機関誌『半文』

悪党研究-Ellroy & his Bad Fellows-

阿部 修登

第1回 「物想う柵」

私はアメリカの犯罪小説作家ジェイムズ・エルロイ氏の諸作品の研究を志している。だが困ったことに、何をすれば研究になるのかよくわかっていない。いきなり本丸に迫るのが間違っていたのかと思い、初期から近年に至るまで氏が作品の骨組として採用することの多かった「警察小説」というジャンルが如何なるものなのか、そのあたりから掘り下げてみることにした。だが困ったことに、読めども積めども一向に「警察小説」を「警察小説」たらしめる本質が掴めない。集団捜査? 科学的手法? プロファイリング? 確かに日々進化していく現実の警察の技術を小説に導入すれば、そこに立ち現れる「警察」が警察らしい専門性を帯びるのは間違いない。わざわざ「警察」と銘打つ以上警察に特化したディテールが盛り込まれるのは自然な成り行きである。とは言い条ディテールをいくら現実的にしようが、それはミステリという大ジャンルの内部で種種雑多な「探偵」たち(私立探偵、神父、学者、主婦等々)が各々の身分身上に応じて生じる制約の元、手を変え品を変え行ってきた謎解きの営為のヴァリエーションに過ぎないと思えなくもない。探偵役である主人公が「警察官」だから、彼が行う謎解きの方法も現実の警察を参考に、「推理」というより「捜査」と呼ぶ方が適切な体裁になりました、と。結局のところ警察の技術のみを立脚点として「警察小説」の本質を見出そうとする限り、「それ、今までやってきたこととなんか違うの?」「わざわざそれを「警察小説」と名付ける意味はあるの?」という大ミステリ沼から絶え間なく立ち昇る瘴気の如き問いかけに応える術がないのではないか。

私はウンウン唸っていた。いつまで経っても「警察小説」がわからない。いつまで経ってもエルロイに帰れない。気分転換に「警察小説」とは縁もゆかりもない本を読んでいたある日、ミステリ脳で物事を考えようとするから唸るしかないのではないか、より広くより遠く、「警察小説」に限らずあらゆる小説の中の「警察」たちの振る舞いから学ぶべきことがあるのではないか、と天啓が閃いた。多くの作者・読者がなんとなくぼんやりと共有しているであろう、テクニカルではない「警察」的な何か。疑問も引っかかりもなく読み進められるであろう「警察」的瞬間に躓くことから始めるのだ。このようなスタンスをとる限り最早何を読んでも参考になる。ビバ・終わらない読書人生の始まり始まりである。差し当たり今回取り上げるのはこの原稿を書く合間を縫って目下読書中のA・E・ヴァン・ヴォークト『イシャーの武器店』1だ 。帯には「7000年の未来、地球を支配するイシャー帝国と、対立する地下組織〈武器店〉が抗争していた。」とありなにやら壮大な物語らしいが、それはさておき。

イシャー帝国の片田舎グレイ村にある原子エンジン修理店店主ファーラ・クラークは妻と散歩をしていたある夜、「優良武器各種/武器を買う権利は自由になる権利2と記された看板を目にする。そう、「陛下の人民のいちばんりっぱな性質、健全さと優しさの代表みたいな」 3この村に突如「悪徳の店」4たる武器店が現れたのだ。郷土愛に溢れ、イネルダ帝の統べる帝国を心底敬愛するファーラはこの事態に冷静ではいられない。

妻の恐怖のおかげで、持ちまえの意地っぱりがむらむらと湧き上がってきた。「こんな醜怪なしろものに、この村を汚染させたままにしておけるか。考えてみろ――」そう思っただけでもいまいましく、彼の声は震えていた。「おれたちの村は、昔さながらのりっぱなところだ。女帝陛下献上の絵にあるままの姿にしておこうと、おれたちは昔からがんばってきた。それがこの……こいつのために、堕落させられ、めちゃめちゃにされようとしてるんだ。そうはさせない、絶対に――それだけのことだ」5

続く場面で遅れてこの場にやって来たメル・デイル村長と駐在のジョア巡査に対して、ファーラが何を言うかは特に想像しなくてもわかるだろう。

ファーラは急いで村長のそばに寄り、ていねいに帽子に手をふれると、たずねた。「ジョアはどこです?」

「ここだよ」村の駐在のジョア巡査が、小さな人だかりをかき分けて出てきた。「なにか案があるかね?」

「案はひとつだ」ファーラは勇をふるって言う。「踏みこんで、逮捕してしまえ」

村長と巡査は、たがいに顔を見合わせていたが、やがて地面に視線を落としてしまった。6

ようやく「警察」が登場した。なんということはないこの場面において着目すべき点が二つあるように思える。一つは村人ファーラが「警察」ジョア巡査に期待する行動とその副産物である。「踏みこんで、逮捕してしまえ」とはまた直情にもほどがあるが、ここで彼に期待されている行動とは共同体(グレイ村)内部に入り込んだ異物(武器店)の除去である。およそ現実の警察は市や街といった特定の地域・自治体に密着した組織である7。それは小説中に現れる「警察」にもあてはまる。ジョア巡査のような「駐在」という立場であれば尚更だろう。「警察」はこうした要望を受け、それに応えることもあれば応えない、応えられないこともあるだろうが、結果として出張ってきた彼らの存在それ自体が共同体の内と外を隔てる境界線となっていることを把握しておきたい。そして二つ目、「やがて地面に視線を落としてしまった」とある箇所に感じられる、露骨に嫌がっているわけではないにせよ決して乗り気でもない、という妙に情緒的な反応も忘れてはならない。公僕でありながらも公人としての外面を張りきれないあるいは張ろうともしないゆるさがこの動作に滲み出てはいないか。

この二点から抽出される「警察」の性質を本稿では「物想う柵」と呼ぶことにする。柵はそれを敷こうとする何者かによって外から中への侵入を阻む役割を担わされる。そういう意味では犯行現場に張られる”KEEP OUT”のテープと同じ役割が期待されているわけだが、この柵はただの柵ではない。人力の、物想う柵である。ゆえに「地面に視線を落と」すという振る舞いによって、「面倒くさい、勘弁してほしい」という想いが表立って現れてしまう。彼らが外威の侵入を阻止できないのは必然である。「警察」=なんかダメな奴らといったステレオタイプの一端はこのようなところに因があるのだろう。しかし見方を変えれば、彼らはうまく柵でいられないことによって物語の展開に一役買っているとも言えるわけなので、望まずして道化になるしかないそのあり方に私としてはいささか感慨を覚えないわけではない。

今回取り上げた『イシャーの武器店』に限らず、物想う柵としての「警察」に望まれる役割は往々にして上に書いた通り「外から中への侵入を阻む」こと=”KEEP OUT”である。ここには柵の、ではなくそれを張ろうとする者の意志が反映されている。柵はあくまで境界線上に屹立するだけ、というより屹立するその地点があちらとこちらとを隔てる境界線になるというだけのものである。柵に”KEEP OUT”を期待する者は、この命令文を受け取る対象を外=”OUT”に設定することによって、この命令文を柵に言わせた自らの立ち位置を中=”IN”にする。このときこの命令文を言わせられた柵=「警察」が両者に挟まれて何らかしら含むものがある態度をとっている。「警察」を出張らせる時、外向きの圧力として要請されたはずの彼らは確かに外と中の明確な峻別には寄与するものの、物想うあまりその期待に応えることはなく、むしろどっちつかずの第三項となって外と中の緊張関係を弛緩させ、三つ巴のほげたらしき事態を出来させてしまうのであった。

今回取り上げた『イシャーの武器店』は柵を張ろうとした者が中にいる作品だった。ではその何者かが外にいたらどうなるであろうか。中から外に出さないために柵を張ろうとしたら? ということで次回は”KEEP IN”について書かれた書物を取り扱うことにする。

2018.4.18

第2回 「ガミガミさん」の系譜(ネタバレ有)

*前回の予告と内容が異なります。

偶然乗った列車のなかで殺人事件が起こる。現実の世界では滅多に出くわすこともなさそうな出来事も、ミステリ・犯罪小説界隈ではとりたてて珍しいことではない。所謂「密室物」のヴァリエーションとしての「乗物物」のなかで最も有名な作品といえば、雪のなかで立ち往生してしまった寝台特急に「偶然」1乗り合わせた男女十数人の乗客=容疑者を私立探偵エルキュール・ポアロがとぼけた調子で尋問する様子が微笑ましいAgatha Christie 著"Murder On The Orient Express"(1934)2をおいて他にあるまい。事件3の捜査を依頼されたポアロが4番目に事情聴取を行ったアメリカ人ミセズ・ハバードの話しぶりをみるところから本稿を始める。

食堂車にあらわれたミセズ・ハバードは息もつけないほどの興奮ぶりで、ろくに口もきけないほどであった。

「まずこれから教えてくださいな。ここでの責任者はどなたですの? わたし、とっても重要なことを知ってますの、とっても重要なことを。だから責任者の方にはやくそのことを話したいんですよ。もしあなた方が――」4

