機関誌『半文』

アドルノ『美学理論』を読む

守 博紀

私が以下で試みるのは、アドルノ(Theodor Wiesengrund Adorno, 1903-69)の『美学理論』を読むことである。「読む」というのはここでは、「訳をつくりなるべく一貫した解釈を提示する」ということに過ぎない。「一貫した解釈を提示する」というのはその目的に応じて内容に幅のある課題だが、そこには少なくとも、「しかじかは具体的にどういうことなのか」、「この言葉はどういう意味で用いられているのか」、「この主張の根拠は何か」、「この主張から本当にあの主張が導出できるのか」といったことを明らかにすることが含まれる。以下の読解は基本的にこうした明示化作業に絞って行われる。それゆえ、『美学理論』に至るアドルノの思想的発展を詳らかにしたり、哲学史上の議論背景・影響関係を追ったりすることは主題ではない(ただし、アドルノの明示的・暗示的言及があるばあいには哲学史的議論を追う必要がある)。むしろ、アドルノの考えをなるべく整合的に再構成するという目標のために、アドルノとは直接関係のない文献や研究を参照するばあいがある。さらに、アドルノが直接は言及していないような芸術作品をも議論の対象にするばあいがある(こうした芸術作品はアドルノの議論のアクチュアリティを測る試金石ともなるだろう)。

ここで読解対象となる著作について簡単に紹介しておきたい。『美学理論』は1970年、すなわちアドルノの没後に、グレーテル・アドルノとロルフ・ティーデマンによって編集され遺著として出版された(2020年で刊行50周年を迎える)。一冊の著作として完成されることなく出版された本書は、大きなまとまりとして12の部分をもつ本論と補遺、「芸術の起源についてのさまざまな理論」と題された論考と新しく書き直される予定で破棄された「旧緒論」から成る。本論の12の部分は章タイトルを付されて明確に区分・構成されているわけではない。12の区分は、切れ目なく続く本文の途中で唐突に2行空けて改段落されている箇所が現れることでのみ判別できる。また、そのまとまりに付されたタイトルも本書の最後にある「概要(Übersicht)」でしか確認できず、2行空け改段落の箇所に掲げられているわけではない。これらのまとまりは本書の「編者あとがき」のなかで「章(Kapitel)」と呼ばれており、私も便宜上この12のまとまりを「章」と呼称することにする。さらに、ひとつの章のなかには複数の段落が含まれており、それぞれの段落にもタイトルがついている。このタイトルは右ページ欄外(いわゆる柱の部分)に置かれている(章タイトルと同様に、本文に挿入されるかたちで提示されるのではない)。この各段落のタイトルは編者が付加したものである。ただし、「編者あとがき」によれば、アドルノはタイプ原稿の欄外に内容を表す簡単な見出し語を付けており、各段落のタイトルはここから取られたとされている1。この段落上のまとまりの呼称は定まっていないが、これも便宜上、以下では「節」と呼ぶ。

『美学理論』は以上のような体裁をもち、その断片的な性格ゆえに、各議論の接続関係やそれぞれの議論の前提がわかりにくい。なおかつ、この論旨の辿りにくさは未完に終わったがゆえのことばかりではなく、アドルノの文章一般に言えることでもある。内容上のまとまりをもつ節は公刊に向けた推敲作業がかなりの程度まで終わっていたとされるが、どれひとつとっても難解でやはりわかりにくい。こうしたわかりにくさゆえに、ここでは「読む」ということ自体がひとつの挑戦となる。

本論に入る前に、ここで取り上げる著作のタイトルについてコメントしておきたい。アドルノのこの著作については、原題のÄsthetische Theorieをどう訳すかということがすでに問題になる2。この点については藤野寛の議論を参照しよう3。藤野は、Theorieという名詞にästhetischという形容詞が付されているという事態を真剣に受け止めるならば、この書名の訳として『美の理論』は論外、『美学理論』も採用されえないと主張し、「美的(あるいは、感性的)理論」と訳すことを提案する。藤野によれば、『美の理論』や『美学理論』が訳として不可であるのは、ästhetischという形容詞に読み取れる「世界の多様性と関わること」とTheorieという名詞に読み取れる「世界から一歩身を引き、隔たりをおいて、その全体を眺め渡すこと」という本来結びつかない表現を接合した「逆説の表現」4をこれらの訳では再現できないからだ(ただし、『美的理論』も「次善の策に過ぎない」とされ、もっともこの逆説を鮮明に再現する訳語としては「感性的テオリア」が提案されている)。私はこの議論に半分以上は説得されている。このタイトルそのものが逆説の表現である、という理解はかなり魅力的である(ただし、ästhetische Theorieという表現で「美学の対象を取り扱った理論」というくらいのことが言われているケースがアドルノ自身の発言に皆無というわけでもない)。それでも私はここで『美学理論』という訳を採用した。その理由はひとつには私の日本語の趣味でしかないのだが、「美的理論」が書名として納まりが悪く感じられる、ということにある(それはやはり「美的」という語の曖昧さにも由来するように思われる)。もうひとつは、より内容にかかわることとして、ここで扱われている主題がやはり「美学」に属するものであると思われ、それゆえ、「美学理論」もまったく排除されるような選択肢ではないと考えられることにある。以上、決定的な理由ではなく結論が出ているわけでもないのだが、私は暫定的に『美学理論』というタイトル訳をここでは採用する。

私はこの挑戦にあたって、二つのことを指針とした。ひとつは細見和之の言葉にならって、「全体を過不足なく眺めわたすというよりも、どこかひとつの章、あるいは節、さらには一文を、集中的に読み込む」5ことである。細見の言葉はもうひとつのアドルノの主著『否定弁証法』について言われたものだが、ここで言われたことの有効性は『美学理論』についても妥当すると思われる。もうひとつは藤野寛の言葉にならって、「アドルノに逆らって、わかりやすさを――私自身がわかったと思えることだけを書くことを通して――旨として」6自分の読みを提示することである。私自身に理解できることは当然限られている――それゆえ、理解が及ばないときは正直に降参する。ただし、そのばあいでも、どこが理解できないのか、何が理解を阻むのか、ということを明示化する作業には意味があるだろう。

