はじめに
音と画面の存在論的なあり方の違いが、両者の結びつきにくさの根底にある。アニメにおいては画面が実写映画とは異なるあり方をしており、また音が必要とされる理由も実写映画とはまた違っていて、そのせいで画面と音の結びつきにくさにも、結ばれる仕組みにもアニメに特有の様相が現れている。画面と音の関係を中核にして、他にもいくつもの多様なものの結びつき方、結びつけられ方、結びつかなさが、徹頭徹尾人為の産物の集合であるところのアニメというものに観察されるだろう。この連載では、長田・小松の二人がそうした観察に直接的、間接的に基づく考察をそれぞれに行い、一回ずつ交代でそれぞれの論考を発表する。
第1回 演奏の動作と音が結ばれない
アニメを考えるにおいて、画面に視認できるキャラクターの動きと、聞こえてくる音との関係を考えずに済ますことはできないと思って研究を進める中で、ずっと頭の隅に引っかかっていることがある。それはアニメを見ている時に聞こえる音楽に関することだ。私はどのアニメを見ていても、キャラクターが歌を歌う動き、あるいは楽器を演奏する動きが画面に映り、そのキャラクターによって歌われたり演奏されたものとして音楽が聞こえてくるときに、画面にいるキャラクターがその歌を歌っている、ないし楽器を使って音楽を演奏していると思ってキャラクターを見続けることがなかなかできない。
キャラクターと音楽の結びつかなさということで言えば、たとえば音楽に合わせてキャラクターがダンスを踊るのであっても、その音楽をキャラクターが聞いて踊っているようには私には見えない。その結びつかなさも気にはなるが、そちらからまず考えるということをしなくても良いように思うのは、その結びつかなさが惹起する戸惑いが、アニメの物語を追うことに介入してくるということがあまりないからではないかと思う。仮に何かの理由でキャラクターに音楽が聞こえていないとしてもあまり構わないというか、ダンスさえ踊れているのであれば十分物語は次の展開に移行することができる、しかし音楽を主要キャラクターが演奏する場合には、大抵の場合キャラクターの歌唱や演奏はそのキャラクターの物語的な行動理由の変化といったようなものとリンクしていて、なんとしてもそのキャラクターがその音楽を歌唱し演奏しているということでなければ物語が破綻する。歌唱や演奏というものは、その動作が音を発しなければ歌唱や演奏とは呼ばれないはずであるし、動作と音の両者が結ばれれば、それが口パクや当て振りであっても、鑑賞者にとっては歌唱も演奏も成立するはずだ。
画面におけるキャラクターの演奏動作と、その演奏音としての音楽が結びつきにくいことの理由のひとつに、楽器を演奏するような複雑な動きを作画することが難しいという制作段階の事情が、あるにはある。しかしそれは、演奏動作と音楽との結びつきにくさの主たる要因ではないように思う。そう思う理由は、たとえば『坂道のアポロン』の一場面に認められる。このアニメでは、九州の叔父の家に居候させられることになってクサっていた東京育ちの高校生(以下「ボン」)が、現地の高校に転入して出会った一人の不良(以下「セン」)の影響でジャズの演奏に熱中するようになるのだが、第7話において、この二人が高校の文化祭でジャズを演奏する。この演奏は、それまで喧嘩別れしていたボンとセンが和解する機会となるセッションであり、二人の演奏が初めて観客を大いに沸かせるクライマックスでもあって、制作時には演奏動作が入念に作画されたと思しく、画面内のキャラクター達は活発に動いている。制作段階においてロトスコープの技術を用い、実写で演奏者を撮影したのちにその人物像の輪郭線をコマ毎に紙になぞりとった結果の動きであるように見えるし、実際実写撮影を行ったという制作者の証言もあるが、「ロトスコープではない」1 というアニメーターの発言もある。たしかに完全なロトスコープと比較すればキャラクターの動きは若干リミテッドアニメ的な緩急を備えていて、おそらく制作段階の詳細は、実写で撮影したムービーを参考にはしたが作画時にリミテッドアニメ的な誇張も加えたということなのではないかと思うが、実際のところは分からない。しかし楽器演奏に全く疎い私にとっては、ピアノを弾くボンの動きも、ドラムを叩くセンの動きも、それぞれの楽器の演奏者の動作として概ね正確な動きとして、あるいは少なくとも彼らの動きが正確でないという根拠を画面に見てとることはできない動きとして見えている。しかしそうであってもやはり、この場面において私に聞こえている音楽を、画面に映る彼らが演奏しているようにはなかなか思えない。ピアノについては、私であっても、鍵盤から直接ピアノの音が出るわけではないことを知っているから、そのせいで演奏動作と音楽とが結びつきにくいということはありうる。ピアノ演奏に堪能な人が画面を見て音を聞けば、鍵盤の特定の位置を占めるキイを押す動きと、そのキイに対応した音とが結びつきやすいのかもしれない、その可能性は否定できないが、しかし打たれた物体から音が出るはずのドラムであっても、やはり画面においてセンが叩くドラムが、私たちに聞こえているドラムの音の発生源であると思って画面を見続けることはできない。
そうできないのは、リミテッドアニメにおける音と画面との結びつき方に多く起因していると思われる。リミテッドアニメを鑑賞するにおいて、私たちは、画面に映るキャラクターの動きにおける急激な緩急の切り替えが我々に与える衝撃と、明白な一音の打ち出しとが同期することによって初めて、その衝撃を出した画面上のキャラクターに音の発生源を定めることができる。画面から出るその衝撃を私は「拍」と呼んでいる。例えば口パクであれば、画面上の一文字に結ばれた線であったキャラクターの口が、瞬間でぱっと開かれるときに、その動きにおいて画面から我々に拍が打ち出される。その拍を感受するとき同時に声が聞こえることで、我々は声の発生源を画面に見つけることができ、その双方を結びつけることができる。リミテッドアニメのキャラクターの口は通例、大きく開いた「開き口」、閉じた「閉じ口」、その中間の開き具合の「中口」の三つほどしかないが、声がキャラクターにつくための数としてはそれで十分であって、声がキャラクターにつくことができるかどうかは、声に合わせて口が滑らかに動くかどうかではなく、口が唐突に動くときの拍と、声の発生がいかに明白に感受され、いかに同期するかにかかっている。
