機関誌『半文』

悪党研究-Ellroy & his Bad Fellows-

阿部 修登

第7回 語れよ汝がライフ、とセラヴィスタは言われた

警察小説が読めない。エイドリアン・マッキンティ『コールド・コールド・グラウンド』が発売された頃からと記憶している。期待の超大型警察小説本邦初訳という惹句、にもまして本稿筆者がその研究を志すジェイムズ・エルロイのとある一作にタイトルが似ている1のが気にかかり発売直後に購入した。数日寝かせて開いたページの上では、閉塞感漂う80年代のアイルランドを舞台にした重厚な一人称小説が展開されていた。50頁も読み進められなかった。それ以来だ。古いものも新しいものも、とりあえず警察小説と銘打ってあれば買う、まではいいのだが最後まで読み通せない、どころか冒頭数頁で挫折してしまうようになった。前々から予感はあった。例えばネレ・ノイハウスのオリヴァー&ピアシリーズ。例えばシューヴァル&ヴァールーからヘニング・マンケルを経てアーナルデュル・インドリダンソンへと至り、その後アンデュ・ルースルンドへと受け継がれる北欧ものの血脈。これらの作品では主人公たる「警官」諸氏が心身をすり減らすような苦境に立たされる。厄介なのは事件の解決が脱苦境を意味しないことだろう。オリヴァーは妻の浮気に心神喪失し捜査ができなくなる。ヴァランダーは師と仰ぐ先輩警官の病死と職務中の犯人殺害がトラウマになり休職せざるを得なくなる。エトセトラエトセトラ。なおマッキンティの上記作品が刊行されたのは2018年4月、折しも本連載が始まった頃と重なる。本連載は筆者がろくに警察小説を読めなくなった状態で書かれてきた。

この一年の連載を経て見出されたのは警察小説の始まりにあった「市民」の「革命」、そしてそれと読者の快との繋がりだった。どうやら本稿筆者を含む警察小説読者は「警察」を殺し苦しめることに喜びを覚える、らしい。そうでもなければこれほどまでに「警官」の苦境を長引かせる作品群が世に氾濫する理由がわからない。ハワード・ヘイクラフトを引くまでもなく、「殺人」が「娯楽」たり得ることそれ自体を否定する者など今日いるまい2。本稿とて、誰かが殺されたり苦しんだりする様に「不謹慎」とラベルを貼って目くじらを立てるつもりは毛頭ない。ただ、一作一作が長大且つ肺腑にズシンとくるヘヴィな現代警察小説群は読む側に相応の気力体力を要請し、とかく気が滅入るのもまた事実だ。多大なしんどさを伴う読書の快とは一体なんなのだろうか。「革命」による「市民」の逆襲、転じて嗜虐。それだけで説明がつく話だろうか。

ここで押さえておきたいことがある。これまで検討の対象としてきた作品に限らず警察小説全般に通底する傾向として、これらがいわゆる警察国家を肯定も否定してこなかった、ということだ3。例えばジョージ・オーウェル『一九八四年』、ザミャーチン『われら』。全体主義、行き過ぎた管理社会への警鐘として今日も受容されるこうしたディストピア作品群では、仮想敵と見なされる権力の一端を「警察」が担っている。だがミステリに由来する警察小説の系譜は、ディストピアを成り立たせるために利用されかねない諸々の手段――古くは骨相学に始まり、指紋採取、DNA判定等の生化学的手法から、前科記録の保管や手紙・メールの検閲に代表される情報技術の拡大、あるいはGPSやNシステム等インフラを用いた位置特定等、精神分析を援用したプロファイル等――を犯人特定の大義の下に日夜アップデートしながら作品に取り入れてきたが、その実蓋を開けてみればキャレラよろしくテクノロジーを活用できない人物が中心にいることが存外多い4。ここで想定しているのは例えばR・D・ウィングフィールドのジャック・フロスト警部やヘニング・マンケルのクルト・ヴァランダー警部、ユッシ・エーズラ・オールソンのカール・マーク警部等の「おっさん警官」である。彼らは階級相応のdetective能力は持ち合わせており仕事ができないわけではないものの、基本的に書類仕事が苦手であまり協調性がなくしかも機械音痴なので最新技術についていけない。テクノロジーの導入に躊躇がない昨今の警察小説事情にあって、彼ら「おっさん警官」たちはディストピアの尖兵をつとめるどころではなく、寧ろ彼らにしてみれば自分たちの生きる現代こそがディストピアの様相を呈してすらいる。

「革命」の暴力、扱いきれない科学技術。「警官」を追い込む要素はこれだけではない。“bureaucratic”、つまり組織ゆえのゴタゴタである。いわゆる天才肌のアマチュア名探偵と「警官」とを分かつポイントとして組織に属するか否かということが上げられる。アマチュア探偵が個人である強みを活かし、ときには遵法意識すら易々とまたぎ越えて活動していたのと比べると、「警官」は上(ソリが合わない)にも下(言うことを聞かない)にも左右(主導権の取り合いになる)にも「警官」がおりいかんせん身動きが取りにくい。組織ならではの人海戦術あるいは専門分担も、たいていの場合頓挫する。上司から捜査を握りつぶされることも日常茶飯事である。「警察」を出てみたところで、制度上ある程度仕方ないとはいえ検察だの弁護士だの報道関係者だの相対せずにおれない障害が山積している。

「人々」に苦しめられ、テクノロジーに苦しめられ、組織に苦しめられ、ときに死に、長らえてまた苦しむ。数十年を費やして警察小説が洗練させてきた「警官」のあり方とは畢竟このようなものである。しかし苦死(くるし)に得る者であるがゆえに、そうであるからこそ、逆説的に彼らは生きていると見なすことができる。生きていることはそれだけで素晴らしい、掛け替えのない価値である。ただし生身の人間に限れば。文学的存在である「警官」の生は果たして寿ぐべきものだろうか。一概にそうとも言えないよな、というのが今回の趣旨である。

本稿筆者が昨今の警察小説に感じるやるせなさは「警官」たちの生きている間の取り扱われ方に端を発している。読み物である限り、1頁目から幕引きまで主人公の立ち振るまいは徹頭徹尾見世物でしかないわけだが、そうであるならなおのこと読んで損はなかったと心底思える鍛え上げられた、磨き抜かれた名人芸であってほしいと思ってしまうのが読者の性である。大ホームズしかりポアロしかり、先達の技が冴え渡っていたからこそミステリの世界では本歌取り、つまりパスティーシュやオマージュがジャンルの伝統として有効に機能してきた。ところがどっこい警察小説をみてみると、本家本元『警官嫌い』の時点でいかんせん倣うべき名人位にあるはずのキャレラがこれはもう誰の目からも明らかな大根役者5だったものだから、そもそも継承されるべき技がない。芸がない。肉体労働には歳を食い過ぎ、春をひさぐにも需要がない6警察小説の「警官」たちに元手があるとしたら、それはなにか。C'est la vie. すなわち人生である。彼らは苦死ぬまでの生き様を切り売りして芸に代えるところに渡世の術を見出していくしかないのである。本稿ではその道を「人生ファイト」と、各々のファイターを「セラヴィスタ」と呼ぶことにする。どれだけ嬲られようと、どれだけ自身の周りに死体の山を築こうと、少しでも長く登場するため己の人生を晒し続ける。それが彼らの闘いである。

冒険小説、時代劇、ミリタリー、警察小説、SF等、多方面に作品を発表する希代のエンタメ作家月村了衛氏の『影の中の影7』は警察小説ではないものの、中心人物の一人景村瞬一、通称「カーガー」のあり方は、「警察」「警官」と「人生ファイト」および「セラヴィスタ」とのしがらみを考える上で格好の題材を提供してくれる。まずは込み入った物語をコンパクトにまとめた文庫裏表紙の粗筋を以下に引く。

血も凍る暴虐に見舞われた故郷から秘密を抱えて脱出したウィグル人亡命団と、彼らを取材中のジャーナリスト仁科曜子が、白昼の東京で襲撃された。中国による亡命団体抹殺の謀略だ。しかし警察は一切動かない。絶体絶命の状況下、謎の男が救いの手を差しのべる。怜悧な頭脳と最強の格闘技術をそなえた彼の名は、景村瞬一。(後略)8

縁あって日本最大の暴力団「矢渡組」直系最強の武闘派「菊原組」の助けを得て、中国軍内でもその存在を秘される秘密工作・暗殺専門の特殊部隊「蝙蝠部隊」の魔手から逃れようとする仁科らの前に現れ颯爽と敵の第一段を退ける景村。彼は社会的弱者や少数民族など虐げられた人々の味方として組織に属さず独り暗闘し、裏社会では密かにその名を知られたエージェント「カーガー(琉球語で「影」を意味する)」である。

助けられはしたものの正体不明の人物にこのまま頼ってよいのかどうか、仁科は「不安」を抱く。

本当に信じていいのだろうか、この男を。

曜子は今さらながらに不安を感じた。9

自分のみならずウィグル人亡命団一同や「菊原組」らの命もかかった状況で救いの手を差しのべてきた謎の人物に対して彼女がこうした疑いを抱くのは心情的に理解できるし、危機に曝されて警戒心が働くのは彼女が理性的な判断力の持ち主であることを示している。ただここで着目すべきは、彼女がどういう人物であるかではなく、闖入者への疑念の表明が「御手並拝見」スイッチ・オンを意味することである。えてして伝説は一人歩きし実体を伴わないものである。目の前の人物が本当に達意の名人であるかどうか、信頼に値し契約を結ぶに足るエージェントかどうか雇用者側(仁科らは言うに及ばず、読者も含む)は何かの形で判断しなければならない。名人とて、自らを証し立てなければ契約が結べない以上、自身の有用さを売り込まねばならない。後に出てくる言葉を借りれば<説得>である。手っ取り早いのは芸の片鱗をちらつかせて見せることだろう。要はホームズがワトソンと初めて会ったとき彼の来歴を一目で当ててみせた、まさにあの場面を想起すればよい。これが「御手並拝見」であり、彼女の疑念の表明はハイドーゾと名人にバトンを渡しアピールタイム開始を促す役割を果たしているのである。バトンを渡された景村に不幸があるとすればそれは、いざ拝見とばかりにアピールタイムのお膳立てを整えてくれた雇用者側が、ホームズ以来優に一世紀を経た現在、絶体絶命の窮地を一度救った程度の業前では相手を信用しないくらいスレてしまっていることだ。

「景村だ」

不意に、男がぽつりと言った。

一同は驚いたように顔を上げる。

「景村瞬一。それが私の本名だ」

そして男は――カーガーは静かに続けた。

「今から二十八年前、私は沖縄にいた」10

ここから節が変わり、「二十八年前」の「沖縄」で景村の身に起こったできごと、そして彼がいかにして「カーガー」となったのかが記述される。将来を有望視される沖縄県警上級官僚だった景村は、持ち前の正義感から通常業務の外で秘密裏に米軍が関わっていると思しい麻薬密売の捜査を行っていたが、「警察」内部で唯一信頼していた腹心の部下に捜査状況を明かしたところ、密売に関与していた米軍幹部と裏で繋がりしかも景村の恋人に横恋慕していたその部下から裏切られ、恋人共々沖縄の海に沈められる。個人的に友誼をはかっていたCIAの職員に助けられ一命を取り留めはしたものの、恋人は死に彼自身も戸籍上死亡扱いになる。生きる意味を失い外国を放浪していた彼の元に、ある日件のCIA職員経由でロシア軍絡みの仕事の話が持ちかけられる。アゼルバイジャンの空爆予定地周辺に居住する少数山岳民を説得して退去させたい、成否は問わない。そう語る露軍幹部メルクーシンは兄をその山岳民に助けられたことに個人的な恩義を感じていたが、空爆自体を取りやめるほどの権限はなく、立場上自分が動くこともできないため外部の人材を求めていた。条件は失敗して死んだとしても問題ないことであり、景村はまさにうってつけだった。メルクーシンからロシアの軍隊格闘術「システマ」を叩き込まれた景村は見事その仕事を果たす。以後ぽつりぽつりと似たような仕事が彼に舞い込むようになり、「システマ」と、他所で伝授された実戦的すぎて傍流扱いすらされない居合道の一流派の技を武器に「カーガー」伝説が幕を開ける…。