以上が方針上の前書きである。以下で読解作業に入る。

第1回 芸術の理論的考察と歴史哲学のほどきがたさ
――「芸術の自明性は失われた」(1)

1. 芸術の理論的考察の出発点としての自明性の喪失

最初の章は「芸術・社会・美学」と題され、そのなかにさらに八つの節が含まれる。最初の「芸術の自明性は失われた(Selbstverständlichkeit von Kunst verloren)」と題された節から読んでいくことにしたい。

まずは冒頭から節全体の四分の一ほどを引用しよう。

芸術にかんするいかなることももはや自明ではないということが自明なこととなった。芸術の領域内部でも芸術が全体に対してもつ関係でも、もはや自明なことは何ひとつない――それどころか芸術の生存権すらも自明ではない、ということが自明なこととなったのである。無反省にあるいは問題なくできることなどは失われている。反省をすれば、〔新しく〕可能になったものが無限に開かれているという事態に直面することになるとはいえ、それによってはこの喪失は埋め合わせられない。拡大は多くの次元で収縮であることが明らかになる。1910年ごろの革命的な芸術運動は、まったく予想だにしなかったものが広がる海へと出て行ったのだが、この海が約束された冒険的な幸福を授けたわけでもなかった。その代わりに、当時解き放たれた過程は、当の過程がその名のもとで開始されたもろもろのカテゴリーを蝕んでしまった。ますます多くのものが、新しくタブーとされたものの渦へと巻き込まれた。いたるところで生じたのは、芸術家たちが、新しく獲得された自由の国を喜んだのではなく、むしろ、すぐさまふたたび名目上の――これまでほとんど用をなさなかった――秩序を求めることを喜んだ、ということだった。というのも、芸術における絶対的自由とはつねになお個別的なもののなかで成立する自由であって、そうした自由は、全体のなかで不自由が永続しているという状態と矛盾するからである。全体のなかで芸術が置かれる場所は不確かになってしまっている。1

まず提示されるのは、《芸術の自明性喪失》という考えである。「芸術にかんするいかなることももはや自明ではないということが自明なこととなった(Zur Selbstverständlichkeit wurde, daß nichts, was die Kunst betrifft, mehr selbstverständlich ist […].)」。さらに、《何が自明ではなくなったのか》の内容にかんして、(1)「芸術の領域内部でも」、(2)「芸術が全体に対してもつ関係でも」自明なことはない、さらには(3)「芸術の生存権すらも」自明ではない、と補足される。とはいえ、それぞれの項目について順番に説明がなされるというような親切な議論がなされるわけではまったくない。むしろ、これらの論点は議論の過程で唐突に接続される。それでは、芸術の自明性喪失ということでどのような事態を理解すればよいだろうか。

ひとつの有益な参照点として、ゲオルク・W・ベルトラムの議論を参照しよう。ベルトラムは、芸術作品が激しい論争を巻き起こした歴史上の出来事を挙げながら、アドルノのこの発言を、《芸術とは何か》という美学上の理論的問題への導入として紹介している。ベルトラムが挙げるのは、1913年に行われたアルバン・ベルクの《アルテンベルク歌曲集》初演およびイーゴリ・ストラヴィンスキーの《春の祭典》初演であり、また、1997年にロンドンのロイヤル・アカデミーで開催された展覧会「センセーション」で展示されたマーカス・ハーヴェイの作品である。前者の二つの音楽作品の初演は、その表現方法の新しさゆえに――ベルクの作品であれば響きに、ストラヴィンスキーの作品であればリズムにとりわけその新しさを指摘することができるだろう――聴衆の強い拒絶反応を引き起こした。それに対して、後者のハーヴェイの作品は、複数の子どもを殺害した犯罪者の肖像を描いたものだった。このばあい、観衆の怒りは表現方法の新奇性ではなく芸術作品が描写する対象に向けられていた、と言うことができる。ベルトラムによれば、いずれのケースでも、それぞれの芸術作品は、《何が芸術と見なされるのか》という芸術の身分それ自体をめぐる問いと結びついている。ベルトラムがアドルノの冒頭の発言を引用するのは、以上のような芸術の理論的考察の導入という文脈でのことである(ここで芸術の理論的考察というのは、ある特定の芸術作品がいつ制作され具体的にどうでありどのように評価されているか、といった個別的・経験的な問題とは区別される、芸術についての一般的な説明を試みる考察のことを言う)。すなわち、ベルトラムは《芸術の身分それ自体が問題含みになっている》という事態を《芸術の自明性が失われた》という事態として解釈したうえで、このことを芸術について理論的に考察するための出発点に据えているのである。ベルトラム自身の言葉を引用しよう。「芸術の自明性が欠けているということは、芸術についてじっくり考えるためのよい入り口である。芸術の自明性が欠けているというこの事態は、芸術が、《何が芸術と見なされ何がそうでないか》という問いと根本的に結びついているという点に表れている。芸術は、芸術についてじっくり考えることとつねに結びついている。こうした理由から、芸術と理論的に取り組むためにすぐにアプローチできる入り口は、芸術の疑わしさである」2

このベルトラムの議論は、現代的議論の文脈にアドルノの発言を位置づける手際のよさという点でも簡にして要を得た事例の提示のしかたという点でも学ぶところが多い。しかし、さらに私が有益だと思うのは、《冒頭のアドルノの発言を芸術の理論的考察という文脈に置こうとすると、そうした文脈にすんなりとは収まらない部分が見えてくる》ということである。アドルノの冒頭の発言は、それだけを取り出すならば、《芸術とは何か》についての理論的考察への導入として問題なく読むことができるかもしれない。しかし、そのあとに続く発言を読むと、アドルノはここで《芸術とは何か》についての議論に直接向かうというよりは、《芸術の歴史はどのように理解できるか》ということを論じているように思われるのである。アドルノの冒頭の発言を単純に芸術の理論的考察という文脈に位置づけようとするときに見落とされるのは、《なぜアドルノは冒頭の発言に続いて芸術の歴史についての自らの理解を提示しているのか》という論点である。以下でこのことを説明する。