探偵なり警察なりに対し事件に関する何らかの情報をもたらす者のなかでも、とりわけ率先してそのような行動をとる者を私は「インフォーマント(情報提供者)」と呼んでいる。彼らは「自白マニア」「情報屋」等いくつかに類型化できるのだが、ポアロがせきとめなければ紙片の尽きるまでとめどなく話し続けそうなこのご婦人はそのうちの一つに見事に合致する振舞いをしているように見える。当面そのタイプを「ガミガミさん」と呼んでおく。このタイプの主だった特徴は以下のようにまとめられよう。

誰しも一度はこのような特徴を持つ登場人物を見たことがあるのではないだろうか。ここまでコテコテな所作振舞いとなると今日なかなかお目にかかれるものではないが、この作品ではミセズ・ハバードのこうした振舞いがポアロの捜査をミスリードするために仕組まれたものだったとの理由付けがなされている。演技であることを喝破されたハバート役の女優リンダ・アーデンは次のように述懐する。

すると、この汽車の旅のあいだじゅう使っていたのとは似ても似つかない、やわらかい、ゆたかな、夢みるような声でミセズ・ハバートが言った。

「わたくし、昔から一度喜劇をやってみたいと思っていましたのよ」9 10

作中に現れるあらゆる要素がキレイに謎解きの要素となっているあたり、流石は古典ミステリの名著と唸らされることしきりだが、ここで指摘しておきたいのは本書が発表された1934年の時点において彼女の演じた「ガミガミさん」的な振舞いが決して新奇なものとして提示されているわけではないという点である。捜査のミスリードを誘ううえで、挙動不審だったり突けば埃の出るようなボロい態度をとろうものならその態度自体が捜査の糸口になりかねない。あくまでも自然に、煙たがられようとも目を付けられることなく一々小うるさく口出ししてきても不審がられない人物でなければならなかない。そう考えれば「ガミガミさん」というペルソナが最適解であることも、その演技がコテコテであればあるほど功を奏することも頷けるだろう。「一人で外国旅行をする富裕なアメリカ人女性」という背景設定も悪くない。ミセズ・ハバートは、アメリカで常識的にできることが外国だとできない・通用しない、のを理由に怒りを表明することが多い。現在からすれば「アメリカ人」という属性が「ガミガミさん」であるための必須条件とは言えないが、古めのミステリなどを読むと「アメリカ人」に「ガミガミさん」と近しい性格付けがなされていることが往々にあり、この作品発表当時あるいはそれ以前の欧州諸国(とりわけイギリス)人がアメリカニズムを引っさげて海の向こうの新興大国からやって来た人々に抱いていた典型像にそういう傾向があったのだろうと思われる11。リンダ・アーデン女史の言う「喜劇(原文は”comedy”)」がどういう意味合いを持つのかはさておき、関係者が全員謎を成立させるために何らかの役を自主的に演じているという点において、計画的に仕組まれたこの殺人事件を「劇」と呼べるとするならば、彼女扮する「ガミガミさん」が捜査を引っ掻き回すトリックスターあるいはトラブルメーカーとして十全にその役を果たしていることは一読すれば明瞭に理解できるだろう12

この作品からおよそ20年後の1956年。ところ変わってアメリカにて、後に警察小説の祖型とみなされるようになる一冊の書物が刊行された。「警官」ばかりを狙った連続殺人事件が目下進行中の東海岸の架空都市アイソラ市を舞台に、これを捜査するアイソラ市警87分署所属の二級刑事ステーヴ・キャレラと仲間たちの活躍を綴った本書Ed McBain著“Cop Hater”13にも、上に見てきたミセズ・ハバートと同じく「ガミガミさん」の血脈に連なると思しき人物、オリサ・ベイリー女史が登場する。事件の捜査員に話がある、といって87分署へやってきた彼女は引き合わされたキャレラに通り一遍の挨拶を交わすと「でも、英語は話せるのね?」14「アメリカ人の警官のほうがいいと思ったんでね」15と宣い、これは「ガミガミ」しそうだと予感させるにたる振舞いをする。「あの警官を誰が殺したのか、わたしは知ってるんですよ」16そう仄めかすに至り、予感は確信に変わる。俄然スイッチの入った彼女が情報を提供する話し振り、内容はまさしく「ガミガミさん」のそれである。

「法の守護者さえ片づければ、後は簡単ですからね。向うの計画はそうなんですよ。第一が警察、次が国境警備隊、それから正規の軍隊ですよ」

 キャレラはけげんな顔でミス・ベイリーをながめた。

「やつらはわたしに連絡を送ってよこすんですよ。なぜか知らないけど、わたしも向うの一味だと思ってるんですよ。壁から抜け出してきて、わたしに伝言していくんです」

「誰が壁から抜け出てくるんです?」キャレラは訊ねた。

「ゴキブリ人ですよ。だからわたし、この隅に虫はいないかと聞いたんですよ」

「ほう、ゴキブリ人ね」

(中略)

「あの連中は核熱無線で話すんですよ。きっとよその星から来たんだと思いますけど、そう思いませんか?」

「そうかもしれませんね」キャレラは応えた。

(中略)

「止める方法は一つしかないんですよ」彼女はいった。

「それは何です?」

 ミス・ベイリーは口をへの字につぐんだ。「踏みつぶしてやるんですよ!」そういうと彼女は、くるりとふり返って庶務の部屋の前を抜け、階段を降りていった。17

彼女のように異星人や地底人あるいは秘密結社など余人からすると妄想上の存在としか思えない誰かor何かに「連絡を送ってよこ」された結果情報提供に走るタイプを「電波系ガミガミさん」とここでは呼んでおく18。インフォーマントであるにもかかわらず空回りする善意19によって適切な情報を提供できず捜査を撹乱するものとして現れる点において、彼女もミセズ・ハバートの同類とみなせるだろう。しかし両者の現れには決定的な相違がある。ベイリー女史にとって残念なことに本作は「ゴキブリ人」が暗躍する類の世界で展開する物語ではなく、彼女は自らにとってのみ有効な真実を吐露するだけ吐露し退場するのだが、ここで開陳された「ゴキブリ人」=犯人説は捜査の進展に全く寄与しないどころか邦訳文庫5頁ほどの長さのこの挿話がその後キャレラに顧みられることもない。面会が終わってから「これで相手は、この繁栄した大都会のあと九百九十九万九千人ということになったな」20と冗談めかして述懐されもしなければ、彼女が啖呵を切って颯爽と「階段を降りていった」あと一行の空白を挟み、怪我をした同僚をキャレラが見舞う場面に唐突に切り替わってもそこで話のネタになることもない。もちろん彼女の言動・振舞いが事件解決のヒントになることも実は「ゴキブリ人」が犯人だったという驚愕の落ちもない。彼女は本当に、完全に前後の流れから絶縁しているのだ。

ハバート=アーデンとベイリー、ともに古い歴史をもつ「ガミガミさん」の族でありながら両者にこのような差が生まれてしまうのは一体どうしたことなのか。当の本人たちに明確な原因を見いだせないのであれば、彼女たちを包摂する環境の違いに目を向けるべきだろう。といってもそれは「オリエント急行(密室)」と「アイソラ市(街)」といった作品ごとの舞台設定もさることながら、「ミステリ」と「警察小説」とのジャンルの違いに根ざしているように思える。そのように考えるに至ったきっかけの一つに、彼女たちが言いそうで言わなかったとある言葉がある。果たしてどこで目に耳にしたのかもはや思い出すこともできない定型句、「市民の義務」21がそれだ。「ガミガミさん」を駆り立てる「義務感」とその拠り所となる「市民」というステータスが警察小説に何をもたらしたのか、”Cop Hater”において語られた「警官=人間」宣言と絡めて次回詳らかにする所存である。

2018.6.10

第3回 Paraphrase his body !故リアダンの彼のみ与り知らぬ転身

マイク・リアダンが死んだ。

ある年の7月24日深夜のこと、眠る妻子を家に残し職場に向かう途上にあった彼を凶弾が襲う。

十一時四十一分。マイク・リアダンが勤め先の三丁ばかり手前に来ると、弾丸が二発、その後頭部にとびこんで、顔の半分を吹き飛ばして前に抜けた。彼が感じたのは衝撃と、耐えられないほどの急激な痛みだけで、そこで、かすかに銃声を聞いたような気がして、頭のなかがまっ暗になり、彼は舗道に崩れ折れてしまった。

地面に倒れる前に彼は死んでいた。1

妙に生理的な記述である。触覚、痛覚、聴覚を備え「崩れ折れ」るまでは地面に立っていられる体をもち、「弾丸」「二発」で「顔の半分」が「吹き飛ば」されるサイズの「頭」にはその「なかがまっ暗に」なったことを意識する知性を有し、「彼」と示される以上恐らく雄性体と見なして差し支えなく、そして死にうる者だったマイク・リアダン。彼は一体何者なのか。すぐ次にこう続く。

この市のまっとうな市民であった彼が、いま撃ちくだかれた頭から血を吹き、あたりにねばねばした赤いしみを拡げて倒れている。

十一時五十六分、この市の別の住人がそれを発見し、警察に電話しにいった。公衆電話のボックスに走っていったその市民と、コンクリートの路上に崩れ折れて死んでいるマイク・リアダンという市民とは違ったところはごく僅かしかない。

ただ一つ違うだけだった。

マイク・リアダンは警官だったのである。2

曰く、「市民 a citizen」である。この言葉には「都市の構成員」と「国政に関与する権利を有する人」という二つの意味があり、上にあげた箇所では「この市の of the city」3と修飾される通り彼が前者の意味における「市民」であることが述べられている。ここでまず興味深いのは「地面に倒れる前に彼は死んでいた」と述べられた次の文に「この市のまっとうな市民であった彼が(後略)」と続く文章の前後関係である。原文は以下のようになっている。

He was dead before he struck the ground.

