉そんなことはないだろう。たしかに話の内容は入り組んでいるだろうが、ひとつ手紙を前にして、わかることは話の内容ばかりじゃあるまいよ。

伍助うんまあ、そう言うなら言うが、こりゃあ女の手紙じゃないね。

支倉ほう、どうしてそう思うね?

伍助だって女はこんなことは書かねえもの。

支倉こんなことというのは?難しい話、ということかね?だったらそんなことはないだろう、難しい話をいとも容易げにしてしまうのが女だ、という見方もあるよ?

伍助うん、だから、おらが言いてえのもそういうことだ。この手紙にあるみてえな話し方をする女は特にそうだ。難しい話をやわらかい言葉でやっちまうんだ。したところが、この手紙は難しい話を難しくしてるから、だからこりゃあ書いたのは女じゃあるめえ、少なくともこういう話し方をする女じゃあるめえ、とおらは思っただよ。

支倉うんまあ、言い方は乱暴だが、事実その通りだよ。これを書いてきたのは漣くんという男の子だ。俺が手紙を送った相手の近くにいる、とても賢い子だよ。

伍助それがなんでまたその手紙を読んで、こんな話し方で書いてこなきゃならんだね。

支倉そうするのがこの手紙のやりとりの主旨のうちだからなんだが……だから彼がこの手紙を読んだのは問題がないとして、話し方については、どうも、今回はあまりうまくないような気がするね。

伍助旦那は気にいらんのかね?難しい話はどうだね。その、つまり、理屈っぽい話がいろいろ書いてあっただけど、その理屈はどうだね?

支倉気に入らんなんてことはないよ。つまり理屈で考えればこうなる、こう言える、ということが書いてあって、それは概ね書いてある通りだ。理屈で考えればそうなるし、そう言える。納得するよ。漣くんは賢いね。

伍助じゃあ何がうまくないんだね。話し方だけかね。

支倉うんまあ話し方が、少しね、うまくないんだが、問題はね、それをもって、話し方だけがまずい、とは言えないということなんだ。つまりお前がさっき言っていただろう、こういう話し方をする女はこういうことは言わない、と。

伍助それがなんだというだね?自分で言っといてなんだが、話し方がおかしくったって、それはそういう主旨だっていうし、理屈は大体通ってるっていうし、相手が女じゃねえってことを旦那も知ってたってんならべつに旦那を騙そうとしたってんでもなさそうだし、何がまずいだね。

支倉そういう主旨だからまずいのさ。つまり俺が言ったようにこの手紙にね、理屈で考えればそうなるしそう言える、というようなことが書かれているのだとして、そのことと、根本的にそれが理屈で考えるべきことなのかどうか、理屈で言えるからといって言うべきことなのかどうか、ということとは別のことだ。そしてこの手紙にあるような話し方をする女は、理屈をわきまえている以上に、それが理屈に照らすべきことなのかどうかをよくわきまえているのだ。ともすれば、理屈を抜きにして出し抜けに根本的なことに気づきさえするものだ。

伍助そんなもんかなあ。そりゃあちょっと、旦那が決めつけてるように思えるだけどね。

支倉決めつけてるに決まっているじゃないか。それが類型を受容するということだからね。ある類型に則った話し方で話すということは、その話の内容以上のものが、いちどきに聞き手に押し寄せるということなのだ。大仰なことを言うようだが、ある種の人間にとって手紙を書くということは文体の研究でもあり、それならそれは多かれ少なかれ類型の研究になる。その研究が、うまくないんだ。類型というものが書き手の存立にうまく活かされていない、というよりむしろその存立の邪魔をしていて、どうもいまひとつ書き手の像が結ばれないのだね。読み手からすれば、書き手が投げてくる理屈のひとつひとつには一定反応できるだろうし、俺自身いずれするかもしれないが、この書き手を一人の相手として見て返事を書くということになれば、その返事の大部分は、まずその像を一人の個として補強してあげるということをするための文言で埋まってしまうだろう。要するに、漣さんという女性がなぜどうしてあんなひとになっているのか、ということの整合をつけるために多くの文言が費やされねばならない、そうなる発端が、つまりは類型の処理の荒さにあるのだ。そうだね、例えばこの手紙には「でしょうけど」「でしょうね」と言って終わる文がよくあるだろう。いや、読み直さなくてもいいよ。「男の方って、こういうふうにはお考えにならないんでしょうけど」といったような類の言い方のことだよ。