2. 1910年ごろの芸術運動をめぐる歴史理解

続く発言を改めて引用しよう。「無反省にあるいは問題なくできることなどは失われている。反省をすれば、〔新しく〕可能になったものが無限に開かれているという事態に直面することになるとはいえ、それによってはこの喪失は埋め合わせられない」3。この発言は、芸術そのものについて述べているというよりは、芸術家の創作活動がどのように推移するかということを述べている4。このことは、そのすぐあとに出てくる「1910年ごろの革命的な芸術運動」を念頭に置いて理解するとわかりやすい。

ここで言う「1910年ごろの革命的な芸術運動」とは、パリのキュビスムやドイツの初期表現主義のことである。しかし、アドルノにとってこの年代は、何よりもアルノルト・シェーンベルクやその弟子たちによって無調音楽が書かれた時代として非常に重要な意味をもつ5。以下では、アドルノの言葉を援用しつつシェーンベルクの創作の推移を再構成することで、引用したアドルノの発言をパラフレーズしてみよう。

シェーンベルクが調性を放棄したのは、調性が作曲の可能性を束縛する足枷になってしまっているという認識からだった。調性は音の配列に明確な中心を与え、そしてそれによって音楽の流れに(中心からの離反と中心への回帰というかたちで)強いダイナミズムと方向性を与える。こうしたダイナミズムと方向性は楽曲に秩序と構造を付与するための支えになるが、同時に、不協和音に対しては、協和音に解決されるための従属的身分しか認めない。そこでシェーンベルクは、《不協和音も協和音と同じように扱ってしかるべきなのではないか》と考えた――この観点に立ったとき、調性はもはや「無反省にあるいは問題なくできること」ではなくなり、調性音楽を無反省に書き続けるという選択肢は「失われ」る。ここでシェーンベルクは《なぜ調性音楽を無反省に書くことができないのか》を考えながら――すなわち、「反省」の水準で――創作に向かう。そうした反省を通してシェーンベルクが到達(「直面」)したのは、音の配列にヒエラルキーをもたらす中心的な役割の音を排除する、すなわち無調で書くという新しい可能性だった。しかし、こうした可能性は調性音楽の単純な拡張ではない。調性を用いることでかつて可能になっていたことを無調で埋め合わせることはできないのである。こうしたことをより一般的に言えば、《芸術創作上でいったん自明視できなくなった表現方法は当の自明視できなくなった観点から反省され放棄され、そうして別の表現方法が獲得されるが、この事態は単純に表現の可能性の拡大と呼べるものではない》ということである。

しかし、以上のパラフレーズでは、そのあとにさらに続く、「拡大は多くの次元で収縮であることが明らかになる」という発言の含意の一部しか理解できない。《単純に表現の可能性の拡大と呼べるものではない》という事態はただちに「収縮」を意味するものではないだろう。ここからさらに、以下のことを考える必要がある。すなわち、1910年ごろの芸術運動が「革命的な」と積極的に評価される一方で、そうした運動によって「約束された冒険的な幸福」6が手に入ることがなかった、と消極的な評価も下されるのはなぜなのか。この問いの手がかりもやはり、シェーンベルクの創作のさらなる展開にある。それはすなわち無調から十二音技法への展開である。

十二音技法の基本的なアイディアは、調性の放棄によって実現した《それぞれの音が果たす役割の重要性を無差別化すること》、そして、かつて調性によって可能になっていた《作品に秩序と法則性を与えること》、この二点を同時に満たすことにある。それはすなわち、かつて問題なくできたことをさらなる反省によって埋め合わせようとするプロジェクトと考えることもできるだろう。

そのために考案されたのが、十二音音列を用いるということであった。十二音技法による作曲には、平均律の半音音階を基盤とした12の音高および音程関係によって確定される十二音音列を用いる。この音列は四つの形態(基本形、逆行形、転回形、逆行転回形)で現われ、また、どの形態も12の音のどれから始めてもよい。それゆえ、単純計算で、ひとつの音列から48の音列が使用できることになる。このようなしかたで確定された音程関係によって、《作品に秩序と法則性を与えること》という要求が満たされる。また、ある音が現われたら残りの音がすべて現れるまでその音は反復されない。これによって12の音のいずれにも中心的な役割は与えられず、12の音すべてが等価と見なされることになる。この点によって、《それぞれの音が果たす役割の重要性を無差別化すること》という要求が満たされる。

ここで生じる問題は、(かつて可能であった)音の配列の法則性を取り戻すために(かつて放棄したはずの)秩序がふたたび求められるということにある。この秩序のために、あらかじめ設定された音列によって、同じ音の繰り返しが禁止される。すなわち、アドルノの言葉で言えば、「ますます多くのものが、新しくタブーとされたものの渦へと巻き込まれた」のである7。このことが、「拡大は多くの次元で収縮であることが明らかになる」という発言の含意であると考えられる。

以上の考察に基づくと、「当時解き放たれた過程は、当の過程がその名のもとで開始されたもろもろのカテゴリーを蝕んでしまった」という一節もより詳細に理解できる。ここまでの読解により、「当時解き放たれた過程」とは、調性音楽を書くことの自明性が失われたという事態への反省から展開した《調性の放棄》という運動と解釈できる(もちろん、そのほかの芸術上の運動もここに含まれるかもしれないが、ここではそれは措く)。しかし、なぜこの運動の過程は「解き放たれた(ausgelöst)」と形容されるのだろうか。「解き放たれた」ということは、それまでは束縛されていた、ということである。ポイントは、調性の放棄というこの芸術上の革命運動が、不協和音の解放としてのみならず、人間の解放、人間の自由を目標として構想されていたということである。

この点については、柿沼敏江の議論を参照したい。柿沼は『〈無調〉の誕生』のなかでつぎのように述べている。「シェーンベルクとその弟子たちにとって、調性は彼らを縛る古い枠組みであり、そこからの解放は成し遂げられなくてはならない目標であった。〔……〕シェーンベルク楽派やその影響下にある作曲家にとって、古くて融通の利かない拘束からの「自由」「解放」は彼らの目標を達成するための合言葉となっていった。「不協和音の解放」はそのもっとも典型的な例と言えよう」8。この発言につづいて、柿沼はこの「不協和の解放」が「人間の解放」にほかならないことを指摘する。「しかし実際には、これを解放と呼ぶのであれば、解放されたのは不協和音ではなくて、じつは人間、つまり作曲家の方ではなかったのだろうか」9。柿沼が引用するアドルノの『新音楽の哲学』での発言をここでも引いておけば、「響きとともに、作曲家もまた解放された」10のである。こうした事態を念頭に置けば、1910年ごろの芸術上の運動が「解き放たれた」と形容されるのは、それが芸術家を旧来の拘束から解放し自由にする過程として構想されたがゆえのことだと理解できる。