この場面の最後、静かに語り終えた景村に「待てや」と「菊原組」若頭の新藤が噛みつく。いや、噛みついたというより、合いの手を入れたと述べる方が正確だろう。

「肝心のことをまだ聞いとらへんで」

そうだ、と曜子は思った。それこそが、『カーガー』のカーガーたる所以に違いない ――

「その、なんとかちゅう村の爺さん婆さんは、村を捨てるんは嫌や言うてたんやろ。景 村はん、あんた、一体どうやって説得したんや」

曜子も、袁も、トルグンも、息を詰めて景村を凝視する。

「特に何もしなかった」

静かな口調で彼は答えた。

「私は、率直に自分の身に起こったことについて話しただけだ。正直に言うと、他に方 法が浮かばなかった。そんなことが説得につながるとも思えなかったが、とにかく私は自らについて何も隠さず彼らに話した。メルクーシンが自分の将来を懸けてまで恩義を返したがっていることも。ティムルザデ村長は私の顔をじっと見つめ、作戦に同意して くれた。理由は分らない。想像することはできるが、しょせんなんの根拠もない憶測で しかない。それだけだ」

曜子は、新藤もまた<説得>されたことを悟った。他ならぬ自分もまた。11

正直に言おう。本稿筆者は前半の山場であるこの<説得>の一幕を読んで笑ってしまった。その後無性に悲しくなった。カーガーの言葉を信じれば、彼はティムルザデ村長を<説得>したときと同じことを仁科らに語って聞かせたことになる。しかし対村長と対仁科らでは状況が異なる。前者と対峙したとき、景村は全てを失ったばかりで我が身の他に何も持っていなかった。未だカーガーですらなかった。<説得>の材料が身の上話になるのも已む無しであり、そんな彼を雇用する決断を下した村長の度量と眼識は大したものである。分の悪い賭けに勝ち両者がWIN・WINの関係を築けたことはただただ喜ばしい。しかし後者の場合はどうだろう。まず気になるのは語り起こす際彼が本名を名乗ることである。「カーガー」は基本的に他者からの呼称として用いられるので彼が「景村瞬一」と名乗るのは別段おかしなことではない。のだが、話が佳境に及ぶに至り何かおかしいと引っかかりを感じるようになる。

理由は分らない。想像することはできるが、しょせんなんの根拠もない憶測でしかない。それだけだ。

ここまで来て読者は知る。景村がカーガーという芸の者になる契機を与えたといっても過言ではない村長の気概を、どうも彼の方では汲んでいないらしい。言い換えれば、カーガーは「『カーガー』のカーガーたる所以」を問われているにも関わらず、景村としてしか己をアピールできない、つまり彼にはそもそも芸人の意識がないらしいのだ。芸で勝負する意識のない彼は、かつて村長と対峙したときのままいつまで経っても「景村瞬一」の身を売ることでしか<説得>を行えないのである。これが悲しみその一だとすると、その二は雇用者側にある。

「肝心のことをまだ聞いとらへんで」

仁科・新藤がこのようにダメ押しの合いの手を入れる理由が、カーガーの身売りを受けて彼女たちが<説得>された理由が、本稿筆者にはまるで理解できないのだ。結局のところこれは、先に村長の示した決断の気概を彼女たちが持ち合わせておらず、前例があるから乗っかったに過ぎないということを示しているのではなかろうか。しかもこの場合評価対象となっている前例は、カーガーの偉業ではなく、カーガーが誰かに雇われたことがあるということの方である。だとすれば彼女たちには理性はあっても眼識が欠けている。芸で身を立てる気のない素人と芸を買う度量のない素人が、なんぞ知らぬ間に合意に至っている。これはだいぶ悲しい。

さらにここには第二の雇用者つまり読者の存在も絡んでいる。景村をして己の人生を語らせ、仁科・新藤らをしてそれを当然の如く受け入れさせるこの<説得>の構造は何も本作に限った話ではなく、月村氏に限った話でもなく、昨今のエンタメ全般に長らく漂っているムードによるところが大きいだろう。彼女たちが<説得>されたのとは別次元の話として、これ以後カーガーが八面六臂の大活躍をするためにはそこまで読み進めてもらえるよう読者を<説得>する必要があり、その際芸は芸のみで立ちゆかず人生による裏打ちを要求される。なぜこんなことになっているのかはとりあえず措くとして、雇用者側がスレているという先の言明は読者が下手をすると芸よりも人生に快を覚えるという現況を述べたものである。

こうした観点からカーガー・仁科両者の振る舞いを眺めると、彼らの素人振りが別種の意味合いを帯びてくる。つまり、彼らが持ち前の芸をおざなりにしてまで人生の売り買いに興じるのは、そうでもしないと客がつかないことを踏まえての営業努力なのである。このときカーガーは言うに及ばず、カーガーに対しては雇用者の立場にある仁科らもまた読者からすると被雇用者の立場にあると見なせる。自身の芸のみではアピールが足りないと理解し、芸ではなく人生を語る・語らせるため共同して素人の演技に身をやつす彼らもまた、読者とは異なる意味でスレている。スレきっている。

読者という第二の雇用者を考慮しなければしないで素人同士の茶番劇に悲しくなり、考慮したらしたでスレた売り手とスレた買い手の寒々しい需要供給劇に悲しくなる。しかしここまでが物語の前半だとすると後半は一転、協力者から避難場所として提供された高層マンションを舞台にカーガー一派vs蝙蝠部隊の全面対決を書いた爽快殺陣アクションが展開し、こちらに関してはサイコー以外かける言葉はない。サイコーなのである。だからこそ、先だってこのような形の<説得>がなされなければ物語が動かないことに悲しみをおぼえるのだ。彼が元「警官」であることはまことに象徴的である。彼は苦死んで長らえ、そして脱「警察」を果たしたわけだが、往時の苦死にの軌跡、「人生ファイト」の経験談を語ることでしか糊口を凌げない。警察小説というフィールドで培われた虐げられる「警官」像に引きずられるかの如く、カーガーは自らを「景村」と、社会的に死亡した名で呼び続け、カーガーになろうとしない。表社会から姿を消してなおセラヴィスタから足を洗えないでいる。彼らセラヴィスタをどういう目で見ればいいのか、本稿筆者は未だはかりかねている。

2019.4.10

第8回 エルロうこそものぐるほしけれ

本稿が公開される頃、読者諸賢の枕頭には一冊の本が置かれているに違いない。本稿筆者はハードカバーにペーパーバック、電書も加え三冊は積もうと考えている。James Ellroy This Stormである。“Second L.A. Quartet”と題されたシリーズの、これは二作目にあたり、2014年刊行のシリーズ第一作Perfidia以来五年ぶりとなる新刊である。“Second”と銘打たれるくらいだからそれに先立つ“L.A. Quartet”があり、もれなく邦訳されたThe Black Dahlia(1987)、The Big Nowhere(1988)、L.A. Confidential(1990)、White Jazz(1992)の四作は「暗黒のLA四部作」の名で日本でもつとに知られている。

第一回でも述べたとおり、本連載はエルロイ氏がある時期以降作品の基本フォーマットとして採用することの多かった警察小説とは一体なんぞやを突き詰めんとして書かれてきた。徒手空拳で本丸に挑むのにビビり、必死に外堀を埋めようとしてきたのだとも言える。しかし連載中に当該作家の新刊が出てしまう巡り合わせもとい僥倖に恵まれてしまった以上、いつまでも逃げているわけにはいくまい。すでに泣きそうなのだが、腹を括ってエルロイ作品に取り組むこととする。

エルロイ氏といえばなにを差し置いても上記LA四部作である。なかでも映画化されたシリーズ第一作The Black Dahliaと第三作L.A. Confidentialは、著者の名を知らずとも目に耳にしたことがあるかもしれない。しかし、ロサンゼルス市警(LAPD)所属の「刑事」や郡付きの「保安官」1を主人公にした同シリーズ以前に彼が警察小説を書いていたことは、現在ほぼ忘れ去られている。のちに“L.A. Noir”というシリーズ名のもとにまとめらることになるBlood On The Moon(1984)、Because The Night(1984)、Suicide Hill(1986)の三作もまたすべて邦訳され、本邦では「刑事ロイド・ホプキンズ・シリーズ」と銘打たれている。これらは著者の経歴からすると三~五作目にあたる。今読み返すと、いかんせん時代を忍ばせるヴァイオレンス描写が鼻につき、あまり面白いとは言いがたい。ジュリアン・シモンズ氏による「四コマ漫画」だの「彼らの各文章を一行から一行へ、一ページから一ページへ追って行けば、(中略)いかにひどい書き手であるか判るし、取り柄といえば、エネルギーに満ちあふれた活力だけ」だのといった容赦ない酷評に、ファンの贔屓目を以てしてもある程度首肯せざるをえないところがあるのは確かだ2。ただ彼の警察小説がここから始まったのならば、本連載もまたここから始めるべきだろう3。というわけで、今回はシリーズ第一作Blood On The Moon4に焦点を当ててみる。

日本語のシリーズ名が示すとおり、本作に始まる“L.A. Noir”シリーズはロイド・ホプキンズなるLAPD所属の「刑事」が主人公である。彼は「アイリッシュ・プロテスタント」という少々珍しい出自をもち、妻子を大事に思うかたわら同時に複数人との浮気に走るいささか度の過ぎる女性癖と、諸事情あってラジオ放送が聞こえると絶対にそれを止めさせる神経質な拒否反応に目をつぶれば、身長2m近い恵まれた体躯に「ブレーン」と渾名される記憶力抜群で明晰な頭脳を備え、就任五年で「ロサンジェルス市警はじまって以来最高の、重犯罪容疑者逮捕および有罪判決獲得という実績5」をあげた優秀な「刑事」として作中に現れる。物語の現在時点において勤続17年の40歳、ベテランである。物語は、猟奇的な女性の死体が発見されその殺害犯をホプキンズが追跡するパートと、都度手口を変え誰にも悟られることなく十数年にわたり20名以上の女性を手にかけてきた「詩人」なる殺人犯の胸中と犯行が綴られるパートがおおよそ交互に続く、いわゆる「倒叙ミステリ」の形式をとって進行する。当初単独の事件として扱っていたホプキンズは、ふとしたきっかけによってこれが連続殺人事件のなかの一件なのではないかと直観する。管区を越えた未解決女性殺人事件の資料を読み込むうちに直観が確信にかわったホプキンズは人員を投入した大規模捜査を直属の上司に持ちかけるが、上司の要求する「物的証拠」も「目撃者」も「仮説を裏付けてくれるほかの警官」6も提示できず説得に失敗。結局ホプキンズは若かりし頃彼の才能を見出して以来後見人のような形で何くれとなく世話を焼いてくれるダッチ・ペルツ警部等幾ばくかの個人の助力を得つつ、もっぱら独り捜査を行うことになる。徐々に周囲との反目を強め、ペルツとも仲違いし、最終的に「警察」を辞めてでも捜査を続行すると宣言したホプキンズは、捜査の過程で知り合ったフェミニズム色の強い詩人のキャスリーン・マカーシーと浮気し仲を深めていくうちに、彼女がハイスクール時代に取り巻きと作っていた詩作サークルの追っかけをしていた人物、テディ・ヴァープランク7に行き当たる。ヴァープランクこそすなわち「詩人」である。詩人としてのマカーシーを崇拝し、彼女から離れ詩を捨てていった取り巻きたちに似た容貌の女性を選んで殺し続けた「詩人」もまたホプキンズの存在を悟ると、彼の別の浮気相手ジョーニー・プラッツを殺したうえでマカーシーを誘拐、ホプキンズを誘い出して直接対決になだれこむのだった。

