機関誌『半文』

チワン族の昔話

黄 海萍

第14回 三番目の婿

むかしむかし、あるところに大金持ちの地主とその三人の娘がおった。一番目と二番目の娘は、裕福な商売人のところに嫁いだが、末の娘だけは貧しい農家に嫁ぐことになった。

毎年、父の誕生日には、長女の婿と次女の婿がたくさんのお金を包んでお祝いに来た。でも、三女の婿は貧乏だったので、もち米やとうもろこし、落花生を代わりに持ってきていた。金持ちの婿たちはそれを見てよくあざけり笑っておった。

今年もまた、父の誕生日がやってきた。金持ちの婿たちはいつもより早く地主の家に集まった。末の娘の婿が今年は何を持ってくるか、からかってやろうという魂胆のようだ。

そんなことも知らずにやってきた三番目の婿は、今年はもち米を蒸して作った二つの大きな丸いお餅(イラスト1、2)を携えていた。彼はお祝いのための祭壇にお手製の餅をどさっと置いた。それを見るや否や、金持ちの婿たちは大笑いしながら罵った。

誕生祝いのお餅
イラスト1 誕生祝いのお餅
もち米を蒸して作ったお餅、チワン語では[tɕiː31 moːk33](ジーモーク)と言う。直径60cm厚みが3cmぐらいで、味付けはされていない。中央に赤い紙を貼ったり、食用紅を塗ったりする。下にはドーン(植物の大きな葉の総称、イラスト3を参照)を敷く。
餅つきの杵と臼
イラスト2 餅つきの杵と臼
チワン語で「杵」は [θaːk215](サーク)、「臼」は[luː33](ルー)と言う。いずれも木製。

「おいおい、ノーンクーイ1よ。一体なんだよこれは、車輪でも持ってきたのか」

「こりゃ食べられたもんじゃないだろう。べたべたして犬も食わんよ」

いつもやりこめられている三番目の婿は、今年は我慢の限界がきて、とうとう怒り出した。「お前たちは何もわかってない。このお餅には意味が込められているんだよ。そっちのお餅は太陽を、こっちのお餅は月を意味しているんだ。これにはお義父さんとお義母さんが月のように明るく、太陽のようにいつまでも長く健康でいられますようにという願いがこめられているんだよ。お金だけのお前たちより、俺のほうがずっと心がある。お金なんてすぐ無くなるもんだよ」

ちょうど部屋に入ってきた父と母は末の婿のそんな話を聞き、たいそう喜んだ。その様子を見た金持ちの婿たちは、もう何も言えず、部屋の片隅で小さくなることしかできなかった。

晩餐が終わると、家の使用人が三人の婿たちをひとつの客室へ案内した。部屋には大きなベッドが二つ置いてあった。金持ちの婿たちは二人で一つのベッドに、末の婿は一人でベッドを使うことになった。

上の婿たちはすぐに大いびきをかいて寝始めた。その姿はまるで二匹の酔いつぶれた豚のようだった。末の婿は、普段食べなれない豪勢な料理でお腹がびっくりしたのか、ひどい腹痛に襲われた。何度寝返りをうっても楽になれず眠れない。おまけに、上の婿たちに笑われたことも思い出し、また腹が立ってきた。むしゃくしゃした彼は、今夜二人をとっちめてやろうと思い立った。

草木も眠る丑三つ時、彼は二人をやっつけるいい方法を思い付いた。抜き足差し足、厠へ行きうんこをして、ドーン(イラスト3)に包んだ。そして部屋に戻ると、二人が眠る布団にそっとうんこを入れた。うんこを包んだドーンは厠に捨て、何もなかったように自分のベッドへ戻った。

ドーン
イラスト3 ドーン
チワン語で[toːŋ451]と呼ばれる「植物の大きな葉の総称」である。バナナの葉(左)や粽を包む際に使う大きな葉(右)などが「ドーン」と呼ばれる。何の葉かを明示するときは、「ドーン+植物の名前」で表す。バナナの葉は[toːŋ451 kjuː5](ドーン・クーイ、[kjuː5]は「バナナ」)。粽を包む際に使う大きな葉は[toːŋ451 tɕiːŋ1](ドーン・ジーイン、[tɕiːŋ1]の日本名不詳、学名はPhrynium capitatum Willd.)となる。三番目の婿が何の葉を使ったのかは不明である。

そろそろ鶏も鳴き出す夜明け前、上の婿たちは吐きそうな臭いで思わず飛び起きた。布団をめくると、うんこが手にべったりだ。二人は昨日食べ過ぎたから寝ている間に漏らしたんだろうと、お互いになじり合った。でも末の婿の前でこんなことを言い合っているところを見られたらメンツが丸潰れだと、大声を出すことができなかった。それでもしばらく文句を言い合い、明るくなる前にそそくさと家に帰っていった。

朝になって朝食の時間になると、使用人が客室に三人を呼びに行った。一人残っていた三番目の婿は扉を開けて、こう言った。

「おいおいおい、みんなこれを見てくれよ。昨日の夜、義兄さんたちが布団の中でうんこを漏らしたんだよ。臭くてたまったもんじゃない。恥ずかしくて黙って二人ともこっそり帰ったみたいだよ」

それを聞いた義父は顔をしかめて言った。

「やれやれ、いい年した大人が情けない。お漏らしなんて子供じゃないか。くそ野郎、それに汚れたら服を替えればいいものを。こっそり逃げ帰るなんて失礼にも程がある」

義母は末の婿に、「お前さん、義兄さんたちは今帰ったばかりよ。まだ遠くへは行ってないんじゃないかしら。追いかけて呼んできておくれ。朝ごはんを食べてお帰りと伝えておくれ」と頼んだ。

