学会誌『氾文』

銀世界

氾文編集委員会+α(浦野歩/戸田智翔/下山田周平/阿部修登/武村知子)

 

1. 銀を観ず

「銀ドロ(Populus Alba)」:バラ類キントラノオ目ヤナギ科ヤマナラシ属、別名「ウラジロハコヤナギ」、中国名「銀白楊」1。「白いポプラ」を意味する素っ気ないラテン語の学名は、葉裏が白い綿毛に覆われているところからつけられたものだが、和名や中国名から想像されるであろうように、立ち並ぶこの木々が晴嵐のころ遠くの丘の上で真っ白な葉裏を一斉に翻すときには、まことに銀鱗燦爛というべき壮観が出現するという。それを目のあたりにしたことはないが、銀ドロといわずとも、白っぽい葉裏をしたアカシアやポプラ、ヤナギ、あるいは珍しくもないクヌギの木立などでも、お天気のいい日にきらきらと陽光を照り返しながら遠く漣立つ様子には、毎年々々見るたびに目を打つものがあって、これが銀ドロの木立ならさぞやと憧れを懐きもする。しかしまだ見ぬその絢爛たる光景よりも、むしろ「銀ドロ」という名前のほうが、より強く琴線に触れてくる。「銀白楊」よりも「銀ドロ」のほうがはるかに「銀」らしい感じがするのである。

同じPopulusの一種で古くからドロノキと称せられる樹木があって、これがなぜドロと呼ばれるようになったのかというと、Wikipediaによれば「加工するノミや鉋の刃の傷みが堅木より早いと言われ、実際に機械で測定するとミズナラの数倍の速度で工作機の切刃が磨耗」し、「この奇怪な性質が根から泥を吸い込むせいとされた」からとか、「泥のように柔らか」くて使いようがないから、とか諸説あって、どれもさんざんな言われようなのだが、実のところよくわかってはいないらしい2。銀ドロのドロは同じポプラの仲間であるところから来ているのだろうし、材質が実際に泥のようであるかどうかはともかく、漢字で書くとすれば「銀泥」なのであろう。音読みで読めば古来の絵具の名称ともなり、金銀の粉末を膠水で溶かしてペースト状にしたものが「金泥(こんでい)・銀泥」と呼ばれ、屏風や、豪華な光琳風の絵画によく用いられてきた。銀泥は白泥(びゃくでい)とも呼ばれるというから、何ならPopulus Albaもギンドロと呼ばずビャクデイと呼んでもよいようなものだ。しかしそうした語源やら字の詮索とは必ずしも関わりのないところで、ギンドロというこの名前が、むしろ「銀」という端的な名称よりもはるかに銀に似つかわしい、「銀」以上に「銀らしさ」を深々と湛えた名称であるように思え、どろりとした何か濃い濁りのようなものが、銀をよりいっそう銀の本質に近づけるような気がしてならず、この記事の冒頭にどうしてもこの名称を挙げておきたいと思ったのである。

白楊を「銀白楊」たらしめるものは、風に煽られ陽光を不規則に反射する群葉の「きらきら」であって、照り返す光がなければ、銀ドロも単に裏の白いハコヤナギにすぎない。正月飾りの「ウラジロ」の白は秘めたる心の潔白さをあらわすというが、白がいかに清浄な色であろうとも光らなければただの白であって、決して銀ではないのである。他方、光さえあれば白が銀になるかといえば、そう単純な話でもない。銀色はウェブカラーでは#C0C0C0で、単に淡い灰色である。ディスプレイはそれ自体発光するものであるのにもかかわらず、どんなに輝度の高いディスプレイで見ようとも白は白、灰白色は灰白色であって銀にはならない。物質としての銀は金属だから、色としての銀色も金属光沢があってこその銀色なのは当然のようだが、ウラジロハコヤナギにせよクヌギにせよ、別に葉裏が金属でできているわけではない。

ものの本3によれば、「金属光沢」の中でも特に銀色の知覚認識は、その対象が「ハイライトが強く」「暗い表面」を持つという要因と強い相関関係を示しているという。そもそも銀の他に金と銀も含む金属色全般の知覚には、色度・光沢・輝度コントラストの三要素の組み合わせが一定の条件を満たすことが必須であるらしい。しかし銀にはそもそも色度がない、つまり、銀から光沢を取り去った素の色は灰白色で、灰白色はモノクロの階梯のひとつであってこれがそもそも色度を持たないから、銀の見え方にはもっぱら光沢と輝度、すなわち光の反射の具合のみが関わっていることになる。素色の灰白色は、色度にではなく反射に関わる要素として働く。灰白色には、ハイライトとなる白い成分と、反射を抑制する黒い成分とがこもごもに含まれ、両者が織り成す明度のコントラストが銀を銀たらしめる。白いだけでは光っても銀にはならず、光になるだけなのだ。とすれば、ウラジロハコヤナギが銀ドロでありうるのは、裏が白いからというよりもむしろ、白い裏に対してコントラストをなす表が白くないからなのだろう。光る白に対して、濃緑色をした葉の「表」こそが陰なす「裏」となり、鋭い陽光の中でこの緑が相対的にほとんど黒に近いものとして白とのコントラストをなしつつ翻るから、そこに「銀」が出現するのだということになりそうである。

銀葉、銀翼、銀鱗、銀幕、あるいは銀シャリ――「銀」を冠する言葉は様々ある。金属、それも主にはジュラルミン製の機体を持つ飛行機の翼を本来意味する「銀翼」は、木製または布製の飛行機が絶えて久しい現在、ほぼすべての飛行機の翼ないしその機体を指し示すといって過言ではない。もっとも最近は炭素樹脂など非金属が機体の一部それもメインとなる前翼に使用されることもあり、必ずしも現行の機体がすべて金属製というわけではむしろなくなってきているが、炭素樹脂製の翼には呼び名がまだない。飛行機は今もって「銀翼」のままである。ジュラルミンの機体が無塗装のまませわしなく空を飛び回るようになったのは第二次大戦に至ってからだが、当時の「銀翼」は、現在の反射を殺したロービジブル塗装とは正反対に表面をぴかぴかに磨き上げられて飛んでいた。それでは敵に目立って仕方なさそうなものだが、当時は塗料の重さを排するために、というより無塗装が空気抵抗を減じると信じられていたために、そのような仕上がりとなっていたそうだ。しかし結局そのぴかぴかな仕上がりを目指して塗料とは別の素材が使用されることになり、その結果重量的には何も変わりえなかったという事実から察するに、天高く飛び上がるものが銀色にぴかぴか光っているのを見たい、という美的観点からの動機がおそらく先立っていたようでもある。「銀翼 silver wings」 というネーミングそのものに、きらきらした飛翔への憧憬が多分に含まれていたのであろう。

今でも人がしばしば「銀翼」への無際限の憧れを込めたまなざしを大空へ向けるのは、銀色の翼で空を飛ぶものがアーティファクトの一種の極致としての飛行機以外にないからでもある。古代の巨大トンボ・メガネウラがどれほどの高さを飛行したものかわからないが、現代において、生物の中で銀色の光沢を持つものはもっぱら水中に見出される。東京都江戸川区にある葛西臨海水族園には昔からマグロの回遊水槽があり、普通ならシュモクザメなど珍しい魚がゆったり回遊するようなドーナツ型の巨大水槽の中を、何の変哲もないマグロとカツオが高速で泳ぎ回っているのを寝転がりながら飽きるまで眺めていられる。変哲もないと言ってもそれは食卓の上でのこと、これらの日常食卓魚が生きて実際に泳いでいる姿を見る機会は実はめったにないのだと多くの人に気づかしめたという点でこの水族館は設立当時大いに話題になった。ぶあついガラス越しに目の前を、あるいは目の前上方2メートルほどのところを、板金加工で手荒く叩いたような鈍銀色をした流線型のものがきりもなく高速度で飛翔していく。水族館の照明を浴びて時にきらりきらりと光るそれらはジュラルミン製のロボットかくやといった姿をしているが、れっきとした生物なのである。