ところが音楽の途中で鳴る一音というのは、いかにその一音が謂わば審美的に重要な一音であっても、音の打ち出しの明白さという点においては、無音状態からなにか音が鳴るときに比べて明白さを欠く。また上記の演奏シーンについて言えば、演奏者がどうも始終なにかしら体を大きく使って動いているのが常であるらしいジャズという音楽の演奏動作において、画面におけるキャラクターの動きは慌ただしく、似た強さの拍がいくつもその動きから打ち出されていて、それぞれの拍があまり明白でない。もちろんそれぞれ感受できなくはないのだが、リミテッドアニメの画面からは、それらの拍よりもずっと強い拍が始終打ち出されている。それは、キャラクターが静止状態から動き出す時の拍である。アニメキャラクターの静止は、生身の人間では行えない完全な静止であり、その静止には、呼吸や不随意の筋肉運動によるような僅かな動きも揺れも一切含まれていない。その静止が動きに転じるというのは、メリハリのある動きのうちの突出点が我々に衝撃を感じさせるというのとは違って、運動性が無から唐突に有に転じるという、ゼロからイチへの切り替わりであり、この時に出る拍は動きの最中におけるどのようなメリハリの拍とも異質の明白さを持っている。その拍は、キャラクターに静止箇所や静止時間を多く与えその静止をメリットフルに活用するリミテッドアニメの画面においては、数多いというよりむしろ基本的な、基調的な拍ですらあるので、上記シーンにおける演奏動作の最中に行われるような動きのメリハリなどは、相対的に弱い拍を出しているとしか見えない。
無論、演奏であっても最初の一音は無音から、最初の一動作は静止から始まることができるのだが、上述の場面においては、その最初の一音と一動作こそが、演奏動作と演奏音との結びつきのそもそもの弱さを生んでいる。ほとんどロトスコープである『坂道のアポロン』のキャラクターの動きでは、リミテッドアニメの唐突な動きであればできるようなこと、たとえば鍵盤の上方で宙に静止した手の原画と、キイを押し下げきった手の原画の間に、その押し下げる動きの過程となる動画を一切挟まない「中ナシ」の作画法によって、手が一瞬でキイを押し下げ拍が出るのと同時に音が鳴って、動きと音が明確に同期する、といったようなことはできないのだ。上記シーンにおいてはまず、静止状態から動き出すときの拍は、ボンがピアノの鍵盤の上にかざして静止した指を予備動作として一度少し上に上げる時に出る。彼の指がキイを叩くときにもある程度の拍は出るのだが、ピアノの音はボンが指を下降させてキイを押し下げてからコンマ数秒ほど経った後に初めて鳴る。そのコンマ数秒は、実際の演奏において演奏者の指がキイを叩き、ピアノの中でハンマーが弦を叩いてそれゆえに音が出る、その経緯が辿られるのにかかるのと同程度の長さなのではあろうけれど、しかしアニメにおいてはそういった経緯を辿って画面の動きから音が出るわけではない。音が鳴る時に同時に画面から明白な拍が出る、その音と拍が同期することによって、その同期ゆえに音が出るので、ピアノのキイを押した後で音が鳴るのでは、動きと音とは結びつかないのだ。そして上記シーンにおいてピアノの最初の一音が鳴っているときには、画面では複数の指が運指のために複雑に動いていて、画面から出る拍のそれぞれは明確に感受されない。ピアノの最初の一音が鳴るとき、その音と手とが結びつかない大きな理由は、音と拍の同期のずれであるだろう。
一方、ドラムセットから出たはずの最初のシンバルの小さな一音が鳴るときには、ほとんど手の動きが見えない。その画面にはアップショットでふたつのシンバルが、我々から見て奥と手前にひとつずつ映っていて、奥のシンバルは画面左側、上下位置中央に位置し、手前のシンバルは画面右側上方に位置している。画面右下の隅にはスティックを持つ右手が、手首から先だけを画面右端から突き出した状態で、小さく映っている。どうやらセンが我々から見てドラムセットの向こう側、画面右側の外で、こちらに左前半身を向けて座っていることは想定しうるにせよ、画面に映っているのは画面右端から伸びた右手だけである。この右手はショットが始まった時にはもうスティックを小さく振り上げ始めており、動き出しの拍はカットの拍といっしょになってしまっていて双方を区別することができない。その手に振り下ろされたスティックが奥側のシンバルを叩くのだが、その振り下ろされる動きは手前側のシンバルでほとんど隠れてしまっていて見ることができず、奥側のシンバルに当たる寸前にやっと手前側のシンバルの後ろからスティックが画面に現れる。このとき、シンバルの後ろからがスティックが突然出現する拍は非常に明白であり、我々の視線はスティックに集中するのだが、シンバルの音はまだ鳴っていない。そしてシンバルの音が鳴るときには、奥側のシンバルに当たったスティックが跳ね返ると同時に、ふたつのシンバルが同時に少し揺れる。手前側のシンバルも、画面に映っていない左手のスティックで叩かれたということなのだろうが、いずれにしても、奥側のシンバルに当たって跳ね返るスティックも、揺れるシンバルも、それ自体が演奏者であるわけではないという事実は大きいように思う。画面右下に映る手もシンバルの音が鳴ると同時に動いて拍を出してはいるのだが、その動きの拍はスティックやシンバルが出す拍とひとつになってしまっているし、鑑賞者の視線は画面中央付近、スティックとシンバルに集中していて、画面右下の小さな手をほとんど見てはいないはずだ。ドラムセットの最初の一音が鳴るにおいて、音が手に結びつかないのは、画面内における位置のずれのためだと言って良い。
ボンが演奏動作を始める際の数ショットの繋ぎと、センが演奏動作を始める際のそれとは共通していて、まず楽器を使い始める手元のアップショットが映り、次に流れてきた音楽を聞いている他の生徒の顔を映すバストショットが映り、続いてその生徒が見ている先にいるボンやセンの上半身のアップショットが映る。この最初の3ショットを見ながら音楽を聞くときには、まず最初のショットを見る際に、演奏する手と音は曖昧にしか結びつかない。次のショットにおいて、ボンやセンと同じ体育館内にいて、そこにいるがゆえに音楽が聞こえているはずの生徒たちが映り、その生徒たちが何かを一心に見ているであろう様子が見える。そしてその次のショットに、その生徒たちに見られている、見られているがゆえに生徒たちと同一空間内にいるはずのボンとセンが映り、そのボンとセンが体を動かす律動が、概ね音楽の律動とリンクしているのが見える。言うなればボンとセンは、彼らを見る生徒たちを介して、自身の指やスティックと繋がり、音楽と繋がっている。その迂遠な繋がりは、単に手のアップショットと、顔を含むバストショットとを繋げるためにというだけでなく、そもそもの最初に発生した音とのズレ、ボンにおいては同期的な、センにおいては位置的な音とのズレによって、よけいに必要とされてしまっている。