三番目の婿は義母の言う通り家を出たが、しばらくして帰ってきた。彼は「義兄さんたちは峠に座っていましたよ。戻りたくないようです。朝ごはんを持ってきてほしい、それを食べたら家に帰ると言っています」と伝えた。

義父母は使用人にもち米のおにぎりとお酒、豪華な料理を籠に詰めさせて、末の婿に持たせた。「食べきれなかったら、そのまま家に持って帰るよう伝えてくれ。残りの食器をこっちに持ってくる必要はないよ」と言った。

末の婿は嘘をついていた。上の婿たちは峠ではなくとっくに家に帰っており、末の婿も彼を追いかけてはいなかった。彼はお酒や豪勢な料理目当てで、義父母を騙してしまった。料理を入れた籠は峠の道のそばに隠しておいて、後でもって帰ろうと思った。そうやって、峠にやってきた彼は籠を道に隠しておいて、知らん顔で義父母の家に戻って朝ごはんにありついた。

朝ごはんを食べると、三番目の婿は更なる計画を思い付いた。うんこで汚れた布団を私が代わりに洗濯しましょうと言い出した。義父母も汚れた布団を使用人に任せると変な噂をたてられかねないと困っていたので、ちょうど彼が言い出して安堵した。

彼はすぐに川へ行き布団をきれいに洗濯し、川のそばの葦にかけて乾かした。そして家に戻った。玄関にいた義母にこう言った。

「お義母さん、聞いてくださいよ。義兄さんたちは一体何を食べたのでしょうか。ひどい汚れで洗えば洗うほど汚くなります。ちっとも綺麗になりません」

すると義父は急に怒鳴った。

「ええい。もういい。俺の誕生日だというのに、貴様たちはなんで臭くて汚い話ばっかりするんだ。知らん。きれいにならないのなら、そんな布団は捨ててしまえ、要らない」

義母も、「そうね、明日市場に行って新しいのを買ってくるわ」と言った。

末の息子はこうして、干しておいた布団を回収し、さらに峠で隠しておいた料理の籠も担って、口笛吹き吹き自分の家に戻っていった(イラスト4)。

料理の籠を担って帰宅する三番目の婿
イラスト4 料理の籠を担って帰宅する三番目の婿

今回は連載の14回で、「三番目の婿」(チワン語龍茗方言で[laːw213 khuːj451 θaːm451]、ラーオクーイ・サーン)を取り上げる。 [laːw213 khuːj451](ラーオクーイ)が「婿(さん)」、[θaːm451](サーン)が「三」である。龍茗方言では、親族名詞の後ろに数詞を付けることで、「~番目の〇〇」という意味になる。

この物語に関して、中国語による記録が天等県民間文学“三套集成”辦公室編(1986:182-186)『天等民間故事』第一集に見られる。これによると、天等県龍茗鎮の各地に同様の話が伝わっているようだ。資料には、「三女婿的故事」(三番目の婿の物語)というタイトルで記録されている。あらすじは本稿とほぼ同じだが、本稿にはない一節も含んでいる。

それは、三番目の婿が料理の籠を峠に隠して、家に戻るまでの間の話である。籠を隠した後、彼は峠でたばこをくゆらせていた。そのとき、たまたまやってきたお腹を空かせた二人の商人に出会った。商人は婿に、お金を出すから食べ物を探して持ってきてくれないかと頼んだ。彼は天秤棒に呪文を唱えるふりをして、道端に隠しておいたお酒やお料理を商人たちに分け与え、代わりにたくさんのお金をもらった。食べ物にありつけた商人たちは、彼が持っている魔法の天秤棒が欲しくなり、いくらでも出すから譲ってくれないかと言った。金儲けのチャンスだと思った彼は、この天秤棒は先祖代々伝わる宝物で売りたくないと嘘を付いた。しばらくの押し問答の結果、彼は商人たちに法外な値段で天秤棒を売りつけ大儲けした。その後、彼は義父母の家に戻った。ここから先の話は本稿と細部の違いがあるけれど、大筋はほぼ同じである。結末も、三番目の婿が嬉しそうに布団とお金を持ち帰ったことになっている。

中国や日本にも類話が伝わっている。中国山西省の昔話の「三女婿拜寿」(三番目の婿の誕生日の挨拶)や、鳥取県大山町の「三人娘の婿」(「三人の娘の婿」とも言う)がそうである(参考文献2、3、4を参照)。中国の「三女婿拜寿」では、二人の姉は文状元2と武状元3に嫁いで、末娘は普通の農夫と結婚した。二人の姉の婿は金銭や地位があり、詩歌に優れた官僚エリートだった。一方、末の婿は普通の百姓で、詩歌も能くしない貧しい百姓だ。義父母の家で会うたびに、二人の姉の婿は詩歌の掛け合いで末の婿を馬鹿にしていた。末の婿は義父の誕生日の宴会で誰も読めない文字(コガネムシをインクで塗って、白い紙に歩かせてできた足跡)で二人の姉の婿をやり返した。鳥取県大山町の「三人娘の婿」では、二人の姉の婿は、神主と法印で、末娘の婿は普通の農夫である。祭りで実家に招待されたとき、上二人の婿はとても気さくで、歌や踊りで座を盛り上げるが、一方の農夫の婿は何の芸も披露できない。そこで姑の一言で農夫の婿が神主と法印を皮肉った歌を披露してどんでん返しで勝利を収めたという。中国と日本におけるストーリーは、いずれもチワンのそれとくらべてより簡素であるようだ。ただし、上二人の婿に身分や地位、富があり、末の婿はただの庶民であるという構図はいずれも共通する。また、上二人の婿が末の婿を苛め、それに耐えきれなくなった末の婿が「巧智」でやり返しをした点も共通している。