しかし、アドルノの議論にはもう一歩豊かな複雑さが加えられている。というのも、この自由を求める過程自体が、「当の過程がその名のもとで開始されたもろもろのカテゴリーを蝕んでしまった」とアドルノは診断しているからである。先に見たように、アドルノによれば、調性を放棄して不協和音を協和音と同じように扱うというアイディアは、十二音技法への展開に伴って、秩序を求める欲求へと引き下がってしまった。すなわち、自由を「蝕んで」しまうのは、自由を目指す過程に相並びそれに反対する別の過程ではなく、その自由を目指す過程そのものなのである。ここでアドルノは、「自由」「解放」の名のもとで開始された革命的運動がほかならぬ当の「自由」を掘り崩すという歴史哲学的見解を――芸術史的考察に基づいて――提示していると言える。

3. 芸術の歴史理解と不可分な論点としての芸術と社会の関係

以上のように音楽史上の出来事を手がかりにすれば、アドルノが芸術の理論的考察ではなく芸術の歴史についての自らの理解の提示へと議論を進めていることはある程度理解できる。すなわち、アドルノがここで言っていることは、「芸術にかんするいかなることももはや自明ではないということが自明なこととなった」という一般的主張を《調性の放棄から十二音技法へ》という「芸術の領域内部で」起こった事態として具体化する議論として理解できるのである――「ある程度」は。

私は以上のような解釈のもとで読解してみたときに、つぎに続く文がすんなりとは読めないと感じた。もう一度引用する。「いたるところで生じたのは、芸術家たちが、新しく獲得された自由の国を喜んだのではなく、むしろ、すぐさまふたたび名目上の――これまでほとんど用をなさなかった――秩序を求めることを喜んだ、ということだった。というのも、芸術における絶対的自由とはつねになお個別的なもののなかで成立する自由であって、そうした自由は、全体のなかで不自由が永続しているという状態と矛盾するからである」。最初の文はこれまでに述べてきたアドルノの芸術史理解を描いたものとして理解可能である。調性の放棄(自由)から十二音技法(秩序)へ、という過程はその理解の手がかりとなりうる。問題は、「というのも(denn)」を挟んで出てくるつぎの文がこの文の理由を与えているらしい、ということにある。二つのことを問わなければならない。(1)「というのも」以下で言われている《芸術の絶対的自由と全体の不自由の矛盾》という事態をどう理解すればよいのか。(2)「というのも」で示されている理由の接続関係は成立しているのか。

これらは問う必要がありまた問うに値する問いである。しかし、アドルノの考えを理解するという観点から言えば、(2)の問いに対する答えを直接求めるのではなく、ここでの理由の接続関係が成立しているものと見なす方が有益である。すなわち、《なぜ「というのも」が成り立つとアドルノは考えているのか》という方向から考えるのである。

まず、ここで「全体(das Ganze)」ということで言われているのは「社会」のことと理解してよい。芸術はそれ自体の理論と概念をもつ実践であると同時に、この社会のなかで営まれる実践でもある。したがって、アドルノが冒頭で「芸術の領域内部でも芸術が全体に対してもつ関係でも」もはやなにも自明ではないことが自明になったと言うとき、そこでは、芸術家や個々の作品、理論や概念を扱う「内的歴史」と芸術の社会的側面や社会との相互作用を扱う「外的歴史」が同時に問題になっている11。すなわち、《芸術の絶対的自由と全体の不自由状態が矛盾する》というとき、それは、《芸術の理論的・実践的展開によって達成された自由はそのつどの社会的・文化的状況に制約されざるをえない》ということとして理解できるだろう。問題は、アドルノの芸術史理解を手がかりにして「内的歴史」の観点から読解を進めてきたときに、ここで唐突に話が「外的歴史」の観点に移っているように読める、ということにある。

ここから言えることは、「唐突に論点が移っている」と考えるかぎり(すなわち、芸術の「内的歴史」と「外的歴史」は別の話だ、ということを前提とするかぎり)アドルノの議論は追えない、ということだ。アドルノにとって、《芸術の歴史をどう理解するか》ということと《社会のなかの芸術の位置づけをどう理解するか》ということは独立の論点ではない(それゆえ、1910年代の芸術運動の話と「全体のなかで芸術が置かれる場所は不確かになってしまっている」という時代診断はひと続きの議論として提示される)。

このことを踏まえると、アドルノが芸術の歴史的展開と芸術の社会的位置づけを「というのも」で接続していることから、ひとつの洞察を引き出すことができる。すなわち、芸術の社会的性格はけっして芸術にとって外在的なことではなく、むしろ芸術の理論的考察に不可欠な論点を成している、ということだ。このことを説明するために、理由の接続関係がもし逆だったらどうだったかを考えてみたい。それはすなわち、芸術の歴史上の運動という事例を取り上げて、この事例を根拠として、芸術の絶対的自由と全体の不自由状態の矛盾を指摘する、ということである。このとき、芸術の歴史的展開は芸術と社会の関係を問題にするためのエピソード的事例を提供するものとして用いられる。それはいわば、芸術を通して社会を見る、ということである。アドルノがこれとは逆の接続関係を提示していることは、芸術とは単純にそれを通して社会を理解できるようなものではないことを示している。芸術と社会の関係の特定の理解がなければ当の芸術について理解できるような視野が開けないということ――これが、私が以上のアドルノ読解から引き出した洞察である。

私はアドルノ読解の手がかりとしてはじめにベルトラムを参照し、アドルノの発言が《芸術とは何か》ではなく《芸術の歴史はどのように理解できるか》ということを論じているように思われる、と主張した。ここまでの議論を踏まえるならば、これは不十分な言い方だろう。アドルノは、芸術と社会の関係についての理解を不可欠の一部として、芸術の歴史的展開を問題にしている。そしてそれは、(ベルトラムがその著書で展開している議論とは違ったものであるとはいえ)やはり芸術についての理論的考察なのである。芸術の理論的考察と芸術の歴史哲学がほとんど不可分に展開されるという点にアドルノの議論の特徴がある、と言うことができるだろう。