しかし彼らと音楽との結びつきが弱いことの大きな理由が上述のとおりであるとして、それがアニメというものにおける画面と音楽との結びつきの恒常的なあり方だと言うことはできない。上述の場面は、動きから出る衝撃と音との同期性は損なわれようとも現実の演奏動作に近似した動きをキャラクターはすべきであるという基準を内包しており、その基準が上述の画面と音の結びつきの弱さを招いていると思われるが、その基準を持っていないアニメも多くあるからだ。そうしたアニメは概ね古く、また概ね画面と音楽との結びつきの弱さを補うのではなくむしろ推し進めるかたちでシーンが構成されている。そうしたアニメにおいては、画面は音楽が演奏者から離れていくのを不断に繋ぎ止めようとするのではなく、音楽が離れていくにつれて、画面に認められる空間を拡大し、運動性の範囲を拡大しようとして展開していくように思われるのだ。次の機会には、そうしたアニメについて考えつつ『坂道のアポロン』との比較を試み、楽器演奏者と音楽との繋がりについて再考しようと思う。
2018.4.18
(おさだ・しょういち/城西大学付属城西高校)
第2回 アニメの線はどのように作られ、語られているのか
アニメの画面に映し出されている絵の中には、必ず描線がある。これは「アニメ絵」と呼ばれる絵の特徴のひとつだ。アニメの映像は、アニメーターの描いた線を素材にして作られるので、線はいわば画面の主役である。この線は、制作工程の中で、動画までの段階と、その後の仕上げの段階とでは大きく様変わりする。 アニメの動く画は、次のような工程を経て作られている。
- 絵コンテ → レイアウト → 原画 →動画 →仕上げ →撮影
動画の段階までの線は、紙に鉛筆で描かれた線である。仕上げの工程とは彩色のことであり、仕上げを経ることによって鉛筆の線は色づけされた絵の一部へと姿を変える。鉛筆画の状態ではあらゆるものが線だけで描き出されており、どの一本の線も等しく「線」としか呼びようがない存在感を帯びているのだが、色づけされた絵の中では、線は「輪郭線」という役割の限定された線になる。色がつくというのは絵の印象を大きく変える出来事であり、情報量は増え、描かれたものの形は色分けされた彩色によって面として認識されるようになるため、線は面を縁取る「輪郭線」となるのだ。仕上げの絵と照らし合わせて見てみると、動画までの工程で作られていた鉛筆の線画は、絵画の下書きにあたるもののようにすら見えるかもしれない。撮影の素材となるのは仕上げが施された彩色済みの絵なのだから、原画も動画もその絵を作るための「素材の素材」なのは確かだ。
しかし、それでいながら、人がアニメを語る時には、とりわけ「動き」について語る時には、「線」こそが主役として扱われるのである。これは不思議なことであるようでいながら、当然のことでもあるようにも思える。それは、アニメとは何であるか――というよりも、何であるとみなされているのかということとも深く結びついているので、動く画が作られる工程で線がどのように姿を変えていき、それがどのように語られるのかということを、あらためて整理してみたい。
一般的に、先述した動く画が作られる工程の中で、アニメーターという職名で呼ばれる人が絵を描いているのは、レイアウトと原画と動画である。
- レイアウト:キャラクターの位置と移動範囲、カメラワークなどの画面設計図(背景原図も兼ねる1)
- 原画:動きのポイント(動き始めや動き終わり、動きの途中のポイントとなるポーズなど)が描かれた絵
- 動画:原画をクリーンアップして、原画と原画の間に中割りを加えていく作業のこと。またはその絵2
アニメの制作方法についてはあまり詳しく知られていないと思われるため、はじめに指摘しておいた方がよいと思うのだが、この3つの工程はそれぞれ別のアニメーターが絵を描く。レイアウトと原画については同じアニメーターが担当する場合もないわけではないが、3つの工程全てを一人のアニメーターが担当するということはまずない(そうした例があれば業界で大きな話題になるというくらいにレア・ケースである)。つまり、アニメの作画作業は先ほど例に挙げた絵画の下書きとは異なり、一人のアニメーターが段階的に絵を仕上げていくのではなく、別々のアニメーターが描き直した絵が次の工程に送られていくのだ。これは加筆や修正ではなく、全面的な描き直しである。一般的に動画というと、原画と原画の間に必要な絵を描き加えていく中割りの役割の方がよく知られているように思われるのだが、間に絵を加えるというのは、原画の絵をそのまま使用した上で中割りを足していくということではない。全ての原画は動画の線でクリーンアップ(清書)され、そこに中割りが足されていくのである。では、クリーンアップとは何を行うのか。基本的には原画の線をなぞって引き写すということだが、そう単純な作業ではない。原画の線は柔らかい鉛筆で描かれた(比較的)粗い線であるため3、そのまま中割りを足すだけでは線がガタガタとブレて滑らかな動きに見えない。そのため、均質な細さでブレのない、一定の濃さの線で描き直す必要があるのだ。この時、動画は原画の線の「ニュアンスを拾う」ことを要求される。鉛筆の線は太さや強弱を付けやすいので、(同じく鉛筆を使ってなぞるとはいえ)動画の細い線でクリーンアップする時には、幅のある線の内側をなぞるのか外側をなぞるのかによって、絵の印象も変わってくる。決して同じ線にはならないからこそ、「ニュアンスを拾う」ことが求められることになるのだという言い方もできるだろう。こうした原画から動画への描き直しは、絵の印象を大きく変えてしまう危険性を常に抱えている。また、原画は作画監督によって修正される場合もあるのだが、修正は原画用紙に描かれた線を消しゴムで消して描き直すという方法ではなく、原画の上に別の紙を乗せて修正が必要な部分の線だけを描き加えるという方法で行われる。その場合、動画は原画と修正原画(これは作画監督によるものの他に総作画監督によるものもあるので、複数枚ある場合もある)の両方の線から必要な線を抜き出して集めながら1枚の絵を完成させていくことになる。
