機関誌『半文』

往復書簡 -文体研究-

第1の手紙

拝啓

随分久しぶりだが、君は元気にしているだろうか。僕の方は少し体調に変化があって若干苦労しているものの、それもまあ世人が一口に「年を取るといろいろと体にガタが出てくる」と言って済ませている中に色々あるだろう内のひとつだと思うから、どうか心配しないでほしい。むしろ体調の変化に合わせて立ち座りやらなにやら細々したところから日々様々工夫していると、生活というか人生というか要するにひっくるめてLife、その営みにおいては僕もだれも様々に工夫しながらそれぞれ生きていけるように生きていっているはずであり、僕が例えば偉そうに何かについて考えているように思ってみても、それは僕が僕なりに生きていけるように様々工夫しているうちの自覚可能な一側面、あるいは進んで自覚する気になる一側面に過ぎないとも言えるのだ、ということが改めてごく生活的なレベルから実感されてくるような気がする。そうした個々の側面がそれぞれ、生という総体が持ついくつかの側面のうちのひとつに過ぎないのだとすれば、いっそこの際に、互いに接続しない多くの方面に時折なにか散りぢりになっているようにも思える自分の生というものが、ぼんやりとだが統合されて意識されてくる気がしないでもない。そんなわけで、僕は概ね相変わらずといった調子で日々生活している。

さてこうして手紙を書いたのは、僕が最近出くわしたある事件について君に話してみたいと思ったからだ。とはいえそれを事件と呼ぶべきかどうか、つまりこれから僕が話そうとする事柄に何か事件性があるとして、その事柄にどう関わるどのあたりにどのような事件性があるのか、現時点ではよくわかっていないのだが――ありていに言えば、こうして君に送りつけているのが「往復書簡」になるべきものであるならまずは僕からの一通目は手紙の体裁で書いてみよう、そしてその手紙をある老人のおかしな死を巡るものにすると決めたからにはどこそこミステリー風に書いてみよう、と思って書き出したは良いものの、安直に事件という語を出した結果、そも今回の話題において事件性とはなんぞやと自縄自縛で囚われて呻吟する羽目になり、しばらくのあいだ筆が進まなかったのだった。結果として残ったのは、ここまでの文面がなんだか妙に自己言及の多い現代ミステリーみたいになった、ということだけだったように思えて少し後悔しているが、なにしろこれは「往復書簡」であるし、場合によっては他の人も巻き込んで「循環書簡」になるかもしれず、何がどう面白い方向に転がっていくかわからないから、上記はこのまま残しておく。

いい加減率直に本題に入るとして、君に話したいのは『呪術廻戦』という昨今流行のアニメの主人公である高校生の虎杖(イタドリ)君、その祖父の訝しい死についてである。どこが訝しいかというと明確には言いづらいのだが、敢えて一言で言ってみれば、祖父がチョイ役であるにしては彼の死に様があまりに御丁寧に映りすぎ、またその死を主人公の虎杖君があまりに理屈づくでポジティヴに受け入れすぎる、といったあたりではなかろうかと思う。先に事件性の所在についてくだくだしく書いたのもそのあたりと関係があって、つまり件の死に関して上述のような「あまりに~すぎる」という過剰さがひとまず感受されうるとして、その過剰が『呪術廻戦』に固有の現象なのか、現代のバトルものアニメないし漫画に共有されている現象なのか、あるいはさらにずっと大きな問題なのか、ということがいまいち判然としないのだ。ひとまず性急に判断しないことにして、以下なるべく具体的なところから話そうと思う。

君も作品名くらいは聞き及んでいると思うが、アニメ『呪術廻戦』というのは一言で言えばオカルト系バトルアニメであり、2021年春に第一期が放送され先頃にはスピンオフ映画が公開された。どちらも大変な好評を博しているという。原作として同名の漫画があり、これは2022年1月23日現在週刊少年ジャンプに連載中であり未完である。漫画とアニメを区別する必要はこの手紙において最終的にはなくなるかもしれないが、まずはアニメ版第一期に限ったものとして話を聞いてもらいたい。