警察小説の史的推移を横目でにらみながら本作を読むと、その刊行時期が思いのほか示唆に富むことにまず気付かされる。1984年である。George Orwell氏の作品ではなく現実のこの年に何があったのかというと、R. D. Wingfield氏のFrost at Christmasが刊行されているのだ8。イングランドの片田舎デントンの市警に務める下品で豪放磊落なフロスト警部が繰り広げる珍道中を書いた「フロスト警部シリーズ」の第一作であるこの作品とBlood On The Moonに共通するのは、「警察」の一員として振る舞えずほぼ単独でことを運び、死にかけながら事件にケリをつける類の主人公「警官」であり、McBain氏が87分署シリーズを始めるにあたって抱いた“conglomerate hero”=非超人的な群体としての「警官」像はほぼ放棄されている。この傾向は、例えばエルロイ・フォロワーを公言するIan RankinのKnots and Crosses(1987)に始まる「リーバス警部シリーズ」やHenning MankellのMördare utan ansikte(1991)以下「刑事ヴァランダー・シリーズ」などへと受け継がれ、恐らくJussi Adler-OlsenのKvinden I Buret(2008)「特捜部Qシリーズ」あたりまで警察小説のメインストリームを形成する。1984年は警察小説における「やぶれかぶれ暴走おっさん警官」元年といった趣があるのである9

性が絡んだ明確な偏向に基づく連続殺人というと、本連載第5回・6回で取り上げたStuart Woods Chiefsが思い出される。どちらも「倒叙ミステリ」の形式を踏まえている点も同じなら、犯人が「オーガナイズド型10」のシリアルキラーである点も同じである。だが読感は全く異なり、現に本稿筆者もこの原稿を書くまで両者を並べて考えたことがなかった11。逆にどこが異なるのか考えてみると、主人公「警官」が傾倒する対象の微妙な差を挙げられるかもしれない。

この殺人犯はおれのものだし、おれはそいつの追手だ、とウィル・ヘンリーは思った。おれたちはたがいに切っても切れない仲なのだ。たとえ一生かかろうとも、そいつを見つけ出さなくてはならない。12

これは第6回でも引いたChiefsの主人公ウィル・ヘンリー署長の述懐である。当該回では上記発言に見られるウィル・ヘンリーの変節を「町から「事件」への浮気13」、言い換えれば「お巡りさん」から「刑事」への変化として読み解いた。これ自体はたいていの作品で目にする類の常套句であり、仮にこうした物言いを「俺ヤマ言辞」とでも呼ぼう。Blood On The Moonにも同様の発言は認められる。

「俺は自分がこの事件を解決する宿命を負っているような気がするんだ」ロイドは、鏡に写った自分の姿に目をすえて言った。「犯人をあげて、なぜやつがこんなに大勢のけがれない娘を殺したのか知るまでは、自分がどんな人間でどんな人間になりうるのかわからないような気がする」14

ホプキンズの「俺ヤマ言辞」がウィル・ヘンリーおよび一般的な「警官」のそれと異なるのは、事件を解決するのがこの「俺」でなければならないという独善性があまり見受けられないところである。ホプキンズはあくまで集団捜査を訴え続けるものの、直属の上司に拒まれ、そのうち信頼するダッチ・ペルツとも袂を分かち、挙げ句人事調査15が動き出しバッジを取り上げられそうになり、仕方なく単独調査を続けるのであって、最終的には腹をくくるとしても「俺」独りであることは決して最初から彼の望むところだったわけではない。彼は「俺」の手で事件を解決することではなく、「なぜ」を「知る」ことを欲する。そして幸か不幸か、彼にはそれがわかってしまう瞬間が度々訪れる。

トロピカーナ・モーテルのまえの歩道を、ロイドは注意深く観察した。地面には亜硝酸アミルのつぶれた錠剤がおちていて、ホモの男娼の麻薬常用者たちが、コーヒー・ショップの壁にもたれかかっていた。それを見たとたん、ロイドの頭のなかがいっきに爆発した。その爆発を通して、いっきに視界が開けたとき、彼は恐怖を感じた。しかし彼はその恐怖を無視して、公衆電話に走った。そして、震える手でかけなれた七つの数字をまわした。耳なれた声が、ため息と共に回線を伝わって聞こえた。

「ハリウッド署、ペレツ警部」

ロイドは小さな声で言った。「ダッチ、殺しの理由がわかったぞ」16

ことほど左様に調べ物中突然(「それを見たとたん」)わかる瞬間が彼には度々訪れる。まさに直観である。ときには天啓を待つのみならず自分から打って出ることもある。

ロイドは四つのフォルダーをつかみ、はじめから最後まで読み通した。一度ならず二度。読み終わると、部屋の電気を消し、椅子に背をあずけ、いま知り得たことを思いながら飛翔した。17

「飛翔した」と語られた次には、報告書の記載から現場検証をした「警官」が何を見てどう判断したのかを思い描き、それをもとに犯人の「なぜ」を探る記述が続く。ひと渡り再構成がすむと「この殺人鬼の狂気が最高潮に達しているというひどくいまわしい確信18」を抱くに至り、どうやらこの行為が一定の成果を上げたらしいことがうかがえる。

このような動機の解明に焦点をあてたミステリを一般に“whydunit”と称するが、これは主人公による捜査と並行して犯人の思考や情動が記述される「倒叙ミステリ」と滅法相性が悪い。探偵なり「刑事」によって最後に解明されるはずの犯人の動機が読者にとっては最初から明らかになっており、解明に伴う驚きが生じないからである。両方が採用された本作でも「詩人」の動機は捜査によらず明かされており、驚きが生じる余地はない。代わって明らかにされるものがあるとすればそれは、ホプキンズと「詩人」との相同性そして共鳴である。両者は、間にマカーシーを挟み、実は同じ高校出身だった、実は同じ女を好いている、実は過去に同性からのレイプ被害を受けた経験がある、といった共通点をもっていることが次第にはっきりしてくる。そしてわかってしまう男ホプキンズはしまいにこんなことを考えるようになる。以下は、人事調査の手を逃れ密かに「詩人」テディ宅に無断で侵入し、猟奇的なコレクションに怖気をふるって逃げ出した直後につけたカー・ラジオから別の浮気相手ジョーニーが「詩人」に殺されたことを告げるニュースが流れ、それを耳にしたホプキンズの心内描写である。

ロイドはすすり泣きをはじめた。そして、ラジオを思いきり蹴とばし、ダッシュボードからカー・ラジオをはぎとり、窓の外へ投げ捨てた。ジョーニーが死んだ。彼の天才的頭脳が、テレパシーで開く納骨堂の扉となってしまったのだ。彼はテディの考えを読むことができ、テディは彼の考えを読むことができた。19

「飛翔」の時点ですでにヤバイ臭いがプンプン漂っていたが、よりによって「テレパシー」である。先だってホプキンズから「なぜやつがこんなに大勢のけがれない娘を殺したのか知るまでは、自分がどんな人間でどんな人間になりうるのかわからないような気がする」という言葉が出てきたのは、わかり合ってしまうホプキンズと「詩人」とが同質の「人間」である、という方向に物語が展開するための布石だったわけだ。しかしホプキンズははまだわかり足りないらしい。ダッチ・ペレツの介入もあって「詩人」との直接対決を辛くも生きのびたホプキンズは、対決時に負った傷を癒すため担ぎ込まれた入院先の病院で悪夢にうなされる一ヶ月を過ごし退院すると、再び「詩人」宅に向かう。そしてそこで待ち受けていたダッチ・ペレツと以下のような会話を交わす。

壁に軽く指をはわせながら、ロイドは言った。「ここでなにを見つけたんだ、ダッチ? 俺は知らなきゃならない」

ダッチは頭を振った。「だめだ。もう知らんでいい。二度とそれをきくな。俺はおまえを疑って、もう少しでおまえを裏切りそうになったが、自分のまちがいを正した。そして、俺はもうなにも言うつもりはない。テディ・ヴァープランクに関して俺が見つけたものは、なにもかも破壊されるんだ。彼はこの世に存在しなかった。おまえとキャスリーンと俺がそれを信じこめば、おそらく俺たちは正常な人間として生きていけるよ」20

ここで「知らなきゃならない」と彼の述べる対象は、第一義には前回侵入した際即座に逃げ出したせいでろくに調べられなかった「詩人」の所業の痕跡だが、事件にケリがついてもなおそれを求めるのはその背景に「なぜ」を希求する思いがあるからだ。だが、「知らなきゃ」というホプキンズの願いをダッチ・ペレツは断ち切ろうとする。彼の言う「正常な人間」がホプキンズの述べる「人間」と異なるのは明らかであり、二つの「人間」が相容れないのもまた確かだ。このやり取りは次のように続く。

ロイドは、壁に拳をたたきつけた。「しかし、俺は知らなきゃならないんだ! ジョーニー・プラットに償いをしなきゃならないし、俺はもう警官じゃないから、今後どうするかきめるためにも自分にけりをつけなきゃならない! あんなひどい夢ばかり見ていたら、この世に存在したって――」

ダッチはロイドに歩み寄り、両手を肩においた。「おまえはまだ警官だよ。俺は署長のところへいった。嘘をついたり、脅したり、はいつくばったり、昇進も人事局の局長の座もぜんぶ棒に振ってきた。おまえと人事調査課のトラブルは存在しなかった。テディが存在しなかったようにな。でも貸しができたぞ。今後はその借りを返すんだ」

ロイドは、涙をふいた。「どうやって?」

ダッチは答えた。「過去を葬って、おまえの人生を生きていくことでさ」21

ホプキンズの発言の要点は「ジョーニー・プラットに償い」「自分にけり」の二つである。「償い」を口にするのは「テレパシー」を通じてわかり合ってしまったがゆえにジョーニーの存在を「詩人」に知られ22、間接的に彼女の死に加担してしまったとホプキンズが考えているからだと思われる。すでに「警察」を放逐された(と自分では思っている)身としては、彼女を殺した「詩人」と同質の「人間」である自分など生きていても仕方がない、「自分にけりをつけなきゃならない!」と、彼は世を儚むモードに入っている。

探偵が自身と犯人とを同質と見なす考えは昔から枚挙に暇はない。「それが何か?」と開き直れないホプキンズが些かナイーヴだと思わないこともないが、むしろこのナイーヴな悩みにウジウジ囚われ続けることをあたかも当世風の「刑事」に課せられた「職務」の一環であるかのごとく主人公連に引き受けさせてきたのがある時期以降の警察小説の流れといえる。決まって彼らはbureaucratic下手、世渡り下手なアウトロー気質の逸脱「刑事」であり、逸脱(≒犯人との同質性獲得)ゆえに悩むという物語上の彼らの身振りは、裏を返せば悩ませるために逸脱に走らされているのだともとれる。