何が言いたいのかというと、撮影素材が作られるまでの間には、複数のアニメーターの手によって何度も絵が描き直されているということなのだ。しかも、直接に線を描くという意味での作画の作業は動画の工程までで完了するのだが、この後にもまだ線に手が加えられていく。そうなるとなおさら、作画工程でアニメーターによって描き上げられた線が、完成した画面の上にそのまま現れるわけではないということになる。
動画の後の工程では、線に「手が加えられる」といってもそれは人の手によるものというわけではなく、主にソフトウェア上でのデジタル処理によって線の姿が変化していくことになる。その変化は仕上げと撮影の工程で別々に起こっていて、仕上げ工程での線の変化は、消極的な、意図せずに起こってしまうものなのだが、撮影工程での線の変化は、線の印象を大きく変えてしまう劇的な変化である。
仕上げの工程では、動画の線がPCでスキャンされ、デジタルペイントに適したデータに変換される4。デジタルペイントでは、線で囲まれた部分を一括選択で塗り潰すため、線のアンチエイリアス(中間色のピクセル)をなくして白と黒の二値のみのデータにする(二値化)。そうしないとアンチエイリアス部分は選択されず、色が付かずにグレーのままに残ってしまうからだ。二値化し着彩することで作業は効率的になるが、アンチエイリアスのない線はギザギザに荒れてしまうため、着彩後の線にはスムージング処理が施される。このように仕上げ工程の中で一旦荒れさせてまた滑らかに戻された線は、スキャン前の滑らかな鉛筆の線と同じものになるわけではない。ただし、この変化はそこまで大きなものだというわけではない。
より劇的な変化は、従来であれば線に影響を及ぼすことのなかった撮影の工程で加えられる。デジタル撮影では様々な撮影処理を施すことができるようになったのだが、そうした処理の中には線の見た目を大きく変化させるものがある。その例として、『ガンダム Gのレコンギスタ』(2014年)というテレビアニメ作品で用いられた「セルトレス処理」という撮影処理を挙げる。この処理は、仕上げ後の絵の中のキャラクターの主線(輪郭線)を、意図的に掠れてザラついたような荒れた質感にするという処理である。仕上げと撮影がデジタル化される以前、セル画を撮影素材としてアニメが制作されていた頃には、動画の絵をセルに転写するには、ハンドトレスとマシントレスという方法があった。ハンドトレスは動画の上に透明なセルを乗せ、インクをつけたペンで動画の線をなぞっていくというもので、マシントレスは動画とセルの間にカーボンを挟んで熱で転写するというものであった。マシントレスはコピー機のようなものであり、現在のような高精細で鮮明なコピー機ではなく、もっと解像度も低く粗いコピー機である。そのため、カーボンの粒子は均一には定着せず、線のところどころが掠れたりザラついたりしていた。こうした質感は、劇画マンガを原作とするアニメで原作の絵の線の質感を再現するものとして重宝されていたという側面もあり、エラーではなく効果として生かされてもいた。「セルトレス処理」もそれを狙っているという5。デジタルペイントを行いつつ線をマシントレスのような荒れた質感にするためには、撮影の工程で処理をするしか方法がなかったということでもあるのだろう。セル画のマシントレスによる荒れた線に色を塗ることができていたのは、人の手で一枚ずつ絵の具を乗せていたからであり、一括選択によって着彩するデジタルペイントでは荒れた線を扱うことができない。そのため、セル画の制作とは異なり、ペイントを行う仕上げの段階においてではなく、その後の撮影の段階においてソフトウェア上でのデジタル処理を施すことで、線の質感を変化させたということなのだ。こうした例が興味深いのは、制作工程をデジタル化することによって、線をより高精細にスキャンして動画から仕上げに移る際の線の変質を減らすということもできるように思われるのに、そうではなく、敢えてもう一度、線の姿を大きく変えてしまおうという試みを行っているというところである。作画工程で何度も描き直され、ようやく動画で完成したはずの線を、さらに加工するのである。こうして完成された線は、より原画の線から離れていくように思われる。
しかし、このように何度も描き直されてようやく画面に現れた線を見た後で、アニメの線について語ろうとする人々は、そこに原画の線の痕跡しか見出そうとしないのだ。アニメの作画は、徹底して、原画を担当したアニメーターの名前で語られる。原画はカットごとに別のアニメーターが描いているため、作品はまずカットごとに分割される。そして、語るべきカットとそうではないカットに分別されて、語るべきカットだけが原画を担当したアニメーターの名前と結び付けられて、完成画面にはそのものの形で現れていないはずの原画の線が見えているかのように、鉛筆画の原画の線を想定して語られることになる。アニメの線について、また、線によって描き出される動きについて、その他の語り方は存在していない。
その理由は、おそらくいくつかある。一つには、作画についての語りのほとんどが、制作者の視点に立ったものに限られているということがあるだろう。誰がどのような意図でその絵を描いたのかという視点から語られるため、描き直しによって生じた変化は意図しない変化として目をつぶり、「本来の」「その姿であるべきだった」原画の線だけを語ることになるのだ。また、これもそうした見方に基づくものと言えるだろうが、他人の描いた線を描き直すという行為については強い独創性を認めず、やはりアニメであるからには動きを作り出す起点となった原画こそが作画と呼べる行為であるという考えを持つ人が(制作者には特に、そして観客の側にも)多いということもあるだろう。同様に、仕上げや撮影で施される処理は、線の見た目を変化させる度合いに差はあっても、どちらもあくまで「処理」であって、その処理を施すことを選択したことに演出家としての独創性は認めても、処理そのものに作画行為としての独創性があるわけではないとみなされているということもあるのではないか。白紙の作画用紙の上に線を生み出すという行為はそれだけアニメにとって重要なものなのだ。