末の婿の行為に注目すると、チワン族のストーリーが一番酷いことをやっているようだ。チワン族の場合、末の婿は被害者であると同時に、加害者にもなっている。欲しいものを手に入れるために、義父母や商人たちを騙すということをしている。なぜ、彼は自分の知恵をこのような方向へ向けてしまったのだろうか。いじわるな義兄弟たちをこらしめた点は素晴らしいが、悪意のない義父・義母たちまで騙した点は眉を顰める読者も多いだろうし、筆者も同感である。

過去の連載の解説を覚えている読者の中には、筆者に疑問を持つ人もおられるだろう。第5回「水牛の鼻輪を売る男」の主人公イダンは、詐欺師すれすれの「知恵」を発揮して大儲けしていた。多くの商人たちが騙され損失を被ったにもかかわらず、解説ではイダンを「知恵者」だと称揚した。確かに、イダンも本物語の主人公である三番目の婿もどちらも人を騙したのであり、五十歩百歩である。とはいえ、イダンと三番目の婿の間に明らかな違いがある。それは、イダンが騙したのは市場における買い手で、普段から商売で儲けている商人たちである一方、三番目の婿が騙したのは親孝行を捧げるべき義父母である、ということだ。イダンは「巧知」で儲けようとした「知恵者」と言えても、三番目の婿は「知恵者」だとは言えない。三番目の婿の性格が物語の前半と後半で全く別人のようになるのを見ると、「親孝行を装った親不孝なやつだ」と思う人も多いだろう。

ただし、このような単純な勧善懲悪とは言えない、複雑な人間像が垣間見えるストーリーにこそ大きな魅力があるとも言える。子供の頃、祖父がこの話を語るのを村の皆が面白そうに聞いていたのを今でも覚えているし、うんこが手にべったり付いた義兄たちが登場する場面では皆が腹を抱えて大笑いしていたことを思い出す。

ところが、祖父はある時を境にこの物語を語るのを止めた。誰かに頼まれてもやろうとはしなかった。筆者と弟も頼んでみたが、祖父に「他にも良い話はある。悪い話を覚えてどうするんだ」と厳しく怒られた。

今回の連載にあたり、祖父がこの物語を語るのを止めたいくつかの理由があったことを祖母から教えてもらった。一つは、祖父と祖母の子供のことだ。祖父と祖母には息子が二人、娘が四人いた。末の娘は嫁ぐ前に病に倒れ亡くなった。他の三人の娘はそれぞれ結婚したが、長女と次女の婿は商人で、三女の婿が農民で貧しかったようだ。この物語がまるで自分の娘とその婿たちのことを言っているようで、祖父と祖母の間でも喧嘩の元になったそうである。

他にも、村のいたずらっ子が自分のうんこを小学校で同級生の椅子になすりつけいじめたことがあったということや、村の長老たちに「子供たちが三番目の婿のようになっては困るから語るのをやめてほしい」と言われたということも理由にあるらしい。

チワン族の子供たちには、「三番目の婿」の面白さを楽しんでもらいたいが、三番目の婿の狡猾な面には影響されないでほしい、反面教師にしてほしい、と筆者は願う。同時に、誕生日には今どきの甘いケーキではなく、真心込めたお餅で祝うという習慣はぜひ続けてほしい。チワン族の皆が月と太陽のように明るく健康で長生きしてくれることを祈る。

2021.4.10

第15回 八仙山の話

今の龍茗の役場の裏手には高い山があって、今は八仙山(はっせんざん)と言っているが、昔はピャーゼー(遮る山1)と呼んでおった(イラスト1)。村の古老によれば、あまりにも高く、木も行く手を阻むように生い茂っていたそうな。そのため、山の頂上には猿ぐらいしかたどり着けなかった。天と地を分かつかのように見えたからそういう名前がついた。

八仙山への登り道
イラスト1 八仙山への登り道
八仙山はピャーゼー(遮る山)の漢語名で、チワン語の音読みは[paː31 θeːn251 ɕaːn251]と言う。

ピャーゼーのふもとには小さな村があり、いくつかの家が建っていた。その中に、若い夫婦がいた。夫婦の家には幼い子供と夫の母親も暮らしていた。夫の名前はイラックといい、農繁期には畑で仕事をし、農閑期には山で薪を刈り、それを街の市場で売り、塩や油を買うための足しにしていた。

ある日、イラックは朝飯を済ませ、薪を刈るために斧を背負ってピャーゼーへ向かった。いつもは山の中ほどで柴刈りをするだけで、山頂には行ったことはなかった。もっと硬く質の良い薪を探していたイラックは、普段は行かないより高いところに登ることにした。人の道は無いので、猿が使う獣道に沿って山頂を目指した。喉が渇くと泉の水を口に含み、お腹が空くと木になっている果物を取って食べた。そうしているうちに、ある絶壁にたどり着いた。イラックはその崖の上の枯れ木に腰かけた。タバコを一服したら、さらに上にある頂へ登ろうと決めた。

タバコも吸い終わってさて立ち上がろうとしたとき、山頂のほうから微かにかぐわしい香りと人々の笑い声が聞こえてきた。イラックは「蒼鷹さえ飛んでいけない高いところで、いったい誰がいるのか」と疑った。

その正体を突き止めるため、イラックは頂上へ向かった。頂上に着いたとたん、彼は目の前に広がる光景に魅了された。なだらかな平地に、鈴なりの桃の木、草は青々と茂り、そして八人の老人たちが輪になって座っていた。蔓のように長い白髪とつやつやとした顔をした老人たちは、桃の実をかじりながら将棋を指していた(イラスト2)。あまりの熱中ぶりに、イラックが来たことにも気づいていないようだ。

八人の仙人
イラスト2 八人の仙人
「仙人」はチワン語で[θiːn451](シーン)と言い、さらに「男性の仙人」を[poː33θiːn451](ボー・シーン)、「女性の仙人」を[meː33θiːn451](メー・シーン)と言う。