魚鱗の銀光については、カンブリア大爆発において「眼」の誕生が果たした役割を万学尽くして解き明かしたアンドリュー・パーカーの名著、『眼の誕生 カンブリア紀大進化の謎を解く』にあたるに如くはない。魚が「銀」色に見えるのはどういうわけか、まずはざっくばらんにこう述べられる。

(…)金属ではなくても、太陽光線の全色を一方向だけに強く反射させることで、きわめて明るい白色(これをわれわれは銀色という)を生ずる方法はほかにもある。構造色である。4

まず光の透過率の異なる「薄膜」を何枚も重ね合わせる。第一膜では青色の波長以下を通し、第二膜では緑色以下の波長を通し、第三膜では赤色以下の波長を通し…という、このような構造に光を当てると、第一膜は青色を反射させ、そこを透過した光が第二膜に当たると緑色を反射させ、さらにそこを透過した光は第三膜によって赤色を反射させる。結果的に各膜から反射した光が合成されて様々な色に見える、それを「構造色」と呼ぶのだという。液晶画面などに用いられているこの技術を、生物は進化の過程で独自に獲得したのだそうだ。魚はこの構造色によってきらきらするが、陸に住む人間の眼からするときらきらに見えるその体表は水中だと鏡の役割を果たす。要するに光学迷彩である。魚類の体表がもつ構造色は、太陽光がほぼ減衰なく届く浅瀬ほど虹色に近づき、回遊魚などが泳ぐ層へ少し下ると銀になるという。

ある季節になると海流に乗ってアフリカ東海岸へ何億というイワシの群れがやってくるが、その時を見澄まして大小さまざまな捕食動物も大挙して押し寄せてくる。カツオの類の捕食魚からサメ、イルカ、クジラ、海鳥まで含んだこの大連合軍に対し身を守ろうとして、何億という小魚が密集して巨大な回転球、サーディンボールを形成する。高速で回転しつつ丸い竜巻のように逃走するこの球体にそれ自体何千といる流線形の捕食者が突っ込むたび、モーゼの前で割れる海のごとく球体が道をあけ銀のカーテンのように束の間ひらめいたと思うまもなく、再び融合して回転を続ける。狙う側も狙われる側も渾然一体となった銀幕的饗宴の展開のうちに球体は徐々に食い荒らされ、食い散らされて、やがてかろうじて生き残った小銀片たちが這々の体で逃げ去っていくまで、およそ数時間。年に一度のこの祝祭に人間も捕食者のはしくれとして参加し、波打ち際近くに逃げこんできた魚どもに網を投げておこぼれに預かる。これは年に一度しか得られない大きな収入源となるので、当地の人たちはその時期が来ると毎日海岸に立ち、イワシの群れの到来を今か今かと待望するのだそうだ。到来は、波立つ海面と捕食者の聚合からそれと知れる。空から鳥も集まってくる。パーティがたけなわとなる頃、知恵あるイルカたちが球体を海面近くまで押し上げると、上空を旋回しながら待ち構えていたカツオドリの類の海鳥たちが、撃墜される戦闘機よろしく頭を下に、非常な速度で真逆さまに次々と海面へ突入する。二十メートルほどはゆうに潜って逃げ遅れたイワシをつかまえると瞬時に身をひるがえし、海面から脱して再び上空へ駆けのぼる。突入角度などを誤って首の骨を折って死ぬ鳥もときに出るというが、そうして凄惨な大量死を伴うこの光景を一種の祝祭と称してスペクタクルとして画面上において享受するそのしかたは、まさしくゴルフ・ウォー同断のサブライム・シミュラークル受容以外の何物でもないのだけれども、そういうものを食い入るようにして見てしまうのも、何か生物的な「眼の進化」と関係があるのかもしれない。

映画のスクリーンを銀幕と呼び、それがいかにも銀幕らしかった時代があったとしてもそれははるか昔になった。黒みをともなってきらきら明滅する白色の光、が銀出現の最低必要条件であるなら、「銀幕」に映っていたのは必ずモノクロ映画だっただろう。そして当然ながらディスプレイでモノクロ映画を見ても、それは決して銀幕にならない。それは反射光ではないからだし、フィルム撮影の頃と違って「銀塩」写真というものとすら、デジタル映像はすでに技術的にも概念的にも何の関係もないからだ。

銀塩写真と呼ばれるものは、ハロゲン銀なる化合物の、光に対する過敏性――光が当たるとすみやかに黒くなるという反応性に基づいた仕組みだが、そもそもハロゲン銀でなくとも、また光に当てずとも、銀は、容易に黒変する。平安期の絵巻物などにおいて銀箔が貼られていたとおぼしい箇所はみな、剥落していなければ黒変して、黒変しているからこそそこに銀があったのだとわかる具合ですらある。銀のスプーンやフォークは、手入れもせず放っておけば次第に光沢を失い、やがて真っ黒な墨色と化してしまう。不断に磨き続けていなくては徐々に覆いようもなく表ににじみ出てしまう「黒の成分」、それを含むゆえの銀白なのであり、不断に磨き続けねばならぬことを代償として、銀はまばゆく光るのである。

ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む

ぎんぎんぎらぎら 日が沈む

まっかっかっか 空の雲

みんなのお顔も まっかっか

ぎんぎんぎらぎら 日が沈む


ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む

ぎんぎんぎらぎら 日が沈む

カラスよ お日を追っかけて

真っ赤に染まって 舞って来い

ぎんぎんぎらぎら 日が沈む5

いまや知る者も少なくなりつつあるこの童謡において、夕日の光りかたが「きんきんきらきら」ではなく「ぎんぎん」であることが、真っ赤な日没の迫力を構成していることは疑いない。漆黒のカラスさえも「真っ赤に染」めてしまうほどの、色彩光学の原理に真向から対抗せんとする「ぎんぎら」のパワーはかかって「〝」に、すなわち濁りにおいてあり、まさしく太陽黒点のごとく音声を黒変させるところのこの濁りが、ぎんぎら光る真赤な夕日なるものに向かって、心に屈託ある者をしてしばしば親しく叫ばしめるのでもあろうし、追ってすぐに訪れるであろう漆黒の夜とそれを統べる銀月のもとでうすうすとその光を照らし返して萎えることのないだけの熱量をその胸中に備蓄せしめることにもなるのであろう。

ぎんぎら真っ赤な夕日はやがて地平線の下に沈むが、当然のことながら、沈むのは人の目に映るところの夕日であって、黄色恒星たる太陽そのものは、母待つ家へ返った子どもの目に見えないところで相変わらずぎんぎら黄金の輝きを放っている、そのぎんぎらが、代って東から昇りきたった満月に反射する、というよりその反射が満月である。そしてその反射を経由して、光は冷える。

世阿弥が記したとされる、能の修練の手順書とでも言うべき『九位』において、「上三位」「中三位」「下三位」のそれぞれ三つの修練の段階が紹介される。もっとも、修練すべき順番としてはまず「中」から始まり、追って技を極めるところに「上」、さらに上段に至った者が自らの境地を求めるために下る場所である「下」と続くのだが、このなかの「上三位」のひとつにあたる「閑花風の境地」に、次のような文言がある。

雪を銀垸(ぎんわん)につみて、白光清浄なる現色、誠に柔和なる見姿、閑花風と云うべきか。6

この「銀垸」に雪をつむ云々は、「銀椀裏盛雪」という禅語による。「裏」は「内」という意味で、要は銀でできたお椀の中に雪を盛った情景である。各所のホームページ7に掲載されている解説によれば、元は、中国のある僧侶によってなされた禅の問答における優れた拶の一つであるらしく、銀椀に雪を盛れば陽光のもと混然一体となって輝き、入れ物と中身との区別が判然としない不二一如の世界を呈する、しかしながら椀は椀、雪は雪であることに変わりはないという。「色即是空 空即是色」を教えるというこの禅語の真の妙味は凡俗の身にはわかりようもないが、例の有名な風と旗に似た例えでもあろうかとすれば、そこできらきらと目を打つ混然たる不二一如の光もまた、見る者の心において発するのであろう。

