機関誌『半文』

悪党研究-Ellroy & his Bad Fellows-

阿部 修登

第7回 語れよ汝がライフ、とセラヴィスタは言われた

警察小説が読めない。エイドリアン・マッキンティ『コールド・コールド・グラウンド』が発売された頃からと記憶している。期待の超大型警察小説本邦初訳という惹句、にもまして本稿筆者がその研究を志すジェイムズ・エルロイのとある一作にタイトルが似ている1のが気にかかり発売直後に購入した。数日寝かせて開いたページの上では、閉塞感漂う80年代のアイルランドを舞台にした重厚な一人称小説が展開されていた。50頁も読み進められなかった。それ以来だ。古いものも新しいものも、とりあえず警察小説と銘打ってあれば買う、まではいいのだが最後まで読み通せない、どころか冒頭数頁で挫折してしまうようになった。前々から予感はあった。例えばネレ・ノイハウスのオリヴァー&ピアシリーズ。例えばシューヴァル&ヴァールーからヘニング・マンケルを経てアーナルデュル・インドリダンソンへと至り、その後アンデュ・ルースルンドへと受け継がれる北欧ものの血脈。これらの作品では主人公たる「警官」諸氏が心身をすり減らすような苦境に立たされる。厄介なのは事件の解決が脱苦境を意味しないことだろう。オリヴァーは妻の浮気に心神喪失し捜査ができなくなる。ヴァランダーは師と仰ぐ先輩警官の病死と職務中の犯人殺害がトラウマになり休職せざるを得なくなる。エトセトラエトセトラ。なおマッキンティの上記作品が刊行されたのは2018年4月、折しも本連載が始まった頃と重なる。本連載は筆者がろくに警察小説を読めなくなった状態で書かれてきた。

この一年の連載を経て見出されたのは警察小説の始まりにあった「市民」の「革命」、そしてそれと読者の快との繋がりだった。どうやら本稿筆者を含む警察小説読者は「警察」を殺し苦しめることに喜びを覚える、らしい。そうでもなければこれほどまでに「警官」の苦境を長引かせる作品群が世に氾濫する理由がわからない。ハワード・ヘイクラフトを引くまでもなく、「殺人」が「娯楽」たり得ることそれ自体を否定する者など今日いるまい2。本稿とて、誰かが殺されたり苦しんだりする様に「不謹慎」とラベルを貼って目くじらを立てるつもりは毛頭ない。ただ、一作一作が長大且つ肺腑にズシンとくるヘヴィな現代警察小説群は読む側に相応の気力体力を要請し、とかく気が滅入るのもまた事実だ。多大なしんどさを伴う読書の快とは一体なんなのだろうか。「革命」による「市民」の逆襲、転じて嗜虐。それだけで説明がつく話だろうか。

ここで押さえておきたいことがある。これまで検討の対象としてきた作品に限らず警察小説全般に通底する傾向として、これらがいわゆる警察国家を肯定も否定してこなかった、ということだ3。例えばジョージ・オーウェル『一九八四年』、ザミャーチン『われら』。全体主義、行き過ぎた管理社会への警鐘として今日も受容されるこうしたディストピア作品群では、仮想敵と見なされる権力の一端を「警察」が担っている。だがミステリに由来する警察小説の系譜は、ディストピアを成り立たせるために利用されかねない諸々の手段――古くは骨相学に始まり、指紋採取、DNA判定等の生化学的手法から、前科記録の保管や手紙・メールの検閲に代表される情報技術の拡大、あるいはGPSやNシステム等インフラを用いた位置特定等、精神分析を援用したプロファイル等――を犯人特定の大義の下に日夜アップデートしながら作品に取り入れてきたが、その実蓋を開けてみればキャレラよろしくテクノロジーを活用できない人物が中心にいることが存外多い4。ここで想定しているのは例えばR・D・ウィングフィールドのジャック・フロスト警部やヘニング・マンケルのクルト・ヴァランダー警部、ユッシ・エーズラ・オールソンのカール・マーク警部等の「おっさん警官」である。彼らは階級相応のdetective能力は持ち合わせており仕事ができないわけではないものの、基本的に書類仕事が苦手であまり協調性がなくしかも機械音痴なので最新技術についていけない。テクノロジーの導入に躊躇がない昨今の警察小説事情にあって、彼ら「おっさん警官」たちはディストピアの尖兵をつとめるどころではなく、寧ろ彼らにしてみれば自分たちの生きる現代こそがディストピアの様相を呈してすらいる。

