前書き
台湾茶を習い始めた時から、淹れる道具としての茶壺(急須)1や湯沸しの、陶器や磁器、ガラスなどの材質の違いによって、茶の味に影響が出ることを基本として習った。それらが水質にどう影響を与えているのか、今でも日々茶を淹れながら考えている。日常生活で手ごろな値段で買える馴染みやすいこれらの材質以外にも、鉄瓶や錫合金ピューター2のティーポット3など、金属の材質も気にかけるようになった。しかし、金属茶器は高価なせいで、普段の茶席ではなかなか目にすることができない。
筆者は茶を淹れること自体に関心があり、あるとき『太初有茶』という現代茶書の著者、龔于堯の自宅で石黒光南4の作った銀製急須で台湾茶を淹れる機会に恵まれた。炭火で鉄瓶の中の熱湯を保温して、銀製急須で台湾の烏龍茶を淹れた。最初、茶を口に入れた瞬間のクリアな透明感は忘れられない。我ながら上出来な茶淹れであったのは、恐らく金属の器が持つ力によるところが大きかった。それが金属の茶道具に目覚めたきっかけであり、その後、ピューターの茶器で淹れた中国広東省の単欉(そう)茶5や、銅の湯沸しを借りた茶淹れ練習も、筆者にとって、金属の茶道具が茶の味、特に水の味にどう影響するかの実験となった。
原稿執筆中の2018年9月現在のヤフーオークションで石黒光南の落札相場を検索すれば、ここ4ヶ月の、容量1リットルぐらいの銀製湯沸しの落札価格は50数万円から80数万円までである6。それに対して、筆者の手元にある陶器の湯沸しは、3万円以下で購入したものである。
まずは銀製茶器を手に入れる経済的な困難があり、それに筆者は理系の背景知識を備えないため、銀製茶器がなぜ水の味を綺麗にしてくれるかという原因に関する化学分析はできない。しかし、文献に当たり、昔の人たちの金属の茶道具に対する意見をまとめ、明代茶書における金属茶器への評価を調べることはできる。筆者が専門にしてきた中国明代茶書と、それに大きく影響を与えた唐代の『茶経』(779頃)にある金属茶器の記述を整理することが本稿の目的である。
実際、明代の茶書において金属茶器の使用に関する記述は少なくない。五金7(金・銀・銅・鉄・錫)の中で二番目の金属として認識されてきた銀は、そもそも金属自体として金に次ぐ価値づけをされている。それに、『茶経』においてすでに、銀の釜の効能として水質がよくなることが挙げられているのである。
筆者は片手で台湾茶を淹れ、片手で明代茶文化を研究テーマにして論文を書いている。常に、どんな茶文化研究のアプローチが現代の茶淹れにも通用するかについて考えている。本稿もその志向の上で書かれている。
本章
上で挙げたように、銀が水の成分を変えるということは現代に入ってからの発見ではなく、千余年前の唐の『茶経』に既にこれに関する指摘があった。
用銀為之、至潔、但涉於侈麗。雅則雅矣、潔亦潔矣、若用之恆、而卒歸於鉄也。8
(陸羽『茶経』、「四の器」の章「鍑9」の項)
(釜を)銀で作る場合は、極めて清潔ではあるが、華美贅沢に過ぎる。古雅は古雅でよいし、清潔は清潔でよいが、常に使用することを考えるなら、やはり鉄製(の釜)に落ち着くであろう。
とある。しかし、この記述からわかるように、銀器が「清潔である」ことを評価する一方で、茶の中心思想と言えるような考え方も反面に潜んでいる。銀の釜が華美贅沢にすぎるという考え方は、同書「一の源」にある、茶は「最宜精行倹徳之人10」という考え方と相応している。「精行」はまじめに仕事をすること11であり、「倹徳」は簡素な生活ぶりと解釈できよう。茶はそういう生活にこそふさわしいという考え方は、茶の中心思想として、唐代から明代まで受け継がれてきた。