イラックは思わず彼らのそばへ行き、そっとしゃがんで将棋を眺めた。そうしてどのぐらいの時間が経っただろうか、老人たちが将棋を指し終わってめいめいに立ち上がると、そこにイラックがいることに初めて気が付いた。

老人たちは声をそろえてイラックに聞いた。

「若者よ。どこから来たのかね」

イラックは「僕は山のふもとに住んでいる者です。薪を刈りに来ました。あなたたちの将棋に見入ってしまい、驚かせて邪魔したくなかったので、声をかけずにいました。失礼をお許しください」と答えた。

老人の一人は微笑みながらこう言った。

「かまわんよ。「将棋を見て口を挟まず、これ真の君子なり」という諺もある。君は物分かりがよくて、ありがたいよ。私たちはな、天から来た仙人じゃ。毎日ここで将棋を楽しんでおるのじゃ。今日はこれで終いでの、天宮に帰るところじゃ。どうか若者よ、我らと一緒に天宮へ行かんかね」

思わぬ誘いに驚きつつも、イラックは微笑んで丁重に断った。

「皆様の厚意に感謝いたします。ですが、私めには妻と幼い子供、そして母親がおります。皆が私の帰りを待っているのです」

なんと家族思いの若者だろうか、そう感心した仙人たちはイラックの申し出を受け入れた。そして一人の仙人が袖の下からひとかたまりの銀を取り出し、イラックに手渡した。

「良い良い、無理に誘って悪かったの。今から薪を刈っても、帰るのは遅くなるじゃろう。時間を取らせてしまったお礼じゃ、これでも足しにしておくれ」

そう言い終わると、仙人たちは雲に乗り、空遠くへ飛び去った。

日も傾きかけ、イラックは急いで山を下りる支度をした。斧を忘れていたことに気づき「おっといけない」と手に取って持ち上げた途端、イラックは驚いた。なんと、柄の木が腐って朽ちており、刃も厚い錆で覆われてしまっていた。

「変だぞ。ほんの少しそばに置いていただけなのに、なんでこんなに錆びてしまっているんだ」

首をひねって考えてみるものの、いよいよ暗くなってきたのでそそくさと来た道を戻って山を下りた。

やっとこさ山のふもとに下りたイラックは、見慣れた村が一変していることに驚いた。イラックが住んでいた村は数軒しか家が無かったはずだが、そこには数十軒もの家があった。村の人々もイラックが知っている者ではなかった。去年家のそばに植えた梨の木の苗も、人間二人が腕を広げないと囲めないぐらい大きな幹になっていた。不思議な光景にしばらく戸惑っていたイラックだったが、意を決して自宅の扉を叩いた。家から出てきたのは、白髪交じりの老人だった。老人はイラックに「お客さんや、どなたをお探しですかな」と尋ねた。

「僕はラック2です」とイラック は答えた。「僕はこの家に住む者です。今朝がた、ピャーゼーに行って薪を刈りに行って、今帰って来たばかりです。おじいさん、どうしてあなたが僕の家にいるのでしょうか。僕の家族はどこにいますか。ここは僕の家のはずですが、まさか下りてくる道を間違えてしまったのでしょうか。」と一息に続けた。

「なんと、あなたはラック爺さんですか。本当にラック爺さんですか」と老人は目を丸くして言った。「私はあなたの孫になります。私の父親から、ラック爺さんはあの山に行って行方不明になったままだと聞いています。その時からもう百年も経っていますが、どうしてまだ生きてらっしゃるのか」

他の村人も百年前に行方不明になったラック爺さんの話を聞いて、続々と集まってきた。皆がイラックにどこにいたのかと尋ねた。

イラックは山頂で仙人たちと会った話をし、「仙人と一日過ごしただけでどうして百年も経ってしまっているのだろうか」と言った。

そのとき、村でも昔の話に詳しい古老がこう言った。

「知らないのかね、「天の一日は、地上の百年」ということわざがある」

老人は続けて、「どうりで、山のふもとの村々がここ数十年雨風も穏やかで、災いにも遭っておらんのじゃ。仙人たちが我々を守ってくださっているのじゃ。山に祠廟を建て、仙人の恩徳を記念しよう」と言った。

この提案に皆が賛成した。老人はさらに「イラックが会ったという八人の仙人にあやかり、ピャーゼーを八仙山と呼ぶことにしよう」と提案し、これにも皆が従うことにした。

すぐに工事が始まり、山腹の平らな場所に廟が建ち、そこまでの道路は石の階段が敷かれた。イラックは仙人から手渡された銀を使って、腕利きの職人を雇い、廟をきらめく金箔で飾り付けた。

この話は近くの村々に即座に広まり、皆が仙人の加護を願いに押し掛け、線香の煙が絶えることはなかった。今でも、毎月旧暦の一日と十五日には、老人が山に登って線香をあげている。


チワン族の昔話の連載も15回目を迎えた。今回取り上げる「八仙山の話」(龍茗方言で[koː251 ph jaː451 tɕeː33])は、筆者の故郷である広西チワン族自治区天等県龍茗鎮にある有名な八仙山にまつわる話である。 [koː251](ゴー)は「昔話、物語、話」という意味で、 [phjaː451 tɕeː33](ピャーゼー)は「遮る山」である。毎年の旧正月の夜に、祖父が必ず語ってくれた物語の一つである。