He had been a citizen of the city, and now his blood poured from his broken face and spread around him in a sticky red smear.4

“He was dead”と語られたそのときまで「市民」だった彼が、過去完了を用いて語られる第二文(“He had been a citizen,”)によって、物語の現在(“now”)時点すなわち死亡直後からもう「市民」ではなくなったと述べられているのである。これは日常会話において「実は○○で~」と語られるときのようなよくある情報の後出しであり、つい先ほど死亡し道端に横たわる妻子持ちのその男は実は「市民」だった(今はそうではない)、と彼のステータスが後出しで開示されたわけだが、しかしこの場面に至るまで開示されなかった情報がなぜこのタイミングで明かされているのだろう。言い換えればなぜ彼は死後「市民」権を剥奪されるに至ったのか。そこには彼のもう一つの身分というか職業が関わっているらしいのだが、先取りせず語りの順序通りにもう少し読み進めてみる。

続く段落では、名前を持ち作中最初の死者であるcelebrityのリアダンと彼の死体を発見した無名のモブとが「違ったところはごく僅かしかない There was very little difference between(…)」と語られる。そんなはずがあるか。ミステリを読む際、少なくとも本稿筆者は各々の登場人物が事件あるいは謎の核心に対してどの程度の距離にいるのか常に思い浮かべてしまうものだが、そのとき暗に前提とされる登場人物間に存在するヒエラルキー5の如き何かが、ここではないもとして扱われているらしい。しかし死後「市民」権を剥奪されたリアダンを尻目に、無名氏は出端から「この市の別の住人」という具合に「市民」認定が下されており、平等であるかのように語られる両者の間にも「市民」であるか否かを基準とした何らかの線引きがあることが窺える。では故「市民」リアダンと生え抜き「市民」無名氏とを分かつところの「ただ一つExcept one」とは一体何か。

曰く、「警官 a cop」である。本連載第1回で非常にベタな「警察」の現れ方の一例として『イシャーの武器店』のジョア巡査を取り上げた際に「現実の警察は市や街といった特定の地域・自治体に密着した組織である。それは小説中に現れる「警察」にもあてはまる」6と述べたが、本作では「密着」の意味あいが一段階進み、「警察」の構成員である「警官」自体もまた彼が帰属する「地域・自治体」の構成員すなわち「市民」であると示されている。だがここでもやはり時制に留意する必要がある。件の箇所は原文だと以下の通りに記述されている。

Mike Reardon was a cop.7

先にも述べた通り地の文の過去時制は物語の現在を示している。無名氏と「ただ一つ違うだけだった」とわざわざ強調される点が現在「警官」であるという事実から察するに、どうやらここアイソラ市において「市民」間の平等が唯一適用されないステータスが「警官」であり、潜在的に「市民」でありかつ「警官」である、あるいは公的にそのどちらかであることはできても、どちらでもあることが公になると理由は不明ながらリアダンのように死ぬしかないらしい。このような価値判断からは、少なくともこの時点において「市民」の標榜する平等があくまで上記のヒエラルキー内の序列の無化を企図したものであり、「警官」をアウトカーストにおく点は従来と何ら変わりないことがわかる。だがこの一件が後に「警官」のみを狙った連続殺人事件へと発展するに及び、「市民」側のアプローチがヒエラルキー外にまで手を伸ばさんばかりの様相を呈する。つまり、命を代価に「警官」の集合=「警察」を「市民」の平等の中に組み込まんとする、「市民」原理主義に基づく暴力革命的ムーブメントの擡頭である。してみればリアダンはこの原理主義貫徹のための礎となったのであり、冒頭で触れた「妙に生理的な記述」の段落ではリアダンに振るわれた暴力の威力を世に知らしめるための検体=ボディ・チェックが行われていたのだと思しい8

もちろんこうした状況に「警察」側も黙ってはいない。リアダンの直属の上司にしてアイソラ市警87分署の「親父」ことバーンズ警部9はリアダンが死んで一人少なくなった刑事部屋の面々を前に「すぐとび出して犯人をさがせ」10と発破をかけつつ捜査の心構えを説く。

「みんなも新聞を見て、もし記事を信じるようになれば、警官が警官殺しの犯人を憎むということがどういうことか分かるようになるだろう。それでは、ジャングルの掟と同じことになってしまうんだ。強食弱肉(引用ママ)の法だ。この殺しに何か復讐といった動機をこじつけることができると、新聞の野次はうるさくなるぞ。われわれが警官殺しを許せんというのは、警官が法と秩序のシンボルだからなんだ。このシンボルがなくなったら、街は野獣の巷と化してしまう。街の野獣はもうたくさんだ。」11

バーンズは「警官」に対する「復讐」の線で捜査を進めるな、とまず一同を諫める。リアダンは「市民」原理主義が遍く行き渡るための贄となったのであり「復讐」などでは断じてあり得ない。とはいえ文明社会において殺しが御法度である以上、いやしくも「法と秩序のシンボル」を名乗る「警察」としては「犯人」を探し出す責務がある。それこそが彼らのレゾンデートルなのだから。だが続けてバーンズが述べる発言は、どうも様子がおかしい。

そこで、おれはどうしてもリアダン殺しの犯人をみんなにさがしだしてもらいたいが、これはなにも、リアダンがここの分署の刑事だったからでもないし、リアダンがいい刑事だったからでもない。その悪党をひっとらえてもらいたいというのは、リアダンが人間だったからだ――しかも、おそろしくいい人間だったからなんだ。12

やれ「犬」だ「猪」だはたまた「柵」13だと非人間的に例えられてきた「警察」が殺された同胞の身上を述べるに際して「人間」を選択するのは一見もっともなことのように思えるが、公僕たるものここは流れに乗って「市民」と言っておくのが当たり障りのない態度ではないのか。だが彼はリアダンを「人間」と呼んだのだ。寧ろこの語彙選択に私はバーンズの強かな覚悟を感じる。原文はこのようになっている。

I want you to find that bastard because Reardon was a man―and a damned fine man.14

この微妙な、しかし看過するにはあまりに画然としたすれ違いが奈辺に由来するのか。それを考えるには再びリアダンの死に遡るのが肝要だろう。

「警察」にとってリアダンが如何なる存在なのかといえば、それは自分たちが捜査する事件の被害者である。ミステリの大半の作品において被害者は、その個人もしくは集団と犯人との関係性が事件の性質を左右するという意味で、先ほどのヒエラルキーでいえば犯人と並び最上位に君臨する特権的な存在である。捜査の初期段階は現場検証と事情聴取によってこの被害者が事件発生直前までどのような行動をしていたのか、その足取りを再現し犯人との接点を明らかにすることに費やされる。この所謂初動調査において死亡した被害者だけが享受できるサービスが存在する。検死および司法解剖である。皮膚・筋肉の状態や胃の内容物の消化状況から死後どれほどの時間が経過しているか計られ、血液からは健康状態や薬物反応を調べられ、腑分けの最中に検死医から綺麗な腎臓ですねえ等と冗談を言わることすらある。ここまで詳細に血肉を備えた者として扱われる存在は他にない。

ところで、現代において「市民」と「人間」とは実際のところかなり意味領域の被った言葉だと思われるが、生物というニュアンスを含意するか否かは一つ明確に異なる点だろう。文学的存在であるすべての登場人物はどちらの言葉で呼ばれようと厳密な意味で生物であるわけではないものの、死者は検死という公的な場で「犬」や「猪」といった“animals”でも生物ですらない「柵」でも電波塗れの妄想の中にしか生息しない「ゴキブリ人」15でもない、「人間」であることが確認される唯一の存在といえる。そして横たわる人物を死者と認定することで特権性を付与し、検死解剖によってその人物が「人間」であることを公認する権能をもつ者こそ、検死医を抱き込んだ公僕すなわち「警察」に他ならない。バーンズはリアダンをすなわち死者を「人間」と呼ぶことによって、古式ゆかしきヒエラルキーの維持存立を計ろうとしているのではないだろうか。ここに「市民」の側からの理不尽な扱いに対して別の価値観を以てして自らの身を立てんとするバーンズの意図を汲み取ってしまうのはやりすぎかもしれないにせよ、微細な言い換えによって結果として「市民」に対抗するカウンターの表明がなされているのは事実である。