現存の明代資料で銀のことを確認すると、まずは『天工開物』と『菽園雑記』にある銀の製錬、また鍛造か鋳造かというような技術に関する記述にたどり着く。吉田光邦の「そ(銀)の製錬技術は中國と日本とは全く異なるといわれており、技術の關聯と交渉の問題についても種々の暗示を與える12」という論点が興味深いが、明代の革新的な銀精錬技術については『天工開物』などに記されているものの、惜しいことに茶器について言及する箇所は現時点では見当たらない。また『菽園雑記』に銀の名産地が多く挙げられている13ように、地方誌を辿ってみれば、銀器の価値の歴史的変遷についてまた別の観点が得られるかもしれない。しかし今回は専ら銀器が茶の場面において実際に用いられた時の評価を調べることに焦点を絞るため、製造技術や地方誌に関してこれ以上の言及は控える。
現代の中国茶の淹れ方の源流は明代後期にあるというのが通説である。中国茶の長い歴史の中で、特に明代という転換期14にある中国茶の精神に注目したい。金属の技術はさておき、明代文人が茶の淹れ手・飲み手として、どう器の材質をコーディネートしたか、どういう評価を五金それぞれに与えたかについて、以下にまとめる。
第一節 明代茶書における銀器の褒貶
明代においては、金・銀をはじめとする金属に関して、個々のイメージの捉え方が際立っている。まずは銀器の褒貶を洗い出してみると、褒と貶との相反する傾向が明瞭に見られることがわかる。器の用途にもよるが、陸羽『茶経』の伝統以来、水の煮沸と関わる釜(鍑)と湯沸し(瓢・湯瓶・銚)についての論議が最も目立っている。
桑苧翁煮茶用銀瓢、謂過於奢侈。後用磁器、又不能持久、卒帰於銀。愚意銀者宜貯朱楼華屋、若山斎茅舎、惟用錫瓢、亦無損於香、色、味也。但銅鉄忌之。15
(張源『茶録』(1585)、「茶具」の項)
陸羽(号は桑苧翁)は、茶を煮るために銀の釜を使うのは贅沢にすぎるやり方であると言った。その後、磁器を使ってみたが、長持ちせず、やはり銀の器に落ち着いた。私見を言うと、銀というものは立派な建物に収められるのに相応しく、もし山で質素な生活を送る場合、錫の釜を使えば、茶の香り・色・味を損なうことはない。ただし、銅・鉄を使うとそれらを損なってしまう恐れがある。
山林隱逸、水銚用銀、尚不易得、何況鍑乎?若用之恆、而卒帰於鉄也。16
(聞龍『茶箋』(1610頃))
山や林の中で隱逸生活を送る人たちにとって、銀を用いた湯沸しなど簡単に手に入るものでもないのに、ましてや銀の釜など言うまでもない。常に使用することを考えるなら、やはり鉄製の釜に落ち着くであろう。
器具精潔、茶愈為之生色。用以金銀、雖云美麗、然貧賤之士、未必能具也。若今時姑蘇之錫注、時大彬之砂壺、汴梁之湯銚、湘妃竹之茶竈、宜、成窯之茶盞、高人詞客、賢士大夫、莫不為之珍重。即唐宋以來、茶具之精、未必有如斯之雅致。17
(黄龍徳『茶説』(1615頃))
器を清潔にしておけば、茶もそれで生き生きとした水色になる。金銀を用いた器は確かに綺麗だが、だからといって貧乏な知識人が必ずしも入手できるものではない。もし今蘇州の錫茶壺や、時大彬(宜興茶壺作り手の名手)の陶器茶壺、開封の湯沸し、湘妃竹の炉、宜・成窯の茶杯が手に入るなら、徳行の高い人・詩人・賢人たちはそれを珍重しないはずはない。なぜなら唐宋以来、茶具の質の高さはこれらのように趣味のいい域に至っていないのだから。
上記三つの引用は、どれも銀の贅沢さについて論じており、特に張源と聞龍は銀の釜や湯沸し(湯瓶・水銚)を話題にしながら「山斎茅舎」や「山林隱逸」という言葉を出して、銀のイメージを隠者のイメージと対立させる。黄龍徳は文人のことを「高人詞客、賢士大夫」といい、一見、隠逸性を主張していないが、「高人詞客、賢士大夫」は文人の類であり、「貧賤之士」はその中で最も隠逸の質素な生活イメージを持った人である。これらの人を形容する言葉の羅列で隠者のイメージを作るとともに、これらの隠者は「金銀」より、「姑蘇の錫注、時大彬の砂壺、汴梁の湯銚、湘妃竹の茶竈、宜・成窯の茶盞」の「雅致」を珍重するはずという隠逸趣味の記述である。
以上の三つの引用は銀を否定する考え方である。肯定的な記述としては、