龍茗鎮では、八仙山と聞いて知らない人はいないほど、有名で愛されている山である。私の地元では、昔と同じように今でも毎月旧暦の一日と十五日に山に行き線香を捧げる人がいる。八仙山は筆者の実家から約4キロ離れており、家族は毎月山に行けるわけではない。それでも、旧正月の朝には家族総出で八仙山へ初詣に行く。日本人が正月に神社へ初詣に行くように、龍茗のチワン族は旧正月の朝、八仙山に行く習慣がある。筆者も旧正月には、八仙山へ初詣に行く。まず廟の前の泉の水と果物(この場合、文旦や蜜柑)の葉で手を清める。そのあと、廟の中、あるいは周囲の八仙の像に線香を捧げ、願い事をする。帰りには健康や幸運をもたらすと伝わる泉の水を飲み、水筒に詰めて持ち帰ったりする。龍茗のチワン族にとって八仙山は大切な存在なのだ。しかし、近年この「八仙山の話」を語れる老人も少なくなってきており、この昔話や、八仙山の元の名前も知らない若者が増えてきているようだ。

天等県民間文学“三套集成”辦公室編(1986:60-63)『天等民間故事』第一集に、この物語に関する中国語の記録がある。資料に記されているタイトルは「八仙山」となっており、天等県龍茗鎮の各地に同様の話が伝わっているようだ。「八仙山」のあらすじは本稿とほぼ同じであるが、主人公の名前や細部にはいくつかの異なる点がある。

まず、主人公の名前だが、『天等民間故事』の「八仙山」では「特蘭」となっている。漢字はチワン語の当て字だと思われるが、意味は不詳である。本稿ではイラック[ʔiː213 ðak33] という名である。注2で述べたように、チワン語の[ʔiː213](イ)は若い男性を指し、日本語の「君」に相当する。[ðak33](ラック)は勤勉の意味で、主人公の名前である。本稿のイラックはもしかしたら祖父による名づけかもしれないということを祖母から聞いたが、祖父に語られたままにした。また、『天等民間故事』の「八仙山」における八人の仙人には明確に皆男性(「仙翁」という言葉が使われている)であることが分かるが、本稿で伝えられる仙人では性別は語られていない。そのほか、「八仙山」では中国語で「下棋」と書いてあり、仙人たちが興じるのが中国将棋か囲碁かはわからない。チワン語において、「将棋を指す」は[toŋ4 kɤj2] (ドンゲイ、[toŋ4]は「動かす」、[kɤj2]は盤上遊戯全般)、「囲碁を打つ」は[loŋ2 kɤj2](ロンゲイ、[loŋ2]は「下す」)であるが、本稿の「八仙山の話」では前者が使われているため、将棋であることが分かる。

「八仙山の話」は、現実世界に住む者(イラック)が異郷(普段行かない山頂)へと赴き、そこで束の間の得難い体験の後、再び現実世界へ戻ってくると、世代が入れ替わるほど時間が経過していたという話である。ほかのチワン地域における類話の存在は今後の調査によるが、同様のものは中国・日本に認められる。中国においては、「王質爛柯(おうしつらんか)」、「劉阮天台(りゅうげんてんだい)」、日本においては浦島太郎伝説が何より有名であろう。これらは異郷訪問譚3というストーリー類型としてまとめられる。かつ、現実世界と異郷の時間経過のずれによって、二つの世界が差異化していくところにも特徴がある。往々にして時間経過のずれは、現実世界の側を基準にした場合、異郷での時間がゆっくり進むことで生じてくる。以下では、本稿と類似するこれらの物語のあらすじを簡単に紹介する。

「王質爛柯」は『四庫全書』4所収の『述異記』上巻に記録がある。物語のあらすじは以下の通り。「信安郡には石室山という山がある。晋の時代、王質という木こりがいた。ある日、王質は木を伐り出すために信安郡の石室山まで赴いた。そこで、数人の童子が歌いながら囲碁を打っているのに出会う。王質がその囲碁を見物していると、童子が棗の種のような物を一つくれた。王質がそれを口に含むと、とたんに空腹感が消えた。やがて碁の一局がまだ終わらぬうちに、童子に帰宅を促されてふっと我に返る。王質が持ってきた斧を見ると、柄が朽ちてしまっていた。王質が帰宅したところ、彼が暮らしていた時の人は既に誰もいなくなっていた」5。ストーリーの構造としては、異郷(石室山)を訪間し、仙人に出会ったのち、再度現実世界(故郷)へ戻るという、本稿と同じ異郷訪問譚である。仙人たちが興じる遊戯については、囲碁であると記述からわかる。なお、この伝説から「爛柯」が囲碁の代名詞に転じ、「石室山」も爛柯山と呼ばれるようになったようだ。ここから推測するに、同じ中国本土で伝えられる類話「八仙山」の「棋」も囲碁であろうか。本稿におけるチワンの物語では将棋に興じていたので、この点で差異が認められる。ちなみに、「王質爛柯」の物語は中国から日本に伝わり、故事として和歌や文学作品に引かれている。紀友則「ふるさとは 見しごともあらず 斧の柄の 朽ちし所ぞ 恋しかりける」(古今和歌集雑下991)、式子内親王「斧の柄の 朽ちし昔は 遠けれど ありしにもあらぬ 世をふるかな」(新古今和歌集雑中1670)、さらには源氏物語の松風巻にも「斧の柄も朽ちぬべけれど」が確認できる。

もう一方の「劉阮天台」は唐代に広く伝わった物語である。原題は「劉晨阮肇」([南朝宋]劉義慶撰・鄭晩春編集/訳1988:1-3)で、『幽明録』巻一にある。あらすじは以下の通り。「後漢の明帝の時代、劉晨と阮肇が二人で天台山へ入り、道に迷ってしまう。山中で桃を食べるなどして飢えを凌いだ二人は、渓流のほとりで二人の仙女と出会い、それぞれの伴侶とした。仙女との暮らしは憂いを忘れさせ、やがて半年が過ぎる。彼らは常春の楽園で暮らしたが、そのうち郷愁の念に駆られ、帰郷を望む。仙女たちの歌声に見送られ二人が郷里へ戻ってみると、親類や見知ったものは誰一人おらず、住んでいた村や家の様子も一変している。土地の者に聞いたところ、なんと相手は七代目の孫であった」。ここでも、異郷で半年過ごし、再度現実世界(故郷)へ戻るという異郷訪問譚の構造があり、時空のずれもこれまで紹介した諸作品と共通している。