心より出で来る能とは、無上の上手の申楽に、物数の後、二曲も物まねも義理もさしてなき能の、さびさびとしたる内に、何とやらん感心のある所あり。これを、冷えたる曲とも申すなり。8

「冷えたる」という修飾詞はきっと、雪そのものではなく、雪の冷たさをじっと手のひらに伝導する「銀垸」にこそ相応しいが、「閑花風の境地」にある「閑花」が「さびさびとしたる内に、何とやらん感心のある」ことを指すとすれば、その「花」もまた月光同様に冷えている。雪と銀垸との間で銀白の光がないまざる「誠に柔和なる見姿」そのものは、「雪の上に照れる月夜に梅の花 折りて贈らむ愛しき子もがも」という古歌においてほのぼのと照り出す雪月花の白い融和光を思わせもするが、大伴家持が詠み出したこのおおらかな諧謔に満ちた柔和さから、6世紀余りを経て世阿弥のそれはなんと大きく変容していることだろうか。世阿弥が『万葉集』や『和漢朗詠集』にどれほど触れて何かしらをどのように得ていたにせよ、銀白の光の持つ「黒の成分」が世阿弥の時代にはその冷え冷えとしたはたらきをずいぶんと増していたともおぼしい。そもそも雪というものが、大気中の塵などを核とした結晶なのだから、そういう意味でもともと汚れを含んでこそ「白色清浄なる」色を現ずるものなのだが、だからこそ濁りを排して「白色清浄」の光を観ずることが、芸の修行がめざすひとつの「境地」として語られもするのだろう。世阿弥はこの能の「冷えたる」境地、「心より出で来る能」のことを「無心の能」「無文の能」とも言い換えており、さらには、このうち「無心の能」が「万能綰一心事(まんのうをいっしんにつなぐこと)」9、つまりすべての能(わざ)を一心でつなぐ境地であると説明している。この「一心」は、「無心」すなわち態(わざ)と態との間の「(態を)せぬ」間の心持ちのことを指し、「無心の位にて、我が心を我にも隠す安心にて、せぬ隙の前後を綰ぐべし」とされる。「わざ」をぎらぎらとひけらかしているうちは未熟なのである。

「ぎんぎら」が冷えて「銀」となり、色彩がモノクロームに沈んでゆき、かつてあった「文」すなわち彩、いろどりが、白と黒の中に吸いこまれ「無」に帰してゆこうとする、その「さびさびとした中に、何とやらん感心のある所」に、すなわち「無文の能」が出現するのであろう。月光はものの色を消す。むろんそれは単純に光が弱いから人間の目が色彩を認知するに至らないというだけのことでもあろうが、それにしても月光のもとでは、黄金でさえその光沢は銀のものと見分けがつかないどころか、むしろその反射の明るさは、よく磨かれた銀のそれにはるかに劣るであろう。もともと色度を持たず、明度コントラストだけがその輝度を構成する銀は、月明かりのもとでこそその本領を発揮する。銀とは「冷えたる」光なのであり、その光の下に、よろずのものごとが綰がれる。

世阿弥は晩年にはその父子とともに排斥され不遇のうちに配所で亡くなったが、やがて甥の音阿弥元重が改めて取り立てられた。観世の流統が盤石のものとなっていく中で室町八代将軍足利義政が主催した寛正5(1464)年の糺河原勧進猿楽はよく知られたものである。世阿弥の芸道論や不二一如の禅語に義政公がどの程度親しみ共感していたものか、今ここで詳らかにすることはできないが、彼は確かにある意味で「万能を一心に綰ぐ」たぐいの人ではあっただろう。禅と、時宗と浄土宗それぞれの思想のアマルガムでできたような慈照寺とその庭、そして和様と禅宗様即ち唐様との折衷様である観音殿に、文物文化に関する持てる見識のすべてを注ぎこんだ、東山文化の無二の創始者であり完成者であったとされる義政公はしかしその一方で、未曾有の大飢饉にも十余年にわたる応仁・文明の乱にも為政者として何らなすすべを知らずあまりに無力であったがゆえにか黒々とした虚無感と、翻って何かどろりとした執着のようなものとをこもごもに芸能文事へ投射してやまなかったのだと、そのように解釈され記述されることがひと昔前まではしごく顕著な傾向としてあった。南條範夫『室町抄10』での義政の描かれかたがその典型でもあろう。慈照寺の観音殿が、銀閣と通称されながらかつて銀箔を押された影もないのは、押す計画であったが財政難のため叶わなかったのだという説がこの80年代頃まではまだかなり一般に行われていて、南條の小説もそういう前提で書かれ、ついに貼られることのなかった銀と、その欠如の表彰のごとくくすんだ板壁の黒が、何か東山文化とその時代の象徴のように、一章まるごとを当てられた義政の独白の背景に燦然と明滅するようである。しかしながらその後研究が進んでわかったところでは、そもそも銀箔を押す計画など最初からまるでなかったらしい。だいいち、銀閣が金閣に対応するものとしてそう呼ばれるようになったのは江戸時代も後期になってからだとかで、銀閣なる名称とそのイメージはいわば、きらびやかな金閣の栄光を反転的に投影する形で形成されてきた。銀箔の痕跡すらない「銀閣」を恰もそれらしく形づくっているところの「月向台」と「銀沙灘(ぎんしゃだん)」もまた、今の形に整えられたのは同じく江戸後期であるという。白砂を積んだ小富士のごとき月向台も、同じ白砂を海原のごとく厚く敷き詰めた銀沙灘も、うすうすとした月光をほのぼのと照り返させるための趣向だという見解がなお主流ではあるけれども、本来なにごとをめざして築かれたものなのか、実はあまり判然とはしないらしい。用いられている白川の砂は白砂のなかでもことさら反射率が高く、月光を照り返せば定めしほのかな銀光が観音殿をしずしずとライトアップすることだろうとか、いやいくら白川砂でもそうそううまく光るものではないはずだとか、ともかく一般人には夜の拝観ができない限りあくまでも想像するしかないがゆえにか、ネット上の議論は常にかまびすしい、「銀閣」の銀を銀箔に帰すわけにいかなくなったから、代わって月向台と銀沙灘をこそ「銀」のメインテーマとして語り直そうとするかのように。かつてあったことのない銀閣と、その命名に与り知らぬ義政とがともどもに果てなき夢とその挫折の物語を負わされて語られることで、ある頃から銀は、わび・さびの日本文化の脈絡の中に、黒々とした戦乱と死と無惨の夜を静かに内包するその特有のイメージを育て続けてきたのである。

2. 金と銀

「むろん、銀シャリだ! 白シャリじゃあどうにもならねえよ。確かに米ってえものは白い、それあおめえの言う通りさ、だが生米を食やあ腹をこわす。研いで炊いて、炊きあがって初めておまんまになるのよ、じゃねえか、え? ほっこり炊きあがったおまんまのきらきらした光、あれがただの白に見えんのか、てめえの目は節穴かい? あれが白にみえるってなあ、おめぇのこころがそうさせてんだ、シャリはこころ、シャリの前にまずこころを磨け、それがシャリ道ってもんだ。見ろよこの白磁の茶碗、てめえなんぞが百年かかったって贖えるようなもんじゃねえんだぜ。特別に拝ましてやっから、徳を積むと思って目ん玉ひんむいてよっく見とくんだ。な、この内側の、すっと曲がったところがキラキラキラキラしてよ、どうでえこの光はよう。これがシャリの光なんだ、銀シャリの光さ。まだ誰も一足も踏んごんでねえ、処女雪の光よ……銀シャリの光を見んのに飯は要らねえ、米は要らねえ、この白磁の茶碗さえあれあ、いつだって目の前に銀シャリが尽きねえ、決して尽きねえ……」