階級制度の根源的破壊すなわち暴力革命により「警察」を原理主義に則って組み敷こうとする「市民」勢力と、それに対抗して「人間」宣言を発し死者特権を行使してヒエラルキーを維持しようとする「警察」勢力とが、一人の「警官」の死体を巡って解釈論争を繰り広げる。「警察小説」の祖とされる“Cop Hater”の冒頭ではこのような骨肉の争いがおこっていた。両者のどちらが勝利を収めたのか、私にはにわかに判別がつかない。ただ本書が、バーンズに「敬服」する本シリーズの主人公スティーヴ・キャレラ二級刑事とアイソラ市の一「市民」テディ・フランクリンとの晴れ晴れしい結婚シーンを以て幕引きを迎えることは述べておこう。勢力争いを繰り広げる二者が姻戚関係を結び和平をはかるなどありふれているにも程があるにせよ。

最後に事件の顛末に触れておく。この一件は第三の被害者ハンク・ブッシュの妻アリスが、「どこからどこまできらい」16だが別れたくても別れられなかった夫を殺すにあたり、木を隠すなら森的発想に立ち適当な男を色香で操って本命を含む複数の「警官」を殺させたという、蓋を開けてみれば規模はさておき「どこからどこまで」もありきたりな情痴殺人だった。「市民」の原理、「警察」の覚悟、「犯人」の動機、そのどこにも彼でなければならない必然性など一片たりとて存在しないにもかかわらず、三者三様に体よく使われた故マイク・リアダン。彼を弔うために草されたはずのこの一文もまた死体蹴りに加担することでしかそれを果たせないことに忸怩たる思いを抱きつつ稿を閉じる。

2018.8.12

第4回 テクニックよ、さらば(ネタバレ有)

今回のテーマは「分業」である。前号では『警官嫌い』冒頭で開戦の狼煙が上げられた「市民」と「警察」の勢力争いを観察した。「市民」or Dieを迫る理不尽な圧力に抗する形で87分署刑事部屋の親父ことバーンズ警部は「人間」なる概念を持ちだして、とここまでが復習。どうもこの「人間」の表出を外圧のみに帰するのは無理があったかもしれないと最近思い当たった。きっかけは『警官嫌い』の主人公スティーヴ・キャレラ二級刑事の足跡を緻密に辿る作業を1行った際、クライマックスにおける連続殺人事件実行犯の現行犯逮捕を除き、捜査の進展に一切寄与できない彼のあまりの無能さに愕然としたことだった。彼は主に容疑者や被害者の親類縁者への聞き取りを担当し精力的にアイソラ市内を歩き回る。だが誇張でも何でもなく、本当に何一つ犯人に繋がる証言を得られない。足で稼げないなら頭脳で勝負するのかと思いきや、推理(というか思いつき)を披露する場面でもどこかピントを外している。いやしくも”Detective”を拝命する身としてはあまりにもお粗末なのである。単にキャレラが度を越したポンコツなのだろうと、そう捉えてこれまでものを書いてきたのだが、ふと以下の記述に目がとまり考えを改めた方が良いのかもしれないと思い至った。三番目の被害者ハンク・ブッシュが殺される直前に犯人と取っ組み合いになり、その際摂取した犯人の体組織や現場の状況から「鑑識技師 a lab technician」のサム・グロスマン警部2が犯人像を組み上げるのをキャレラが聞く場面である。

「ええ。それで、綜合して何が分ります?」

「かなり分るよ」グロスマンは机の上から報告書をとりあげた。「ハンクの残してくれた手がかりを綜合して、これだけのことははっきりしている」

グロスマンは咳ばらいして読みはじめた。

「犯人は男。まあ五十以上にはなってない成人の白人だ。職業は機械工で、おそらくかなり高給をとる相当な熟練工だ。色浅黒く脂性で、ひげが濃いのをタルカム・パウダーでかくそうとしている。髪は濃い茶で、過去二日以内に、散髪をしてアイロンをかけているね。動作は敏捷で、従って肥りすぎてる男ではなさそうだといえる。髪の毛から判断して、体重は百八十ポンドぐらいなはずだ。怪我をしているが、おそらく腰から上だろう。それもただのかすり傷ではない」

「一つ詳しく説明してください」キャレラがいささかあっけにとられていった。科研の連中がボロや骨片、一つかみの毛髪でこういうことをやってみせると、キャレラはいつもびっくりする。3

「綜合4」ときた。”Detective”すなわち「刑事」であり「探偵」であるはずの主人公キャレラが、上官相当の鑑識技師から証拠の読み方を実演され「あっけにとられて」いるのだ。あまつさえ「いつもびっくりする」とダメ押しまではいる始末である。ここを抜き出しただけではキャレラのポンコツ加減の実例としか読みようがなく(それはそれで事実だが)、この場面のおかしさ、いや愚かしさがわからないかもしれない。しかし往年の名Detectiveたちがこうした場面に立ち会ったらどうだったろうと想像してみてほしい。私立探偵であるホームズもポアロも、「警官」であるメグレもフレンチも、グロスマンがキャレラに言い聞かせた程度のことは自前でやってのけたのではないか。ここが勘所である。警察小説最初の「刑事」と後世見なされるようになったキャレラは、先人たちがDetectiveである以上必然的に備えていたであろうある技能を、組織内分業の名の下に”Detective”=「刑事」ならざる者、この場合は”technician”=「技師」へと極端に明け渡した結果、無能になるしかなくなったのだ。そしてここでいう「ある技能」こそ、集められた証拠なり証言なりを分析し謎の解明へと至るロジックに筋道を立てる能力、すなわち「綜合」能力であり、かつそれを誰かへ語り明かすテリングの技術である5 。この場面にどこかしら既視感を覚えるとすれば、在りし日ホームズがワトソンやレストレイドの、ヴァンスがマーカムやヒースの、ポアロがヘイスティングズの、平次がガラッ八の、世界の至る所で並び立つ者なき知識と頭脳を持った探偵たちが彼らに到底及ばぬ引き立て役のお供の前で実演してみせた見せ場が、語る者と聞く者の関係性を反転させて再演されているからに他ならない。かつて一人の人格に統合されていた探偵必須能力が分割され、その重要な一角をなす「綜合」とテリングの技能を失ったキャレラはまさにそれを割譲されたグロスマンの業前を「あっけにとられて」見守るしかないのだ。「グロスマン、まったくあなたという人は」そんなキャレラの心の声が聞こえてこないか。本作のどこにもこのような発言は記されていないが、そう述べたとしても奇異に思われない立場に彼はいる。Detectiveから日本語で言うところの「探偵」の素養を間引かれた”Detective”、キャレラが図らずも体現してしまった警察小説最初の「刑事」とは畢竟そのようなものであった。

作中二度ほどだが、捜査の渦中にキャレラがこの技能を発揮しようとする場面もあるにはある。しかし「探偵」能力の喪失ゆえか、思わぬ弊害が現れる。世のDetective達がテリングを効果的に魅せるために用いた振る舞いの一つに「焦らし」というものがある。捜査の合間に、他の誰もが見落とした何かを掴んだかのようなことを「ふむふむ」と仄めかしつつ、「今はまだ語るときではない」とばかりに思わせぶりな態度を取り相対する者をやきもきさせるいやらしい振る舞いを目にしたことがあるだろうか。今敢えて語らないことが後に発揮される濃厚なテリングの布石となる、これはそういった技だ。加えて、何か知っている、と相手に思わせるだけで、相手が味方であろうと敵であろうとアドバンテージの確保にも繋がれば、迂闊な一言を呼び起こし相手から情報を引き出す手段にもなる高度な駆け引きの技術である。先人に倣ってかキャレラがテリングらしき行為に及ぶ際もこの「焦らし」が用いられるものの、これがどうにもきまらない。最初は第三の被害者ブッシュの妻アリスに近頃変わったことはなかったか事情聴取をする場面だ。わかっている範囲の捜査状況をキャレラから聞いたアリスは当然「これから打つ手は?」と訊ねる。問われたキャレラは「ほんの思いつき程度」と仄めかしつつ「こんなことを聞いても、退屈ですよ」「しかし、自分でもはっきりしていない当てずっぽう、しゃべったりしたくないんで」と、捜査官としてみたら誠実ともとれなくはない態度で焦らすのだが、彼は自らの態度を貫徹できない。「わたしも二、三考えたことがあるんです」「警官に恨みを持ってる人間ではないかしら?」と逆に自説を展開し始めたアリスに「あなたはいま、どう考えてるんですの?」と水を向けられた途端、