その第一話前半では、虎杖君が楽しげに高校生活を送る一方、いずれすぐ彼の仲間になる伏黒(フシグロ)君がその高校に来て、作品内では「呪い」と呼ばれるところの怨霊系クリーチャーについて何事か調査している。そして虎杖君の祖父が死ぬのを挟んでから後半で、伏黒君に巻き込まれるかたちで虎杖君がバトルに参入する。構造としては、ドタバタポップな虎杖君の生活シーンと、伏黒君が担う比較的シリアスなバトル導入シーンがパラレルに進んでいたのが、祖父の死を結節点としてシリアスなバトルシーンに一本化する。僕が訝しんでいるのはその結節のあり方なのだが、まずは祖父の死のシーンについて話を聞いてもらうのが良さそうに思う。

そのシーンは虎杖君の祖父が初めて長尺で登場するシーンで、彼はなにかの理由で入院中であるらしく、彼を見舞って虎杖君が病室を訪れると半身を起こしてしばらく元気に「仲良く喧嘩しな」状態で憎まれ口を叩き合った後、虎杖君に背を向けて横臥し、脈絡なく次のように言う。「悠仁(ユウジ)、お前は強いから人を助けろ。手の届く範囲でいい、救える奴は救っとけ。迷ってもいい。感謝されなくても気にするな。とにかく一人でも多く助けてやれ。お前は大勢に囲まれて死ね。俺みたいになるなよ」。こう言ったあと祖父の声は途絶え、虎杖君が「じいちゃん?」と呼びかける。ナース室にコールがかかって、虎杖君が「じいちゃん、死にました」と告げる。

もちろん(と言っていいと思うが)僕が気になったのは、祖父がどんな難局を想定して「人を助けろ」と言ったのかとか、なぜ「手の届く範囲でいい」という留保を設けたのかとかいったことではないのだ。彼による訓告めいた発言の数々はたしかに謎めいてはいるものの、それらにおいては物語的な謎が謎として提示されていることが明白であって、その限りにおいて訝しくはない。さらには、祖父は虎杖君に与えた訓示の全てにかつて自ら反するようなことをしたのだろう、その仔細はいずれ明らかになるだろう、ということもまた明白だと言っていいだろう。要するに上記の訓告が、物語的な機能としてヒキの機能をもっぱらにしているということ自体はほとんど自明だ。

僕が気になったのは、上記の訓告がヒキの機能を持つ一方で、シーン全体としては祖父の悲しい死の場面として見てもらう機能を担っているようだということなのだ。悲しい死の場面として見てもらう、というのがうまく説明できるかわからないが説明を試みると、例えばまず「悠仁」と呼びかける直前には、画面に収まりきらないほどの大写しで祖父の顔が映っている。その顔中には夥しい数の皺があり、その随所に影が落ちていて、皮膚のたるみが大変立体的に見える。それ以外のショットで陰影の少ないつるっとした顔に数本皺が寄っていたのと同じ奴の顔だとは、にわかに思いにくいほどだ。その顔は映るとすぐにゆっくり目を閉じるのだが、その際には眉目および周囲の皺という皺が全てじわっと動く。これだけでもう既に思わせぶりじゃないか。このショットからは彼が年のいった老人だということが見て取れるだけじゃない。『呪術廻戦』というのは、アップでもミドルでも細部の密度に大して変わりがないような米国産の3DCGアニメではなくて手描きのジャパニメーションなんだから、このショットを見る者が少しアニメ漫画文化に通暁していれば、この老人にこれからなにか重大なことが起こるだろうということは一目見てわかる。そして実は虎杖君が病院に来る少し前からはつま弾きのギターの音楽が流れていたのだが、祖父がゆっくり目を閉じていくときにそのギターが最後にひと弾き、シャラーンと鳴って消える。いかにも物悲しげである。