そして銀次は、米を盗むのをすっかり忘れ、頭の鈍い手下も見捨てて、夢中で白磁の茶碗ひとつ奪って、風をくらって逃げましたとさ。

『翔太の寿司』には「太陽の銀シャリ編」というのがあって11、一時コンビニでよく見かけた。太陽=黄金、月=銀という図式が遍在的なものであるとすれば、「太陽の銀シャリ」とはすなわち「黄金の銀シャリ」の謂になるが、考えてみればそれはほとんど「黄金の銀世界」がそうであるような形容矛盾に他なるまい。これが「太陽のパン」であれば、おそらく問題は生じない。パンというものは、中はふんわり白くとも表面はこんがり焼けてキツネ色、そしてキツネ色というものは黄味がまさっていってそれなりに対応する色度範囲に入った上で光沢がくっきり出て輝度コントラストが高くなれば金色になるものだからである(実際キリスト教関連の文献で「黄金のパン」というフレーズを何度か見たような記憶もある)。しかしシャリが黄金色に光ってしまったらそれは何か妙なふうに変質して黄ばんだ古い米を使った証しにしかならないのではあるまいか。この「銀シャリ」なる呼称は、聞くところによれば大阪方面ではほとんど用いられず、もっぱら江戸前のものであるらしいが、他方、関東方面では米を「研ぐ」のに対し大阪方面では米を「洗う」と言って「研ぐ」とは言わぬらしい。白米を金属、あまつさえ刃物かなんぞのように研ぐべきものとみなすのはやはり人口の半分が武士だった江戸ならではの「こころの磨きよう」だったのかもしれないし、武家社会で特に米が一種の通貨として機能していたことによるのかもしれないが、そもそもお釈迦さまのお骨に見立てた白米を刀のごとく研ぎすまして銀色に光らせておいてむさぼり食うとは、江戸っ子の頭の中ではいかようなる食物曼荼羅が回転輪廻していたものやらまことに奇怪至極と申すべく、そうして食った米がやがて消化の妙を経て下のほうから再びお出ましになるときにはこれを恭しく「黄金」と称するに至っては沙汰の限りと言わずして何としよう。

それはともかく、「太陽の銀シャリ」がどこそこ形容矛盾のようなのは、そもそも「太」という字が「銀」に今ひとつそぐわないところにもひとつの要因があろう。太陽に対して太陰という語はむろんあり、陽=日、陰=月であれば別に銀に「太」でも構わないようではあるが、陰陽とはまた別の、一番二番という文脈も金銀には備わっており、「沈黙は金、雄弁は銀」のことわざにも見るように、洋の東西を問わず金が一番、銀が二番というのがお決まりの図式になっている。オリンピックメダルを持ち出すまでもなく、金・銀という呼称上の序列は少なくとも日本語のみならず相当範囲の各語種文化圏において不動のもののようである。

例えば将棋に関する初歩的な解説を見ると、たいてい駒の種類がまず紹介されるが、その順番は決まって、王将・飛車・角行・金将・銀将……と並んでいき最後に歩兵が挙げられる。この並び順はごく一般的に「強い順」だとも、即物的に「駒の大きい/厚い順」であるともみなされようが、駒が「強い」とはどういうことであるのかは、実のところそうそう素人考えの及ぶところではない。たくさんの方向へ動けるから「強い」とも限るまいし、一度に遠くまで進めるからといって「強い」かといえば決してそうではない。軍隊の序列や、お雛飾りの段々などになぞらえれば、この並びは「強い」順というよりはむしろ「偉い」順なのであろうなどと子供心に考えてみたりする。飛車とか角行とかがそもそも何なのかはともかく、王様の次に「偉い」人間は「将軍」なのであり、金将銀将というのは左右の大将軍のようなものであって金のほうが偉いのだろうと、そのように認識せざるをえない紹介順になっている。そしていわゆる「成り金」ルールにおいて、銀将「以下」の駒は、「成る」と「金」になるのであって、「金」はそれ以上の何に成ることも別にない。金というものがそもそも極めて化学変化しにくい物質であるのもさることながら、「成り金」という語の用法のその後の展開をみても、この序列が要するに社会的ステイタスのそれを示していることは疑いない。とはいえ、金に成ることが純然と地位向上、社会的に発揮しうるパワーの向上を意味するのは、厳密にいえば歩兵にとってのみであり、歩が金になれば動ける範囲が飛躍的に広がるので、文字通り成らない「手はない」ようなものであるが、他の駒、特に銀将に関しては、金に成るのが果たして得かどうか、銀のままでいたほうがはるかに得なのではないかということをそのつど熟慮判断しなくてはならないものらしい。というのも、銀将はもともと斜め後ろに動ける貴重な駒であり、反面、金将が唯一動けない方角がこの斜め後ろだからだ。ものの本によれば、銀は、成るチャンスがあっても4回に1回は「成らない」ことを選択するという。「斜め後ろに動ける」という社会的に稀有な特質を失いたくないという理由でしばしば出世を拒むのが銀なのであった。

金銀という呼称からして、銀将は金将と「同じ系列の駒と思われているが、歴史的にはチャトランガの象に相当する12」。このことは幸田露伴も『将棋雑考13』の中で記している。

西洋将棋の印度より出でていはゆる「しゃつらんが」(象、馬、車、卒の四科の義)の変形たるは、西洋将棋の條に既に説けるところなるが、二者その淵源するところを同じうするにあらざるより以上は是の如く一致すべくもあらずと思わるるまで巧みに吻合するを見る。試みに西洋将棋の馬子の名称と支那将棋の馬子の名称とを比較せよ。(……)西洋将棋の「びしょっぷ」は僧正の義なれども、ふおるぶす氏の説に拠れば、この馬子は古は波斯人に「びる」と呼ばれしものにして、「びる」はすなはち象の義なりとなれば、是れ支那将棋の「象」に相當するにあらずや。(……)印度にては実際に戦闘にも所謂「戦象」なるものを使用することその常習にして、特にその象戯「しゃとらんが」は象、馬、車、歩の四科を模せるものなりと云へば、支那将棋に象馬車卒の共存せることは明らかに「支那将棋は支那人の手に成りしものならずして印度人の手に成りしもの」なることを証するにあらずや。(……)今の普通の将棋の馬子中、歩兵、香車、桂馬等はその称呼に於て支那象棋の兵、車、馬と一致し、又其位置に於ても巧みに一致し、銀将は其実に於て支那象棋の象の如く、金将は士の如くなること、即ち今の将棋は却つて支那象棋に近きこと。14

西洋将棋はインドの古将棋「しゃつらんが」に影響を受けており、中国の将棋は、この「しゃつらんが」に影響を受けた西洋の将棋に影響を受けており、日本将棋はその中国将棋から変容してきたものであるということが『将棋雑考』では延々と考究される。日本将棋の「金」は中国将棋の「士」にあたりこれはインドを経由しない西洋由来の「くいーん」から来ているといい、他方「銀」はまさしく「大臣」「将軍」の位置であるが元は「しゃつらんが」の「象」に当たりこれは西洋将棋では「ビショップ」にあたるというのだが、してみると金と銀とはもともと全く異なる由来を持ち異なる体系に属しているのであり、それが「しゃつらんが」からチェス、中国将棋を経て現在の日本将棋の形に整理される過程で、金将・銀将はそれぞれ行けるマスと行けないマスの配置においてちょうど一種の鏡像のような相補的な機能を持たされ、それに伴って金銀の名称を得たとおぼしいのであるけれども、クイーンとビショップにせよ、「士」と「象」にせよ、「金」と「銀」という並びから感知される、建前として対等だが実は微妙に序列化された社会的ステイタスの表示、とはかけ離れた両者であるように見える。ビショップ(司教)は、王と女王を頂点とする俗世の階級とは別建ての聖職ヒエラルキーの中にある者であり、その奮いうる権力も、王や女王の奮うそれとは別系統のものであるし、「象」すなわちエレファントに至っては、当然ただの人間であるところの「士」との間に本来厳然たる圧倒的な実力差があるべきものと認めざるをえまい。「将」という文字と「金銀」の並びによって現在はひとつの同じ系をなしていると思われる駒たちであるけれども、銀は実は象の化身である、銀将には雄渾威容を誇る偉大なる象将の魂が封じ込められているのだと思うと、長い時をかけて自然を調伏してきたホモ・サピエンスの歩みをも併せて振り返りなどしつつ何か悠久の思いさえするのである。