所以策功建湯者、金銀為優。18
(屠隆『茶箋』(1590頃)、「択器」の項)
茶を点てるのに各種の素材の功績を比べて記すならば、金銀の器に勝るものはない。
予以瀉銀坩鍋磁為之、尤妙。19
(朱権『茶譜』(1440頃)、「茶炉」の項)
私は銀を溶かすのに用いた坩鍋を(炉として)使って(茶を点てれば)、これが一番よくできる。
などがあるが、朱権は明代の皇室の末裔であり、財力に関して一般の文人と比べものにならないほどの環境にいる。一方で、屠隆の着眼点は金と銀が水質に影響する点であると考えられよう。
第二節 明代における銀器の使われる場面
より具体的な各種銀器使用の場面について、詳細を見てみる。
まずは銀や金属の湯沸し(湯瓶)ないし釜(鍑)を使う場面のいくつかを紹介する(前節に示した張源『茶録』と聞龍『茶箋』の引用は次節でも取り扱うためここには再掲しない)。
磁器為上、好事家以金銀為之。銅錫生鉎、不入用。20
(張謙徳『茶経』(1596)、「湯瓶」の項)
磁器(の湯沸し)がいいが、物好きの人たちは金銀(の湯沸し)を使う。銅錫は錆を生じてしまうため、使ってはいけない。
昔東岡子以銀鍑煮茶、謂涉於侈、磁与石難可持久、卒帰於銀。此近李衛公煎汁調羹、不可為常。惟以錫瓶煮湯為得。壺或用磁可也、恐損茶真、故戒銅鉄器耳。21
(程用賓『茶録』(1592頃)、「器具」の項)
昔、陸羽(号は東岡子)は銀の釜で茶を煮るのは華美贅沢に過ぎるが、磁器と石製の釜は長持ちしないから、やはり銀に落ち着く、と言った。この説は唐の李靖(李衛公)の煎茶の方法に近いが、銀を使うことはいつもするべきことではない。惟だ錫の湯沸しで熱湯を沸かすのでよいのである。磁器の茶壺で茶を出してもいいが、茶の真の味を損なう恐れがあるから銅鉄の茶器は使用してはいけない。
或問予以声論茶、是有説乎?予曰:『竹炉幽討、松火怒飛、蟹眼徐窺、鯨波乍起、耳根圓通為不遠矣。』然炉頭風雨声、銅瓶易作、不免湯腥。砂銚亦嫌土氣、惟純錫為五金之母、以製茶銚、能益水德、沸亦声清。白金尤妙、第非山林所辦爾。22
(周高起『陽羨茗壺系』(1640)、「別派」の項)
ある人が私にこう聞いた、「聴覚で茶を論じることに関して、あなたの見解をお聞きしたい」。私は「竹炉(の様子)をそっとたずねれば、松の木で燃やした火は烈しく飛び、熱湯に蟹の目のような泡が緩やかに見え、鯨のような大きなぼこぼこ、聴覚敏感の人はそれらの事象を逃がさない」と答えた。しかし、炉から立つ風や雨のような音は、銅の湯沸しは作りやすいが、それで沸かした熱湯は雑味から逃れられない。陶器の湯沸しも土の匂いが嫌われ、ただ純度の高い錫は金属類の母として、それで湯沸しを作れば、水のよい特性を増すことができ、沸かす時の音も清らかである。銀が一番素晴らしいが、そのランクは山林に隠居する人たちの手の届くものではない。
程用賓の論述は、上記の『茶経』の「四の器」章「鍑」の項目を引用している。東岡子は『茶経』の作者陸羽のことであるが、『茶経』からの引用に含まれる若干の問題については次節で述べることとし、ここでは措く。
周高起はこの箇所の後半で、前節に挙げた諸引用箇所と同様、銀器を隠逸のイメージと相反するものとして扱う。張謙徳は銀を好むのでもなく、貶すのでもなく、単に「好事家」が使うものだと述べる。「好事家」は現代日本語にも使われる通り、金銭的余裕の有無に関わらず、主に趣味嗜好の分野における何らかの対象に強いこだわりを持つ人の意味であろう。
張謙徳も程用賓も銅器を貶している点が興味深い。現代においては銅器も銀器と同様水質をよくする効能を持っているものという共通認識があるので、なぜ明代の人たちが銅を貶すか、その原因についてやがて探る必要がある。
次は茶壺(急須)について。
官、哥、宣、定為上、黄金、白銀次、銅錫者、闘試家自不用。23
(張謙徳『茶経』(1596)、「茶壺」の項)