アニメにとって線が、そして線によって作られる動きがとりわけ重要なものであることは疑いない。しかし、線や動きを、画面には見えていないはずの原画の状態に戻し、担当したアニメーターの名前と結び付けて語るという語り方は、アニメ作品を制作者の意図の表出(もしくは表出の失敗)として捉えるという態度と強く結び付いてしまう。こうした見方で語られる対象は線だけに限らず、例えば、作品のテーマであれば監督や脚本家の意図の表出(もしくは表出の失敗)として捉えるという態度も同様に広く共有されている。そのような見方では、アニメの線はカットごとに切り離され、上手いか下手か、成功しているか失敗しているかといった観点ばかりから語られることになりかねない。そうではなく、もっと「作品論的」な見方――例えば、ある線の特徴が、それがカットごとに変質してしまうことも含めて、その作品にどのような意味をもたらしているのかといったことを語るにはどのような語り方があり得るだろうかと考えている。そうしたことを考えるための第一歩として、画面に現れる描線と原画の線(そしてそれを描いたアニメーター)との結び付きがそう自明なものではないのではないかということを主張したいと思っている。もちろん私も原画を描くアニメーターたちには強い敬意の念を抱いていて、彼らの功績を不当に貶めようという意図を持っているわけではない。だから、線や動きを個々のアニメーターから切り離してしまいたいわけではなく、原画の功績は正しく認めた上で、画面に現れている描線についてどのように語ればよいのかを、もう少し考えてみたいと思っている。
2018.8.12
(こまつ・ゆみ/信州豊南短期大学)
第3回 遠さについて(その1)
長田担当回第二回目にあたる今回からは数回にわたり、テレビアニメ『家なき子』の視聴時に聞こえる鐘の音と音楽について考える。
鐘の音と音楽について考えることと、この交替連載が「転調鳴鐘」と題してあることとは、私の意図における限り何の関係もない。しかし私が『家なき子』について考え始め、考えあぐねたときに手がかりになるものが鐘の音の鳴る場面だけであったという事情と、鐘の音というものの性質とは大いに関係がある。私は『家なき子』の視聴時に生じる空間的な世界構成について考えていたのであり、その世界構成の様相、それが生じるプロセス、その世界とキャラクターとの関係、それらと私との関係、といった一切合切をすっかり見いだせなくなっていたのだが、ある場面を見ている時に鐘が鳴って、はっとした。べつに上述の何かを見いだしてはっとしたわけではない、ただ鐘の音というものは空間に関してなにごとか見失っているときに聞くと、ああ遠くから空間を響き渡ってきた音だなと、はっとするものなのだ。遠くからとはいえ、私が聞いた鐘の音はもちろん私の住む地域の遠くにある寺や教会から鳴ってきた鐘の音ではなく、『家なき子』のある場面を見るにおいて私の部屋のスピーカーから鳴ってきた音なのだが、そうした意味での音の発生源が何であるかは関係なく、また録音時の音の発生源や画面における発生源も関係なく、鐘の音は、直接に空間における響きを届けうる音である。
私はやさぐれた気持ちの時でも――とてもとてもやさぐれて、世界をひとつのヤサと見てさえそこから自分がグレきってしまっているとしか思えない無感覚の時であっても1、鐘の音が聞こえてくると、その鐘の音がどこかから広がって私のところまで響いてきたのだということを感じる。それはどこかで鐘が鳴ったと思う前に起こることで、その音の空間的物理的波及が空間を渡って私に届いたことにまずはっとするのだ。その音が届くからには私の周りに音が広がり渡る空間があり、その空間がひと続きに同一のものとして遠くまで広がっていて、鐘の音はその空間を同心円的、遠心的に響き広がって私のところまでも届いてきたのだ、ということがたちまち体感的に了解される、その瞬間的な了解が、「はっとする」ことの内実の少なくとも一部ではあると思われる。
実際はその音が大して遠い距離を渡ってこなかったとしても、それが渡り広がった規模など分かりはしない。町内の寺で小さく鐘が鳴らされたとしても、仮に私が世界の果てにいて世界の中心で大きく鐘が鳴らされたとしても、それらが同じ音量で聞こえる限り、私に双方の区別はつけられないだろう。おそらく鐘の音というものは、①まずは鐘が打たれたときに打撃音が出る、②そしてその音は出たら遠くまでよく響くものである、と二段階に理解されているのではなく、打撃音も鐘における内部共鳴も外部空間での反響もないまぜになって一挙に届いてくるその豊富な響きの名前が「鐘の音」である、と理解されているようなものであるので2、その響きから空間における反響だけを区別し測定して音の発生源を判断しよう、というふうに我々を反応させはしないし、そうしようと思ってできるものでもない。それどころか目の前で鐘が衝かれるのを見ながら音を聞いてすらその音がどこからどう響いてやってくるのか分からない、そういう音が鐘の音である。
『家なき子』においては、主人公レミ達の旅が、そうした鐘の音、および発生源不在の中心性を持つ点において鐘の音と同じものである音楽によって生起する空間において旅されるように思われる。今回はその空間と彼らの旅についての考察のとば口として、彼らの旅が始まる場面においてレミの育ての母が奔走するシークエンスを考察する。
『家なき子』第3話において、レミの育ての父ジェロームはレミにも妻にも内緒で、レミを旅芸人の老人ビタリスに売ることに決める。ビタリスがレミを連れて行く日、レミの育ての母バルブラン夫人は朝早くジェロームに起こされ、隣村への使いを頼まれて家を留守にしている。家に帰ってみたらレミがおらず、ジェロームに行方を問えば「売っちまったわけじゃねえぞ、か、か、か、貸したんだ、ちょっとのあいだ40フランでな、旅芸人によ」というので彼女はすぐに家を飛び出し、レミの名を叫びながら道を走る。その頃には村はずれの峠の頂上にまで至っていたレミは「ママが呼んでる」と振り返り、ビタリスが「ここは峠じゃ」、「村の声が聞こえるものか」と諭すのも聞かず眼下の村に向かって「ママ」と叫ぶ。バルブラン夫人も遠く離れたどこかで「レミ」と叫び、双方数回呼び合ったのちにレミはビタリスに促されて峠を去り、バルブラン夫人は村の教会の前で膝をついてレミへの加護を祈る。