支那の将棋を論ずるに先立ちて一言すべきは、支那には将棋の二字を以て連ねたる一語の存在せざるに近きこと是なり。将棋の二字は蓋し邦俗通用の文字にして、支那には用いられたること無きが如し。我邦の戯には玉将、金将、銀将の馬子ありて、特に一局の輸贏は玉将の死活に係ることなれば、之を将棋と云ふも甚だ其理あり、古より将棋と書し来りたるも然るべく思はるれど、支那にては其戯また同じく将の一馬子の死活を争うに在るに関らず、象戯、象棋と書して将棋とは書さざるものに似たり。惟ふに我邦に在ても最初は象戯と書し、将棋とは書せざりしならむ。15

ここでの「象」はむろんエレファントではなく「かたち」の意味であって、象戯すなわち軍勢ないし広くは万象を「かたどる」ところの遊びが、世が下るにつれゲームがコンパクト化して(比較的)簡易に王将を取りっこする遊びとなり、王を守るべく左右に主将たる金銀が控えるごとき様相を呈したから、象戯という字は将棋という字にとってかわられ、王・金・銀将がゲームの中心に位置する「偉い」駒であるかのようになり来ったのである。しかしながら、今は廃れてしまった古式の中将棋・大将棋・大大将棋・摩訶大大将棋などというゲームにおいては、駒一覧紹介を見るだに脳髄が古代の熱帯雨林状態になるような気がし、犬猫から象、麒麟、鳳凰に至るまであまねき生物多様性の中で金銀将などはいまだ進化途上の原始霊長類のように森羅の中につつましく埋まっている。現代はこれらの古式将棋の復刻なども盛んなようだが、『将棋雑考』を読んでいるとまた次のような記述がある。

花鳥余情の作者、足利氏時代の文学者として名高き一條兼良の文明八年の作にかかる鴉鷺合戦物語巻四、にはとりろうこく博士禪法、九月二十六日合戦、あろう発心の事といへる條の中に、(上略)「知時こここそ逃れぬ死所よと云ふままに手勢三百騎ばかり一歩も退かず、青鷺信濃守が手にかけあはす、勇士と勇士の出あひなれば、よのつねに打あふて火花を散らして戦いたり、端武者は落ちつ打たれつ、僅に一騎當千のつはものばかり戦ひ残りたる其ありさまは、かちまけせめたる中将棋の盤の上、ところ淋しく駒のあしなみ入り乱れて、鳳凰はなりて八方を破り、飛鷲角鷹は威を奮ひて、(飛鷲を飛車とせる本あり、わろし)あたりを居喰ひする其働きにも似たり、破りつ破られつ、まくりつ、まくられる、ひとりも残らじと戦ひたり」とあるは中将棋の既に當時に行はれて一般の人に知られたりしを証するものなり。中将棋は其局縦横各十二格、其馬は、王将、醉象、麒麟、鳳凰、奔王、獅子、各一、金将、銀将、猛豹、香車、反車、角行、盲虎、龍王、龍馬、飛車、堅行、横行、仲人、各二、歩兵十二を以て一軍とし、敵を合せて総計九十二馬なり。(……)中将棋の法、鳳凰は化りて奔王となり八方に走るを得るに至るなれば、鳳凰は化りて八方を破り、といへる文献は拠るところ無き誇張にあらず、飛鷲角鷲は共に大威力ある馬にして、且つ我が位置を動かさずして他の馬を搏て取るの権あり、これを将棋の語に居喰ひといふ。されば、あたりを居喰ひする、といへるも実際に協へる巧みなる筆致にして、勇士の奮闘して而も余裕ある態を形はせりといふべき也。16

「(飛鷲を飛車とせる本あり、わろし)」は「鴉鷺合戦物語」にはない記述で、「将棋雑考」の地の文が引用箇所に紛れ込ませた注釈である。中将棋は「主に公家と一部の武家に好まれ、明治維新の頃まで伝わってきた」とウィキにある17が、現行の将棋には「飛鷲」の駒はないから、写本が重なるうちに中将棋をよく知らぬ者が「飛鷲角鷹」を現行の飛車・角行をさすと思いこんだ、あるいは、それらになぞらえても支障はなかろうと短絡したことは大いにありうる。飛車角行もそれなりに「威を奮」う駒ではあるが、「居食い」はしないから「わろし」というのである。中将棋のルールでは、「鳳凰」が成ると「奔王」になる。鳳凰自体が不可思議な動きをする駒だが、奔王は縦横斜めの全方向へ何マスでも行ける、現行の飛車角を併せたような破壊的機動力のある駒であるから、「鳳凰は化(な)りて八方を破」る、と書かれる。中将棋の飛鷲・角鷹はそれぞれ、竜馬・竜王が成った後の駒で、これらも奔王と同じ八方破りの動きができるが、それに加えて、隣接の駒(鷹は前方、鷲は左右斜め前)を取ったあとで元の位置に戻れる、これを「居食い」と称するので、これすなわち「実際に協へる巧みなる筆致にして、勇士の奮闘して而も余裕ある態を形はせり」というわけなのである。「形はせり」と書いて「あらわせり」と読む。「形」は「象」と書いてもよいのであろうが、この箇所を読む限り、一条兼良はあたかも実際の人間の戦闘を将棋盤の上の駒の動きになぞらえ「形はし」たかのように読める。しかしながら「鴉鷺合戦物語」はそもそも御伽草紙中の「異類物語」と呼ばれるジャンルに属する、動物を擬人化したパロディ物語の一種なのである。タイトルから容易に推測されるように、カラスとサギの合戦の物語であって、文明8年ごろに成立したというから時まさしく義政公が京中に舞い散る火花を眺めながら恬然と酒を飲み歌を詠んでいたその近辺で執筆されていたとしてもおかしくはない。豪族領主が東軍西軍に分かれていつ果てるとも知れぬ内戦に突入したそのありさまを風刺する意図がどれほどあったか、ともあれ登場するのは鳥たちであり、上の引用中にも麒麟や獅子は登場せず鳳凰・鷲・鷹と鳥の名の駒しか言及されていないのがわかる。