「警官を憎んでる気違いかもしれない。リアダンとフォスターの場合は、たしかにそういう手合いだったかもしれない。しかしハンクは……分かりませんな」

と、慎重にではあるが些か軽率に返答してしまう。後はもうお察しの通りである。「お話しがよく分からないわ」「それで?」「ほかには?」「何です?」と促されるまま、捜査の無駄骨話を交えながら訥々と「犯人はあの三人が警官だということを、どうして知ったんでしょう?」「では、刑事と警官をどうして見分けることができたのか?」と、結局言葉通り「思いつき」以上の何物でもないものを口にして、いや、させられてしまう。強い酒を出し足を組みながら話を聞くアリスのコテコテなファム・ファタルの立ち振る舞い6に手玉に取られ難なく陥落するキャレラだった。チョロい、あまりにチョロい。出し惜しみする以前にそもそも「綜合」するほどの情報を持ち合わせず何もわかっていないことを逆にあっさり暴かれてしまう、しゃべらされてしまう。木乃伊取りが木乃伊に、”Detective”がインフォーマントに成り下がっているのが確認できるだろう。ここでも先に見た場面と同様、探偵と相対者の関係が反転しているのだ。7

この場面はまだしも相手が一枚上手だったと解釈のしようもあるが、第二の場面ははっきり言って理解不能である。上記場面の少しあと、この事件の取材を名目に近寄ってきた「新聞記者 a reporter」サヴィジなる人物(この場面以前にバーンズとの間で一悶着おこし接触禁止とされていた)の申し出にキャレラは応じてしまうのだが、それに至るやり取りがおかしい。手を変え品を変え話を聞き出そうとするサヴィジに対し「何か訴えごとなら、当直警部補にいってください。わたしは家へ帰るところだから」「(前略)駆け出し記者のお相手までする義務はないんだよ」と、キャレラは先ほどとは打って変わって毅然とした態度をとる。そう、それでいい。”Detective”たる者、たとえ「思いつき」程度のことであってもみだりに口にすべきではない。しかし邦訳文庫3頁分ほどのやり取りを経て、今度こそあしらいきるかと思わせたのも束の間、

「(前略)だが、それ以外に犯人について何が分かってる? なぜあんなことをしたのか、分かっているだろうか?」

「うちまでついてくるつもりか?」

「一杯おごろう」サヴィジはいった。返事はどうだというように、キャレラの顔を見る。キャレラは考えてみた。

「ようし」キャレラはいった。

(中略)

二人は握手した。「どうぞよろしく。じゃあ、一杯やろう」

誘いに乗ってしまうキャレラだった。彼は先と同様にここでも思いつきやあまつさえ恋人の情報を語らされ8、翌日の夕刊に警察内部の腐敗に立ち向かうヒーローのようにキャレラを祭り上げた記事が掲載されバーンズから大目玉を喰らうことになるのだが、一体、何をどう天秤にかけて「考えてみた weighed the offer」ら「ようし All right」9に至るのか、その思考の機微がまるでわからない。

「警官」であれば誰しもお互いの利益10が絡んだ持ちつ持たれつの間柄の記者を一人や二人抱えているものだ。物語末尾におかれた解決編にちゃっかり記者が同席する、あるいは捜査中わざと記者に情報を流し犯人を釣るといった場面もよく見られる。本作も結果だけを見れば、サヴィジの記事を読んだ実行犯の男が恋人テディのいるキャレラ宅を襲撃しそこに駆けつけたキャレラがテディを救いかつ実行犯の現行犯逮捕も成し遂げており、まさに記事を使って犯人を釣ったわけだが、どう好意的に読み取ろうもこの一連の流れにキャレラの作為を読み込めないとするならばそれは、ここに至るまで散々醜態を晒し続けた実績の積み重ねから彼にそこまで高度な技量がないことが火を見るより明らかだからだろう。寧ろここではまんまとキャレラを釣ったサヴィジが、決して言葉数の多いとはいえないキャレラの証言を「綜合」し、誰か11にとっては真実よりも価値があるキャレラ像を組み上げた、そう理解するよりほかない。三度、キャレラは関係性の反転を繰り返す。

技師の業前を前に驚嘆し、腹に一物抱えて近寄ってくる海千山千からの問いかけに素直に応じてしまうキャレラは、探偵能力と共に先人たちが持ち合わせていた一筋縄ではいかない我の強さ、のようなものまで喪失しているらしい。捜査を左右するほど頭がよい訳ではないが、それゆえか知能を鼻にかける傲慢さもない。駆け引きで相手から望んだ発言を引き出す胆力はないが、嫌みったらしく相手を翻弄する賢しらさもない12。控えめにいって地味、はっきりいって凡骨。魑魅魍魎の跋扈するミステリ業界に生を受けたにしては、あまりに取っ掛かりがない。そんなキャレラが柄にもなく饒舌になる場面がある。

キャレラは彼女を抱きしめていった。「テディ、ぼくは本気なんだぜ。ああ、テディ、嘘じゃないぞ。ぼくは本気で、心底からそのつもりなんだから、馬鹿なまねはするんじゃないぜ。きみを愛してるし、きみを妻にしたい。前から、ずっと前から、きみと結婚したかったんだ。これ以上焦らされたら、気が狂っちまうとこだった。(以下略)」13

これは見ての通り、恋人のテディ・フランクリンへの愛の告白である。捜査においては結局「綜合」もテリングも発揮する機会に恵まれなかったキャレラが唯一思うところを忌憚なく発露するのがこの場面である。語彙の貧弱さ、レトリックの冴えなさもこれまで見てきたキャレラのあり方からしたら違和感なく受け止められる14。本稿筆者はラブコメ好きでもあり作中で主人公が誰とイチャつこうが別に構わない15というスタンスなのだが、この場面には大いに問題ありと考える。連続「警官」殺人事件という本筋の合間に挟まれた事件とは縁もゆかりもないサイドストーリーであるかに見えた恋愛パートが、本作クライマックスにあたる実行犯のキャレラ宅襲撃からのテディ救出を経て、エピローグにおける二人の挙式とハネムーンへの出立へと発展しており、土壇場で物語の重点が事件解決から二人の関係へとシフトチェンジしているように読めるのだ。恐らくこれはキャレラの探偵能力消失と無関係ではあるまい。捜査において「綜合」もテリングも為し得なかった彼が、たとえ抜け殻のようなものであったとしても”Detective”である以上そうした技能を発揮しようとしたとき、手許にある材料といえば自身のプライベートくらいしか見当たらなかった。これはそういった話であり、そしてここに「人間」が顔を出す隙がある。バーンズが第一の被害者リアダンを「人間」と呼んだのは彼が死者であったからだが、死者とは即ち事件の当事者である。通報を受け他人の事件に介入しそれを解決する者こそがDetectiveだったはずが、探偵能力の喪失と恋愛パートの事件浸食を経てプライベートの方面からも事件に関わることになってしまったキャレラは、生きながらにして事件の当事者となってしまった。結論、「人間」とは事件に当事者として関わってしまう者である。

本作が警察小説の祖型とされるのは、キャレラがその身を以て体現した、主人公でありながら事件当事者=「人間」であるあり方が後続作品において連綿と書き継がれてきたからだろう。恋愛によって当事者性を獲得したキャレラの後を継ぐ次代の”Detective”たちも、あるいは過去のしがらみであったり、あるいは氏素性・血脈だったりをキーに各々が取りうる形で当事者性を獲得する。次号では具体的な作品を取り上げ、当事者性の発現の仕方を観察する。かもしれないし気が変わって全く別の話題に移るかもしれない。

2018.10.14

第5回 Passing Painful Prologue / Pre Police Procedural / Permanent Peace Problem(ネタバレ有)

若者は必死に逃走した。

恐怖と狂おしい解放感に駆られてがんばった。1

いつともどことも知れぬ夜のこと、名前も明かされないとある「若者」が藪をかき分け「追っ手の男と犬」から逃走する場面を以て始まるStuart Woods “Chiefs(1981)”の短い「プロローグ」2は当の「若者」が崖から転落し恐らく死亡したものだろうと暗示されるところで終わり、何やら冒頭から事件を匂わせ犯罪小説らしい滑り出しを見せる。「プロローグ」での事件発生と来たら次に続くのは主人公の顔見せを兼ねて通報を受けた探偵なり「警察」なりが現場に赴く場面と相場の決まっていようものだが、しかしそうストレートに物事が進展しないところに本作の見所がある。というのもこの物語の舞台となるアメリカ合衆国ジョージア州メリウェザー郡に位置づけられた架空の町デラノ市にはそもそも市の行政区分としての「警察」が存在しないのだ。「警察」が存在しない町とはなんぞや。

「プロローグ」に続く第一部「ウィル・ヘンリー・リー」の冒頭で語られるのは議員が5名しかいないデラノ市議会の議長にしてデラノ銀行頭取を務める町の顔役ヒュー・ホームズの元に2名の「市民」がおしかける場面である。「一九一九年十二月のある寒い朝のこと」だった。最初に訪れたのは父の代から在所に住み「綿花栽培農場」を営むウィル・ヘンリー・リーである。てっきり貸付の更新に来たのだろうと高をくくっていたホームズに対して、彼は思いがけない提案をする。

だがメキシコ綿実象虫の現状が現状だけに、ウィル・ヘンリーは次の収穫期に破産するかも知れないと、ホームズにはわかっていた。それでも、ホームズはその男に敬意を抱き、好いてさえいた。で、更新することに決めた。(中略)ウィル・ヘンリーはあいているドアをノックして、腰をおろし、しばらく冗談を言い合ったあと、ホームズに警察署長の職につかせてもらいたいと頼んだ。3