以上、「芸術の自明性は失われた」節の冒頭四分の一ほどを読んでみた。今回の読解作業はここまでとする。

2020.4.10

第2回 芸術の自律もまた問題含みになりうる
――「芸術の自明性は失われた」(2)

前回は、「芸術の自明性は失われた」節の冒頭四分の一ほどの読解に取り組んでみた。一字一句遺漏なく注釈するということが目的ではなく、私の関心に沿って読んだだけだったが、そこでの成果は以下である。まず、私はベルトラムの議論を参照点として、アドルノの冒頭の発言が〈芸術についての理論的考察の出発点〉として理解できることを示した。しかし、そのあとすぐに私が指摘したのは、冒頭の一文だけでなくそれにつづく発言も含めて検討すると、アドルノの議論は芸術の理論的考察ではなく〈芸術の歴史哲学的理解〉を提示しているように思われる、ということだった。私はこの点を 1910 年ごろの芸術運動(とくにシェーンベルクの創作過程)に依拠することで詳細化した。最後に、芸術の歴史理解と芸術と社会の関係がアドルノにとって不可分な論点になっていることを示し、そこからさらにアドルノの議論から読み取れる〈芸術の理論的考察と芸術の歴史哲学の不可分性〉を指摘した。

ここまでのアイディアを引き出すさいに、最後に引用したのがつぎの発言である。「全体のなかで芸術が置かれる場所は不確かになってしまっている」1。前回は、この発言の内容そのものには立ち入らなかった。問わなければならないのは、《芸術の歴史理解と芸術と社会の関係がどのような論点としてひとつながりになっているのか》ということであり、《ここで考えられている芸術と社会の関係は何か》ということである。また、アドルノは芸術の現状を「不確か(ungewiß)」というこの節のあとでも何度か出てくる語を用いて診断しているわけだが、《この診断を下すことによってアドルノが何をしようとしているのか》ということも問題になる。ひとまずはこれらの問いの手がかりを探すということを念頭に置いて(ただし今回の読解ではこれらの問いに対する直接の解答を与えてはいない)、続く発言にアプローチしたい。以降で話題になるのは、芸術の「自律(Autonomie)」である。

芸術の自律はアドルノ美学を理解するうえで結節点となるようなキーワードである。それは、ただたんにほかのキーワードと相並ぶというだけでなく、ほかのどの概念を理解するにしても「自律」概念との関係抜きにしては十分に理解できないという意味で結節点をなす。したがって、芸術の自律についてのアドルノの議論を否定的に評価するのであれ肯定的に評価するのであれ、自律概念をめぐる数多くのアドルノ自身の発言を理解することは不可欠の作業と言える。

1. 芸術の自律と人間性

まずは前回訳した部分の続きから引用する。前回引用した部分と合わせて、これで「芸術の自明性は失われた」節の約半分くらいとなる。

芸術が儀礼上の機能とその残像を払い落したあとで獲得した自律は、人間性という理念を糧とした。社会が人間的でなくなるほど、自律は損なわれた。芸術においては、その固有の運動法則により、人間性という理想から芸術が手に入れた構成要素が薄まった。たしかに、芸術の自律は依然として取り消すことができない。芸術が疑っておりかつその疑いを表現しているものを社会的機能によって芸術に取り戻させようとするあらゆる試みは失敗した。しかし、芸術の自律は、盲目性の契機をあからさまにし始めている。盲目性の契機は以前から芸術に特有のものだった。芸術が解放される時代には、芸術は素朴ではないあり方にもかかわらず――素朴ではないあり方のゆえにではないにしても――、盲目性の契機はほかのあらゆる契機に暗影を投げかけている。すでにヘーゲルが洞察していたように、素朴ではないあり方から芸術はもはや逃れることなど許されない。芸術の素朴ではないあり方は、第二階の素朴さと、すなわち美的な目的についての不確かさと結びつく。不確かなのは、芸術はそもそもなお可能なのかということであり、また、芸術は完全に解放されたあとで自らのさまざまな前提を掘り崩し喪失してしまったのではないかということである。この問いの発端は、芸術とはかつて何であったか、ということにある。2

現在のかたちで出版された『美学理論』では、ここで「自律」の語がはじめて出てくる(ただし、前回の「序」で書いたように、このテクスト配列は編集者によるものであって、アドルノの最終的な決定ではない)。しかし、アドルノはこの箇所で自律概念をもち出して何をしようとしているのだろうか。この点に少しわかりにくいところがあるように私は感じたのだが、その理由は、おそらく、ここで言われている「自律」概念とアドルノの距離感のわかりにくさにあるように思われる。すなわち、アドルノはここで、求めるに値すると考え自分自身でコミットしている芸術の自律の構想を提示しているようには思えないのである。むしろ、いま読んでいる節のタイトルにある通り、ここでは、《芸術の自律も自明ではなく不確かで問題含みだ》ということが主題になっている。それでは、自律はどのような意味で不確かであり問題含みであるのか。

まずは、「芸術が儀礼上の機能とその残像を払い落したあとで獲得した自律は、人間性という理念を糧とした」と言われている。アドルノはここで、自律概念をほとんど未規定にしたまま話を進めている。この一文から引き出せるのは、消極的規定――芸術の自律は芸術が儀礼やその他の機能から解放されたのちに獲得されるものである――と、いささか不明確な規定――芸術の自律は人間性という理念を糧とした――だけである。

「儀礼上の機能(kultische Funktion)」を果たす芸術とは、宗教的儀礼の成立に貢献する芸術のことである(たとえば、聖堂や祭壇画は典礼儀式が行われる空間を与えるものであり、グレゴリオ聖歌はそれを歌うこと自体が典礼の一要素である、など)。また、そうした儀礼上の機能の「残像(Nachbilder)」ということで考えられているのは、民衆の道徳的教化や政治的威信の誇示といった、宗教的儀礼に限定されない世俗的な目的への奉仕であると理解してよいだろう(たとえば、黎明期のオペラは、絶対王政期の王侯貴族が徳としての浪費を示す場でもあった)。それが「残像」と呼ばれるのは、宗教的儀礼にも教化や示威といった側面があり、世俗的な目的のために奉仕する芸術がそうした宗教的儀礼の側面を継承しているからだと考えられる。したがって、前者の消極的規定は、《自律的な芸術は宗教・道徳・政治その他にかかわる外的な機能を果たさない》ということを意味している。これを〈芸術の没機能性〉と呼ぼう。