ダッチ・ペレツは、同質さを現実として受けとめるでも悩んで自死するでもなく、その源泉となるような「過去を葬って」「おまえの人生を生き」て「警官」やれよ、と第三の道をホプキンズに示す。ホプキンズの過去も悩みもすべては紙の上のできごとであり、ひとたび公開され衆目に曝されてしまった以上「葬」ることはできないはずだが、そんなメタな大人の事情をペレツが把握できるわけもなく、なにやら非常に酷薄無情なことがここで述べられている。ホプキンズがペレツの発言をどう受けとめたのかは書かれておらず確かめることはできないものの、この後復職(もとい辞めたわけではないが)したホプキンズは自分のデスクに一輪の赤い薔薇と手紙が置かれているのを発見する。差出人はマカーシー。あなたを愛しているけど一緒にいるとつらいから離れていましょう、的なことが綴られた手紙の末尾、追伸をみてみる。

追伸 そのバラは、テディへのたむけです。私たちが彼のことを覚えていれば、彼も二度と私た ちを傷つけられないでしょう。

ロイドは紙をおき、花を取った。それをほおにあて、そのイメージを彼の商売道具と重ね合わせた。花の香りがする恐怖が、スティールのファイル・キャビネットや指名手配ポスターや町の地図とまじり合って純白の光を生みだした。キャスリーンの言葉がその光を音楽にかえたとき、ロイドはその瞬間を心のいちばん強い繊維にかえ、それをもち去った。23

リメンバー・テディ・ヴァープランク。どうせ忘れられないなら、忘れようとしないことがあなたのためよ。ダッチ・ペレツと真逆のことを彼女は書き残して去っていった。赤い薔薇は「詩人」がマカーシーの誕生日が来るたびに女性を殺しその後彼女の元へ送り届けていた、思い出の品である。それをホプキンズに送る行為が彼女にとってどういう意味を持つのかイマイチよくわからないが、なんにせよ送られた側からしたら呪いに違いない。「キャスリーンの言葉がその光を音楽にかえたとき、ロイドはその瞬間を心のいちばん強い繊維にかえ」という比喩めいた述懐も同様にさっぱり何を言っているのかわからないのだが、「それをもち去った」とあるので「葬っ」たわけではなさそうだ。ホプキンズはダッチ・ペレツの言に従って「警官」を続けることにしたが、ペレツの言いつけを一部守らずマカーシーのリメンバー・テディを胸に抱くことにした。苦しい思いを携えて「警官」として「人生を生き」る道、前回それをセラヴィスタと呼んだのは記憶に新しい。やめておけばいいのに、と思わずにはいられない。

ところで、実は本稿筆者が本作のなかで最も気になったのは先ほども触れた「飛翔」という語彙だったりする。手垢まみれの凡庸な比喩だ。シモンズ氏のように稚拙さに目くじらを立てるのでもなければわざわざこの言葉遣いに拘泥する必要もまず生じることもあるまい。なぜこれに引っかかりをおぼえるのかというと、次期シリーズ“L.A Quartet”の到達点が真逆の方向性を示しているからである。シリーズ最終巻White Jazzの劈頭に現れる文字列 “I want to go with the music – spin, fall, with it.24”こそ、本稿筆者を今もなお呪い続ける本丸中の本丸であり、佐々田雅子氏によって「ぐるぐるまわって、おちてゆくのだ25」と訳されたその文言が強烈に刷り込まれているがゆえに、「飛翔」という言葉は違和感なくして受けとめきれなかった。「飛」んでどうなる?一緒に「おちて」いこうじゃありませんか。

2019.6.10

第9回 Looming ヒデオ・アシダ & Glooming Hideo Ashida ~“Japanese”を巡る困難な翻訳の話~

ヒデオ・アシダ、現地生まれの移民二世。父(故人)は移民一世の鉄道敷設工、母マリコは反ユダヤ主義と皇道崇拝にかぶれる飲んだくれ、兄アキラは農場経営。犯罪学その他の博士号を持つLAPD付の“Police Scientist1”にして伝説的な鑑識官レイ・ピンカーの愛弟子。

前回触れたJames Ellroyの最新シリーズ“Second L.A. Quartet”は第二次大戦後を時代設定とする無印“L.A. Quartet”の前日譚とされており、シリーズ第1作Perfidia(2014)は1941年12月6日、大日本帝国軍による真珠湾攻撃前夜のロサンゼルスを舞台に幕を開ける。同日、ハイランドパークに居を構えるワタナベ家四名の割腹(を模した)死体が発見される。この事件の捜査を主軸に、敵性国民たる“Japanese”の一斉検挙2やそれに便乗した土地の買収工作、共産主義グループへの潜入捜査、市警内部での勢力争いなどが複雑に絡み合った状況下、同作の主人公3として立ち回りを余儀なくされる人物の一人がヒデオ・アシダである。

物語最序盤(第1節、12月6日)、自作のナンバープレート自動撮影カメラ4のテストを行うため近頃強盗にカモにされていたドラッグストアを訪れたアシダと師匠のレイ・ピンカーは、本当に強盗に遭遇する。犯人は取り逃がすものの流れで現場検証を行うことになった彼は、通報を受け駆けつけたバズ・ミークス巡査部長と以下のやり取りを交わす。

ミークスがウィンクした。「おまえさんのいうとおりだ、チャーリー・チャン」

「ぼくは日本人です、巡査部長。あなたには違いがわからないでしょうが、ぼくは中国人なんかじゃありません」

ミークスはにやりとした。「おれの目にはおまえさんはアメリカ人に見えるがな」

アシダはぼうっとなった。そこまでおだてられるとくらくらして――5

ミークスの述べる「チャーリー・チャン」とは、1920~30年代にかけてE・D・ビガーズの発表した探偵小説の主人公、ホノルル警察所属の同名警部のことであり、幾度も映画化され「黄色人種」のキャラクターとしては当時相当有名だったらしい。揶揄を込めてアシダをそう呼ぶ者も作中には現れるが、ミークスは現場の状況を的確に読み取るアシダの古典的な意味での探偵能力を称え、そこはかとない親しみを込めてこう述べている。似たようなやり取りはこの直前にも交わされる。店の外で機械をいじりつつ様子をうかがっていたところ通りがかった「メキシコ人」のバス運転手から「ジャップのクソッタレ」と罵られたアシダを擁護するようにピンカーがこう述べる。

「そういうおまえたちの誰がここで生まれた? リオ・グランデをこっそり泳ぎ渡ってきたんじゃないのか?」

アシダはネクタイをまっすぐに直した。「まったくそうですよ。あなたが初めて今みたいなことをいったとき、あなたはほんとに腹を立ててましたね。それで本音なんだとわかりましたよ」

ピンカーはにやりとした。「きみはわたしの弟子だ。つまり、きみはわたしのジャップだ。わたしはきみに対して権利を持っているということだな。それはともかく、きみはロサンジェルス市長に雇われているただ一人のジャップだ。つまり、それほど貴重な存在だ。おかげで、わたしにもそれだけ箔がつくっていうもんだ」6

ピンカーは人種問題にはみごとなほどに意識がなかった。アシダをチャーリー・チャンの一番弟子にたとえた。アシダはピンカーに教えてやった。チャーリー・チャンは中国人だ、と。ピンカーはいった。「わたしにはさっぱりわからんね」7

「ジャップ」「ジャップ」「ジャップ」。アシダは知己からも他人からも過たず8そう呼ばれ続け、どこに行ってもそう呼ばれ続け、彼自身そこはかとなく自嘲気味に自らを “Japanese”と呼ぶ。彼にとって、表現形は異なれど “Jap”と“Japanese”は同じ属性を指す言葉であり、彼がその属性を帯びていることは彼自身にとって自明のことである。きな臭い情勢下においてそれがどれほど不快であろうとも、自力でどうにかできる類のものではない。なればこそ、ピンカーとミークスの態度は彼にとって心地よい。“Japanese”と“Chinese”との違いを「さっぱりわからん」と言って恥じることないピンカーと、違うかどうかにかかわらず彼を“American”と言ってのけるミークスとは異なる態度でアシダに接しているが、アシダにとっては“Jap”=“Japanese”の色眼鏡を取っ払って相手をしてくれるだけで「おだてられ」ているに等しく、「くらくら」するのもむべなるかなである。

そんなアシダが終盤になるとこんなことを言うようになる。メキシコの某湾に潜んでいた日本軍の潜水艦を拿捕し、乗組員の尋問をその場でただ独り日本語を解するアシダが暴力交じりに行った直後の場面である。カルロス・マドラーノはメキシコ州警察の警部、ダドリーはLAPDの巡査部長である。

太ったジャップがもぞもぞ動いて、ヒデオに血を吐きかけた。男は英語を思い出した。「このホモ野郎」

ヒデオは・カルロス・マドラーノのルガーをつかんで、それを男に突きつけた。ほかのジャップは凍りついた。テント全体が凍りついた。

ダドリーはギアがカチッと入るのを見た。イエス/ノー、イエス/ノー。

ヒデオは銃を下ろした。

ヒデオはいった。「ぼくはアメリカ人だ」9

まったく同じ発言が後にも繰り返される。ヒデオの市警への貢献から見送られていたアシダ家の一斉検挙が数ヶ月後に執行されることを告げられた直後の場面である。エルマー・ジャクソンはアシダの護衛に就くLAPD巡査部長である。

真東のほうで誰かが口笛を吹いた。アシダはそちらを見た。隣の屋上をうろついていたエルマー・ジャクソンが、ショットガンを振ってみせた。

エルマーが大声でいった。「よう、ヒデオ!」

アシダも大声でいった。「やあ、エルマー!」

アシダは思った。ぼくはアメリカ人だ。10

会話文と地の文の違いはとりあえず脇におく。「ぼくは日本人です」から「ぼくはアメリカ人だ」へ至る過程をすっ飛ばし言葉だけを並べたとき、果たしてどのようにみえるだろうか。アシダは家族とも英語で会話を交わし、移民一世の母親のピジン・イングリッシュに対して「ちゃんとした英語をしゃべりなさいよ、母さん」とたしなめる、そういう人物である。

アシダは母国語で考えていた。といっても、それは第二の言語だった。アシダは生得の権利を持つアメリカ人だった。人種コードが日本人ということだった。11

アメリカ生まれアメリカ育ち、アメリカの大学で博士号を取得し作中の誰よりも学があり、アメリカの警察で働き同僚の誰よりも「ちゃんとした英語」を活用する人物が、手ずから尋問した「ジャップ」に突きつけた銃を下ろしたとき、そしてお前の一家も検挙対象から免れないと宣告されたとき、わざわざそういうタイミングで発した「アメリカ人」という発言が悲鳴でなければ他の何だというのだ。

本筋であるワタナベ一家殺害事件の現場には日本語で書かれた遺書が残されていた。

いま迫り来たる災厄は

われらの招きたるものに非ず

われらは善き市民であり

かかる事態を知る身に非ざれば12

現場に訪れたアシダの最初の仕事は、その場で唯一日本語を解する者としてこの文言を読解・翻訳することだった。これは、右翼グループと繋がりがあり民生機を遙かに超えるスペックの無線通信機を所持するワタナベ家が真珠湾攻撃を事前に把握したうえで罪の意識に苛まれ一家心中を図った、という方向に警察をミスリードするために用意された偽造文書であることがアシダの尽力により案外あっさりと暴かれるのだが13、偽造かどうかにかかわらずここに書かれた「われら」に“Japanese”あるいは「アシダ」と代入せずに読むことは難しい。具体的なことは何も言わず凶事を仄めかすという意味で、これは極めて適格な予言の言葉だ。

本稿で「市民」という言葉が現れると、あ、またモブ革命14か、と思う方がいらっしゃるかもしれない。が、今回は違う話をするつもりでいる。ヒデオ・アシダの物語を日本語ネイティヴとして日本語で読むことの困難、が今回のテーマである。

“I’m Japanese, Sergeant. I know you can’t tell the difference, but I’m not a goddamn Chinaman.”

Meeks grinned. “You look like an American to me.”15

Hideo lowered the gun.