「革命」の暴力、扱いきれない科学技術。「警官」を追い込む要素はこれだけではない。“bureaucratic”、つまり組織ゆえのゴタゴタである。いわゆる天才肌のアマチュア名探偵と「警官」とを分かつポイントとして組織に属するか否かということが上げられる。アマチュア探偵が個人である強みを活かし、ときには遵法意識すら易々とまたぎ越えて活動していたのと比べると、「警官」は上(ソリが合わない)にも下(言うことを聞かない)にも左右(主導権の取り合いになる)にも「警官」がおりいかんせん身動きが取りにくい。組織ならではの人海戦術あるいは専門分担も、たいていの場合頓挫する。上司から捜査を握りつぶされることも日常茶飯事である。「警察」を出てみたところで、制度上ある程度仕方ないとはいえ検察だの弁護士だの報道関係者だの相対せずにおれない障害が山積している。

「人々」に苦しめられ、テクノロジーに苦しめられ、組織に苦しめられ、ときに死に、長らえてまた苦しむ。数十年を費やして警察小説が洗練させてきた「警官」のあり方とは畢竟このようなものである。しかし苦死(くるし)に得る者であるがゆえに、そうであるからこそ、逆説的に彼らは生きていると見なすことができる。生きていることはそれだけで素晴らしい、掛け替えのない価値である。ただし生身の人間に限れば。文学的存在である「警官」の生は果たして寿ぐべきものだろうか。一概にそうとも言えないよな、というのが今回の趣旨である。

本稿筆者が昨今の警察小説に感じるやるせなさは「警官」たちの生きている間の取り扱われ方に端を発している。読み物である限り、1頁目から幕引きまで主人公の立ち振るまいは徹頭徹尾見世物でしかないわけだが、そうであるならなおのこと読んで損はなかったと心底思える鍛え上げられた、磨き抜かれた名人芸であってほしいと思ってしまうのが読者の性である。大ホームズしかりポアロしかり、先達の技が冴え渡っていたからこそミステリの世界では本歌取り、つまりパスティーシュやオマージュがジャンルの伝統として有効に機能してきた。ところがどっこい警察小説をみてみると、本家本元『警官嫌い』の時点でいかんせん倣うべき名人位にあるはずのキャレラがこれはもう誰の目からも明らかな大根役者5だったものだから、そもそも継承されるべき技がない。芸がない。肉体労働には歳を食い過ぎ、春をひさぐにも需要がない6警察小説の「警官」たちに元手があるとしたら、それはなにか。C'est la vie. すなわち人生である。彼らは苦死ぬまでの生き様を切り売りして芸に代えるところに渡世の術を見出していくしかないのである。本稿ではその道を「人生ファイト」と、各々のファイターを「セラヴィスタ」と呼ぶことにする。どれだけ嬲られようと、どれだけ自身の周りに死体の山を築こうと、少しでも長く登場するため己の人生を晒し続ける。それが彼らの闘いである。

冒険小説、時代劇、ミリタリー、警察小説、SF等、多方面に作品を発表する希代のエンタメ作家月村了衛氏の『影の中の影7』は警察小説ではないものの、中心人物の一人景村瞬一、通称「カーガー」のあり方は、「警察」「警官」と「人生ファイト」および「セラヴィスタ」とのしがらみを考える上で格好の題材を提供してくれる。まずは込み入った物語をコンパクトにまとめた文庫裏表紙の粗筋を以下に引く。

血も凍る暴虐に見舞われた故郷から秘密を抱えて脱出したウィグル人亡命団と、彼らを取材中のジャーナリスト仁科曜子が、白昼の東京で襲撃された。中国による亡命団体抹殺の謀略だ。しかし警察は一切動かない。絶体絶命の状況下、謎の男が救いの手を差しのべる。怜悧な頭脳と最強の格闘技術をそなえた彼の名は、景村瞬一。(後略)8

縁あって日本最大の暴力団「矢渡組」直系最強の武闘派「菊原組」の助けを得て、中国軍内でもその存在を秘される秘密工作・暗殺専門の特殊部隊「蝙蝠部隊」の魔手から逃れようとする仁科らの前に現れ颯爽と敵の第一段を退ける景村。彼は社会的弱者や少数民族など虐げられた人々の味方として組織に属さず独り暗闘し、裏社会では密かにその名を知られたエージェント「カーガー(琉球語で「影」を意味する)」である。