二つの疑問が浮かぶ。第一に、この芸術の没機能性が自律概念にとって重要な要素のひとつであることが認められるとしても、それだけでは自律概念の説明や積極的提示にはあまりにも不十分ではないか。第二に、このように(消極的に)規定された自律概念が「人間性という理念を糧とした」とはどういうことか。

第一の疑問に対しては、自律概念の積極的規定はここでの主題ではない(だから不十分な規定しかなされていない)、と答えられるだろう3。主題はやはり自律概念が問題含みになったということの方にあり、その点で第二の疑問の方が重要である。ここで問題になっている「人間性(Humanität)」概念自体が理解の難しいものなのだが、ここで考えられているのは、〈動物でも神でもないある特定のあり方をした人間の自然本性〉という意味での人間性――「人間の性質(Menschheit)」、人間の「規定されたあり方(Bestimmtheit)」――ではなく、〈自らのあり方を規定するものとしての人間の(メタな)あり方〉という意味での人間性――目指されるべき人間の状態、人間の「使命(Bestimmung)」――であると考えられる4。ただし、この両者はまったく切り離されているわけではないだろう。後者の〈理想としての人間性〉を引き受けるためには、前者の〈自然本性としての人間性〉についてもある特定の考え方を引き受けなければならないように思われるからだ。すなわち、〈身分・宗教・民族・国籍・人種・性別などの属性にかかわらずあらゆる人間に認められるもの〉としてある特定の性質・規定を考えなければ、〈あらゆる人間がその発展を目指すべきとされる性質・能力〉について考えることはできない。

それでは、芸術の自律が「人間性という理念を糧とした」とはどういうことか。アドルノが念頭に置いている具体的な歴史的事象はわからないのだが(過去形で書いている以上は何らかの歴史的事実を考えてはいると思われる)、ここでは藤井俊之の研究を参考にして行間を埋めてみたい5。藤井はほかならぬ「人間性」概念を導きの糸としてアドルノの思想を再構成しているのだが、ここでの私の目的にとってとりわけ有益なのは、アドルノの思想そのものを主題とした本論ではなく、啓蒙思想家であり劇作家・批評家であったゴットホルト・エフライム・レッシングとアドルノ(およびホルクハイマー)の接続を試みた補章II「同情と啓蒙」である。そこでの議論の要点は以下のように要約できるだろう。(1)レッシングは演劇について、対象への同情を通じた社会的徳の形成という教化的・啓蒙的な役割を重視していた。(2)それに対して、レッシングと交友のあったクリストフ・フリードリヒ・ニコライやモーゼス・メンデルスゾーンは、道徳的領域から影響を受けることのない芸術作品の美的自律を擁護した。これは、レッシング自身が支持する啓蒙主義の反権威的側面――教化的側面とは別の、啓蒙主義のもうひとつの側面――をさらに推し進めたものと言える。(3)こうした美的自律性の思想はホルクハイマーとアドルノの共著『啓蒙の弁証法』にも継承されている。そこでは、同情の拒絶という点でレッシングとのあいだに架橋不可能な隔たりが見られるものの、人間性概念の救出もまた意図されており、この点でレッシングと『啓蒙の弁証法』は接続もされる6

この藤井の議論は、芸術の自律が「人間性という理念を糧とした」というアドルノの発言を具体的に理解するためのよい手がかりを与えてくれる。すなわち、民衆の教化という観点から言えば芸術には社会的な徳の形成という機能――アドルノの言う儀礼上の機能の「残像」――が期待されるのだが、そうした機能もまた、《既成の権威から脱却して他人から言われるのではなく自分自身で自分自身のあり方を定めるべきだ》という理想としての人間性の観点から放棄すべきものとされるのである。

しかし、上記のように内容を膨らませつつ理解したところで、自律概念を用いてアドルノがここで言おうとしていることは上記の点にはない、ということが肝心である。アドルノの言おうとすることは、すぐつぎに(接続関係を示す語を何も挟まず)続く二つの文と合わせて理解しなければならない。「社会が人間的でなくなるほど、自律は損なわれた。芸術においては、その固有の運動法則により、人間性という理想から芸術が手に入れた構成要素が薄まった」。ポイントは、自律概念が二方面から問題含みになっているということである。

第一に、社会的要因からの問題。理想として掲げられた人間性と現実に人間が生活する社会のあり方が乖離するほど――「社会が人間的でなくなるほど」――、自律は「損なわれる(zerrüttet)」。ここで「失われる」や「消滅する」ではなく「損なわれる」という表現が用いられていることに注意すべきである。もし《自律が失われた》と主張されるのであれば、それに続くのは《自律を取り戻そう》ということになるだろう。そうではなく、ここでは、非人間的になった社会のなかで依然として芸術が固有の領域の内部で営まれることによって「自律」の概念そのものの内容に歪みが生じた、と考えられているのだ(それゆえ、過去の偉大な芸術の営みに倣おうとすることは、解決策どころか事態を悪化するものと考えられることになるだろう)。

第二に、この点と関連して、芸術内部からの問題。前回述べたように、アドルノの美学は芸術の歴史哲学と不可分に絡まっている。これは、アドルノが、芸術の歴史的展開の背後に芸術固有の――社会的次元に還元されない――「運動法則(Bewegungsgesetz)」を見出していることともやはり不可分の関係にある。社会学的・人類学的観点からではなく固有の運動法則にしたがって芸術を考察することの必要性をアドルノは強調する。そして、この点が重要なのだが、アドルノによれば、その固有の運動法則のもとで見られた芸術の歴史的展開とは、《かつての芸術の運動を駆り立てたものがその後の運動のなかで掘り崩される》という過程として描かれるものである(これもまた前回述べたように、「自由」の名のもとで開始された無調音楽という革命的運動は、十二音技法への展開にともなって、ほかならぬ当の「自由」を掘り崩すことになった)。こうした観点から、「人間性という理想から芸術が手に入れた構成要素が薄まった」という発言も解釈可能である。すなわち、反権威・自己規定としての自律という「人間性という理想から芸術が手に入れた構成要素」は、芸術固有の歴史的ダイナミクスを通してそのもともとの性格を変質させていくことになった、という事態がここでは描かれている。アドルノは、一方で芸術の運動法則の存在を重要視しつつ、他方で同時に、そうした法則のもとで見られた芸術の運動内部に、当の運動そのものを変質させる要因を見て取っているのである。以上のように、アドルノはここで自律概念の積極的規定ではなくその問題性を提示していると言える7