ウィル・ヘンリーの頼み事とはなんと当市に未だ存在しない「警察」の設立および「署長」への立候補だったのである。「プロローグ」を除き三部構成の本作は各部のタイトルにその名を冠した人物たちが1910年代末から60年代初頭にかけてデラノ市警の「署長」に就任し、とある事件と関わりながら職務を果たす模様が語られる。なかでも第一部は、まず事件があってその捜査が語られるというミステリの常道以前に、ある地方自治体に新しく「警察」が設置されるところから記述が始まる特異な作例である4。ただこのウィル・ヘンリーなる人物、ホームズを仰天させたその申し出と裏腹にどうもつかみ所がない。初登場シーンにも関わらず容姿や所作がろくに記述されないのもさることながら、口を開けば綿花がヤバイから今のうちに手を引きたいだの夫人を町中に住まわせたいだの、地の文で「警察署長の職につかせてもらいたいと頼んだ」と記述されて以後発せられる台詞のことごとくが未だ存在しないポストを志願する動機としては迂遠に過ぎる5。如何せん入れ違いに現れる次の人物の押しが強い分、ウィル・ヘンリーの茫洋さはごまかしようがない。「あの仕事に就きたいんだ6」とホームズに詰め寄るフランシス・ファンダーバーグ、通称「フォクシー」を見よ。

彼がウィル・ヘンリーを送り出すため頭取室のドアをあけると、別の人物が面会を待っていた。ひとかたならず狐によく似ているため、デラノやメリウェザー郡では“フォクシー”で通っているフランシス・ファンダーバーグが、あまりだらしなくない程度の休めの姿勢で立って待っていたのである。ずんぐりした、屈強な体つきの小男で、ぴったりした仕立ての、固く糊のきいたカーキ色の軍服を着用し、木こり用のブーツにズボンの裾をたくしこみ、平らなつばの、山のとがった陸軍の戦闘帽を、間隔の狭い澄んだ目の上に型通りの角度でかしげてかぶった姿は、どう見ても気の狂った山林監視員か、年を食ったボーイ・スカウトといったところだ。7

「気の狂った山林監視員」という形容が全てを物語っている気もするが、彼の場合姓名や姿形に負けず劣らず言動もパンチが効いている。

「わしは訓練を受けているんだ。部下を指揮するこつを心得てる」

「いや、ねえ、フォクシー、デラノの警察署長は指揮をしようにも部下は付かんのだよ。人員一名の署ってことになるはずでね」

「だんだん大きくなるさ。それに、この町には規律が必要になるはずだ」

「規律か」とホームズは抑揚をつけずに鸚鵡返しに言った。

「署長にはみんなが敬意を払わなきゃいかん」8

親が残したコカコーラ株の配当だけで悠々自適の隠遁生活を送り、物資移送中の事故による負傷除隊者にもかかわらず戦場帰りを吹聴し、居丈高に振る舞いながら「規律」だの「敬意」だのを他人に要求する自己主張の権化の如きこの益荒男に「署長」をやらせたら周囲は大変苦労するに違いないが、ともあれ彼の言動には俺がやらねば誰がやるといわんばかりの、ウィル・ヘンリーからは決してうかがい知れぬ執着を見て取ることができる。

市議会は全会一致でフォクシーの立候補を棄却し、ウィル・ヘンリーの就任を採択する。対抗馬がフォクシーだからということもあってか、先の面談の場面同様ここでもウィル・ヘンリーはやたらと議員たちから受けがいい9。だが就任決定後農場を離れ市内へ引っ越す場面に挿入されるウィル・ヘンリーの心情語りを見ると、

 それがいま、農場を離れるという、ウィル・ヘンリーが自分では決してやらないだろうと思うようになっていたことを、二人はやったのだ。(中略)ウィル。ヘンリーはせっせと開墾したものの、熱意もなければあまり才能もない仕事ぶりだったから、土地が利益をもたらしたのは、土壌と時代が熱意も才腕も必要としないほど豊かな間だけだった。メキシコ綿実象虫が襲ってきたとき、当初ウィル・ヘンリーは自分の努力がさらに求められているにすぎないと見なした。だが虫害が居座る気配を見せ、篤農家たちですら生きのびるため苦闘するようになると、象虫はウィル・ヘンリーがとても見つけられないとあきらめていたもの、つまり名誉ある退路のように見え出したのだった。10

またしても家業である綿花をやめることに対する前向きさが示されるのみで、転職先に「署長」を選んだその胸の内は述べられない11。地の文も含めたウィル・ヘンリー本人から発せられるぼんやり加減を見ていると、彼がホームズ以下議員たちから寄せられる高評価に見合う人物なのか些か疑問が生じてこないだろうか。無論まだ序盤も序盤、これは行動らしい行動をまだ何もしていない時点で生じた齟齬に過ぎず、彼の振舞によってそのギャップが埋められるべくして埋められていく様子がこれから語られていくことになるにせよ。

では就任後ウィル・ヘンリーがどんな行動を取るのかというと、町内への引っ越しや「署長」就任式、留置所設置、備品購入などデラノ市警が実働に移るために必要な諸々の手続12である13。彼はこの道の先輩にあたるメリウェザー郡保安官スキーター・ウィリスから「警察」が必要に応じて行使すべき暴力の実演(不意打ちの腹パン)をその身で体感させられもんどり打ったりしつつも、都度生じる手続を大過なくこなしていく。特に「署長」就任初日に行われた就任式の場面では、会場の近くにあったデラノ銀行を酔いに任せて無計画に襲った若者二人組が式典中のウィル・ヘンリーの前へまるで捕まりたがっていたかのように転がり出たものだからこれを現行犯逮捕14、同席した議員たちを前に早速初仕事をこなし非の打ち所のないスタートを切る。早々に予算が拡充され、警察署兼留置所の建設が前倒しになり、「警察」用品全般を取り扱う「全国警察装備有限会社」のセールスマン、T・T・ブラウンから充分な備品も購入でき、合間に今日でいうところの“DV”にあたる夫婦間のいざこざをおさめたり、初めてとは思えないほどそつなく「警察」を切り盛りする。

「ここで起こる問題といえば交通違反と軽犯罪、それにブレイタウンのほうでちょっとばかり治安維持の仕事があるくらいのもんだ。ちゃんと分別があって、かなり腕っぷしの強いもんなら誰でもその仕事は切りまわせるはずだよ」15

立候補者の検討に際し議員の一人からあがった上記発言からも明らかな通り、デラノ市警「署長」に要求されているのは専ら防犯の範疇に属する業務である。取り立てておかしな期待をかけているわけでも、期待する相手を間違っているわけでもなく、そう望んでしかるべき立場(議会)からそう望まれてしかるべき相手(「警察」)に至極正当な要求を出しているに過ぎず、ウィル・ヘンリーはその要求を忠実に履行している。彼が働けば働くほどデラノ市は平和になる。「プロローグ」と関係のない事件は瞬時に片が付き、「プロローグ」の事件らしきものは発生する素振りも見せない。「署長」を一人置くだけでこれほどとは、素晴らしい防犯効果である。こういった流れの中で、ようやく彼(の心情らしきものを語る地の文)からもその職に対する思い入れを確認できるようになる。

人々は問題を抱えて彼を捜し出そうとするか、でなければただ挨拶をするだろう。人々。一日でこれまでの十日分以上の人々に会うことになるだろう。ウィル・ヘンリーは生まれてはじめてほかの人々の暮らしの中に役割を、それなりの地位を占めたのだ。人々を失望させたりはしないつもりだった。16

だが、だがしかし。彼が立派に仕事に励めば励むほど、いつしか読者は不安を覚えるようになるのではないだろうか。それは『警官嫌い』のスティーブ・キャレラのような無能「警官」に抱く「こいつに任せて大丈夫だろうか」という類のものではない。ウィル・ヘンリーにあっては職務履行能力に対する不信など、作中人物たちはそもそも抱いていないどころか出端から滅法評価が高い。読者にしてもこれまで度々彼の活躍を目にしており、彼が立候補した動機・理由に関するモヤモヤはあっても、その能力が疑いを容れないものであることはとうの昔に了解されていよう。では読者は彼の働きぶりのどこに不安を観取するというのか。それは「このまま何事もなく平和が続き、物語の主筋と思しきできごと即ち「プロローグ」の事件が放擲されたまま本作が幕を閉じたら、どうしよう」という不安である。これは「警察」の誕生に続き、平穏が終わらないというミステリからしても警察小説からしても例外的な状況17が出来してしまったことに起因する。要するに彼はうまくやりすぎたのだ。この読者の不安の源である平穏は議会の望み通りにウィル・ヘンリーが働いた結果生じた事態であるが、しかし彼の奉仕の対象が単に議会であるわけではないことは、先に引いた彼心情を語っていると思しき地の文からも明らかであろう。