助けられはしたものの正体不明の人物にこのまま頼ってよいのかどうか、仁科は「不安」を抱く。

本当に信じていいのだろうか、この男を。

曜子は今さらながらに不安を感じた。9

自分のみならずウィグル人亡命団一同や「菊原組」らの命もかかった状況で救いの手を差しのべてきた謎の人物に対して彼女がこうした疑いを抱くのは心情的に理解できるし、危機に曝されて警戒心が働くのは彼女が理性的な判断力の持ち主であることを示している。ただここで着目すべきは、彼女がどういう人物であるかではなく、闖入者への疑念の表明が「御手並拝見」スイッチ・オンを意味することである。えてして伝説は一人歩きし実体を伴わないものである。目の前の人物が本当に達意の名人であるかどうか、信頼に値し契約を結ぶに足るエージェントかどうか雇用者側(仁科らは言うに及ばず、読者も含む)は何かの形で判断しなければならない。名人とて、自らを証し立てなければ契約が結べない以上、自身の有用さを売り込まねばならない。後に出てくる言葉を借りれば<説得>である。手っ取り早いのは芸の片鱗をちらつかせて見せることだろう。要はホームズがワトソンと初めて会ったとき彼の来歴を一目で当ててみせた、まさにあの場面を想起すればよい。これが「御手並拝見」であり、彼女の疑念の表明はハイドーゾと名人にバトンを渡しアピールタイム開始を促す役割を果たしているのである。バトンを渡された景村に不幸があるとすればそれは、いざ拝見とばかりにアピールタイムのお膳立てを整えてくれた雇用者側が、ホームズ以来優に一世紀を経た現在、絶体絶命の窮地を一度救った程度の業前では相手を信用しないくらいスレてしまっていることだ。

「景村だ」

不意に、男がぽつりと言った。

一同は驚いたように顔を上げる。

「景村瞬一。それが私の本名だ」

そして男は――カーガーは静かに続けた。

「今から二十八年前、私は沖縄にいた」10

ここから節が変わり、「二十八年前」の「沖縄」で景村の身に起こったできごと、そして彼がいかにして「カーガー」となったのかが記述される。将来を有望視される沖縄県警上級官僚だった景村は、持ち前の正義感から通常業務の外で秘密裏に米軍が関わっていると思しい麻薬密売の捜査を行っていたが、「警察」内部で唯一信頼していた腹心の部下に捜査状況を明かしたところ、密売に関与していた米軍幹部と裏で繋がりしかも景村の恋人に横恋慕していたその部下から裏切られ、恋人共々沖縄の海に沈められる。個人的に友誼をはかっていたCIAの職員に助けられ一命を取り留めはしたものの、恋人は死に彼自身も戸籍上死亡扱いになる。生きる意味を失い外国を放浪していた彼の元に、ある日件のCIA職員経由でロシア軍絡みの仕事の話が持ちかけられる。アゼルバイジャンの空爆予定地周辺に居住する少数山岳民を説得して退去させたい、成否は問わない。そう語る露軍幹部メルクーシンは兄をその山岳民に助けられたことに個人的な恩義を感じていたが、空爆自体を取りやめるほどの権限はなく、立場上自分が動くこともできないため外部の人材を求めていた。条件は失敗して死んだとしても問題ないことであり、景村はまさにうってつけだった。メルクーシンからロシアの軍隊格闘術「システマ」を叩き込まれた景村は見事その仕事を果たす。以後ぽつりぽつりと似たような仕事が彼に舞い込むようになり、「システマ」と、他所で伝授された実戦的すぎて傍流扱いすらされない居合道の一流派の技を武器に「カーガー」伝説が幕を開ける…。

この場面の最後、静かに語り終えた景村に「待てや」と「菊原組」若頭の新藤が噛みつく。いや、噛みついたというより、合いの手を入れたと述べる方が正確だろう。

「肝心のことをまだ聞いとらへんで」

そうだ、と曜子は思った。それこそが、『カーガー』のカーガーたる所以に違いない ――

「その、なんとかちゅう村の爺さん婆さんは、村を捨てるんは嫌や言うてたんやろ。景 村はん、あんた、一体どうやって説得したんや」

曜子も、袁も、トルグンも、息を詰めて景村を凝視する。

「特に何もしなかった」

静かな口調で彼は答えた。

「私は、率直に自分の身に起こったことについて話しただけだ。正直に言うと、他に方 法が浮かばなかった。そんなことが説得につながるとも思えなかったが、とにかく私は自らについて何も隠さず彼らに話した。メルクーシンが自分の将来を懸けてまで恩義を返したがっていることも。ティムルザデ村長は私の顔をじっと見つめ、作戦に同意して くれた。理由は分らない。想像することはできるが、しょせんなんの根拠もない憶測で しかない。それだけだ」