2. 芸術の自律と盲目性

こうした自律概念の問題が、続く発言でさらに明示される。「たしかに、芸術の自律は依然として取り消すことができない。芸術が疑っておりかつその疑いを表現しているものを社会的機能によって芸術に取り戻させようとするあらゆる試みは失敗した。しかし、芸術の自律は、盲目性の契機をあからさまにし始めている」。ここでアドルノは、芸術の自律が「取り消すことができない(irrevokabel)」ものでありながらも「盲目性の契機(ein Moment von Blindheit)」を明示しつつある、と述べている8

「盲目性の契機」とは何か。「盲目的(blind)」という語もアドルノのばあい文脈に応じてさまざまな含みがあるのだが、〈まわりが見えない〉というそもそもの語義から派生するかたちで――別のしかたで言えば、まわりが見えないという事態が何によって説明されるかという観点から――いくつかの意味を引き出すことができる。自律と盲目性との関連が問題になっているこの箇所の読解には「盲目的」の意味を重層的に理解する必要があると思われるため、まずは、目下の問題に関連する二つの意味を取り上げたい(さらにのちほどもうひとつの意味も指摘する)。第一に、従属性。すなわち、自然の因果性や神学的権威に従属している(ためにまわりが見えていない)こと。このばあい、反省・吟味・熟慮などによって自分自身の立ち位置・あり方を理解し規定することができない、という意味も含まれる9。第二に、自己完結性。すなわち、(まわりを見る必要がないほどに)完成され閉じていること10

もちろん、これらは網羅的でも体系的でもないが、いまの議論の補助線にはなる。さきに述べたように、自律的芸術はその歴史的展開を通して、芸術の自律を求める運動の出発点にあった人間性の理念との関係を弱めていく。ここで生じているのはつぎのような事態である――儀礼・教化・示威といった外的機能に従属することを拒絶するという意味で、芸術の展開は、自己規定としての人間性の理念に端を発する。そして、この人間性の理念に端を発する芸術の展開が、自己完結的な領域を形成し維持する(自己完結性としての盲目性)。しかしながらそのことによって、当の人間性の理念とはむしろ対立するかたちで、芸術活動は自らの領域の位置づけ・あり方を反省することができなくなり、すでに芸術と見なされている制度的な営みへの従事が主となる(従属性としての盲目性)。

それでは、このように芸術の自律に含まれる「盲目性の契機」を強調することで、アドルノは何をしようとしているのだろうか。言い換えれば、アドルノがこうした議論によって対決しようとしている相手は何か。ティロ・ヴェシェの概括的なコメントは、ここでアドルノが対峙しているものを理解するうえで参考になると思われる。ヴェシェによれば、アドルノ美学の基本性格は、「自律美学(Autonomieästhetik)」の支持という点にある(「自律美学」とは、科学・政治・道徳・法・宗教などと同様に芸術がひとつの自律的な領域を形成し、芸術作品が神学的・政治的その他の目的にもはや貢献しないという意味でまず大まかに規定されている)。先に述べたように芸術の自律はアドルノ美学の重要概念であって、ヴェシェのこの指摘そのものは別段目新しいものではない。しかし、ヴェシェはさらに、《自律美学の擁護を通してアドルノは何と戦っていたのか》という点を簡潔にまとめることで、アドルノの主張により明確な輪郭を与えてくれている。それによれば、アドルノは文化保守主義と文化産業という二つの戦線で戦っていた。第一の文化保守主義によれば、芸術とは現実世界から距離をとるものであり、つまらない現実のものごとからの鑑賞者の「免責(Entlastung)」が純粋で高級な芸術に求められることとされる。第二の文化産業もまた受容者を現実から引き離すことを目論むものだが、そこでは芸術の純粋性や高級さは問題ではなく、消費者をひたすら受動的にして「娯楽(Unterhaltung)」を与えることが――そしてそれによって経済的利益を得ることが――目的となる11

このヴェシェのコメントは、芸術の自律という論点をめぐるアドルノの批判が、(他律的な商品を生み出す)文化産業だけでなく(誤った自律の考え方のもとにある)純粋芸術にも向けられているということに注意を向けてくれる点で有益な参照点となる。アドルノがここで「盲目性の契機をあからさまにし始めている」芸術の自律を問題にするとき、そこで批判的なまなざしが向けられているのは、ヴェシェの言う第一の戦線、すなわち文化保守主義の方である。芸術の自律が撤回不可能なものであることを主張しつつも、現実から遊離し制度化された領域の内部で無反省に営まれるような芸術の「自律」が問題含みであるという視野も同時に提示する――ここでのアドルノの議論が一筋縄でいかないのは、このような二方面的な姿勢に由来する。

さらに、「あからさまにする(hervorkehren)」という語には、「(毛を)逆立てる」や「強調する、見せびらかす、誇示する」という意味がある。すなわち、その含みは、〈もともとなかったものが現れ出す〉ということではなく、〈もともと胚胎していたものが顕在化する〉ということである。このことから、アドルノが「盲目性の契機」を〈自律的芸術にあとから付け加わった性格〉とは考えておらず、むしろ〈もともと芸術と切り離せないもの〉と考えていることがわかる。このことを示すように、続いてアドルノは「盲目性の契機は以前から芸術に特有のものだった」と述べている。