官・哥・宣・定(という窯元の磁器)は上位とされ、黄金・白銀それに次ぎ、銅や錫というのは、飲み比べに拘る人たちは使わない。
茶注以不受他気者為良、故首銀次錫。上品真錫、力大不減、慎勿雑以黑鉛。雖可清水、卻能奪味。其次內外有油磁壺亦可、必如柴、汝、宣、成之類、然後為佳。24
(許次紓『茶疏』(1597)、「甌注」の項)
茶壺は他の匂いが入り込まないものがいいとされるから、銀を一番として錫をその次とする。品質が良く純度の高い錫は、力を十分に発揮できるが、黑鉛を雑えたものを選ばないように気をつける。それは水を清めることができるが、かえってその味を奪うことにもなる。その次に内側も外側も釉薬のかかった磁壺があれば、それでもいいし、柴・汝・宣・成(という窯元の陶磁器)のような製品は、それらに次いでいいものと言える。
近百年中、壺黜銀錫及閩豫磁而尚宜興陶、又近人遠過前人処也。25
(周高起『陽羨茗壺系』(1640)冒頭)
ここ百年の中、茶壺は銀や錫と福建や河南の磁器を卑しんで宜興の陶器を尊ぶ傾向にあり、また近頃の人たちは昔の人たちと比べれば遥かに進歩している。
張謙徳と許次紓は年代が近く、考え方も若干共通している。大きな違いは、張謙徳は錫の茶壺を否定的に考えているが、許次紓はそれを銀に次ぐ二番目くらいに、茶を淹れる道具として良いものと考えている。共通するのは磁器を肯定的に考えている点であるが、それが明代末期の周高起となると、銀も磁器もダメで陶器だけをよいものと考えるという世間共通の認識があると述べている。
続いて、銀を使って「茶洗」というオリジナルな器を発明した張謙徳の記述を紹介する。
茶洗、以銀為之、製如碗式、而底穿数孔、用洗茶葉。凡沙垢皆從孔中流出、亦烹試家不可缺者。26
(張謙徳『茶経』)
茶洗は、銀でできて、その形はボールのようだが、底に無数の穴を穿ち、それで茶葉を洗う。大体砂や異物は穴から流れ出るから、これもまた茶好きにとって欠いてはいけないものである。
茶の味に直接影響する器ではないが27、高価な銀を使うことに張謙徳のこだわりが伺える。
最後に、茶の製造に銀器が使われる場面を紹介しておく。
松蘿茶、出休寧松蘿山、僧大方所創造。其法、将茶摘去筋脈、銀銚妙製。28
(羅廩『茶解』(1612頃)、「製」の項)
松蘿茶は、休寧の松蘿山で生産され、僧侶の大方によって作られた。その方法は、茶葉の葉脈を抜き、銀の鍋で上手に作るのであった。
筆者は、「銀銚妙製」の「妙」は「炒」の誤字ではないかと考えている。「妙」は「製」にかかる副詞で「上手に」と訳しているが、「炒」の場合は緑茶の発酵を止めるために加熱する過程を意味する。「妙」も「炒」も意味は通じるが、だいぶ違ってくる。いずれにしてもわざわざ葉脈を抜くこともあるし、銀の鍋で製茶することも強調しているから、こだわりの製茶法であることは言うまでもない。
第三節 明代茶書に伝承された『茶経』のモチーフ
第一節に挙げた張源『茶録』(1585)と聞龍『茶箋』(1610頃)の記述と、第二節に挙げた程用賓『茶録』(1592頃)の記述に、『茶経』(779頃)からの引用が見られる。ここでは、現代語訳を省略し、原文のみで三者の記述を再掲する。
桑苧翁煮茶用銀瓢、謂過於奢侈。後用磁器、又不能持久、卒帰於銀。愚意銀者宜貯朱楼華屋、若山斎茅舎、惟用錫瓢、亦無損於香、色、味也。但銅鉄忌之。29
(張源『茶録』)
山林隱逸、水銚用銀、尚不易得、何況鍑乎?若用之恆、而卒帰於鉄也。30
(聞龍『茶箋』)
昔東岡子以銀鍑煮茶、謂涉於侈、磁与石難可持久、卒帰於銀。此近李衛公煎汁調羹、不可為常。惟以錫瓶煮湯為得。壺或用磁可也、恐損茶真、故戒銅鉄器耳。31
(程用賓『茶録』)