おかしいと思わないか。悲しむのが早すぎる。試みに比較すると、例えばある古い架空のアニメで、少年主人公が祖父と山奥に暮らしているとする。その祖父が病気か何かで死んで、死んだ後で彼らの住むあばら屋なんかが映って物悲しげにシャラーンと音が鳴るとする。その場合ならばその音は「悲しかったね」ということを視聴者が作品世界と共有する(ということをした気になる)ための音だと言って良いかもしれない。そうであれば「悲しかった」ことは作品世界内の少年も共有しているかもしれず、となればその音の鳴り終わりはほとんどそのまま、少年が「悲しかった」ということを受け入れた区切りでもありうる。それでその後で少年が南無南無と手を合わせて「じいちゃんも死んじゃったし里にでも下りようか」とか言って物語が始まる、というなら僕は特に訝しがったりしない。しかし上記の病室のシーンの場合、シャラーンは老人がこれからひとくさり喋ろうという段階で既に鳴っているのであり、この場合その音は、「悲しかったね」と区切りをつける音ではなく「これ以降をおろそかには見るな」と、「神妙に見よ、耳を傾けよ」と、のみならず「悲しいものを見聞きするものとしてそうせよ」と、そう宣告していることにならないだろうか?そうなるとすれば、老人が死ぬよりも先に、シーンが(と言うことが可能だとして)その死を悼み始めている。

不穏だよ、これは。ありふれているとすれば、ありふれているということ自体が不穏だ。もちろん僕は、そのシーンを見るときに老人の死が予感されることについてそう言っているのではなく、我々が即席の悲しみを背負って、ろくに知らない老人の死に立ち会わされようとすることについてそう言っているのだ。我々は、なぜこんなに急いで、それでいて御丁寧に、悲しまされねばならないのだろうか。もしも、ひとまず悲しいできごとだということにして以降見ていきましょう、ということであるならもっと簡潔に、それこそ建物外観が映ってシャラーン一音、みたいなのでもべつに良さそうなものじゃないか?

ミステリーであれば、誰かが死ぬ前にその死への向き合い方を決め込んで周囲を誘導してくるやつがいたら、まず間違いなくそいつは来たるべき殺人事件の犯人候補だ。無論読者にそう思わせておいて、そいつは真犯人とは別の目的でその誘導を行っていたに過ぎず、真犯人はもっと恐ろしい目的をもって事件の全体を仕組んでいた、あるいは真犯人がどうというよりも、ずっと昔に根付いた因習が数十年数百年をまたぐ間に人々の間に堆積させてきた泥々の怨念みたいなものが今になって、一斉にあちこちで吹き出して事件を複雑にしていた、というような展開もありうるだろうけれども、存外今回もそんなふうかもしれない。例えば祖父の死が上記のように、見たら悲しみが纏いついてくるようなかたちで予告されていることは事件の水面に現れた事象であるに過ぎず、その下の容易に見通せぬ暗い水底では、悲しみなるものそれ自体が現今とるようになったある奇怪なかたち、あるいはその悲しみなるものを摂取し消費する理想的な視聴者のかたちが、いまいち不定形のままおぞましく蠢いているのかもしれないじゃないか。虎杖君達につきまとっている「呪い」というのは、つまりはそれらのことなのかもしれないね?

とまあ、そんなようなことは、上記1ショットを見た一瞬に脳裏をかすめた曖昧な疑念を今になって、少し先走りつつ言語化してみたに過ぎない。しかし上記のショットに続いて窓外の夕焼け、祖父、虎杖君が順次映りながら祖父の訓告が続くにつれ、「これは悲しい場面である」という宣言がいよいよ明瞭に聞こえてくるように思えたのだ。ひとつには夕焼けというものがセンチなものだというのがあり、もうひとつには祖父の、噛んで含めるように訓示を呟く声が情感たっぷりだというのがある。ギターの音が消えた後で聞くべきものはその、物語的なヒキの機能を持つだろうわけのわからない訓告をしみじみ垂れる祖父の声以外にない。その言葉を聞くということにおいて、発話内容を聞き取るということと、訥々と語る彼の声を聞くということが僕の中で整合しない。ヒキの機能と悲しみの機能が諸共に発揮されてくるのを受け取るのが、僕にとって過負荷だったのだ。だって大変じゃないか、そんなことを両方同時に処理するなんて。そしてまるで、祖父の言うことはどうでもいい、とシーンが宣言しているようじゃないか。