Hideo said, “I’m an American.”16

Ashida thought, I’M AN AMERICAN.17

件の箇所の原文は訳文から容易に想像されるとおりこうなっている。本稿筆者は本作を原文で読んでおり18今回初めて佐々田氏の邦訳に当たったのだが、原文を読んでいた当時本稿筆者が直面した困難が邦訳でどう処理されるのか非常に興味があった箇所の一つがまさにここである。なんということはない、中学1年の英語の授業で最初に習いそうな文言である。邦訳も、まぁこうなるよな、という無難なところに落ちついている。だがしかし。“Japanese”が「日本人」と訳されるのを目にすると、違和感、というより拒否感を覚える。確かに「日本人」という訳語は“American”あるいは「アメリカ人」ときれいな対称をなしており、太平洋戦争下における二重国籍者の受難という、いってしまえば非常にわかりやすい形でアシダの状況を把握する助けにもなるだろう。唯一人の“Japanese”としてほぼ「白人」からなるLAPDに属し、“Japanese”一家の殺人事件を追う合間に“Jap”の尋問をやらされる彼の苦難の道のりをナショナリズムの面から読むことは決して無理ではない。だがしかし。「アシダは生得の権利を持つアメリカ人だった。人種コードが日本人ということだった」とあるように、そもそも彼は「日本人」ではない。“Japanese”であり“Jap”であるとしても、決して「日本人」ではないのである。「日本人」という訳語は、根本的に「アメリカ人」であり切実にそうであろうと欲しながら十把一絡げに敵性国民扱いされ、かつ「日本人」ですらない彼の置かれた立場を寧ろ見えにくくしてしまう恐れがある。

記述面からもこの問題は頭をもたげてくる。アシダは読む人である。現場の状況を読み、犯罪学のテクストを読み、空気を読み、他人の顔色を読む。作中通して終始なにかを読んでいる。先にも述べたように、ワタナベ家に到着してすぐ彼に要求されたのも、例の遺書もどきを読むことだった。

Dudley studied the note.


 今迫り来る災厄は  われらが招きたるものに非ず

 われらは善き市民であり かかる事態を知る身に非ざれば


The Jap walked in. It was 1:30 a.m. He was groomed and bright-eyed.

“Do you read Japanese, Dr. Ashida?”

“Yes, Sergeant. I do.”

Dudley pointed to the note. Ashida studied it.

“‘The looming apocalypse is not of our doing. We have been good citizens and did not know that it was coming.’”19

この遺書は原文でもローマ字表記ではなく和文表記である。先だってこれがダドリーに発見された際の地の文には“Two lines. Japanese characters. The obvious suicide note.19”という文言が現れる。そのうえで上記のような形で地の文に“Two lines”に分かれた“Japanese characters.”が出現することによって、まさにダドリーが直面したであろう解読不可能な異言語(しかも目下の敵国の)との遭遇を、原文読者はここで追体験することになる。引用箇所の最後は二重に引用符で括られていることからアシダによる翻訳であることが形式的にわかる。「われらが招きたるもの」を例えば“of our bringing”や“of our causing”などとせず“of our doing”とするあたり逐語的に正確な訳だとはいえないし、元の言葉遣いに比べるといくぶん平明すぎるきらいもある。しかし死体のそばで発見された一家心中の遺書(もどき)の文意を同行者に伝える状況であることを踏まえると、むしろアシダの配慮がにじむ訳であるとみなせる。アシダは「手引きした」とも「引き起こした」ともとれる「招きたる」を後者に寄せて単純化し、<俺たちはやってない>というニュアンスを明確にするとともに、「かかる事態」を“it was coming”とすることで「災厄」は「われら」の与り知らぬところで勝手に動いている事象であり<俺たちとは無関係>であることをダメ押し気味に強調する形で訳出している21。こうした操作に加え、「迫り来たる災厄」を“looming apocalypse”とする点も見逃せない。まず“looming(loom)”だが、これは「人影がぼうっと現れる」や「暗雲立ちこめる」といった、なんだかわからないがとにかく何かが迫ってくるという極めて不穏な予感を彷彿とさせるニュアンスの言葉であり、自殺者のそばに「災厄」と書かれた紙を見つけてしまったがその言葉が何を指し自殺者とどういう関係にあるのか皆目わからないというアシダとダドリーの置かれた状況をも匂わせる語彙選択である22。また「災厄」を“disaster”や“catastrophe”などとせず、“apocalypse”としたのは、同行者が作中のLAPDで知らぬ者のない「アイリッシュ・カトリック」の巨魁、ダドリー・スミスであることを慮ってのことだろう。アシダはダドリーと同じくこれを“studied”したうえで即座にここまで状況と相手に即した英語に翻訳し、加えてダドリーによる「あんたの文化的な背景から生まれた発見みたいなものはないか?23」との要請に応えてみせる24。敬称無しあるいは気易く“Doc”などとせずきちんと“Dr.”と呼ぶあたり元々礼儀正しくアシダに接していたダドリーは、聞いている内容こそ“Japanese”にまつわるあれこれだが、その態度に“Japanese”だから侮ってかかるといったところは見受けられず、これを機にアシダの手腕を高く買い最後まで評価し続ける。現場の遺物から余人の読み取れなかった意味を引き出すという点において、ミークスのときと同様に、ここでもアシダは発揮した読解の冴えすなわち探偵能力によってダドリーから敬意を勝ち取っている。だがエルロイ全作品を通じて初めて文中に現れた“Japanese characters”を読んでしまえたことがアシダの前途を明るくしたのかどうかは一考の余地がある。彼は自らの有用性とともに拭い去りがたい“Jap”の出自をも対外的に証明し、図らずも「アメリカ人」として遇されたいという望みに自ら待ったをかける形になってしまった。“Jap”の家系に生まれ“Japanese”を解する「アメリカ人」が許容される社会はすでに「日本人」の手によって葬り去られている。アシダはそういった情勢下に生きているのである。

ところで上掲箇所を邦訳で読むと、どこかおかしい。

書き置きをじっくり見た。


 いま迫り来たる災厄は

 われらの招きたるものに非ず

 われらは善き市民であり

 かかる事態を知る身に非ざれば


呼んだジャップが入ってきた。午前一時三十分。きちんと身づくろいして、きびきび動いていた。

「日本語が読めるかね、アシダ先生?」

「ええ、巡査部長。読めます」

ダドリーは書き置きを指さした。アシダはそれに見入った。

「迫りくる災難はわれわれが招いたものではない。われわれは善良な市民であって、こんなことになるとは知らなかった」25

遺書の文言は一言一句違わず原文のままである。しかし組版が上下二段組みになり行毎の文字数が制限された結果、地の文で「二行26」と言っておきながら四行に分かれてしまい、未知との遭遇感が失われそもそも整合性がとれなくなっている。アシダによる訳出箇所をみると、まずなぜか二重引用の体裁が取り払われ一重になっている。また一見原文の平明な英訳がそのまま日本語に移し替えられているようでありながら、原文においてアシダが “of our doing”と意訳した箇所がむしろ元の文言「われらの招きたるもの」を現代語的に言い換えた「われわれが招いたもの」という形になっている。二行目後半の“and did not know that it was coming”のほうは「こんなことになるとは知らなかった」となっているが、これでは<俺たちの行動の結果がこんなことになるとは思ってもみなかった>といったニュアンスが出て<無関係>どころか大いに<関係あり>になってしまっており、こちらは“it was coming”がうっちゃられ“of our doing”に引きずられている。“apocalypse”もまた黙示録の喇叭が吹き荒れるどころではなく「災難」という形に矮小化されている。英訳において文語調の原文を平明化したポイントは決してそこではなかったはずなのだが。意訳が誤訳された結果、固い日本語を訳したのだか翻案したのだかよくわからない柔らかい日本語の残念発言が残され、読みのスペシャリストであるはずの「先生」の株はだだ下がりである。さらにいえば、原文のまともな英語が邦訳のまともな日本語に置き換えられた結果、読むのは大丈夫でも話す・聞くがあまりうまくないはずのアシダの日本語運用能力が格段に流暢になり、「ヒデオ・アシダ」という和名の「日本人」が日本語を話しているようにしか見えなくなるのである。英訳に見られた選択と収斂と配慮は跡形もない27

邦訳を介してHideo Ashidaと「ヒデオ・アシダ」とがどんどん乖離していく。どんな書物であろうとも多かれ少なかれ原著と訳文の異同は発生するし、同一なはずの人物の乖離も避けられるものではない。なまじ日本語ネイティヴの日本人である分、本稿筆者は「ヒデオ・アシダ」なる人物のことを他の登場人物よりわかった気になってしまう。これは上に述べてきた事情のみならず、彼が無印“L.A. Quartet”のダニー・アップショウ(The Big Nowhere)、および“Underworld U.S.A. Trilogy”のウォード・リテル(American Tabloid、Cold Six Thousand)を先達とする、ナイーヴでフラジャイルな男たちの系譜に連なる人物であることも大きい。恥ずかしながら、本稿筆者はこの手の人物に滅法弱い。だがそれではいけないのだ。それではHideo Ashidaが浮かばれない。Ashidaのことを考えるためには、エルロイ作品のフラジリティに触れなければならない。ああ、ついにこのときがやってきてしまった。

My “looming apocalypse” is now.

2019.8.12

第10回 もやもやSmithology

リヴァプール大学のSteven Powell氏が編集したTHE BIG SOMEWHERE Essays on James Ellroy’s Noir World1をパラパラめくっていたのである。編者のPowell氏はエルロイへのインタビュー集成本2や一冊まるごとエルロイ研究の単著3を物されたこともあるエルロイ研究の第一人者、らしい。本書は世にも珍しきエルロイ研究論集である4。Introductionにて「対象は同じでも各論者のスタンスや論考の内容はバラバラ(意訳)」と述べられているとおり、目次を見るだけでも各論考の方向性が多岐にわたっていることが確認できる。本論部分の構成は以下の通りである。

Part 1 Genre and Literary Influences:この章にはエルロイが被った先人からの影響が考察された論考が二本収録されている。片方はレイモンド・チャンドラーとダシール・ハメット、つまりハード・ボイルドとノワールが影響元とされ、もう片方ではジョゼフ・ウォンボーが取り上げられている。

Part 2 Ellroy and Noir:この章はLA四部作の作品読解二篇。一方は四部作随一の強キャラ、ダドリー・スミスに焦点をあて、もう一方は作中LAの映画的な書かれ方について、となっている。

Part 3 ‘America Was Never Innocent’: Underworld and Government Power Structures:ここでは○○学的アプローチの論考が四本。アルチュセールとフーコーに依拠したものや、人種問題、暴力、パラノイアを考察したものが含まれる。

Part 4 Ellroy and After: The Ellrovian Influence on Authors and Genre:最後はエルロイが与えた後続作家への影響である。ミーガン・アボットとデイヴィッド・ピースに関してそれぞれ一篇の論考が収められている。

論考十本、おおよそ200頁。なかなかの力作である。各タイトルを眺めると総じて“noir”という単語が目につくが、2015年にリヴァプール大学にて催された“Noir conference”が本書の発端になったとのAcknowledgementsの記載を読めばおおよその事情は察せられる。大方の論者、とりわけ編者Steven Powell氏その人の念頭に「ノワール作家エルロイ」が前提としてあったのだろう。本連載的には“Police Novels”もしくは“Police Procedurals”との連関にまつわる論考がウォンボー以外にもあったらよかったのにと思わないこともない。気になったのはPart 4の章題に現れる“Ellrovian”という表記である。“Ellroy”を形容詞化するとこうなるらしいことは間違いないとして、Powell氏の言葉なのかそれとも業界(?)標準なのか、にわかに判断がつきかねる(大して目を通しているわけではないものの、他所で見かけたことがない)。