「鳳凰は化りて八方を破り」という「巧みなる筆致」は、とりあえず猛将を鳳凰に喩えるその比喩が見事だという話に読めるのだが、この猛将がそもそも何かの鳥なのであるとすれば、「鳳凰は」と言われているのであればその鳥は鳳凰なのではあるまいか。あるいは、鳳凰でなく別の鳥――青鷺信濃守の手の者というからアオサギの仲間なのかもしれないが、その場合は、勇猛果敢なアオサギが鳳凰に喩えられていることになる、しかしその場合、喩えられているほうの鳳凰は、鳳凰なのかそれとも鳳凰という名のついた将棋の駒なのか、その名なのか、それともその駒の上に書いてある「鳳凰」という名字なのであるか。アオサギなりシロサギなりの猛将を「鳳凰」という名の駒に喩えているとして、「鳳凰」という名の駒は鳳凰ではなくて駒である。駒、という一般名詞そのものがまたそもそも「馬」の喩えであって(上の引用では「駒」といわず「馬」と言っている)、だからこそ「かちまけせめたる中将棋の盤の上」「駒のあしなみ入り乱れて」などと書かれうるのであり、「あしなみ入り乱れ」るからにはこの「駒」は足のある動物であるわけだが将棋の駒に足はないから、ここでは将棋の駒が足のある駒に喩えられていると考えるべきで、しかしそもそも将棋の駒は駒に喩えて名づけられているからこそ駒なのであるから、わざわざ喩え直すまでもなく駒は駒なのである。鳳凰の比喩もこれと同じ水準にあると考えられる、すなわち、「化りて八方を破る」鳳凰も、鳳凰に喩えられて鳳凰と名づけられているところの鳳凰に喩えられているところの鳥であって、つまりは鳳凰であり、鳳凰という名それ自体であるところの鳳凰である、たとえアオサギであってもそれはそのように鳳凰以外の何物でもなく、これを空海ふうに呼ぶならば声字実相の顕現せるところの鳳凰に他ならず、また平たくも言うならばここに筆者が鳳凰と書くその二文字においてあるところの鳳凰に等しいものであるし、白川静ふうに言うならば森羅万象としての漢字体系の中において棲息せるところの鳳凰に他ならぬ。麒麟、獅子また金将銀将もこれに同じく、金将といっぱ黄金脅しの鎧をまといこがねづくりの太刀を佩き金覆輪の鞍置いて絢爛輝くばかりなる大将軍にぞあらんとはひとえにその名を音に聴き目にも見てこそ推し量らるれ、何ぞその利き手の不足遅々たる足取りいにしえの獅子奮迅の関羽張飛に比すべけんや。酔象とても酔ひたる象を形どるにあらず況や銀将においてをや、敢えて象と言はむとならばいっそ銀象(ぎんしょう)とこそも書くべけれ。銀という字が「象はす」ものは当の銀をおいて他になく、銀とはすなわちこの世の中でひとり斜め後ろへ進むことのできる稀有な動物(うごきもの)以外の何物でもないのであった、そしてこの動物はまさしく、「銀将」という字の「象(かたち)」を乗せた駒というものに他ならないのであるまいか。

3. 銀を冠す

ふと思い立って「銀象」を検索したら、老舗のシャベル・スコップが出てきた。銀象印のスコップはアルミ製で、その表面の凹凸が確かに牙のある象の正面顔にそっくりで可愛らしい。日本で初めてシャベルの国産販売を手がけたというこの会社、もともとは金象印が主たるブランドであるらしいが、絵本でもどこでも象はたいてい灰色に描かれるから、金属光沢を与えるならばやはり銀のほうがふさわしかろう。こんどは「銀の象」で検索したら、小さい象のシルバーアクセが山ほどヒットした。ピアスにイヤリング、ペンダントトップ、金や銅のものもあるが圧倒的に銀が多い。アクセサリにせよTシャツにせよ、文明生活になじんで久しい現代でも人間がいまだに幸運のトーテムとして動物の意匠を身につけたがるのは興味深いことだ。そしてどんな意匠のアクセであれ、いつの頃からかヤクザはゴールド、不良はシルバーと相場が決まっている。

ところで将棋の駒から人間の名称へいったん視点を転ずると、金が一番、銀は二番手という通念からすれば、これに「太郎・次郎」を当てはめれば当然のように「金太郎・銀次郎」が定番の命名法となる。まさかりかついだ金太郎に関しては贅言を要すまいが、落語その他にしばしば登場する金太郎ないし「金太」たちが押しなべてマッスルボーイ、あるいは一本気で裏表のない単純馬鹿と言って悪ければ竹を割ったような純情一辺倒な性格であるのに対し、「銀」を冠した名の人物たちはおおむね押しなべてヤサグレであって、大半が「銀次」ないし「銀次郎」である。「銀一郎」「銀太郎」はまず目にすることがない。全くないわけではなく、「銀 時代小説」で検索したところ色々出てきた中に珍しくも『錠前破り 銀太』なるシリーズ18 がヒットした。「銀太」という命名にはとりあえず「黄金の銀シャリ」と同様のひっかかりを覚えずにはいないが、この「銀太」なる主人公の本性が「錠前破り」であるらしいところは、伝統にそこそこ従っていて好ましい。「太」はともかくとして、「銀次」あるいは「お銀」という人物が出てきたら、少なくとも一昔前までの時代小説であれば男女を問わず十中八九スリかその類の小悪党であった。「郎」がついて「銀次郎」となるとこれは大店のヤサグレ若旦那で、ぞろりとした着物を着て店の金をくすねては毎日のように廓通い・芝居通いに明け暮れる。いずれもグレてはいるが根は悪い奴でなく、特に「お銀」はたいてい鉄火肌で、改心とまでは至らずとも大いに弱い者を助け、時に岡っ引きの手助けにもなる。ただし多くの場合、昔とった杵柄、雀百まで踊り忘れずの伝でもって持前の手癖の悪さを、これを最後に良いほうへ活用してお上のお役に立とうとして昔の仲間に斬られるとかだいたいろくでもない最期を迎える。なお、歴代「お銀」の中でも特筆すべき「お銀様」というのが中里介山『大菩薩峠』に登場するが、これについては、あまりにも黒々しいその反社会的光芒によってほとんど妖異と化している無類のありようへの敬称として「様」が付与されているのであろうと述べるに今は留めよう。基本的に「銀」は、世間様に対して斜め後ろに構えつつ何かしらやましいところのある人物に与えられる名なのであり、「太郎」という、お天道さまの下堂々と誰はばかることなく王道を歩む惣領のための名前とはどこか根本的に相容れないところがあるのだ。そういう、古来日本的なと言っていいのかどうかわからないが、脈々たる命名感覚のようなものを現代の時代小説やマンガはすでに失いつつあるのかもしれないところ、『銀魂19』の「銀さん」は、銀次か銀三か知らぬが極めて「銀」の命名伝統に忠実にのっとった造形であるのがまことに見事に古風である。

これに対し、同じジャンプ系の『ONE PIECE20』では、「海賊王」たる資格を持つ唯一の人物の名に「ゴールド」なる姓がついていることになっており、これにも当初から若干の違和感を覚えていた。海賊と黄金の取り合わせに別段奇妙なものはなく、海賊といえばキャプテン・キッド、キッドといえば黄金という連想はポオさえも『黄金虫』で遺憾なく活用しているところなのだが、他方、海賊少年文学とでもいうべきジャンルの最高峰のひとつであるスティーヴンスン『宝島』では、誰もが恐れる海賊の大親分は「シルバー船長」であって、片足の船乗りとしてネモ船長と双璧をなすこのキャプテン・シルバーの名こそが、少年がめざす「海賊王」にはふさわしいと思えてならないからである。しかしそれをいうならば、そもそもなぜ『宝島』の海賊王が「ゴールディ船長」でなく「シルバー船長」なのかをむしろ問うべきなのかもしれない。祝田秀全氏の『銀の世界史』(ちくま新書、2015)は、銀の採掘・集積→配分→再集積→再配分の回転が近代を準備し、駆動したという世界史のその一側面をたいへんヴィヴィッドに描き出してくれるが、いわゆる「新大陸」ペルー(現ボリビア)のポトシ銀山が開発され、大量の銀がヨーロッパへ流入するようになって以降、世界経済の流れが大きく変わったという話で、

なだれ込むと言われるほどの銀の本流。それはどの程度のものだったのか。ポトシ銀が大量に産したのは、水銀アマルガムの精錬技術が導入された1570年代からだ。これを境にポトシ銀がヨーロッパになだれ込むことになる。

かつてヨーロッパ社会に銀を供給していた南ドイツの銀算出量は、年平均30トン、この銀が、「商業ルネサンス」以来の経済や、北イタリアの東方貿易を支えていたのである。これに比べて新大陸銀の産出量は年平均200トン以上。南ドイツ銀のおよそ七倍だ。このレベルの量がヨーロッパに毎年入ってくるのだ。ポトシ銀の奔流と肩を並べられるのは、同じく200トン級の供給態勢をもつ日本だけである。21