その過負荷状態は、しかし「俺みたいになるなよ」という祖父の最期の一言が発せられて以降、段々と整理され始めたのだ。その一言が聞こえる時には再度虎杖君の頭越しに祖父が映っていて、彼を含めて画面内に動くものはなく、画面全体がじっくり引いていく。祖父が喋り終えてからもしばらく続くその引きの動きは、喋らず動かなくなった祖父が、そうは言っても画面枠に対して相対的に動くことでまだ辛うじて事切れずにいるようでもあり、シーンが祖父との別れを惜しんで離れ難がっているようでもある。そしてその後虎杖君が「じいちゃん、死にました」と告げるときに画面に映っているのは夕焼け空と病院外観なのだが、その空がまた、暮れ終わる間際の暗さの中に赤と青が入り交じり、黒々と影になった雲と雲の隙間からはまだ眩しい陽が一条だけ照り射していて、総じて絢爛と言って良いほどなのだ。悲しみに沈んでいるようでもあり、祖父を晴れやかに、というよりは豪勢に送るようでもある。目を惹かれる一方、一言で言えば、くどい。彩りが、そして祖父の死との連関が、いかにも色濃い。

思えば僕はこれらを見た時すぐに、以下のことに思い当たって然るべきだったのかもしれない。引きの動きも夕焼けの絢爛さも祖父の声も、それら全てがアニメでなければ――つまり漫画であったら――存在しえない、ということは明白な事実なんだから。少なくとも物理的には、漫画の紙面に動くものはなく、白黒漫画なら赤も青もなく、紙面から光が射してきたりもしない。ギターがひと弾き鳴るだとか、眉目と皺が動くだとかいうことも当然ない。つま弾きのギターが鳴らないとなれば、ことによると漫画版では、いざ死が判明するまではシーン全体が「仲良く喧嘩しな」的ドタバタポップの側に大きく傾いていて、その中には、祖父がアップになって顔を晒し、老いを晒してしんみりと目を閉じる、純粋にそれだけのためのコマなどはそもそも存在しないのかもしれない。この手紙の冒頭で「あまりに~すぎる」と述べた過剰さというのは、つまり上で「死ぬよりも先に」とか「くどい」とか言って言及している各種のズレに由来するのだが、僕が老人の死について見て聞いて上に述べた諸々のもの、感傷に結びつく過剰なものをそこから感じ取ったところの全ての視聴覚要素が、アニメ版にのみ付与されている謂わばアタッチメントなのかもしれない。アタッチメントであるなら問題はなぜズレがあるかではなく、まあいくつか取りうる方向はあるだろうが例えば、なぜズレが生じうるにも関わらずそれが付与されなければならなかったか、とかいうことではないだろうか。

それでアニメ第一期視聴後に漫画を読んでみたところ、上で述べた視聴覚要素は当然全て紙面になかった。そればかりかまるごと存在しなかったシーンがふたつあって、それがふたつながら、アニメ第一話前半のドタバタポップな虎杖君の生活パートに妙に溶け込まずに浮いて見えた次のシーンだった。一方はOP直後に虎杖君が簡素な自宅の廊下の暗いどんづまりで小窓から射し込む日を受けながら、病院に電話して明日行くと告げるほぼ逆光シルエットのシーン、他方は虎杖君が病院に行く前に花束を買って信号待ちをする間に細かい挙措動作をしているのが映るという、たぶん「日常描写が丁寧」だとか言われかねないシーンであり、そしておそらく言うまでもなくどちらも夕方で、つま弾きのギターが流れていたのだった。一言で言えばそれらのシーンは「妙に溶けこま」ないもなにも、そもそも虎杖君の生活ではなく祖父の死に即したシーンだったのだ。夕陽を受けた逆光の虎杖君が病院にかけた電話がナース室から内線で病室に繋がれてきたときに祖父は1ショットのみ映り込んで初登場し、やかましい来んなって言っとけ、と怒鳴るのだが、つまり祖父は初めて登場する前からその死を悼まれていたのだった。

まあもうひっくるめて「夕焼け色したワンシーン」的要素というかなんというか、上記センチな諸々が、どうしてアニメ版で祖父に関してくっついているのだろうか。このように言うことで僕は制作者がそうした理由を想像しているのだが、そんなものは想像する以外にないし誰か制作者に尋ねたところで言語化されうるとも限らない、ということをわきまえた上で、少し想像するくらいは構わないだろうね?まあ推理(と言ってよければ)の一環として仮構してみるだけだ。実はアニメ第一話にくっついているシーンがもうひとつだけあって、それがOP前のアバン、既に諸々あって大怨霊をその身に宿した後の虎杖君が伏黒君の属す組織に囚われているシーンなのだが、それが上記「夕焼け色」云々とともに付加されているというあたりから架空の制作者を仮構してみることができそうな気がするのだ。