さて、日本の異郷訪問譚といえば「浦島太郎」伝説であろう(参考文献4)。主人公である浦島太郎が助けた亀からの誘いで海中にある竜宮に連れて行かれる。数日間竜宮で過ごした浦島太郎が亀の背に乗って村に帰ると、自分の家はおろか村の様子がすっかり変わっていて、太郎の知っている人は一人もいなくなっていた。太郎が竜宮で過ごしているうちに、地上では何十年も経っていたのだった。失意のあまりで乙姫にもらった玉手箱を開いたら、たちまち太郎は白いひげのお爺さんになってしまった。物語の類型としてはチワンやこれまで紹介した中国の作品と共通するが、「浦島太郎」独特のものが見られる点を付け加えたい。例えば、神仙譚ではなく報恩譚の要素が含まれている点、主人公の浦島太郎が神仙に出会うのではなく亀や竜宮の乙姫に出会った点、浦島太郎が行く異郷は山ではなく海底の竜宮であった点、故郷に戻った浦島太郎が老人に変身した点などである。上で紹介する「浦島太郎」は現在伝わる浦島太郎の定型で、御伽草子の『浦島太郎』によると思われるが、早くも『日本書紀』(参考文献10)、『万葉集』一七四〇・一七四一番歌、『丹後風土記』逸文(参考文献9)に浦島太郎の前身とも言える浦島子の話が見られる。時代が下ってくるとともに、浦島子の話は新しい要素が加えられつつ、今日の形に発展してきたと数多くの先行研究によって指摘されている。また、伝説の源流については諸説あり、中国大陸由来説(参考文献12、15)と、丹後半島の海人集団によって形成された生活文化圏を基として、そこから生み出された浦島子伝承という説(参考文献8)が見られる。浦島太郎伝説はチワンやこれまで紹介した中国の作品より複雑な出自を持つ点が甚だ興味深いことであるが、専門家による詳細な分析・比較を待ち、ひとまず擱筆したい。

異郷訪問譚から離れ、「八仙」というキーワードに注目すると想起するのが、中国の「海を渡る八仙」伝説(参考文献5)である。「八仙」はすなわち八人の仙人で、古代中国の伝説上の仙人たちである。李鉄拐(りてっかい)、呂洞賓(りょどうひん)、張果老(ちょうかろう)、漢鐘離(かんしょうり)、曹国舅(そうこくしゅう)、藍采和(らんさいわ)、何仙姑(かせんこ)、そして韓湘子(かんしょうし)。彼らはそれぞれ神通力を持つ。ある日、彼らが蓬莱島6に行き、牡丹を愛でる宴会に出ようとしていた。ところが、蓬莱島に行くには海を渡らなければならない。広大なる東海は茫漠として無辺で、どうやったら渡って行かれるかと八人の仙人が悩んだ。この時、呂洞賓が「それぞれ仙人が自分の神通力を発揮して海上を飛んで行こう」という提案をした。八人の仙人は全員一致で呂洞賓の提案に賛成し、それぞれの宝物を手に持った。まず、李鉄拐は杖を海に投げ入れ、その上に立ち、続いて呂洞賓は宝剣、漢鐘離は芭蕉の団扇、藍采和は花篭、何仙姑は蓮の花、曹国舅は玉の板、張果老は紙のロバ、韓湘子は笛を取り出した。それぞれ宝物を海面に置いて船にして、八人の仙人は自分たちの宝物に乗って、順調に東海を渡った。「八仙」は、日本における七福神と同様、東アジアの芸術においてしばしば現れるモチーフである。

今回紹介したチワン族の「八仙山の話」は、これまで紹介した物語からもわかるように、類型やモチーフの点で中国や日本と共通点や相違点がある。これも、これらの地域の間で古くから続けられてきた交流によって連綿と織りなされた文化の一片であろう。龍茗のチワン族の先祖にとって、八仙山という場所、そして「八仙山の話」は特別な存在だった。八仙山は神との対話の場、そしてこの物語は子々孫々風雨順調の願いを託した重要なものである。

2021.6.10

第16回 稲刈り天女

むかしむかし、イビャーという若者がおった1。イビャーは孤児で、幼いころ両親を亡くした。

イビャーの家には小さな田んぼがあった。ある年、彼は田植えをした。すると、三ヶ月もしないうちに、イビャーが植えた苗は他の田んぼよりも早く黄金色になった。イビャーはそれを見てとても喜んだ。

翌日、イビャーは鎌を携えて畑に行き、稲刈りをした。イビャーがしばらく刈り進んで後ろを振り返ると、なんと不思議なことに、刈ったはずの稲がまた穂を垂らしていた。一日かけて稲刈りをしたが、小さな田んぼを刈り終えることはできなかった。

「おかしいぞ。なんで終わらないんだ。まあいいや、ひとまずこの稲を家に持って帰るか。着いたら稲こき2もしなきゃいけない」とイビャーは独り言をつぶやいた。ところが、刈った稲があまりにも多くて、イビャーは一度に天秤棒で担ぐことができなかった。運べなかった稲は束にして畑の端に置き、明日の朝取りに来ることにして、いくらか担いで家に帰った(イラスト1)。

料理の籠を担って帰宅する三番目の婿
イラスト1 天秤棒で稲を担いて帰宅するイビャー

家に着いたイビャーは、稲を打穀樽(イラスト2)の横に置いた。そのとき、さっき畑の端に置いてきたはずの稲の束が突然打穀樽のそばに現れた。それを見てイビャーは驚いたが、それ以上にあまりにもお腹が空いていてそれどころではなかった。彼は晩ご飯を食べてから脱穀しようと考えた。