最後の一文には、いちおう知ってはいても改めて驚くのだが、日本で国産の銀を精錬できるようになったのはちょうどこの16世紀後半であり、足利義政の時代にはまだ技術がなく、仮に銀箔が欲しくとも自前の銀資源はなお地中深くに埋まっていた。それが戦国時代になって大陸からようやく精錬法が伝わり、大規模銀山も発見されて、ジパングもまた黄金の国であるよりは銀の国としてこそ世界経済史の中である程度の役割を果たすに至った、あるいは否応なくそこに巻きこまれたので、武家の町であった江戸の基本通貨が金中心であったのに対し商業都市・大阪ではあくまでも銀が中心であったというのも、それでこそとうなずける話なのであった。200万トンを越える新大陸銀がスペインに滔々となだれ込みながらスペインを素通りして湯水のようにネーデルラントに流れ出てゆき、そこからまたインド洋を通って東アジアを巡って回遊魚のようにヨーロッパへ戻る。キャプテン・キッドが活躍したのはこうした全世界的銀本位制の時代であり、基盤となる新大陸銀は帆船によってはるばる大海を横切って運ばれた。各国はあの手この手で銀争奪に血眼になり、あろうことか国が後押しして私掠船なるものをして運搬途上の銀をまるごと強奪せしめもした――実はキッドもその一翼を担っていたともいわれる国家公認の海賊であるけれども、国立にせよ私立にせよ、カリブ海プランテーションのサトウキビ収穫に用いたカトラス(蛮刀)なる湾曲した刃物を振りかざして甲板狭しと大立ち回りをする海賊にふさわしいのは帆船であり、その帆船が運ぶ銀は世界を回り、プランテーション農場から無惨きわまる奴隷制度により産出され積み込まれた膨大もない量の砂糖は甘いミルクティ好みのイギリスへせっせと運ばれ銀のスプーンで掻き回される。銀の覇権はスペインからオランダ、イギリスへ時代を追って移ったが、やがて20世紀、日清戦争直前のころに世界全体が金本位制へ移行するまで、全世界的にメインの通貨は「「八レアル貨幣」(オーチョ・デ・ペソ ocho-de-peso、1レアルは銀3.24グラム)と呼ばれたスペインドル、つまり「メキシコ銀」だった22」という。

銀の延べ棒や武器は、まだフリントが埋めたところに埋まっているのだろう、とはいうものの、僕はどうなっているかは知らない。確かにそこにあるかどうかは、僕の知ったことではない。牛と荷馬車のロープで引かれようとも、僕はあののろわれた島へ二度と行こうとは思わない。そして僕がみる最悪の夢は、あの島の岸にうちよせる波の音を聞くときか、寝床からあのするどいフリント船長の鳴き声が耳に響いて飛び起きるときである。「八分銀貨! 八分銀貨!」23

『宝島』はキッドならぬ大海賊フリントが埋めた宝をめぐる冒険活劇物語だが、大団円で主人公の少年ジムが冷や汗かいて繰り返し想起する、シルバー船長愛顧のオウム「フリント船長」のかん高い鳴き癖は、上の訳では「八分銀貨」となっていて、英語原語はPiece of Eight、まさしくかつてグローバルな主要通貨だった八レアル銀貨のことである。スティーヴンスンは19世紀後半の人で、ちょうど時代が金本位制へと移行し、海運を担った帆船も徐々に蒸気船にとってかわられつつあったころに『宝島』は書かれたが、物語の設定はまさしく銀全盛の18世紀。子どものころ読んだ版ではオウムの声は「八銀貨!」なっており、何のことやらさっぱりわからないこの「はちぎんか」が、日本語の響きとしてもそのわけのわからなさとしても幼心には「するど」く響き、「耳に響いて飛び起きる」ジムの気持ちと、角度こそ違えどこそこ共鳴するものがあったので、「はちぶ・ぎんか」では理に落ちすぎるように思うのだが、one piece よりはpiece of eight のほうがはるかに、「海賊」の遠い時代を彷彿とさせることはいずれにしても確かで、七つの海を股にかける海賊の棟梁はぜひとも「シルバー船長」でなくてはならなかったし、古式ゆかしい海賊が滅びた後に彼らと共に埋め残されるのは「銀の延べ棒」でなくてはならなかったのだ。そしてこれは蛇足だが、トム・ソーヤーが憧れた海賊にせよ山賊にせよ、彼らはあくまでも逸脱者であるゆえに冒険好きの少年たちを惹きつけてやまないものだったのであり、それに対して海賊王ロジャーにシルバーでなくゴールドという名がおそらく何の気もなしに与えられているのは、彼とその末裔たちが、現代の多くの少年物語の登場人物たちがそうであるように歴史から完全に切り離されているがゆえにとどまらず、所詮その物語世界の中で逸脱者でも何でもなく、おおらかに王道を歩む者以外の何者でもない描かれかたをしていることときっとパラレルなのであろう。後ろ暗いこともやましいことも、彼らには何ひとつないのである。

「ねえ、銀次さん。雪の夜は……綺麗なんですね。今、初めてそう思いました。――銀次さん。銀次さんは、私を護ってくださいますか」

「――不肖、鷲峰組若頭代行松崎銀次。七生を以って御身御守護を――勤めさせていただきます」24

『BLACK LAGOON』は2001年に連載開始された当初、マンガにおける多言語の扱いかたという点でたいへん斬新なものがあって、今からみると2000年代初頭時点での妙に楽天的な多国籍感覚が興味深く感じられるのだが、インターナショナル・マフィア絡みのアクション・ストーリーの大半は日本ではない場所で展開される中、「Fujiyama Gangsta Paradise」と題されたエピソードは舞台が東京で、昔懐かしい任侠映画の定型にそのままのっとったような展開をする。物語は、「組」の存亡をめぐる闘争、事敗れた後「筋を通す」ためだけに敢行される復仇、決死の切り込み、一時は手を組んで戦ったライヴァルとの最後の決闘と、東映的な定型をなぞってひたすら進行し、これに華々しく登場する武闘派ヤクザ「松崎銀次」は、その「仁義」に殉じてエピソード終結とともにヒロイックな横死をとげる。ひとたび白鞘の刀を抜けば「近在の極道(やくざ)者やったら、残らず震える」猛者として知られる彼は「人斬り銀次」なるやけにベタな通り名を持つが、ヤサグレ極道でありながら可憐なほどに純情一徹、これと思い定めた恩愛の絆ひとつに命を張ってあえなく惨死をとげる彼のフラグは、しかしながら「人斬り」という以蔵含みの派手な異名のほうでなく「銀次」というそもそもの名のほうに立っている。最終的に彼を横死へと追いやる「仁義」への強い執着は、元組長の娘、その名に「雪」を冠する「お嬢」への忠誠、すなわち雪の反射の光芒へと収斂するのだ。この雪緒はもともと素直で善良かつピュアな普通の高校生だったのが運命の転変によって零細ヤクザ「鷲峰組」の組長となったのはよいが、ある種の昭和ピカレスクアクションにおいてしばしば見られたように、「女だてらの」襲名に気負い、みずからの資質に幻想を抱いて懸命に強面を演じ奔走するものの、結局は敵の言葉に翻弄されて、忠誠無比の男を図らずも死へと追いやる役回りである。