気になるのは、上記の場面が、峠にいるレミとどこか遠く離れた場所にいるバルブラン夫人との別れの場面たりうる理由である。彼が旅に出ることは、所謂「名作モノ」である本作のあらすじを前もって知っていた多くの視聴者によって、あるいはレミとビタリスが旅するいくつものショットをオープニング画面に見た全ての視聴者によってどのみち知られてはいるのだが、しかしそのことと、この場面を我々が見るにあたって、遠く離れた二人の別れが生起するかどうかはまた別の話である。言うなれば、早朝から隣村まで徒歩で往復して帰りレミの出立を知るやすぐまた家を飛び出すバルブラン夫人を見た我々が、彼女がそれまで描かれていたとおりレミを深く愛する働き者であるだけでなく行動派の健脚家でもあることを知って、その彼女が本気でレミを探したら峠まで追いつく可能性はいくらもあるし探すとなったら本気で探すに決まっている、だから、この場面は二人が出会って別れを口にするために一旦接近する場面である、とか思いながら画面を見るのでなく、バルブラン夫人とレミは双方遠く離れたところにいて、互いに互いを希求しているが別れていくのだ、彼女は本気で探すけれども追いつけないからほんとうの別れの場面なのだと思いながら画面を見ていられるのはなぜか。二人の別れが、物語において我々に知らしめられるというかたちでなく、我々が映像を見るにあたって生起し脳裏に映って我々がそれを見るというかたちでなされるのはなぜか。
その生起はまず、彼女が家を走り出てからの4ショットにおいて奔走するときの遠さの生起として始まる。その4ショットは、彼女がバルブラン家の屋内で画面左へ駆け出すショット①、画面左奥から彼女が石橋に駆け上がってくるのが川面への反射像として映るショット②、林を背景にして彼女が画面左手前を向いて走るショット③、画面下半分を埋めて水平に伸びる川の上の土手を彼女が画面右に向いて走るショット④という4ショットであるのだが、この4ショットにおいてとりわけ重要なのは、ショット毎に映る場所同士の繋がりが不明であることと、彼女が1ショット毎に走る向きを変えることだと思われる。
場所の繋がりは、上記4ショットのうちの複数に、ある程度特定性の高い建築物、石橋やバルブラン家の外観などが映り込んでおらず、木々や川といった特定性の低いものばかりが映っているせいで不明であるのだが、そうした不明さは、根本的にはアニメの各ショットにおける背景がそれぞれ別の絵であることに起因している。各ショットに映る木々等は、殊にそれらが70年代当時のアニメ背景であり日射しの明るさや色調、木々の密集する密度等をショット毎に大きく違えているせいで、ひと続きの林の中にあるものとして見えにくいという以上に隔たった別世界とも言える景色を構成しており、我々はそれらの景色を地理的な繋がりがあるものとして見ることに無意識に同意しているに過ぎない。仮にそれらの複数のショットに特定性の高い石橋などがランドマークとして映り込んでいても、別の絵であるがゆえの潜在的な繋がらなさがなくなりはしないのだが、その場合には、ランドマークによって地理的な配置が生じることによって地理的な繋がりに対する我々の同意が補強される。その場合、ショット毎に別の絵が映ることは、アニメ画面に映る背景が元来繋がらないものだということを露呈させかねないという点において脅威である前に、まず地理的配置の条件としてあるランドマークとしての石橋における同一性の崩れを露呈させかねないという点において脅威であるだろう。しかし上記ショット群においては、ショット毎に別の絵が映ることは、ある建造物におけるランドマークとしての機能を脅かす要素ではなく、ショット毎に映る風景同士の接続の不明、地理的連続の分断を直接推し進める要素となっている。
しかし遠さというのは、そうした分断された飛び飛びの場所においてではなく、離れているうえで繋がった空間において生じるものである。上記の4ショットにおいては、その繋がりは彼女が出す足音と声によって生じる。まずショット①において、彼女が家を走り出るときには彼女の靴が床との間にたてるやや甲高い足音が3歩ぶん鳴り、ショット②においては、その3歩のリズムが維持されたまま、砂地を走る鈍い足音が4歩ぶん鳴る間に彼女が石橋の上に駆け上がってくる。不思議なことだが、屋内から7歩で橋の上に現れることを我々は不思議だとは思わない。勿論ショット①と②が所謂「時間を盗む」繋ぎで繋がれていると解釈することは容易いのだが、しかし上記の2ショットを見るとき我々は、カットにおける時間の省略などは特別感じないまま、ただ見て聞こえるとおりに、足音のリズムが継続するなかバルブラン夫人が別の場所に現れたのだと認識する。もしもショットが切り替わる際に足音の間隔が少し飛んでいたり、カット後のショットにおいて足音のリズムが変わっていたりすれば、我々はカットにおいて時間が隔たったのだと思うよりも、走る者の足がもつれてリズムが崩れたのだとか、走るスピードが変わったのだとかいうふうに思う。これは音が、実際我々に聞こえる限りにおいて時間を飛ばしてなどいないからであるし、そもそもアニメにおいて持続的なものは音しかなく、画面は相互に断絶したものであり、それゆえ我々が持続性については音を、断絶性については画面を信頼するからであるだろう。
ショット②における4歩の足音のあと、バルブラン夫人は立ち止まって「レミ」と呼び始める。この声は遡ればショット①において彼女が駆け出しながら深く息を吸ったブレスの音に続く呼気としてあって、このブレスと「レミ」の発声とが、ショット②から④のそれぞれにおいて1回ないし2回ずつ繰り返される。都合4回繰り返されるそのブレスと発声は、「レミ」と呼ぶ声が一回毎にまちまちの長さで、彼女の息が続く限り叫ばれるせいで等間隔のリズムを形成しはしないのだが、むしろ正確で機械的な等間隔でないがゆえに明白に呼吸としてのリズムを形成する。その都合4回ぶんの呼吸のリズムがショット②の後半以降、足音に代わって連続性を担当するようになる。上記の4ショットはそうして全て音のリズムによって繋がれるのだが、それはひとつながりの空間を生むというよりは、彼女の奔走における遠さを生む。その遠さが生じるのは、足音が刻むほぼ正確なリズムによって安定的に繋がった空間が不均一な呼吸のリズムによって不安定に繋がった空間へと変移し、その微妙に異なる空間をバルブラン夫人が渡って行くからだと言って良いようにも思われるし、なによりショット毎に左、右、左、右と向きを変えながら渡るバルブラン夫人の奔走が、単にショット毎の分断を運動性においても明確に視認させるというに留まらず分断されたうえで繋がっているがゆえに、文字通り「右往左往」しながら焦りに満ちて走り回る奔走として我々に認識されるからである。地理的な配置で言えば家から川沿いを通ってしばらく続く道の部分々々を走ったに過ぎないかもしれないバルブラン夫人は、彼女が明確に足音を立て走りレミの名前を叫び、そのことによって彼女の走る空間が生起し我々の脳裏に映し出されるにあたって、7歩駆けてから4声呼ぶその間にあちこちレミを探し回ったと言って良い。