人々。

そう、「人々」である。彼が選び取ったポストはSP、いわゆる要人警護ではなく、デラノ市警「署長」であった。ここで思い返されるのは彼ウィル・ヘンリーの言動および地の文による心情語りの端々(註11参照)に現れる、町内およびそこに住まう「人々」への憧れである。万事控えめな彼のこと、議員たちが寄せる「ここらあたりじゃあの年齢の者とちゃまず誰よりも尊敬されてる18」といった他己評価は別として、自身が「人々」の末席を汚したい、「人々」から認められたいと口にすることはなかった(あっても妻を町中に住まわせたいというような遠回りな言い方だった)が、その語句が四度も繰り返されるこの段落には珍しくも彼の憧れがかなりはっきりと発露しているのが見てとれる。ここから彼が「署長」に立候補した動機のあやふやさも理解できるだろう。つまり「署長」それ自体を希求したフォクシーと異なり、彼の場合町と「人々」への憧れが他の何を差し置いてもまず先にあり、在所を出て町内へ足掛かりを得るのに空位の「署長」がうってつけだった、そもそも「署長」でなければならない理由などなかったのだ。そしてひとたび「それなりの地位を占めた」以上、「人々を失望させたり」しないために彼が平穏の維持に向けて忠実に職務をこなすのは道理だ。

防犯という「警察」に対する至極当たり前の要求とウィル・ヘンリー個人の抱え持つ憧れが相伴ってこの戦慄に値する異常事態は生じた。彼はうまくやりすぎたのだ。だが「人々」の望みのままに現出したこの平穏は、読者にとって望ましいものでは決してない。そんなものを意に介さず読者の不安に応えてくる者がいるとすれば、それはあの男しかいないだろう。某日、署内で日々の雑務に精を出すウィル・ヘンリーを訪った者が告げる。

「きみはこの仕事には向いとらんぞ、リー」

ウィル・ヘンリーはその言葉にびっくりして、ぽかんとフォクシーを見やった。「最善を尽くすよ、フォクシー。あのねえ、わたしがこの仕事についたことでお互いに気まずくなるようなことがないといいんだが。わたしは――」

「きみは生きのびられやせん。誰かに殺されるぞ」19

物騒な発言を携えたフォクシーの再登場とほぼ時を同じくして物語はようやく「プロローグ」の事件発生へと至り、際限なく続くかに思えた平穏が破られる。次号では、事件と関係あるのかないのか定かではないがあまりにもタイミングよく回帰したフォクシーと、防犯の努力も空しく発生してしまった事件を捜査せざるをえなくなったウィル・ヘンリー「署長」、この二人の行く末を確認することにする。予告を兼ねて述べておくと、「署長」になりたくて立候補したフォクシーは重度の「警察」マニアであり、町と「人々」への憧れから立候補したウィル・ヘンリーは事件と関係なく命を落とす。

ところで、ウィル・ヘンリーが奉仕するところの「人々」とは彼を雇用したデラノ市議会が建前上その代理を務めるところのデラノ「市民」を指す、と考えてまず相違なかろう。そう、「市民」である。『警官嫌い』から25年、その間のことはさておき、またしても「市民」が警察小説に現れたのだ。今回「人々」、「市民」はSFMS革命20のような過激な主張は何一つ発していない。しかしかの者たちの望みが二人の運命に大きく関わっているのは断るまでもない。

2018.12.10

第6回 「さよなら平穏、ようこそ不穏」

「きみは生きのびられやせん。誰かに殺されるぞ」1

ウィル・ヘンリー署長への死亡宣告とともに回帰したフォクシーの地所近くで、プロローグの一件と関係ありそうな崖から落ちたと思しき半裸の「少年」の死体を新聞配達の少年が発見する場面からStuart Woods “Chiefs”第一部の後半は始まる。市議の一人、フランク・マッター医師を伴い現場検証に向かったウィル・ヘンリーは死体を見てこう述べる。

「まあね、フランク、こっちが刑事事件を抱えこんじゃったのはほぼ確実だ。つまりさ、こりゃどう見ても事故とは思えないし、とにかくこんなのは聞いたこともない。これについちゃ徹底的な調査をしなきゃなるまいし、手始めに検視をやるべきだろうね。その措置を講じるためアトランタから誰かこっちへきてもらったほうがよいかな? 誰か知ってる?」2

町への憧れに裏打ちされた彼の防犯の努力空しく発生してしまったこの「刑事事件」は三部全てを通して時々の「署長」を煩わせることになるのだが、こと第一部においては防犯の甲斐あってここまで必要になることもなくかつ「署長」に立候補した動機3を考えれば恐らく望みもしなかったであろう「刑事」の役割をウィル・ヘンリーに課すことになる。

 ウィル・ヘンリーは自分の机の前に腰をおろして、引き出しから便箋と鉛筆を取り出した。手が震えているのに気づいた。心中にはなんとも奇妙にないまざった感情が満ちていた。何者かが少年を死に至らしめたことは腹立たしく、少年が、おそらくは追われて、森の中をさまよったかと思うと胸がむかついたし、それにウィル・ヘンリーはひどく興奮していた。その点にはうしろめたさを感じたが、着任早々、調査し解決すべき重大犯罪を突然抱えこんで興奮していたのだ。4

「事件」の発生は単に彼に「刑事」を担わせるだけでなく、防犯をうまくこなすことで得ていた卑屈なまでの安堵とは別種の「興奮」をももたらす。「署長」就任式の際折良く逮捕した銀行強盗オブライエン兄弟の公判を見届けたウィル・ヘンリーの述懐を見ると、この「興奮」が如何なる類のものであるかは一目瞭然である。

帰る途々、オブライエン兄弟が投獄されているのに身元不明の若者を殺した犯人はいまだ自由の身でいるというそのはなはだしい差をくよくよ考えつづけた。

 この殺人犯はおれのものだし、おれはそいつの追手だ、とウィル・ヘンリーは思った。おれたちはたがいに切っても切れない仲なのだ。たとえ一生かかろうとも、そいつを見つけ出さなくてはならない。5

彼の「興奮」は、「この殺人犯はおれのもの」「たとえ一生かかろうとも、そいつを見つけ出さなくてはならない」という、「刑事」に限らず広くdetective一般にお馴染みの思いに端を発している。彼が他のdetectiveと異なるのは、例えば知的欲求や出世欲のような、その思い自体を生じせしむる根本導因を持ち合わせていないところである。正確には、町から「人々」から認められたいという動機があるのだが、それは事件を発生させない方向に彼を突き動かしていたはずであり、そこから「この殺人犯はおれのもの」という特定個人との独占的な関係を志向する発想が生じるとは考えにくい。「事件」が起きなければ抱かなかったであろう情感を抱いているという意味では、ファム・ファタルに惑わされて道を踏み外すノワール物の男たちのように、彼は「事件」に誘惑されていると見なすことができる。詰まるところこれは町から「事件」への浮気であり、代償は高くつくことになる。

経験豊富な先輩格の保安官スキーター・ウィリスからお墨付きをもらえる程度にウィル・ヘンリーの「徹底的な調査」の初期段階は初体験とは思えないほど手堅い手続を踏むが、結果をあげられない。「事件」が発生した1920年2月頃は第一次大戦後復活した第二次KKKの勃興期にあたり、南部ジョージア州に属するここデラノ市にもシンパが存在する。当初彼はこの一件をKKKの仕業と考え捜査を行うが、その一員とまではいかないものの非常に好意的なスキーター・ウィリスからの横槍があったりして頓挫する。数年後に隣りの郡かつまたしてもフォクシーの地所近くにて似通った状態の死体が発見され、ウィル・ヘンリーはこれが第二の「事件」だと確信をもつが、自身の管轄区域外の案件のため捜査がままならずやはり行き詰まってしまう。

そもそも第一の被害者に行われた以下の「検視」結果からもこの一連の犯行がフォクシーによるものだということはすぐに察しがつく。

「(…)被害者が受けた打撲は、ホースによるものも、へら状の棒によるものも、体の両側に同じ数だけ、同じ強さで加えられている。(…)仮に一人の男――または女、女も除外することはできないんでね――だとすると、それは規則正しさ、特にシンメトリーに取りつかれている人間でしょう。両側に同じ数の打撲を加えずにはいられなかったんですよ。(…)」6

「(…)これをやったやつは警察官の経歴を持った者だってことでしょうな。ゴム・ホースというのはありふれた凶器じゃない。その目的は挙げて情報を引き出すことにあり、相手をかたわにしたり殺したりすることじゃない。それは警官から警官へ、警察署から警察署へと口づてに伝わる類のものでして。(…)」7

後にはフォクシー目線で「事件」との関わりが述べられる場面もあり、本作は最後の最後に犯人が明らかになる類の作品ではない。ウィル・ヘンリーにしても「頭の一部では真相がわかって」いる。ただ明白な証拠を挙げられないだけで。

しかし犯人を挙げられないまま過ぎていく日々は徐々に彼を変質させていく。一週間もすると「異常なまでに口数が少なく」「うわの空」のそらになり、三ヶ月後が経過する頃になると町のためにと防犯に心血を注いでいた彼が「交通違反の取締ときまりきったパトロール」に「退屈さ」を感じるようにすらなる。極めつけの変化は以前一度拘留したことのあるDV男性を再度拘留した際に現れる。