一際目を引くのはPart 2に収められたAnna Flügge氏の論考“‘Capable of Anything’: Dudley Smith’s Role in Ellroy’s LA Quartets”である。タイトルを訳すと「「何をしでかしてもおかしくない」:ジェイムズ・エルロイLA四部作におけるダドリー・スミスの役割」となる。ダドリー・スミスの名はPerfidia(2014)を扱った第9回にてすでに本連載にも現れている。彼を簡単に紹介すると、LA四部作の第二作The Big Nowhere(1988)から第四作White Jazz(1992)にかけて悪の総本山として常に主人公達5の行く手を阻み続けた敵役(≠犯人)のLAPDの警官であり、つまるところラスボスである。LA四部作の前日譚に当たる最新シリーズ“Second LA Quartet”第一作Perfidiaにて初めて主人公の一人として登場し、現時点の最新作This War(2019)でも引き続き主人公の一人をつとめている。四部作・第二次四部作以前に書かれた第二作Clandestine(1982)にも同名の警官が登場するが、これを四部作以後のダドリー・スミスと同一人物と見なすかどうかの判断は人による。Anna氏の論考では、四部作にClandestineを加えて五部作として扱うべきとの意見を紹介しつつ、自身の立場としては加えても加えなくても論旨に変わりはないと述べられている。

この論考を取り上げる意味は奈辺にありやと問うむきあらば、いざ答えて進ぜましょう。理由は二つ。一つはこの論集の中でも数少ない、「エルロイ」を主語にとらない論考であること、である。エルロイ作品に言及した文章は、英語はいうに及ばず日本語でも相当数あるが、その大半がエルロイ自身の生い立ちおよび自己言及を参照項に作品を読解している。幼い頃母親が殺され未解決のまま今日に至るというエピソードもさることながら、引退した警官を雇い自身でその事件の解決を目指した軌跡を綴ったMy Dark Place(1995)を出版するなど、エルロイは己を執筆のネタにすることにためらいがない。インタビューにもよく応じる著者本人が万事こういった調子なので、読者もそこに依拠しがちである。編者のPowell氏もエルロイ本人の自己言及および“Demon Dog”という自称を考察の軸に据えて論じるタイプの方である(註3の文献を参照されたし)。無論こうした論においても対象は執筆者本人ではなく、露悪的な自己言及によって成立した“Demon Dog”という名の執筆ペルソナである、という程度の節度は守られている。しかし本連載筆者は著者あるいは作者を対象に何事かを述べることに対する忌避の念が拭いがたくあり、その点あくまで作中人物への言及に踏みとどまろうとするAnna氏のスタンスには非常に共感を覚える次第である。理由その二は、“Dudley Smith’s Role in Ellroy’s LA Quartets”という設問が直球ど真ん中すぎてなかなかできることではない点である。四部作を一度でも6読んだことのある読者であれば、主要人物の名前を忘れることはあってもダドリー・スミスだけはなにがあろうと覚えている、彼はそういう登場人物であり、これは誰しも一度は想いを巡らす極めてまっとうな問いかけなのである7

本論考ではダドリーが登場する作品の具体的な文言が取り上げられ彼の“Role”が考察されるのだが、言及される作品は論考に出てきた順に映画版L.A. Confidential(1997)、Clandestine(1982)、The Big Nowhere(1988)、L.A. Confidential(1990)、White Jazz(1992)、Perfidia(2014)の六作であり、本書刊行後に発表された最新作を除きダドリー・スミス登場作のすべてを網羅している。

この論考の起点は冒頭近くに置かれた以下の発言にあると思しい。

Smith is nearer to an idea of evil than a fully fleshed out character: it is by staying on the periphery that Smith maintains this mythological and diabolical status as if the demands of carrying the narrative would weaken his power. 8

スミスは十全に肉付けされた一キャラクターというよりも悪の観念そのものに一層近い。周辺部に留まることによってスミスはこの神話的かつ悪魔的な地位を維持するのであり、それはあたかも語りを担う要請に従ってしまっては彼の力が弱められてしまうかのようである。

さてAnna氏はこの発言で何を言わんとしているのか。最初の一文はふ~んと言ってそのまま飲み込むしかない。続く“by staying on the periphery”だが、上掲箇所に続く一文9を踏まえると、四部作においてダドリー・スミスが主人公にならないことを指していると理解できる。最後の“the demands of carrying the narrative”は、“carrying the narrative”にかかるような複数形の“the demands”が前後を読んでも何を指すのか正直にいってよくわからない。四部作の作品毎に、という意味で複数形になっているのだろうか。この発言のポイントは“by staying on the periphery”の部分にある。2014年のPerfidia出版以前であれば、“Smith maintains this mythological and diabolical status”と述べるだけで話が済んだかもしれない。しかし本書はPerfidiaにおいてダドリーが“the periphery”から引きずり出され主人公になったあとの2018年に刊行されており、本論考もPerfidia込みで、とはすなわちAnna氏の言葉を借りれば“his strength is not yet established10”なダドリーをも含み込んだものとして記述されている。結果として本論考は、ダドリー・スミスが“staying on the periphery”の状態にある四部作プラスアルファを対象とする前半と、彼がその状態にないPerfidia(および潜在的には未だ全貌の見えない第二次四部作全体)を対象とする後半とで論調に変化が生じている11

前半ではダドリー・スミスと主人公達との違いが語られる。ダドリーは権力と金のため理性的に計画立てて行動し、理想実現のためなら敵味方問わず排除する非情さを持ち合わせている。さらに身分の上下を問わず周囲のあらゆる人々の情報を収集・活用し、各所の人材をたらし込んで手勢に加え、上司もおいそれと手をつけられない一大帝国を築いている。その手腕は確かに悪そのものといった佇まいであるものの、同時に「アイリッシュ・カトリック」という出自に則り、対外的には信仰に篤く家族愛を重視する素振りも見せ、善悪兼ね備えた人物であるとされる。彼に対抗する主人公勢は大抵が悪徳警官か権力志向が強いかであり、むしろダドリーの小粒な同類12といった趣がある。ではなにが両者を分かつのか。Anna氏によればそれは、罪悪感や復讐心の有無である。主人公達はダドリーとの対立の途上で死傷した仲間13に対して、彼らを死に至らしめた原因の一端は自身にあると“the burden of conscience14”「罪悪感」を抱き、“redemption”「償い」を求めて“a deadly game with Smith15”「スミスを相手どった分の悪い勝負」に打って出るという考えに“obsessed”「執着する」ようになる。しかしAnna氏によれば“Smith lacks moral self-awareness or even a recognition of right and wrong.16”「スミスには道徳的な自意識はおろか善悪の認識が欠けている」。ここが最大の違いとされる。

It is Smith’s obsession with order and power that puts him at odds with the protagonists fighting him, since they become obsessed with some form of meaning and justice in their crusade against him, a crucial difference in the Quartet’s moral universe.17


スミスの秩序と権力への執着こそが彼と戦う主人公達を彼と対立させるが、というのも彼らは彼に対する十字軍においてある種の意義と正義に執着しており、それは四部作のモラルに関わる世界構造における決定的な違いなのである。

なぜ“self-awareness”や“recognition”の有無が問題とされるのか。それは“self-awareness”や“recognition”を得たダドリー・スミスが現れてしまったからである。というわけで、本論考の後半ではPerfidiaにおける主人公ダドリー・スミスに焦点が当てられる。

後半に入って早々、Anna氏は以下のように述べる。

In Perfidia, Smith is one of the lead protagonists for the first time, but the reader learns few new details about the character.18


『背信の都』においてスミスは初めて主要な主人公の一人となったが、しかしかのキャラクターの特徴について読者が新たに得るものはほとんどない。19

こう言い切った上でAnna氏が取り上げるPerfidiaのダドリーの特徴は、相手を油断させるアイルランド訛り(“brogue”)や、同性愛者 をも虜にする人タラシの術(“seduction”)や、人の弱みを握る情報戦略(“blackmails”)であり、確かにこれらは四部作以来おなじみの手法である。これらだけであれば四部作と変わりはないわけだが、これまでになかった新しい特徴も指摘されている。それは映画女優ベティ・デイヴィスへの熱愛や婚外子エリザベス・ショートの溺愛っぷりである。

Smith always seems unfazed by his actions, wooing film star Bette Davis while juggling several criminal deals, but this does eventually lead to a display of weakness and almost his downfall.21


スミスは常に己の行動によってかき乱されることがないように見えるが、いくつかの事件をさばく合間に行われる映画スター、ベティ・デイヴィスへの求愛、これは最終的に弱さを、ひいては彼の失墜をもあやうく呈示しかねないところまでいきつく。

例えば、戦時協力を広く呼びかけるベティ22の機嫌を取るため、頼まれたわけでもないのに何ら罪のない日系人を衝動的に自らの手で殺めるダドリー・スミスというものを読者は目撃する。職務中に手にかけた犯人の数を銃の把手に彫るようなこの男がまた一人殺したからといっていまさら驚くべきことではないと思われる方もいるかもしれないが、この一幕において彼は権力にも金にも結びつかない、まったき私情から殺しをやっているのである。

(…)he is granting Davis a status he would never allow with a man and moves closer to Ellroy’s lead protagonists who are ‘bad men in love with strong women’.23


(前略)彼はデイヴィスにおよそ他の男に許すはずのない地位を与えており、そして「強い女性と恋に落ちる悪い男性」であるエルロイの主要な主人公達に近づいていく。

Anna氏は恋に我を忘れるダドリー・スミスを抽出することによって、逆説的に彼が“self-awareness”や“recognition”を獲得したことを示しているのだと思われる。

ところで本論考のキモともいえる六作品の読解において、残念ながらAnna氏もまたエルロイ作品に言及せんと志す者すべてがはまる泥沼に足をとられているように見受けられる。その沼の名を「要約極楽地獄」と本稿筆者は呼んでいる。エルロイ作品は事件→捜査→解決というミステリ・警察小説のお約束に則りつつ、いかに各項目間の矢印を引き延ばし絡ませ枝分かれさせるかに心血を注いでいるような節があり、とかく話がややこしい24。そのため作品内の事象について何事か述べようとすると、それを述べるために最低限読者と共有しておくべきストーリーの要約が極度に膨れ上がり、自説を述べる段になる頃にはとうに力尽きているか、なんだか満足してしまっているのである25。Anna氏の論考は前半と後半に分けてダドリー・スミスの特徴あるいは主人公達との違いを抽出したまではいいものの、元々の設問“Dudley Smith’s Role in Ellroy’s LA Quartets”に対するこの論考なりの答えを提出する前に終わってしまっているように見受けられる。

Perfidia has given the reader a more intimate look at Smith, but whether his sexual liaisons will limit his power in Ellroy’s second Quartet is yet to be seen. But the fact that Ellroy has returned to Smith, and placed him in a role of such prominence, suggests the possibility that one day the two LA Quartets could be renamed the Dudley Smith Octet or an even grander title depending on how much life is left in the character.26


『背信の都』は読者により詳細なスミスの人物像を提供したが、エルロイの第二次四部作において性的関係が彼の力を弱めるかどうかはまだわからない。しかしエルロイがスミスに回帰し、彼にかくの如き突出した役を割り振った事実は、いつの日か二つのLA四部作がダドリー・スミス八部作あるいはより壮大なタイトルに改められるかもしれない可能性を示唆しており、それはかのキャラクターにどれほどの命が残されているかにかかっている。

本論考はこのように締められているが、“a role of such prominence”の“such”に作品を読めばわかる以上の事柄が含まれているようには読み取れず、全体的に考察が歯がゆいのである。作品に留まろうとする筆致のストイックさには敬意を抱くものの、いささか物足りなさを覚えたことは否定できない。