こうしたことが可能であるのは、ショットにおけるアニメの背景というものが基本的に、その奥にキャラクターが分け入りうるとかその背景がフレームの外に広がりうると容易なことでは我々に感じさせないことによる。背景画に遠近法的な奥行きが認められたり、あるいは広々とした空がそこに描かれていたとしても、その絵に描かれていないさらなる奥行きやフレーム外というものをその背景画を見るだけで我々が感受したりはしない。それは一言で言えばそれらが絵だからであるが、それでも描かれている以上の奥行きや広がりなどをアニメは仮構する。上記シークエンスの視聴においては、それぞれのショットにおける景色がひとつながりに繋がった地理的配置を我々に想定させうるからその配置内をバルブラン夫人が走ったということが我々に了解されるのではなく、それぞれのショットを見るにおいて互いのショットが繋がっていないと我々が認識し、そのうえで足音と発声のリズムだけが繋がっていることによって、バルブラン夫人がほうぼうあちこちを遠く走り回るのが我々に感受されるのである。
今回述べたアニメの背景と音の特徴を踏まえ、次回は上記シークエンスの続きを考える。そのときの考察は、レミとバルブラン夫人が互いを呼び合うシークエンスを対象とし、画面の動きと鐘の音を巡るものになるだろうと思われる。
2018.8.12
(おさだ・しょういち/城西大学付属城西高校)
第4回 遠さについて(その2)
前回は、『家なき子』第3話を対象とし、主人公レミを探して育ての母、バルブラン夫人が走り回る際の遠さについて考えた。異なる背景の中を彼女が方向を変えながら走り、足音と声だけがショットを越えて渡っていくことで遠さが発生するのは、アニメの画面においてショットとショットとが決して互いに繋がらないものであるからこそだと述べたのだが、それは言い方を変えれば、ショット同士が繋がらねばならぬという、ストーリーもののアニメに常に背負われている重責が、その奔走がなされる場所に関しては、例外的に(珍しい例でもあるわけはないが)降ろされているのだと言える。
勿論、そのことによる身軽さみたいなものが幾ばくか感じ取られつつバルブラン夫人の奔走が見られうるとしても、そのことと、バルブラン夫人が我々の試聴において疲れ知らずに走り続けられることとの間に直接の関係はない。彼女がいつまででも走り続けられるのは、場所のおかげではなくただ単に彼女がアニメキャラクターであるからであり、その衰えぬ奔走がレミを想う彼女の気持ちゆえのものとして、『家なき子』の物語に没入した我々によって見られてこそ、彼女は走り続けられるわけであるだろう。
しかし第3話においてレミが去ろうとしているシャバノン村は、もともとそうして場所と場所の接続に身軽さを伺わせる場所としてあったのであり、そのことは我々の試聴に影響なしとは言えない。なにしろ彼が第1話で初めて画面に現れてから第3話において村を去るまでは画面にはシャバノン村の中だけが映り続けた1のであり、その間はどこがどう画面に映っても、そこはシャバノン村の一部でしかなかったのである。レミが過ごした揺籃のシャバノン村は、画面が繋がらずとも問題なくシャバノン村として囲い込まれていたのであり、それだからレミは我々の試聴において身軽に気軽にあちこちを跳ね回って暮らすことができた。その村は、どこまで狭く親密な住処と見ても良く、どこまで広く雄大な遊び場と見ても良い場所であったのだ。
しかしレミが旅をするにあたって、シャバノン村はその外観が画面に映ることになるし、ゆくゆくは余所の村や街、野山や山道も—それが余所であるかどうか、余所であるとしてもないとしてもどのような意味でそうなのかは今後順次述べて行かねばならないと思うが—画面に映ることになる。物語上は、山野を介してシャバノン村や余所の村や街は遠く離れつつ繋がっているのだろうし、それぞれの村や街は同一性を持ち個別性を持った場所であるのだろう、そして画面における村や街もそうした場所であることを物語に要請されている。しかしアニメの画面には、場所であれなんであれ同一的なものは映りえない。その点では、シャバノン村の中も余所も違いはしないのだが、しかし余所は、散逸的な散策も安全に囲い込んでもらえた安逸のシャバノン村ではない2。物語において、レミは長く厳しい遙かな旅のなかでも「前に進」み3、厳しい世間を渡っていかねばならないのであり、我々の試聴において、レミは物語からの要請と画面的な制約、その他諸々ひっくるめて、こう言って良ければ厳しい世間の中でその厳しい旅を進む、という旅を進まねばならない。そのときレミはいかにして「前に進」みうるのか。それは我々の世間においては、向上心だの積極性だのといった語を使って言い換えられもする類の物言いであるのかもしれないが、それが前進の方向と移動を示す言葉であり、『家なき子』においてそれを口にする旅芸人のレミ達がそれを口にしてすることがまず歩き進むことである以上は、場所と場所の接続という一見些細な問題を捨て置くわけにはいかない。
レミがする旅の様相は、バルブラン夫人奔走のあと、レミが峠から彼女を呼ぶ次のシークエンスにおいて現れ始める。バルブラン夫人による奔走直後のショットにおいて、レミは歩く途中でふと立ち止まり、「ママが呼んでる」とつぶやく。「ここは峠じゃ。村の声が聞こえるものか」と言ってビタリスが諭すものの、レミは「聞こえるんだママの声が」と言い張って、峠からせり出した岩の上に駆け上がり、眼下の村に向かって「ママ」と叫ぶ。バルブラン夫人も依然レミの名を叫んでいる。双方幾度も互いを呼び合うが、結局二人は顔を合わせることなく、バルブラン夫人は教会の前で跪いてレミの無事を祈り、レミはビタリスに促され峠から立ち去って、第3話が終わる。
このシークエンスにおいて、レミとバルブラン夫人が一方は村にいて他方は峠にいるということ、そして彼に彼女の声が聞こえないということは、ビタリスによって言明されている4。しかし村の母と峠のレミというのは、画面において実際どのように離れているものとして現れているのか。