そのアバンで虎杖君は大人気キャラの五条先生というのに対峙しており、だからそのシーンに大人気の彼のいち早いお披露目という側面はありうるのかもしれないが、そんなことよりも、縛り上げられて目を覚ました虎杖君が正面を見ると五条先生、右後ろを見下ろすと行灯、左後ろを見上げると壁いっぱいに貼られたお札(そのままスライドで移動して再び五条先生)、と短いアバンの中に虎杖君の主観ショットが立て続けに3つ並んでいるということの方が、よほどこちらの視聴を左右してくる。この3つを見て、虎杖君が主人公であることがわからない視聴者がいるだろうかね?さらには彼と擬似的に視界を共有することでなんとなく虎杖君の側に立って本編に臨む、少なくともそういう態度で臨むべきだということになっているということを理解する、というのでない視聴者がいるものだろうか?つまり僕はこう思うのだ。架空の制作者は、虎杖君を主人公として、さらに言えばバトルヒーローとして立てねばならないというミッションと、彼の祖父の死を悼まねばならないというミッションを、両方抱えていたのではないかと。さて彼はなぜ後者のミッションを抱えたのだろうか。その理由についてはこの手紙の本題、祖父の死を結節点として第一話後半で起こるところの、僕から見ればしみったれた惨事、に関する以外にないと思うが、そうだとして架空制作者の彼は、その惨事において祖父の死がないがしろになっているからせめて悼みたいと思ったのだろうか、それとも、それが惨事などではなく立派に祖父の死の悲しみを受け入れて虎杖君がヒーローとして立つ大事だから、あるいは現今ヒーローとか悲しみとかいうのはそういうものになっているようだから、先立って祖父の死をうんと悲しくしておきたいと思ったのだろうか。僕としてはどちらかといえば前者を望むが、どうも世間全般を見るに、後者かもしれない。君はどう思うだろうかね。

まあ話はその惨事について話してからだね。なに、その内容自体は簡単な描写で済むと思うし、たぶん君にもおおよその察しはついているものと思うから、話はすぐ済む。

祖父が死んだ日の夜、病院にいた虎杖君のところに伏黒君が来る。そして諸々話した結果、その夜に虎杖君の部活の先輩が学校にいて、まもなく怨霊系クリーチャー「呪い」に襲われて死ぬかもしれない、ということが判明するわけだ。それで伏黒君とともに高校までかけつけた虎杖君は、この時点では虎杖君を一般人だとみなしている伏黒君に校門前で「ここにいろ」と制止されて、一旦は食い下がるものの結局その場に留まり、留まっておいて悶々と自問するのだ。「俺は何にビビってる」「死の気配がここまで来る」「死ぬのは怖い」「怖かったかな?」「泣いたのは怖かったからじゃない、少し寂しかったんだ」「じいちゃんの死と、いま目の前の死、何が違う?」「短気で頑固者、見舞いなんて俺以外来やしねえ」「俺みたいになるなって、たしかにな」等々。勿論その間に校内では先輩を絡め取ったクリーチャーを相手に伏黒君がきっちりピンチに陥っていて、その現場に虎杖君は窓ガラス蹴破って飛び込むや、空中で体勢変えながら先ほどの自問に自答して、「じいちゃんは正しく死ねたと思うよ」とほざくのだ。その後は「けど!」と叫んでクリーチャーを殴り倒し、「こっちのは」と続けつつ先輩を抱えて飛び退き、着地するなりキッと顔を上げクリーチャーを睨み付けて「間違った死だ!」とキメる、すっかりバトルヒーローの虎杖君なのだった。