こういうやり方を貫こうとする方が他にもいるという事実を励みにしつつ、本連載は本連載の道を歩むしかないのだ。 yet to be seen…

2019.12.10

第11回 『暴力』を読む、而して読めず

前回触れたBig Somewhere1からもう一篇くらいと思い、Part 3所収のRodney Taveira氏の”The Divine Violence of the Underworld USA Trilogy”を今回取り上げようかと当初考えていたものの、訳あって2この論考それ自体ではなくこれが依拠するスラヴォイ・ジジェク氏の『暴力――6つの斜めからの省察3』を取り上げることにした。流石は名にし負うジジェク先生、大変格好いいことを仰っている。

現代の世界情勢に関する批判的分析――なんの明快な解決も、なんの「実践的な」行動指針も提示しない分析、辛苦のトンネルの先にある希望の光がわれわれに向かって暴走する列車の一部であるかもしれないということを自覚しているがゆえに、そうした希望の光を与えない分析――は、たいてい非難される。「なすべきことはなにもないといいたいのか。ただだまって座っていればよいのか」と。これに対しては、勇気をもってこう答えるべきである。「その通りだ!」と。4

大抵の創作物は作中で設定された時代よりも物された時代の制約を被ってしまうものであり、本連載が取り扱ってきた警察小説とて例外ではない。従ってジジェク氏に依拠しながら警察小説をダシに「現代の世界情勢に関する批判的分析」を行うことは可能だろう。しかし本稿では「現代の世界情勢に関する批判的分析」を目標地点に設定することはしない。あくまで警察小説が対象である。今回はジジェク氏に可能な限り依拠しながら、警察小説における暴力について考えてみる。

ジジェク氏はまず本書の序において、一般に暴力という言葉が用いられる事象を「主観的(Subjective)」暴力と呼ぶ。

暴力の直接的な現れとしてわれわれが真っ先に思い浮かべるのは、犯罪やテロ、市民による暴動、国家間の紛争である。しかし、われわれに求められるのは、前のめりにならないこと、つまり、このじかに目に飛び込んでくる「主観的」暴力、誰によってなされたかが明確にわかる暴力に目を奪われないことである。われわれに必要なのは、そうした暴力の噴出の背景、その概略をとらえることなのだ。5

「犯罪やテロ、市民による暴動、国家間の紛争」、これらは警察小説とりわけエルロイ作品でもおなじみの顔ぶれだろう。もちろんこれらを「主観的」暴力と名指して終わり、とはならない。「主観的」に対置される「客観的(Objective)」暴力なるものがあり、しかもそれはさらに二つに分けられるのだという。

ようは、暴力の種類には主観的なもの以外に客観的なものが二つあり、主観的暴力はそのなかでいちばん目立つものにすぎない、ということである。客観的なものとしては、まず、言語および言語形態――ハイデガー流にいえば「存在のすみか」――において具現化された「象徴的」暴力がある。あとで述べるように、この暴力は、慣習化した発話形態を通じて再生産される社会的な支配関係や暴力の誘発といった、明白な――よく研究もされた――事例において作用しているだけではない。言語そのもの、有無をいわさず押しつけられた意味の宇宙には、それよりも本源的なかたちの暴力がそなわっている。客観的な暴力にはもうひとつ、わたしが「システム的」と呼ぶものがある。これは、円滑に作動する経済的、政治的システムが引き起こす、多くの場合破滅的といえる事態のことである。6

この三つの暴力のうち、二番目の「象徴的(Symbolic)」暴力については本稿筆者がまったく理解できていないため当座言及を差し控える。三番目の「システム的(Systematic)」暴力についてはジジェク氏があげている、ソヴィエト政府によって国外追放されたロシアのさる「高級ブルジョアジー」ニコライ・ロスキー一家の挿話を読むと、おおよそ彼が何を言わんとしているのか理解できよう。

亡命を余儀なくされた知識人のひとり、ニコライ・ロスキーとその家族は、追放以前、召使や乳母に支えられながら、高級ブルジョアジーとして快適な生活を送っていた。

(中略)

 ロスキーが、貧しい者に心をくだき、ロシア人の生活を文明化しようとした、まじめで慈悲深いひとであることはまちがいない。だが、その一方で、(中略)快適な生活を可能にするために存在しなければならないシステム的暴力に関しては、彼の態度は驚くべき鈍感さを示している。われわれがここで問題にしているのは、システムに内在する暴力である。それは、あからさまな物理的暴力であるだけでなく、それよりもとらえにくい、おどしもふくめた、支配関係と搾取関係を支える威圧の形式でもある。ロスキー一家やそれに類するひとたちは、実際上は「なにも悪いことをしなかった」。ただ、このシステム的暴力という不可視の背景があったのである。7

暴力を「主観的」および「客観的」の二軸からとらえる際、気をつけなければならないポイントをジジェク氏は以下のように述べる。

盲点になりやすいのは、主観的暴力と客観的暴力を同一の視点からとらえることはできない、ということである。主観的暴力が経験されるのは、無-暴力というゼロ・レベルを背景にしたときである。それは、平穏な「正常」状態の乱れとして了解される。しかし、客観的暴力とは、まさにこの「正常」状態に内在する暴力のことである。客観的暴力は、われわれがなにかを主観的暴力としてとらえる際によってたつ、無-暴力というゼロ・レベルを支えるものであるため、目にみえないのだ。8

ジジェク氏はこのような暴力の三分類を「公理」すなわち導き出された結論ではなく基本前提として持論を展開する。この公理に則って警察小説をみてみると、どのようなことがわかるだろうか。まず思い出されるのは、本連載第6回でも引用したD・A・ミラー氏の発言である。

事件の捜査を警察がおこなうのであれ私立探偵がおこなうのであれ、それは正常な世界にとってはまったくの侵入であり、この侵入が想定している世界は、いままで警察や探偵を必要としないがゆえに正常であるとされてきたものだ。捜査行為は犯罪を解決するだけではなく、さらに重要なことに、この異常事態のあいだ事件の「現場」と呼ばれてきた場所から自分もいなくなることで、この正常性を回復させる。9

両者の論に共通しているのは、「事件」=「主観的」暴力によって「「正常」状態」あるいは「正常な世界」が乱される、という考え方である。ジジェク氏ならば「事件」=「主観的」暴力にのみ囚われることなく、「事件」発生前にあった、そして解決後に「回復」した「「正常」状態」に内在する「システム的」暴力にも意を用いるべしと述べられるだろう。では具体的にどのような「システム的」暴力があるだろうか。ぱっと思いつくところでは、例えば本連載で取り上げてきた『警官嫌い』のアイソラ市や『警察署長』のデラノ市における人種差別の状況などがあげられよう。ロスキー一家の「高級ブルジョアジー」生活が「召使や乳母に支えられ」ていたように、アイソラ市やデラノ市の「白人」と同市に暮らす「黒人」や「プエルト・リカン」等々との間に「支配関係と搾取関係」があると指摘することは可能である。あるいは少し目線を変えて、「ファム・ファタル」や第2回の「ガミガミさん」などに見られる犯罪小説における「女性」像のテンプレートや、87分署シリーズにおけるキャレラの妻テディの「聾唖」という設定などから、「女性」蔑視の実態をあぶり出すこともできよう。実際こうした問題に対する研究はジェンダー・フェミニズム方面で行われている。あるいはまた、警察小説を対象とする論考においてよく言及される「警官」のミドルクラス性からも何かしらの暴力を抽出できるかもしれない。

しかしだ、自分で挙げておいてこういう書き方になってしまうのもどうかと思うのだが、「システム的」という言葉から想起された上記の例がどうも本稿筆者にはピンとこないのである。諸研究の成果に対して否を突きつけたい訳では決してない。ただこれらの研究は、警察小説犯罪小説それ自体というより、警察小説犯罪小説をダシにして「現代(かどうかはさておき)の世界情勢」を批判するほうに重きが置かれているような気がしてならず、向かおうとしている方向の違いを感じずにはいられないのだ。

では改めて、ジジェク氏の公理に依拠しながら警察小説における暴力について、本連載のこれまでの軌跡を踏まえて考えてみるとしよう。これまで度々言及してきたものの面と向かって取り組んでこなかった疑問の一つに、警察小説の「警官」はなにゆえここまで作中の人々から敵視されひどい目に遭わされるのだろうか、というものがある。多くの作品で繰り返し主題化されてきた「警官」殺しなど、その最たるものだろう。アメリカ限定ながら唯一無二のクオリティを誇る警察小説史LeRoy Panek氏のThe American police novel : a history(2000)でも、1950年代のヒラリー・ウォーやマクベイン等最初期警察小説を扱った章のなかで、当時の警察小説に通底する特徴の一つとして主人公「警官」たちに対する民衆の敵愾心が指摘されており、それは読めばわかる程度に広く共有された読感だったとみて間違いなさそうである。ここにヒントがあるのではなかろうか。

ここで疑問のうえに更に疑問を重ねてみる。果たして、ミラー氏の述べるとおり「捜査行為は犯罪を解決するだけではなく、さらに重要なことに、この異常事態のあいだ事件の「現場」と呼ばれてきた場所から自分もいなくなることで、この正常性を回復させ」ているのだろうか。登場人物目線で考えればこの発言は正しい。犯人は「主観的」に暴力を振るっており、他の人々の「平穏な「正常」状態」は乱されている。そして「警官」は「事件」を解決させることによって「この正常性を回復させる」。しかしジャンルそれ自体を考えた場合、上記発言は正しくない。なぜなら「事件」の発生から解決へ至る流れは必ず発生するからである。登場人物が経験する「主観的」暴力も引っくるめて、ジャンルとしてはこれが「正常」なのだ。問題は、「事件」が終わったら「現場」からいなくなる探偵と異なり、「警官」は「事件」が終わろうとも所轄から離れられないことだ。『警官嫌い』のラストシーンを想起するとよい。「事件」解決後テディとの結婚式を挙げハネムーンへと旅立ったキャレラの姿は一見すると「現場」からいなくなったかのように読める。しかし式に立ち会った上司のバーンズと同僚のウィリスは夫妻を見送ったあとで以下のようなやり取りをする。

 バーンズ警部はうらやましそうに二人を見送っていた。

「あいつはいい警官だよ」

「そうですね」ウィリスが答える。

「さあ行こう」警部はいった。「署ではどんなことが持ちあがっていることやら」

 二人はいっしょに表へ出た。10

たとえ主役格がいなくなろうと、残された「警官」は「署」へ戻るために「表へ出」なければならないのだ。更にいうと、ここから足かけ50年にわたりキャレラ以下87分署のメンバーはアイソラ市に居座り続けるのである。ジャンルとしての「正常」に包含される常態化した「警官」への敵愾心とひどい目に遭わされる「警官」の境遇、このような形で表現した「主観的」暴力を、本来事が終われば自動的に退場するはずの探偵役がいつまでたっても「現場から」いなくならないがゆえに生じた異物排除の動きだと考えてみてはどうか。警察小説がミステリから分化する際引き継がれたミステリ的「正常」(いなくなる)と、警察小説の「正常」(いなくならない)との不整合より生じた構造的歪み、つまるところこれこそが警察小説における「システム的」暴力なのではないだろうか。

こう言明してみると、なにか重要なピースが足りない気がしてならない。いや、なにが欠けているかなんて初めからわかりきっているではないか。「言語そのもの、有無をいわさず押しつけられた意味の宇宙」に備わるとされる「象徴的」暴力、これである。小説媒体に的を絞っておきながら「言語そのもの」がもつ暴力をオミットしては本末転倒もいいところだろう。この穴が埋められさえすれば、犯罪小説における暴力の分析に一本筋を通せそうな気がするのだが、ジジェク先生が何を仰ろうとされているのか皆目わからない。もうお手上げ状態なのである。困った困った、大変だ。にっちもさっちもいかなくなってしまった今こそ、改めてジジェク先生に激励のお言葉をいただき本稿の結びに替えることにする。