この、雪緒を翻弄する岡島緑朗なるヤサグレ元サラリーマンが実はこの作品全編を通しての主人公なのだが、通称をロックというその名乗りは明らかに手塚治虫スターシステムにおける悪の帝王「ロクロ―/ロック」への言及であると見えながら、こちらのロックはむしろ善意の人であり、いつまでたっても悪に徹しきらず、周囲の悪党どもの言動に彼自身が翻弄され続け、そのくせ修羅場が佳境になると天性の言語運用能力を発揮して決めぜりふを吐く。その一点において将来有望なリーダー格とみなされているふしがあり、手塚の元祖ロックを悪の帝王たらしめているのと同様の強力な教唆能力、言い換えれば口八丁手八丁の芸能を彼もまた持っているようであるのは確かだ。しかし少なくともこのエピソード時点では彼はいまだそのワザをさびさびと制御操作する域には至っていないし、鉄火場でさえ白カッターにネクタイのリーマンスタイルを捨てず、周囲から始終「ぼーっと生きてんじゃねえよ!」と尻を叩かれて右往左往する基本的にシンプルマインドな彼は、将来的に海賊王たる資質を秘めているとしても、この時点ではロックはロックでもなおロクローというよりはむしろ惣領の甚六、潜在的な「太郎」であるように見える。雪緒に対しても意図的に翻弄しようというよりは、久々に戻った日本で偶然に得た知己として厳しい忠言を与えようとするにすぎないのだが、遅きに失したその忠言は雪緒に今その時の具体的な行動指針を与え得ず、結果的に翻弄するだけのことになり、その行きつく先で、彼らはお互いの懐刀を決死の噛み合いへと送り出す仕儀となる。

「ここに君がいるのは、組のためなんかじゃない。君は、銀さんとともに逃げるべきだった」

「――……私たちは、生きるために、戦っているつもりです!」25

この言葉が、最後の決闘において銀次の「決死」の覚悟を鈍らせ、剣先を鈍らせ、一瞬の差による敗北を招くという段取りなのだが、興味深いのは、決闘の相手である二丁拳銃使い(トゥーハンド)のレヴィが、相棒のロックに向けるセリフである。

「お前の持つ弾丸はいったいなんだ? FMJ(フルメタルジャケット)? HP(ホローポイント)? それともGSS(グレーザーセフティスラッグ)か? 違うね。どこへ飛ぶかわからない銀の弾丸だ。そいつは無敵の化け物も葬ることができる、値の張る無敵の弾丸だ。だけど――使い時を間違えたら最後、化け物に食われることになる」26

銀の弾丸――このフレーズ自体は、ロックが鉄火場においてまさに自身の唯一の得物として放つ言葉、決めぜりふに宛てられており、実際、彼の発する饒舌な言葉による教唆の弾丸は、図らずも無敵の弾丸として『BLACK LAGOON』中何度となく最大かつ決定的な結果をもたらす。だがその弾丸を「銀」のそれとなすのは彼自身ではない。「私たちは、生きるために戦っているつもりです!」――銀次を直接に殺したこのセリフを吐いたのは結果的にロックではなく雪緒で、ロック自身は意図してこのセリフを引き出そうと言説戦略を練ったわけではなかった。あくまでも意図せざる無心の教唆、「ここに君がいるのは、組のためなんかじゃない。君は銀さんとともに逃げるべきだった」という苦い善意の裁断が、雪緒に当たって跳ね返り、上のセリフとなって過たず銀次を射た。太郎が放ち、月=雪が反射した光に貫かれて、銀次はまことにその名にふさわしい、やるせない鈍銀色のきらめきを束の間放って死んだのであった。

銀の弾丸がなぜ狼男やドラキュラなど「無敵の化け物」を倒せるのか、なぜ銀でなければならないのかについては、西洋文化史をちょっと紐解けばおそらく様々に考究されているだろう。だがやはりここでは、それはひとえに銀が含む「黒の成分」のせいなのだと考えたい。銀が普通に黒変するのは大気中の硫黄成分と容易に化合するからで、西洋の上流社会で銀のカトラリーが広く普及したのは、かつて暗殺の際によく使用された毒物である砒素化合物に硫黄が多く含まれるのでこれをすみやかに発見するためだったという。また銀は、イオンによる殺菌作用で水を長持ちさせる効能があることも認められている。つまり銀は、何か人間に害を及ぼすものに対する防衛作用を持つのであり、その証として黒く変色するのであり、化学も物理も現在ほど発展していない時代においてそれは、銀を魔的な力と結び付けるに十分な理由となっただろう。銀の持つ「黒の成分」は、後ろ暗い闇であるとともに、闇に抗する力でもあるのだ。この成分が弾丸となって妖魔の内奥へ注入されれば、妖魔自身が持つ黒と銀のそれが妖魔の内部で親和して、銀は自らとともに妖異をも「白光清浄なる」「誠に柔和なる」ものへ、しずしずとした月光のもとへ還帰せしめるに至るのかもしれない。夜に照る月星の光は、人が闇黒に相対するときに輝いて見える。あるいは、やがて来たるべき人生の夜に相対しようとするときに。

源吾は白く輝く天の川を眺めながら、

(銀漢とは天の川のことなのだろうが、頭に霜を置き、年齢を重ねた漢(おとこ)も銀漢かもしれんな)

と思っていた。いま慙愧の思いにとらわれている将監は、一人の銀漢ではあるまいか。そして、わしもまた、

――銀漢

だと源吾は思うのだった。27

2015年にドラマ化もされた葉室麟『銀漢の賦』は、江戸中期を舞台にした三人の男たちの友情物語ともいうべきもので、それぞれ上級武士・下級武士・農民と身分の異なる三人が子供のころに一緒に夜空の天の川を見る。いちばん教養のある上級武士の子の小弥太、のちの「将監」がそのとき蘇東坡の「中秋月」の一節を持ち出し吟じつつ、他の2人に意味を教える――夕焼けの残影もすっかり消えて清々しい夜気が訪れ、天の川は音もなく、玉のような月をころがしている云々と、そして漢文では天の川のことを「銀漢」というのだ、「漢」とは大きな河のことだと。それ以来三人の運命は千々に分れて時に敵対しながら年を重ねていくが、この蘇東坡の銀漢の賦が紐帯となって折々に三人の友情を結びなおす。原作ではそのゆくたてが淡々と描かれ、「銀漢」自体についてことさら触れられるのは上の引用箇所のみなのだが、ドラマでは、原作にないモチーフが加わる。天の川を見上げながら子供のひとり、確か「源吾」が「おれは銀漢になりたい」と言い出すのだ。それを受けて農民の子が「百姓は銀漢になれんのか。おれだって銀漢になりたい」……そして、「銀漢になる」というのが、全6回のドラマを通じて、人物たちの行動指針のようになる。明言はされないがどうやら、何らかのひとつの高い志(こころざし)を貫くために「命を使いきる」と「銀漢になれる」ということらしく、ドラマの最後には三人三様それぞれの志を果たすことができて、三人ともめでたく銀漢になったというふうに見える。してみると上の松崎銀次は結局、雪緒を守るという志を果たすことができなかったから、惜しくも銀漢になり損ねたということになるのか、あるいは、死と引き換えに銀漢になったということなのか、わからないがいずれにしてもこの「銀漢になる」というのは、いわゆる「きらきら夜空の星になる」というのとたいして変わらない余分なモチーフのようで、原作にある「頭に霜を置き、年齢を重ねた漢(おとこ)」、時に取返しのつかない「慙愧の思いにとらわれている」ような人間を「銀漢」と称するのとは全くその趣を異にする。頭に霜を置く、というのは通常、青春から遠く歩み進めてそろそろ人生の夜へ向かっている証しである。それゆえに、若白髪という形象は時に、若くして人生の夜の面に対峙していることの表象ともなる。ある時期からアニメやマンガでこの白髪のスティグマを負うキャラクターがたいそう増えた。松崎銀次はそうでないが、上の『銀魂』の「銀さん」しかり、『蟲師』の「ギンコ」しかり。ディスプレイ上のアニメでも紙面上のマンガでも彼らの髪は金属光沢を持たず単に白っぽい色をしているが、それでも「若白髪」とは誰も言わず、もっぱら「銀髪」と称する。

暮雲収盡溢清寒   暮雲収め盡して清寒溢れ

銀漢無声転玉盤   銀漢 声無く 玉盤を転ず

此生此夜不長好   此の生此の夜 長くは好からず

名月明年何處看   名月 明年 何れの處にてか看ん

(蘇軾「中秋月」)

2019.4.22

(氾文編集委員会+α)