『茶経』の当該項目には「用銀為之、至潔、但涉於侈麗。雅則雅矣、潔亦潔矣、若用之恆、而卒帰於鉄也32」とある。張源の「奢侈に過ぐると謂う」と程用賓の「侈に涉わると謂う」はともに、『茶経』の「侈麗に涉る」をふまえて、銀の華美贅沢なイメージを批判しているのは第一節でも言及した。ただし、『中國歷代茶書匯編 校注本』を見ると、『茶経』の「卒歸於鉄」の四字は、上記三者ともに受け継いでいるものの、張源『茶録』は「卒帰於銀」とし、聞龍『茶箋』は「卒帰於鉄」とし、程用賓『茶録』はまた「卒帰於銀」とする。張源と程用賓とは、銀と陶磁器と比べて「銀」をよしとした(卒帰於銀)と読め、聞龍は陸羽を踏襲して「銀」を論ずる中に結論として「鉄」を導いた(卒帰於鉄)ように読めるが、定かではない。明代茶書に『茶経』のこの記述が大量引用される中、銀か鉄かという判断がどの書物から、いつ生じたものかは、現時点では提示できない33。
布目潮渢の『茶経 全訳注』に、『茶経』のこの箇所を「卒帰於鉄」とし、その校異に「底本(宋・左圭輯、旧刊百川学海所収『茶経』、日本宮内庁書陵部蔵)、以下明版各本〈銀〉に作るが、ただ『茶書全集本』は〈鉄〉に作り、この項の文脈より見ても〈鉄〉がよく、これに従う。大典禅師の『茶経詳説』は〈鉄〉に作る。その基づくところは示していない」と説明されている。現行の『茶経』テキストも「銀」だが、多くの校訂者によって「鉄」に改められており、上記の「銀」に関する『茶経』引用の生成とどう関わるかについて調べることが、今後の課題として残っている。
『茶経』に関わる二つ目の問題は、茶器名称の整理である。特に張源『茶録』に「銀瓢」という記述があったが、文脈からすると、湯沸しの意味である。しかし、その用法は一般的ではないと指摘34をいただいた。他にも例えば『茶経』では「瓢」という字は「ひしゃく」の意で使われている35。それらの語史を追っていく作業も今後必要である。
付節 銅器のこと
面白いのは、第二節でも触れた、銅製茶器に関することである。今回とりあげた茶書では、銀製の茶器を貶す意見は全て、使い勝手ではなくその高価なイメージが原因で隠逸生活に相反していると批判するものであった。しかし、銅製茶器が明代茶書において不評であるのはなぜだろうか。改めて銅製茶器が貶されたところを抜粋する(原文のみ)。
但銅鉄忌之。(張源『茶録』)
恐損茶真、故戒銅鉄器耳。(程用賓『茶録』)
銅錫生鉎、不入用。(張謙徳『茶経』「湯瓶」)
銅錫者、闘試家自不用。(同「茶壺」)
銅瓶易作、不免湯腥。(周高起『陽羨茗壺系』)
これらの記述では、鉄と錫に対する評価は一定でないことがわかるが、どれも銅に対して悪いコメントしかしていない36。その原因について探ることは、当時の銀器の価値と絡んでひとつの課題として数えられよう。
後書き
本稿の着想に至った筆者の思いは、前書きに記したように現代のわれわれの生活にある。諸書で言及されている茶器の材質、陶・磁・錫・銀・銅・鉄はすべて、筆者の実体験の中にもあるものである。現代では、錫は融点が低いため湯沸しとしてではなく茶壺として使われている。磁器の湯沸し、銅の茶壺はあまり見られない一方、他の材質は湯沸しか茶壺として使うことが台湾茶の席では定着している。湯沸しも茶壺も茶を淹れる時に直接熱湯に触れる器であり、その材質のバラエティによって茶の味に違いが出ることは言うまでもない。その中の銀器である。
銀製茶器に対する明代茶書の評価を調べることで、その結果を果たしてどれだけ現代に活かせるものかは未だ不明であるにしろ、調査を進めるうちに、ただ単に、貯金して、茶を淹れる実験道具として銀の茶壺(急須)か湯沸しを買い求めたくなったのである。たとえ明代において銀製の茶器が隠逸生活と相反するとして否定されたものだったとしてもだ。まずは、銀がどれほど水に影響を与えるかを身をもって体感し、そのうえで、質素な材質を使っても銀のレベルの茶淹れができる境地に達することが、筆者の理想である。果たしてそれは遠い、遠い道のりである。
註・参考文献
2019.4.22
(ちょう・じょかん/一橋大学大学院言語社会研究科)