3. 素朴ではなくなった芸術の二階の素朴さ

ただし、ここで言われている「以前から芸術に特有のものだった」盲目性は、先に挙げた従属性や自己完結性の意味では取りにくいように思われる。「盲目性の契機は以前から芸術に特有のものだった」というこの発言は、すぐに(原文ではセミコロンを打って、つまりは区切りを入れつつもひとつの文として)続く、「芸術が解放される時代には、芸術は素朴ではないあり方にもかかわらず――素朴ではないあり方のゆえにではないにしても――、盲目性の契機はほかのあらゆる契機に暗影を投げかけている」という発言とのつながりで理解しなければならない。この一文にはさらに、「素朴ではないあり方(Unnaivetät)」に関係代名詞がかかって、「すでにヘーゲルが洞察していたように、素朴ではないあり方から芸術はもはや逃れることなど許されない」と続く(ここでようやくピリオドが打たれる)のだが、まずは関係代名詞の前までのところだけでも二つのことが問われる。(1)「以前から(von je)」と「「芸術が解放される時代(im Zeitalter ihrer Emanzipation)」との対比で何が言われているのか。この歴史的な変遷のあいだに何があったのか。(2)盲目性の顕示という事態が、素朴ではないあり方「にもかかわらず(trotz)」生じる、と言われるのはなぜか。

(1)「以前から」と「芸術が解放される時代」の対比は、大まかに〈近代以前〉と〈近代以降〉の対比と理解してよいだろう(「解放」というのは宗教的機能や特権階級への奉仕からの解放を意味するだろう)。ただし、その内容を解釈するためには、少し遠回りのようになるが、「盲目的」の意味のさらなる別の層を想定することが役に立つ。「以前から芸術に特有のものだった」盲目性は、従属性と自己完結性という二つの意味と関連しつつもそれとはまた別の含みを持った「盲目性」である。ここではその「盲目性」の意味を「没入性」と呼ぼう。それはすなわち、(まわりを見ることができないほどに)ある対象や行為に没頭している、というあり方である12。没入性としての盲目性とは、〈自分がそれをしているという自意識がない状態〉とも言い換えられる(まわりが見えていない、ということはまわりから見た自分自身が見えていない、ということでもある)。このように「盲目的」の意味のもうひとつ別の層を理解してよいならば、以下に続く芸術の「素朴ではないあり方」との関連性も理解しやすくなる。なぜなら、自意識をもたずに何らかの活動やあり方ができるということは「素朴である」ということであり、逆に言えば、「素朴ではないあり方」とは〈自分自身のあり方や活動を可能にしている前提を認識したい〉という欲求とそれを伴う自意識を膨らませた状態である、と理解できるからである。そして、この意味で素朴ではなくなったというあり方は、まさしく近代の――とりわけ前回も取り上げた20世紀はじめの――芸術の特徴であると言える13。すなわち、「以前から」と「芸術が解放される時代」の対比を通してここで提示されているのは、〈自らの営みの前提を意識していない近代以前の芸術〉と〈そうした前提に意識的で反省的な近代以降の芸術〉の対比であると考えられる。補足的に言えば、アドルノがここでヘーゲルの名を好意的に挙げているのは、ヘーゲルがまさにこの〈近代以降の芸術の自己意識的・反省的性格〉を洞察したとアドルノは考え、この点を積極的に評価しているからである14

(2)これは一見すると奇妙な事態のように思われる。というのも、近代の芸術が自らの前提への自意識を膨らませていくということは、先ほど取り上げた従属性としての盲目性という性格と矛盾するように思われるからだ。すなわち、「素朴ではないあり方にもかかわらず」という表現は、この一見したところの矛盾を指摘しているのである。

しかし、さらにアドルノは、「にもかかわらず」という言い方で済ませるだけでなく、こうした事態がなぜ生じるかという点にも踏み込んでいる。「芸術の素朴ではないあり方は、第二階の素朴さと、すなわち美的な目的についての不確かさと結びつく」。「第二階の素朴さ(Naivetät zweiter Potenz)」とは、〈素朴ではなくなったということについて素朴であること〉である。自らの前提を反省しようとするという一階の意味で素朴でなくなった芸術は、そのように素朴でなくなった自らのあり方はもはや反省しないという二階の意味で素朴になる。すなわち、自らの前提について反省する――たとえば、遠近法や調性や物語描写といった前提を自明視せずに再考する――近代の(とくにモダニズムの)芸術は、その反省の原動力(自分自身のあり方や活動を可能にしている前提を認識したいという欲求)そのものへの反省を欠くことによって、芸術の運動がそもそもどこに向かうのか、何のために営まれるのか、という視点をも失う。それゆえ、この事態は、「美的な目的についての不確かさ(Ungewißheit über das ästhetische Wozu)」とも表現されるのである。

前回の引用の最後の文章では、全体のなかでの芸術の位置づけが不確かだ、と言われていた。さらにここで不確かだとされているのは、「芸術はそもそもなお可能なのか(ob Kunst überhaupt noch möglich sei)」、「芸術は完全に解放されたあとで自らのさまざまな前提を掘り崩し喪失してしまったのではないか(ob sie, nach ihrer vollkommenen Emanzipation, nicht ihre Voraussetzungen sich abgegraben und verloren habe)」ということである。ここでアドルノは、社会的要因から芸術の可能性を問題にしているのではなく、むしろ社会的観点に還元されない芸術の運動法則ゆえに芸術の前提が不確かになっている、という事態を指摘している。単純に、《社会がより人間的になれば芸術の生存権は確保される》などという主張がなされていないところがポイントである。

しかし、アドルノの議論から引き出しうるさらに重要なポイントは、近代以降の(とくにアドルノが高く評価する20世紀はじめの)芸術の重要な特徴である〈自らの前提への反省〉が、盲目的なあり方の源泉であると同時に、盲目的なあり方から脱するための資源でもある、ということである。次回はこの点を示すところまで書くことを目標としたい。予告すれば、次回の目標は、「芸術の自明性は失われた」節の末尾近くに出てくるつぎの一文の魅力を伝えることである。「芸術は、伝統全体を通して芸術の基層として保証されているように思われていたものを攻撃することによって、質的に変化し、芸術の側から見れば、他なるものになる」 。芸術は自らの基盤(と思われるもの)を自ら失うように振る舞い、それによって「他なるもの」になる。この洞察が(もしかするとアドルノ自身も意図していないようなかたちで)現代芸術のあり方を捉えていること、そしてそれゆえにこの箇所が現在でも読むに値するものであることを次回の読解で示すことができたらと思う。

2020.6.10

 

(もり・ひろのり/一橋大学大学院言語社会研究科 博士研究員)