八人の仙人
イラスト2 打穀樽
米、麦や高粱などの収穫作業で用いられる農業機具の一つである。チワン語で[faːt33](ファー)と言う。根刈り3した稲束を持って打穀樽の内壁に打ちつけ、打ちつけの打撃によって穀粒を樽の中に落とす。足踏式脱穀機が使われるようになるまでに、筆者の実家ではイラスト1のような大きな打穀樽が使われた。

イビャーは「一体どこの誰が運んだんだよ。おかしいなあ、おかしいなあ」とぶつぶつ独り言を言いつつも、晩ご飯をこしらえた。晩ご飯を済ませると、稲を脱穀しようと打穀樽のほうに行った。なんと不思議なことに、いつのまにか稲は全て綺麗に脱穀されていたのだ。

あくる日、イビャーはまた稲刈りをした。けれども、やっぱりいくら刈ってもまたすぐによく実った稲が出てきた。幾日か稲刈りを続けたが、小さい田んぼはいつまでも刈り終わらなかった。イビャーはいくら刈っても終わらない田んぼを見てどうしたらいいか分からなくなった。

ため息をつきながらイビャーはこう言った。「お米をお裾分けするから、誰か刈った稲がもう生えてこないようにする方法を教えてください」

七人の天女 にイビャーの願いが聞こえたようだった。稲刈りをしているイビャーのもとに、突然、美しい着物を着た七人の天女が飛んできた。

「イビャー兄さん、私たちがお手伝いをしてあげましょう。今すぐ鎌(イラスト3)を七つ持ってきてくださいな。稲がもう生えてこないようにしてあげましょう」

イビャーは半信半疑で天女の申し出を聞き、言われた通り家に戻って鎌を七つ借りてきた。七人の天女はきれいな翼を外して畦に置き、そうして鎌でざくざくと稲を刈り始めた。すると、天女が稲刈りをした後は本当に再び生えてくることがなかったのだ。どうやって稲を刈っているのか不思議に思ったイビャーは、畦で稲をまとめるふりをして、こっそりと後ろから覗いた。なんと、天女たちは刈った後の稲の茎の穴に白い鼻くそを詰めていたのだ。

今でも稲の茎の穴に綿状の白い塊があるのは、このためだという。稲を刈った後また穂が出るようにするには穂軸と茎の繋ぎ目の下あるいは根元に近いところを刈る必要がある。そこには、天女の鼻くそが詰められていないのだ。

……(続きは不詳)

八人の仙人
イラスト3 鎌
チワン族地域では刃の部分が半月形に大きく彎曲した鎌(右)と比較的彎曲の程度が小さい鎌(左)がある。両方ともチワン語で[liːm31]と言う。田中(1991:319-320) によれば、タイ国でも刃の部分が半月形に大きく彎曲した「彎曲鎌」と比較的彎曲の程度が小さい「三日月鎌」が使われているという。

この連載も第16回目(最終回)となった。この連載をご覧くださった皆さまに感謝する。二年半近くも連載が続けられるとは思っていなかった。祖父が語ったチワン族の昔話も、私が覚えているのはこれだけで、ついにネタ切れが来てしまった。ここで一旦筆を置く。

今回は「稲刈り天女」(龍茗方言で [meː330iːn451 kwɤn31 kʰaw213])を取り上げた。本稿の物語は未完となっているが、続きは思い出せなかった。「天女」あるいは「女性の仙人」を[meː330iːn451](メー・シーン)、「稲刈り」あるいは「稲を刈る」を[kwɤn31 kʰaw213](クンカウ)と言い、[kwɤn31] は「(鎌で)刈る」、[kʰaw213](カウ)は「米」という意味である。

祖母によると、物語の教えの通りに稲を刈らないと、刈った後の株から新しい葉や茎(ひこばえ)が生えなくなり、二回目の収穫ができなくなるという。祖父は稲刈りの時期にこの話をよくしてくれたが、私と弟は昼間、一生懸命稲刈りの手伝いをしたものだから、疲れ切って物語の途中で寝入ってしまったそうだ。物語の続きが思い出せないのもそのせいである。家族や親戚、村のお年寄りにも話の続きを確認したが、覚えている人はいなかった。したがって、今回は未完となっている。

この昔話は、中国科学院文学研究所編(1958:120-134)に収録の「勇敢的阿刀」、また、同じ物語が訳されたチワン族の長編昔話「勇敢なアタウ」(千田・村松1963:296-305)の一節と酷似している。主人公「阿刀」は中国語であり、おそらくチワン語の[ʔiː213 pjaː213](イビャー)を直訳したものであろう。「勇敢なアタウ」のあらすじを以下に述べる。

アタウは幼い頃、母と共に貧しい暮らしをしていた。しかし幼いアタウを残して母は病気で亡くなった。亡くなる直前、母はアタウに父親の所在を告げた。母親の話によると、アタウの父親は腕のいい猟師だった。悪さをする山の中の獣を皆撃ち殺し、村の人の難儀を救ったが、地主であった黄万(ワンバン)は山の獣は全て俺のものだと言い張り、その償いとしてアタウの父親は山の中に入って獣になることを迫られた。母親が亡くなった後、一人になったアタウは山に行き父親を家に迎えた。父親はすっかり獣になっていて、長い一対の角を生やし、身体中は長い毛で覆われていた。父親が家の門に入ったとたん、二匹の犬に吠えられたので、父親は身をひるがえして逃げ出した。そのとき、片方の角が門にぶつかって折れてしまった。アタウの父はもう二度と家には戻らなかった。アタウは折れた父親の角を縄で縛り、引っぱって歩いた。そして、角が地面に突き刺さったところを田んぼにした。これはアタウの父親がアタウにそうするよう言い残したことだった。そこに稲の苗を植えたら、三ヶ月で黄金の稲穂ができた。不思議なことに、七日かけて稲刈りをしても稲がすぐに生えてきていつまでも刈り終わらなかった。それを見ていた七人の仙女が飛んできてアタウを手伝った。そのお陰で、稲は生えてこなくなった。アタウは畑の畦に置かれていた仙女たちの七組の翼を目にし、一番小さくて、一番美しい一組を稲束の中に隠した。その後、翼をなくした末っ子の仙女はアタウと結婚し、アタウの妻となった。地主がアタウの妻となった仙女に懸想し、仙女はアタウに隠された翼を使って天にのぼった。アタウも天にのぼって一切の困難を克服し仙女と再会したという。