(前略)ここで思い出されるのは、レーニンを巡る有名なソヴィエトのジョークである。社会主義のもとでの、若者に対するレーニンの助言、若者はなにをするべきかという問いに対する彼の答えは、「一にも二にも勉強」であった。この助言はたえず引用され、学校の壁にも掲げられた。ジョークはこれをふまえたものであった。マルクスとエンゲルスとレーニンが、奥さんと愛人どちらをもちたいか、ときかれる。私的な問題に関しては保守的であったマルクスは、予想どおり「奥さん」と答える。それに対し、享楽家であったエンゲルスは、愛人を選ぶ。そしてレーニンは意外にも「両方」と答える。なぜか。厳格な革命家というイメージの下に退廃的な享楽家が隠れていたからか。そうではない。彼はこう説明する。「両方いれば、奥さんには愛人のところへ行ってくるといえるし、愛人には妻のところに帰らねばといえるからね……」。「それで、あなた自身はなにをするのです?」「ぼくは人里離れたところに行って、一にも二にも勉強さ!」。

 これこそまさに、レーニンが一九一四年の大破局のあとに行ったことではないか。彼はスイスの人里離れた場所に隠遁し、そこでヘーゲルの論理学を読みながら「一にも二にも勉強」したのだ。そして、メディアから暴力のイメージをたえず浴びせかけられるこんにち、これこそは、われわれがなすべきことでもある。われわれは、この暴力を生み出す原因について「一にも二にも勉強」しなければならない。11

2020.2.10

第12回 なにも終わらない

「相対化」という単語を目にするたび、音声として耳にするたび、あるいは自ら発するたび、なんとはなしに後ろめたい思いに囚われてしまうのである。

ある特定の対象をそれが含まれるカテゴリ内の諸要素と併置し、only oneではなくone of themとして取り扱うといった文脈で用いられるこの概念、というか操作は、本連載がこれまで取り上げてきた警察小説以下ジャンルフィクション全般に限らず、およそあらゆる事象について何事か語らんとする者ならば避けては通れない思考のチェックポイントのようなものとして認知されているらしく、便利に活用される現場に遭遇した経験を少なからぬ方がおもちのことだろう。これは対象のみならず自己に対しても用いられることがままあり、前回引いたジジェク先生の「一にも二にも勉強さ!1」ではないが、勉強の効能とはまずもって他者の知に照らして己の凡俗加減を自覚し、あわよくば底の浅い井戸から己が身を引き上げるための素地を養うことに他ならないとされている。無知と無能を生涯の供として井戸の底で蛙ライフを満喫するもそれはそれでひとつの生き方ではあろうが、蛙の一生に甘んじるをよしとせず唾を吐きかけたくなる程度の恥じらいを覚えるならば、そのときすでに相対化のプロセスは始まっている、と言えないこともない。

だが、な~んかいやなのだ。どれほど勉強しようとも、どれほど本を読み街を歩き映画を観て音楽を聴こうとも、言い換えればどれほど相対化を試みようとも、ひとたび向き合おうものなら瞬く間に肌粟立ち髪逆立ち眼血走り動悸息切れ目眩貧血脇汗手汗によりキーボードを繰る手が滑り椅子壊れ壁崩れ屋根吹き飛び床抜け地盤沈下し地球の裏側に突き抜けてしまう、そんな存在を本稿筆者は研究対象に選んでしまった。いや、こちらに選択肢などなかった、むしろ、選ばれてしまった、と言った方がまだ正確かもしれない。「一番大事なものを対象にするのはやめておきなさい」とお声を掛けてくださる方もなかにはいたが、残念ながら当人に選んだ自覚がないものだから手の施しようがない。処置なしというやつである。この選ばれてしまった感を本稿筆者は「呪い」と呼んでいる。知見を磨き経験を積めば他者の見方考え方を借りて対象に向き合えるようになり、自ずと不変なはずの対象2に以前と異なる感慨を抱くようになるのは道理である。己が変われば同じものを見聞きする際により面白く感じられるようになることもひどくつまらなく感じられるようになることもあるだろう。しかし呪いに道理は通用しない。それはいつだってわたし目がけて降りかかり、こちらの思惑など歯牙にもかけずわたしをわたしに引き戻す。溺れる者にはどこからともなく藁が差し出され、地獄の亡者の眼前には蜘蛛の糸が垂れ下がる。呪われた者はというと、常に変わらず天に輝く北極星のごとき呪いの源と自身との間にピンと張られたロープが見える。見えたら最後、渡るしかない。

とりわけ自ら「相対化」と発言してしまった際後ろめたさに襲われるのは、己が果てしなく長い綱渡りの途上にいると知りながら、人様にはここが渡れなければ迂回するがいい、目的地を変えるが吉などとしたり顔でアドバイスしているようなものだからだ。いったん目を逸らせ、と言うはたやすい。しかし声を掛けた相手もまた呪われているかもしれないと思い至らないはずもなく、その可能性を意図的に押し殺し「相対化」と口に上せるたびごとに羞恥心と罪悪感が横殴りに吹く風となってロープを揺らしこちらの道行きをも怪しくする、ような気がしてくる。気もそぞろに渡れるほどこのロープは太くない。

さてさて。妙なマクラはここまで。本題である。諸般の事情により本連載は今回を以て終了することになった。つまり最終回である。終わるとなると来し方を振り返りたくなるのが世の習いというわけで、この二年本連載は一体なにをやってきたのか改めて考えていた次第である。ジェイムズ・エルロイ作品への向き合い方がわからないから警察小説について考察してみるという趣旨でこの連載は書き始められた。一見するとこれはエルロイ相対化以外のなにものでもなく、恐らく当初は書いている当人もそうした心づもりでいたとおぼしい。モブ革命の原理と「市民」「人々」の無邪気な嗜虐癖およびここから派生するあれやこれや、警察小説からこれらを見出したことが本連載の要諦であったことは間違いなく、我ながら悪くないと思わないこともない。ただ、このところしきりにとある一節が頭をよぎるのだ。

America was never innocent.3

アンダーワールドUSA三部作第一作American Tabloidの本編前に挿入された序文の、劈頭の一文である。もんどり打って妙なマクラをあらしめるに至った煩悶の根っこがどうやらこの一文あたりにあるらしいとあたりがついたのはごく最近のことだ。本連載はつまるところ“America”に“Police Procedurals”を代入していただけだったのではないか、そんな気がしてならないのである。目線を変え迂回路を探すつもりが、結局のところエルロイに向けてまっすぐ綱渡りを続けていただけだったのではないか、と。

エルロイの文脈において“innocent”がもつニュアンスは「無垢」よりももう少し俗世的・限定的に「無罪」あるいは「無謬」と解釈したほうがよい。かつてミステリは探偵が犯人を名指し事件を解決する様子を語ることで秩序の回復に貢献していた、とよく言われる。これはいわゆる「ミステリ黄金期」が両大戦間期と重なっていることと無関係ではあるまい。当時の探偵とて「無垢」ではなかったかもしれないが、しかしほとんどの場合過たず犯人を名指しするその行為によって彼らは自らの「無謬」を証明してきた。第二次大戦後に花開く警察小説の「警官」たちがこの「無謬性」を失っていることはもはや常識となっており、本連載でも『警官嫌い』を扱った際散々確認した通りである。それゆえ多少なりともこのジャンルに慣れ親しんだ読者であれば、エルロイ作品に限らずとも先の文言の“America was”を“Police Procedurals were”と読み替えたところで特に違和感なく受けとめるだろうことは想像に難くない。「無罪」としたところで同様である。警察小説の「警察」は罪を犯したことがない、などとのたまう輩がいたら単なるモグリだ。

ところで、このようにジャンルの歴史を踏まえて語義の解釈をするとき、本稿は“Police Procedurals were”と書きながらその実“innocent”という形容詞が探偵および「警官」すなわちdetectiveという存在に掛かるものとして上の文章を綴った。ミステリ・警察小説について考察すると書きながら、実際のところはメイン・プレーヤーたる探偵・「警官」について想いを馳せていた、などということは本連載含む多くのミステリ論・警察小説論で目にする事態であり、それはそれで別段間違った手法ではない。“Police Procedurals”の語句を“Police(あるいはcops)”と読み替えている限り、“Police Procedurals was never innocent”という文言にとりたてて騒ぎたてるほどの意味は生まれない。何を今さら、と一蹴されておしまいである。しかし探偵・「警官」について考えているだけでは脱漏の誹りは免れまい。どれほど比重が大きかろうが、作品を構成する諸要素のうちのひとつにすぎない探偵・「警官」にかかずらわっているだけで一切合切の道理がわかるなら苦労はないのだ。この連載ではもう少し愚直に、文字通り“Police Procedurals”について考えてきたつもりである。つもりではあるのだが、とここからが懊悩の核心になるが、本稿筆者はモブ革命やら何やらを導き出すはるか手前の段階で、それこそ連載のいでき始めから“Police Procedurals was never innocent”を暗黙の前提にしてはいなかっただろうか。そしてここにエルロイ・バイアスが掛かっていなかったと言えるだろうか。否、と胸を張って答えられる自信がまったくないのだ、これが。

いつまで経っても「警察小説」がわからない。いつまで経ってもエルロイに帰れない。4

本連載第1回「物思う柵」のなかで上記の通り書き付けながら内心逆のことを考えていた。「エルロイから離れたい。当面帰りたくない」、と。そしてエルロイをシャットアウトし警察小説に傾注した気になっていた。ところがどっこい当人の思惑とは裏腹に、本連載はエルロイに帰るためエルロイの土俵で警察小説を読む地ならしを行っていたのである。それの何が問題なのか、と人は言うだろう。エルロイに無事帰れたのだから何をあたふたしているのだ、と。確かに問題などどこにもありはしない。何をやってもforエルロイになってしまう呪いの一念にただただおののいている本稿筆者がいるのみ、いってしまえばそれまでのことにすぎない。

つくづく呪われている。しかし考えようによっては幸運だったのかもしれない。結局のところ本稿筆者になしえたことといえば、呪いに突き動かされてキーを打つことと折々の命名(タイトルやら概念やら)くらいなものである。だがそれでよいのだ。もし仮にエルロイ作品に呪われることなくこのジャンルに取り組んだとして、モブ革命やらセラヴィスタやらに辿り着いただろうか。読者の邪気に敏感でいられただろうか。これらに気づけたのは警察小説を包みこんでなお余りあるほどにエルロイ尊の掌が広大無辺だったからに他ならない。どだい逃げられるはずなどなかったのだから、エルロイに向かって警察小説をほじくりしばき倒しますーと、呪われた現状を素直に受けとめる胆力が初めからあればもっと多くのことに気づけただろう。それが今は少しばかり惜しい。

呪われた者の手記は一旦ここで終わるが、本稿筆者は未だ綱渡りの途上にいる。なにも終わってなどいない。幸いゴールは見えている、いや最初から見えていた。あとはジリジリ進むだけだ。読者諸賢のなかにはもしかしたら自分が呪われているかもしれないとお悩みの方がいらっしゃるかもしれない。本稿筆者としては、エゴやら先入観やら目論見やら不安やら、とにかくいま自分の手許にあるもの一切合切ひっくるめて呪いに背中を預けてみられることをオススメする。ご案じなさるな。人を呪うような代物は大抵こちらの想像よりはるかに強くてデカイ。人ひとり寄りかかったところでびくともしないから。願わくは皆様のCursed Lifeが実り多きものでありますように。

2020.4.10

 

(あべ・しゅうと/一橋大学大学院言語社会研究科)