 ウィル・ヘンリーはバッツを殴った、右手で相手の左の頬骨をしたたか平手打ちした。バッツはかすかによろめいたが、倒れはしなかった。ウィル・ヘンリーはもう一度、今度は手の甲で打ちすえた。その一撃でバッツはしゃんとはなったが、やはり倒れもせず、攻撃を避けようとさえしなかった。殴打はゆっくりと、ダンスのように房内をめぐりながらつづけられた。

(…)

 車で家に向かう道すがら、ウィル・ヘンリーは自分の子をこらしめたときに残るやましさは少しもなく、清々した気分だった。署長に就任して以来はじめて、自分の任務を最後までやりとげた、正しいことをしたと感じた。やっとのことで、役に立っているという気がした。8

役に立っているという気」という感慨が以前から彼が熱望していたものであるのは確かだとしても、それに先立つ執拗なまでの殴打と「清々した気分」を踏まえれば意味合いの変容は免れない。なまじそれまでのイノセントな町と温和な彼のあり方を知ってしまっているが為に、鬱屈した彼がここで発揮する暴力は憂さ晴らしの様相を帯びてしまう。「署長」への立候補を思い立たせるほど強かったはずの町への「人々」への羨望とそこから生まれた防犯意識が、「事件」の発生と解決の見込みのなさからだいぶ格下げされていることが確認できよう。これによって一旦沈静化したかにみえた「気落ち」「無力感」「心の傷」は第二の「事件」発生と迷宮入りによって再びウィル・ヘンリーを襲い、彼はまたしても憂さ晴らしに走る。今度の標的は、酒造や酪農で財をなし更なる事業拡大のためウィル・ヘンリーがかつて住んでいた農地を借り受けた豪商ホス・スペンスの一人息子、エミット・スペンスである。KKKの一員であるエミットが学校の黒人用校舎の窓を割っていると通報を受けたウィル・ヘンリーはエミットを押さえつけるとベルトで鞭打ちを加え、逮捕まではせず父親のホスへ引き渡す。そして、

そして、家に帰るまでの道すがら、ウィル・ヘンリーは、正しいことをした、自分の存在が役に立ったという満足感を味わった。9

二度にわたる憂さ晴らしによって、彼は厄介な問題を抱えこんでしまうことになる。KKKとの対立がそれだ。これまで繰り返し彼がもつ町への羨望について触れてきたが、例えばスキーター・ウィリスと交わした以下のやり取りなどを見ると、その羨望が極めて非南部的あるいは1920年代の南部白人とは思えないほど本質的にリベラルなものであることがうかがえる。

「K・K・Kの連中はなかなか尊敬されてるんだぞ、ウィル・ヘンリー。黒んぼどもを抑えておこうとしているのは連中だけだし、それのできる者は誰だろうとわたしは大いに尊敬するね」

 ウィル・ヘンリーは努めて顔色を変えず、声を荒げないようにした。「スキーター、人を鞭打ったり、罪も無い黒人の人をたち十字架を燃やしておどしたりするのはわたしは賛成じゃないし、いい年をして夜分シーツをかぶって駆けまわる連中をあまり尊敬してはいない。この町で誰かがそんなことをやっている現場を押さえたら、なんとかうまい罪名をひねり出して留置所にぶちこんでやるつもりだよ」そこで一呼吸置いた。「だから関係者にはそう伝えといてもらいたい」10

エミットを突き出された父親ホスの示す反応(「あんたはわしの悴に黒んぼどもの前で鞭を食らわしたのか?」11からもわかる通り、ウィル・ヘンリーのスタンスは彼らと相容れないものである。だが自らがかつて切った啖呵を一部裏切るかの如くはたらいてしまった鞭打ちが巡り巡って自らの首を絞めることになる。というのも、かつてウィル・ヘンリーがまだ綿花をやっていた当時から持ち主がホスに変わった現在でもその農地で働いている黒人小作農のジェシー・コールに対してホスが壮絶な嫌がらせを始め、マラリアに罹患した挙げ句農地を追い出されたジェシーが譫妄状態のなかホスと間違えてウィル・ヘンリーを撃ち殺すことになるのだ。

ウィル・ヘンリー殺害に先立つこと数日、警察用品販売のT・T・ブラウンから匿名で手錠二つの購入申し込みがあったとウィル・ヘンリーは聞かされる。その時は聞き流したものの、幾日か後にスキーター・ウィリスから家出した青年がデラノ近郊を通る可能性があるので目を光らせて欲しいと要請が入る。若者の年格好が第一、第二の「事件」被害者と似通っていたことからふと手錠購入希望者が商品の送り先として指定した私書箱の借主を調べたウィル・ヘンリーはそれがフォクシーであることを確認するとすぐさまフォクシーの地所に赴き、当人が現れないうちに地面が掘り返された形跡を発見し彼が犯人であると確信する。フォクシーの地所が属する隣郡の保安官事務所へ急行する途中野暮用で立ち寄ったジェシー宅でウィル・ヘンリーが撃たれたのは、バレたことを知り焦って彼を尾行したフォクシーが彼へ向けた銃の引金をまさに引こうとしたその時だった。

ウィル・ヘンリーは仮にジェシーに撃たれなくともフォクシーに撃たれていただろう。どちらにせよ本稿冒頭の宣告の通り彼は「誰かに殺される」運命を避けられなかったと思しい。だが仮にフォクシーに殺されたのだとしたら、恐らく遠からずフォクシーはお縄にかかっていたはずであり、ウィル・ヘンリーは自らの命と引き換えに彼の起こした一連の「事件」を解決させられただろう。しかし現実にはウィル・ヘンリーの無駄死に終わり、首の皮一枚繋がったフォクシーは三部通じて最終的に数十人の若者に手をかけることになる。物語の流れを見る限りウィル・ヘンリーの死はKKKに代表される南部的な因習によるリベラル抹殺以外の何物でもない。しかしさらに遡って考えると、その原因は彼が「事件」にうつつを抜かした挙げ句憂さ晴らしに暴力を振るったところにある。つまり「人々」への奉仕をないがしろにし「事件」へ浮気したことへの制裁である。前回述べたように彼が崇め奉るべき「人々」を「市民」と呼ぶことが許されるのであれば、彼の死もまたSFMS革命12)の一環として捉えられるだろう。ただし彼を『警官嫌い』の「警官」殺しの単なる焼き直しと考えるのは不当である。87分署シリーズと本作を明確に分ける違いは、「人々」「市民」の器となる「市」のあり方である。アイソラ市がすでにある程度歴史のある都市として提示されるのと比べ、デラノ市は主にホームズの手と意思によってゼロから開発され現在も開発中の都市として現れる。ウィル・ヘンリーの雇用自体都市計画の一環である。「人々」の顔色をうかがうことに余念のないウィル・ヘンリーがそのあおりを受けないはずがない。彼の変節と死が、都市の開発と不可分な「市民」の変化を反映していると考えることもできるだろう。彼はデラノ市の開発に合わせて、それまで持つ必要のなかった暴力機能を開発されたのだ。

ところで、正直なことを述べると、本稿筆者はウィル・ヘンリーのこの形の死に安堵を覚えた。ああ良かった、とさえ思った。フォクシーの手にかかっていたらこうは思わなかった気がする。自分一人分のサンプルを元に大上段なことを述べるのも幾分気が引けるが、この思いは読者目線の願望と関わりがあると考えられる。前回、彼のもたらした平穏を「読者の望むものではない」と書いた。彼がフォクシーの手にかからなかったことは、煎じ詰めれば始まった「事件」が当分終わらないことを意味する。さよなら平穏、ようこそ不穏。それこそエンタメの醍醐味だろう。ただ、それだけではない。彼が当初崇めそして袖にした「人々」こそ、本稿筆者をその内に含むところの読者なのではないか、という点である。批評家D・A・ミラー氏が『月長石』などの中期ヴィクトリア朝小説を題に「事件の捜査を警察がおこなうのであれ私立探偵がおこなうのであれ、それは正常な世界にとってはまったくの侵入であり、この侵入が想定している世界は、いままで警察や探偵を必要としないがゆえに正常であるとされてきたものだ。捜査行為は犯罪を解決するだけではなく、さらに重要なことに、この異常事態のあいだ事件の「現場」と呼ばれてきた場所から自分もいなくなることで、この正常性を回復させる13)と書いたとき、その前提にはヴィクトリア朝期における神聖不可侵なものとしての家があった。本作の場合寧ろウィル・ヘンリーは「警察」でありながら「正常な世界」に貢献してきた人物である。それが浮気が発覚したばかりに「事件」を解決することなく消され、あまつさえそのことに読者としてそこはかとなく喜びを覚えるという事態に、なにか空恐ろしい思いを抱かずにはいられない。次回はこの読者の快と警察小説のあり方について考察することにする。

2018.2.10

 

(あべ・しゅうと/一橋大学大学院言語社会研究科)