曜子は、新藤もまた<説得>されたことを悟った。他ならぬ自分もまた。11

正直に言おう。本稿筆者は前半の山場であるこの<説得>の一幕を読んで笑ってしまった。その後無性に悲しくなった。カーガーの言葉を信じれば、彼はティムルザデ村長を<説得>したときと同じことを仁科らに語って聞かせたことになる。しかし対村長と対仁科らでは状況が異なる。前者と対峙したとき、景村は全てを失ったばかりで我が身の他に何も持っていなかった。未だカーガーですらなかった。<説得>の材料が身の上話になるのも已む無しであり、そんな彼を雇用する決断を下した村長の度量と眼識は大したものである。分の悪い賭けに勝ち両者がWIN・WINの関係を築けたことはただただ喜ばしい。しかし後者の場合はどうだろう。まず気になるのは語り起こす際彼が本名を名乗ることである。「カーガー」は基本的に他者からの呼称として用いられるので彼が「景村瞬一」と名乗るのは別段おかしなことではない。のだが、話が佳境に及ぶに至り何かおかしいと引っかかりを感じるようになる。

理由は分らない。想像することはできるが、しょせんなんの根拠もない憶測でしかない。それだけだ。

ここまで来て読者は知る。景村がカーガーという芸の者になる契機を与えたといっても過言ではない村長の気概を、どうも彼の方では汲んでいないらしい。言い換えれば、カーガーは「『カーガー』のカーガーたる所以」を問われているにも関わらず、景村としてしか己をアピールできない、つまり彼にはそもそも芸人の意識がないらしいのだ。芸で勝負する意識のない彼は、かつて村長と対峙したときのままいつまで経っても「景村瞬一」の身を売ることでしか<説得>を行えないのである。これが悲しみその一だとすると、その二は雇用者側にある。

「肝心のことをまだ聞いとらへんで」

仁科・新藤がこのようにダメ押しの合いの手を入れる理由が、カーガーの身売りを受けて彼女たちが<説得>された理由が、本稿筆者にはまるで理解できないのだ。結局のところこれは、先に村長の示した決断の気概を彼女たちが持ち合わせておらず、前例があるから乗っかったに過ぎないということを示しているのではなかろうか。しかもこの場合評価対象となっている前例は、カーガーの偉業ではなく、カーガーが誰かに雇われたことがあるということの方である。だとすれば彼女たちには理性はあっても眼識が欠けている。芸で身を立てる気のない素人と芸を買う度量のない素人が、なんぞ知らぬ間に合意に至っている。これはだいぶ悲しい。

さらにここには第二の雇用者つまり読者の存在も絡んでいる。景村をして己の人生を語らせ、仁科・新藤らをしてそれを当然の如く受け入れさせるこの<説得>の構造は何も本作に限った話ではなく、月村氏に限った話でもなく、昨今のエンタメ全般に長らく漂っているムードによるところが大きいだろう。彼女たちが<説得>されたのとは別次元の話として、これ以後カーガーが八面六臂の大活躍をするためにはそこまで読み進めてもらえるよう読者を<説得>する必要があり、その際芸は芸のみで立ちゆかず人生による裏打ちを要求される。なぜこんなことになっているのかはとりあえず措くとして、雇用者側がスレているという先の言明は読者が下手をすると芸よりも人生に快を覚えるという現況を述べたものである。

こうした観点からカーガー・仁科両者の振る舞いを眺めると、彼らの素人振りが別種の意味合いを帯びてくる。つまり、彼らが持ち前の芸をおざなりにしてまで人生の売り買いに興じるのは、そうでもしないと客がつかないことを踏まえての営業努力なのである。このときカーガーは言うに及ばず、カーガーに対しては雇用者の立場にある仁科らもまた読者からすると被雇用者の立場にあると見なせる。自身の芸のみではアピールが足りないと理解し、芸ではなく人生を語る・語らせるため共同して素人の演技に身をやつす彼らもまた、読者とは異なる意味でスレている。スレきっている。

読者という第二の雇用者を考慮しなければしないで素人同士の茶番劇に悲しくなり、考慮したらしたでスレた売り手とスレた買い手の寒々しい需要供給劇に悲しくなる。しかしここまでが物語の前半だとすると後半は一転、協力者から避難場所として提供された高層マンションを舞台にカーガー一派vs蝙蝠部隊の全面対決を書いた爽快殺陣アクションが展開し、こちらに関してはサイコー以外かける言葉はない。サイコーなのである。だからこそ、先だってこのような形の<説得>がなされなければ物語が動かないことに悲しみをおぼえるのだ。彼が元「警官」であることはまことに象徴的である。彼は苦死んで長らえ、そして脱「警察」を果たしたわけだが、往時の苦死にの軌跡、「人生ファイト」の経験談を語ることでしか糊口を凌げない。警察小説というフィールドで培われた虐げられる「警官」像に引きずられるかの如く、カーガーは自らを「景村」と、社会的に死亡した名で呼び続け、カーガーになろうとしない。表社会から姿を消してなおセラヴィスタから足を洗えないでいる。彼らセラヴィスタをどういう目で見ればいいのか、本稿筆者は未だはかりかねている。

2019.4.10

 

(あべ・しゅうと/一橋大学大学院言語社会研究科)