これが惨事だと思われてくるのは、まあだから正直なところ肝心要のここのところが僕にもよくわからなくてこの手紙を書いているのだが、まず確実なこととして、虎杖君が「じいちゃんは正しく死ねた」と思う根拠がどこにもないことによる。もちろん虎杖君が祖父の死を「正し」いと思った事情が、いずれ明かされる可能性はなくはないかもしれない。しかし問題はそうなる前に上記のようにして、つまりうまく書けているかどうかわからないが自省的なモメントを一切抜きにして音楽とカットとアクションのリズムで昂揚的にシーンが完結し、虎杖君のヒーローデビューはこれで成った、これで事足れり、となっているようであることだ。そうでなければ虎杖君はキメないと思うのだが、どうだろう。ちなみに既刊18巻を数える漫画単行本でも、当然アニメでも、今のところ虎杖君が「正し」い云々と思った事情は明かされていないのだが、このことは傍証になるだろうか。つまり虎杖君のデビューは上記のようで事足れりとなっていて、祖父の死もそれで用済みで、彼が祖父の死を「正し」いと思った根拠はもう永遠に明かされないどころか存在の可能性すら省みられていないのではないか、と僕は疑っているんだがね?

虎杖君はなぜ、どういう権利で、あるいはどういう事情で、祖父の死を「正し」い云々と言ってヒーローデビューをしようとするのだろう。なぜそれをダシにしてクリーチャーに殴りかかるのだろうか。物語上第一話の祖父には「生活というか人生というか要するにひっくるめてLife」などと悠長に言っていられるような生はないのだが、であれば上記シーンの虎杖君はただ、先輩に「間違った死」が訪れようとしているということを理由にクリーチャーに殴りかかるためだけに祖父を「正しく死」んだ側に置いた、ということになってしまわないだろうか。あるいは無念の祖父の死を「正し」かったと肯定するようなことをすれば視聴者に好かれる、もしくは認めてもらえるのかな?昨今どうやら、否定しさえすれば拒絶され、肯定しさえすれば許容されたりもするようだものね?

虎杖君のヒーローデビューが、祖父を失った悲しみを彼が処理するその仕方に支えられているとして、そのマッチアップが、アニメ版を見る際には「夕焼け色した」諸々によって明瞭に感知されてしまったことは確かだ。漫画版ではそうした諸々はあまりないが、反面、上記デビューシーンについてもリズムによる繋がりが少ないがために虎杖君の自問自答の文言を辿って読み進めていく側面が強いので、その文言の「正し」い云々における繋がらなさは漫画版の方が感知しやすい。彼の自問自答は黒背景に四角のフキダシが点在するだけのコマ3つを含めて延々続くのだが、それはそれで、彼の文言が辿られることによってこそ彼のデビューがそれとしてなされるはずだという筋道の設定が明瞭に見て取れるのだ。言いそびれていたが虎杖君は「気の良い馬鹿」タイプの主人公で、それなら戦いに参加する動機などは「気がついたら考えるより先に手が出ていた」といったところでも十分であろうになぜくどくど煩悶する必要があるのだろう、もしかして上記みたいに「気の良い馬鹿」などといって一言で片付けられてしまうような、そう、ジャンプヒーローの類型に収められてしまうような事態を避けたかったのだろうか、煩悶によって内面を補強し一癖あるジャンプヒーローになったところでそれ自体がとっくにヒーローの一類型でしかないのに?あるいはそれが「キャラの厚み」みたいなものだということになっているのだろうか?それで「死」だとか「正し」いだとかテキトーに深刻そうな言葉を使って祖父の死をジャッジしてみました、というわけだろうか?

問題があるのはアニメ『呪術廻戦』だろうかね?それとも漫画『呪術廻戦』、あるいは両方?あるいは広くバトルもの?それともこれはフィクションにおける主人公についての問題、ないしは主人公と親近者、家族との関係についての問題だろうか?あるいはさらに広く、悲しみとかいったもの自体に関する問題?あるいはさらにさらに広く、そう……脈絡とかそういうものに関する問題だろうか?まとまりのつかないことで申し訳ないが、君の意見、あるいは知見を聞かせてくれたら嬉しい。もしも『呪術廻戦』を見たいならアニメ版はNetflixやAmazon Primeで、漫画版第一話はジャンプ公式サイトで無料で、それぞれ閲覧することができる。

それでは元気で。くれぐれも健康には気をつけて。もしもつまらない不摂生なんかが元で君がうっかり万が一の事態に至ってしまうなんてことになったら、それによる悲しみを僕が馬鹿どもの前で乗り越えて見せつけて一目置かれてしまってやるから、そのつもりで。

敬具

2022年1月23日

支倉 研持

書誌情報

第1の手紙
支倉 研持(はぜくら・けんじ/城西学園)
2022.02.10 掲載