伍助うん、なんとなくわかるだね。

支倉その、なんとなくわかるというのが、類型というものの効力によるのさ。そしてある類型の女が言う「でしょう」は、理屈を抜きにした、常に一種の洞察なのだ。理屈で考えれば「男の方って」などと言えば必ず間違うことになる。そうでない男がいないとは言い切れないのだからね。しかしそうやって理屈がストップをかけるところを軽々と飛び越えて男を語ることによって、初めてなしうる洞察というものがあるのだ。むろん理屈を知る女が「でしょう」と言い、洞察をしたって構わないがね。そういう女は、いま自分が理屈に照らして物事を考えている、ということをまず洞察するだろうね。この手紙にあるような賢いことを考えられる女であれば、まずその自省的な洞察が文中にないということはない。

伍助どうもやっぱり決めつけのような気がするだけどな。

支倉お前は慎重で、現代的だね。間違ってもらっては困るが、女というものについて俺がよくわかっているというわけではないし、女というものの数ある類型について熟知しているとも言えないよ。ただ俺は、この手紙のように話す、やや古風な、しかも賢い女の類型について、自分の知るところを言ったまでさ。まあ今や他にも女の類型というのはいろいろあるのだろうし、アニメ漫画文化の肥沃な土壌には様々な亜種がほとんど野放図に萌え萌えと繁茂していて、そのいささか度を超した繁茂の合間を縫って商業的な日の目を浴びねばならぬ亜種どもに、謂わば環境適応の必然によって、統合を欠いた属性のなりふり構わぬ獲得と脆弱な徒長が促されている。そうした事態が巡り巡ってこういう、話し方に特徴があるだけの賢い女を形作ったりするのかもしれないけれどもね。しかしともかく俺が一通目の手紙において類型の基準を少し前の時代に置いてしまったのだから、その基準をひきずってこの手紙を読むような読みにおいては、漣くんが錬成したところのこの奇妙なキメラの女については、よく語れるにせよ肝心なことを語れない、という感がどうしてもつきまとうね。謂わばこの女は、賢いわりに賢くないのだ。漣くんがそうだというのではないよ。漣くんはとても賢いが、ただ彼にはフィクションの、とりわけ少し古いフィクションの類型というものが持たれていないのだ。いや実際のところは知らないがね。この手紙を読む限りではそう読める、という話さ。

伍助わかるようなわからねえような感じだが、その、類型ってのは、前の時代に置くとかいうことができるもんなのかね。

支倉うん、というより俺が書いた一通目の手紙では、前の時代を足場にすると鮮明に見えてくる類型の変化の話ばかりをしていたつもりなのだ。主人公とか、悲しみとか、そういうものの類型の話だね。まああらかじめ少し古い類型を参照項として持っていなければまざまざとは触知できないような書き方をしてしまったが、俺が虎杖君を語る語り方によってその古い参照項の方も少し浮上してくるかもしれぬと少し期待したのだ。しかし俺の手紙が必要以上にぼやけていたのだろうね……とはいえ書簡が循環するという目論みが当初からあったから、様々な手紙を招来するためには、始まりの手紙は少しぼやけているくらいが良いとも思ったのだ。ところが漣くんがそのぼやけたところを端からつぶして明確に理屈の話にしてくれてしまったし、もちろんそれだからこそ広がっていく話もあるだろうが、それだけでなく漣くんは話を俺と『呪術廻戦』にぎゅうぎゅうに絞り込んでくれてしまったからなあ……こんなものを書かれてしまっては、この次としては俺からの返信以外にどんな手紙を期待することも難しくなってしまうし、無理を押してもあまりのびのびと書簡が循環していくというわけにはいかないかもしれない。まあそう思ったから、こうして少し話をリセットしたわけだがね。

伍助こうしてって、おらと話しただけでねえか。

支倉なに、手紙の、Letterのやりとりということで言えば、文字が俺とお前の二人の間に交わされたふうになっているのだってLetterのやりとりだからね。もちろんこんな字義の指摘は木訥だとも。誰もが想起する話を、こうして早めに済ませておいたのだ。もっと面白いLetterの話が、いずれどこかで出てくるといいね。ひとまずここで、俺とお前の間で、第3から、そうだね、切りよく第100までのLetterがここで交わされたことにしようか。正確に数を数える必要もあるまいよ。

伍助いよいよ何を言ってるかわかんねえだが、旦那がわけわかんねえことを喋りてえようになってきたちゅうことはよくわかるだよ。けどもうそんなのはやめにして、これから少し外に出にゃあいかんよ。そろそろ庭木の話をさせてもらいてえでね。

書誌情報

第1の手紙
支倉 研持(はぜくら・けんじ/城西学園)
2022.02.10 掲載
第2の手紙
間蔵 漣(まくら・れん)
2022.06.15 掲載
第3~第100の手紙
支倉 研持(はぜくら・けんじ/城西学園)・伍助(ごすけ/庭師)
2022.10.10 掲載