また、本稿と、李方桂 (1940:72-85)に収録された龍州方言のテキスト「仙女」(龍州方言で[me˩ naːŋ˥˩ ɬiːn˧]、英訳は"The Fairy")を比較してみると、「稲刈り天女」は「仙女」の前半と共通点が多いことがわかる。以下に、「仙女」のあらすじを紹介する。

物語は天女が天から降りて主人公の孤児の稲刈りを手伝うものである。むかしむかし、ある孤児が稲刈りに行った。ある日、彼はある小さな稲畑を刈ってしまおうとしたが、なぜか一日かかっても稲を刈り終わらなかった。刈ったばかりの稲がまたすぐに生えてきたのだ。その後、毎日刈っても刈りきれず、困っていた。さらに不思議なことに、孤児が刈った稲を運んで帰ろうとすると、稲の束が勝手に家に転がって行った。孤児はますます困惑した。いくら刈っても終わらない田んぼを見て、孤児はとても焦り、どうしたらいいか分からなくなった。孤児が「誰か刈った稲がもう生えてこないようにする方法を教えてくれないか。教えてくれる人に一部のお米をお裾分けする。こんなたくさんお米があっても困るよ」とため息まじりにつぶやいた。ちょうどその時、孤児のつぶやきを耳にした天女がいた。そして、七人の天女が天から降りてきて孤児の稲刈りを手伝った。孤児は、天女たちがどうやって稲を刈っているのだろうと思い、こっそり後ろから覗いてみた。彼は、天女たちが鎌で刈った稲の茎の穴に丸めた鼻くそを詰めているのを見た。これが稲を再び生やさない方法だったのだ。日暮れになり、天女たちが天に戻る時間となった。ところが、仙女たちが稲を刈っている間に孤児はそのうちの一人の翼を隠した。それで天に戻れなくなってしまった一人の仙女はしかたなく孤児と結婚し、二人の子供を産んだ。ところがある日、仙女は子供から翼のことを知った。仙女は翼を取り戻し天に帰ったが、その後、空から赤い紐と黒い紐を下ろして二人の子供を天に昇らせた。子供たちがお父さんも天に呼びたいと言ったので、仙女は赤い紐を下ろして夫である孤児を登らせたが、途中で紐を唾液で溶かして夫を落として死なせた。天にのぼった二人の子供は糞便が臭すぎて、地上に追いやられた。仙女も二度と自分の子供と会えなくなったという。

以上に挙げた「勇敢なアタウ」と「仙女」の話から見て、「稲刈り天女」の類話は広西チワン族自治区において広く伝えられていると考えてよいだろう。しかし、それぞれの物語のあらすじにどのような地域差があるかについては、今後の調査が待たれる。

「勇敢なアタウ」と「仙女」に限って言えば、日本の羽衣伝説および世界的に広く伝播している白鳥処女説話(Swan Maiden Mith)と似た構造を持つ伝説と言えるかもしれない。しかし、日本の羽衣伝説に登場する白鳥(天女)は水浴びに降りて来るのに、チワン族の昔話では稲刈りの手伝いに降りてくる。この点においては、チワン族の「勇敢なアタウ」と「稲刈り天女」が水稲耕作を営むチワン族の文化、農事にひたむきなチワン人の性格を反映しているのではないかと考える。なお、「稲刈り天女」も未完であるので、類型論上の議論はここではおいておく。

今後はフィールドワークを通して、「稲刈り天女」およびチワン族の昔話を調査し続けたいと思う。そのフィールドワークの成果をもとに、「チワン族の昔話の続編」を連載できればと考えている。

謝辞

チワン族の昔話を連載するにあたって、多くの方々のご助力を頂きました。

最初に、一橋大学大学院言語社会研究科の武村知子先生のご助言で投稿し始めました。武村先生のご助言が無ければ、この連載を完成させるどころか、まだ始められていなかったかもしれません。心より厚く御礼を申し上げます。

また、一氾文学会の編集委員の皆様には、何度も原稿を読んでくださり、有益なご指摘も頂きました。原稿の良い面・改善すべき点をシンプルかつ明確に指摘してくださったことに、感謝を申し上げます。

次に、後輩の山田高明さんには、何度も本連載の日本語確認及び貴重なコメントを頂きました。ときには、遅々として進まず落ち込みがちな筆者を支えてくださり、ときには締切がぎりぎりになっても徹夜で原稿を読んでくださいました。この連載は山田さんを除いては完成できないものだと思っております。心より深く御礼を申し上げます。いいえ、山田さんには感謝する言葉も見つかりません。

最後に、本連載の物語を教えて頂き、私の大学入学そして日本留学を心待ちにしながらも残念ながら2004年に永眠した祖父にこの連載を捧げるとともに、煩わしさを厭うことなく協力してくれた祖母、父、弟、いつも心の支えになってくれた家族に心から感謝します。

2021.8.10

 

(こう・かいへい/一橋大学大学院言語社会研究科 特別研究員)