「聞こえるんだママの声が」という発言のあと、レミが「ママ」と叫ぶショットは彼の顔が映るアップショットである。そのあとに画面に映るのは、再度「ママ」というレミの呼び声が響く中、山々に囲まれた小さな村落の描かれた背景が画面左から流れてくるショットであり、これはレミの主観ショットであると思しい。そのショットに映る村落は画面に比して非常に小さく、70年代のアニメの背景であるせいもあってスケッチ的に簡潔な筆致で描かれた数件の家屋5が視認されるに留まっていて、実のところそれが村落と呼べるようなものなのかどうか分かりはしない。しかし我々の視線が集中的に向けられ、そればかりかそのショットがレミの主観ショットであるとすればレミの視線が向けられもする先は、そのショットの画面中央に映るその数件の家屋であることになるだろうし、であればそれらの家屋は最早「声が聞こえ」ないはずでありながらレミが母を呼ぶ先の村、彼があとにしてきたシャバノン村であることになるだろう。そのシャバノン村がレミの主観ショットにおいて小さく映っていることは、それだけで直前のショットにおけるレミとの間に、間接的に大小の遠近を生じさせなくはない。
しかしショット同士の連続における場所の関係について言うのであれば、上記の主観ショットが他ならぬ「ママ」という呼び声の直後のショットであることこそ、このシークエンスまでの『家なき子』における異常事態である。「優しい母と幸せに」6彼が暮らしていたところのシャバノン村においては、レミが「ママ」と呼んだ後のショットというのは、決まってバルブラン夫人がいる場所であったからだ。第3話より後、レミが折々慕い懐かしむことになるシャバノン村というのは、言い換えればバルブラン夫人がレミの隣にいる環境のことであり、レミの隣というのは、レミの呼びかけに対してその直後の主観ショットを意味する。その場所にバルブラン夫人でないものが現れるということが、彼がシャバノン村を去るということであり、それはその場所に現れるのが当のシャバノン村であってもそうなのだ。
レミの隣というのは、彼が「ママ」と呼んだ後の主観ショットに限られるものではない。レミが映るショット内での配置における彼の隣も当然含まれるし、あるいはレミの呼び声が響くなか映る画面も、ある種その呼び声に隣接するものだと言えるのかもしれない。上記の主観ショットにおいてバルブラン夫人の不在が顕著であるのは、そのショットがレミが「ママ」と呼んだ直後の主観ショットであることに加え、そのショットが画面に映っている間に、再度オフの音で「ママ」という呼び声が響いてくるからであるだろう。
しかし問題は、画面連鎖における隣であれ、画面内配置における隣であれ、さらに音と隣接関係にあると言いうるかもしれない隣であれ、いずれにしても、上記のシークエンスにおいてレミの隣に映るものが、必ず教会であることである。もちろん先述したレミの主観ショットに映るのは村落であるし、繰り返される呼びかけにおいて、画面奥に向かってレミが叫ぶ二つのショットの画面内、レミの後ろ姿が映る画面左の隣にぽっかり空いた画面右に映るのは村落である。しかしそうした村落のそれぞれは、俄に同じひとつの村落であると思われはしないのだ。それは画面に映るものがアニメであり、とりわけやはり70年代のアニメであるからであって、それらの村落は別々のショットに映る度に細部を大きく違えていて、家々の数も違えば個々の形状も違うし、屋根や壁の色も違う。そうした村落が数ショットに渡って同一性を保っていられるのは、次に述べるように、その村落の中心に尖塔があるという点にかかっている。
上述の全てのショットにおいて小さく映る村落には、その中心にひときわ高く聳える尖塔がある。その尖塔は最初にレミが「ママ」と叫んだ後の主観ショットにおいて既に聳えていて、そのショットにおいて画面左から流れてきた村落が画面中央に収まり、その中心に尖塔が視認されるや否や、画面はその尖塔のアップショットに切り替わる。その切り替わりにおいて鐘の音が鳴り始め、画面には尖塔の屋根の下端およびその下に黒々とスリットが空いた付近だけが大きく映るのだが、このショットは非常に長く続く。計れば7秒に過ぎないのだが、鐘の音が鳴り尖塔の一部が映るだけのショットにかかる7秒は、アニメ試聴においては非常に長いと言って良い。画面に映る尖塔を見てそれを尖塔であるとただ視認するだけであれば一瞬で済むのだが、そうであるにも関わらず設けられたこの7秒は、我々が鐘の音の鳴り始めと尖塔の映り始めの正確な同期を根拠に、鐘の音の画面内の音源としての鐘をスリットの奥に推測し、さらに尖塔が内部に鐘を持つからにはその尖塔は教会であるかもしれないと推測することを可能にする7。その推測があってこそ、尖塔のアップショットの次の画面においてレミの右側に映る村落にある尖塔の突端に我々が初めて十字架を視認するにあたっても、その明白に教会である尖塔を、それまで画面に映った尖塔と速やかに連結させ、村落をシャバノン村と確信して見ることが可能になる。
しかし画面の連鎖におけるレミの隣に我々が教会を見るのは、画面にほとんどそれしか映っていないのだから確かであるにしても、ひとつの画面におけるレミの右隣を我々が見るにあたっては、我々の注意が向けられる焦点としてシャバノン村を代表する教会があることはさして重要でなく、ただ我々の注意が向けられる範囲として、その教会に代表されたシャバノン村があるだけのことだと、そう言うこともできるかもしれないし、その両者に大差はないと言うこともできるのかもしれない。しかし上記のようにシャバノン村の同一性がその村落の中心でひときわ目立つ教会によって担われているばかりか、本稿で問題にしている母子の別れのシークエンスにおけるアップショットが、レミの単独ショット、バルブラン夫人の単独ショット、教会の単独ショットという3種以外ではないこと、そしてそのシークエンスの最後にバルブラン夫人が跪いて祈る画面において彼女が祈る先に教会が映ってもいることを考え合わせるにあたっては、レミやバルブラン夫人と並んで上記シークエンスを構成する画面内要素として、あるいはいっそ、彼ら母子に並ぶキャラクターとして、教会は画面における位置を占めていると考えざるをえないように思う。その位置の占め方は、シャバノン村を去ったレミの視線の先で頻繁に単独のアップショットを持つことになるビタリス—「肩幅が広」く、「胸板が厚」く、「大き」8いビタリスが、つまるところその体躯の大きさによって画面においてひときわ目立ち、彼の周りにいるビタリス一座の犬や猿がショットによって体躯や画面に映る頭数を変える中で、真っ先に我々の視線を集めてビタリス一座の同一性を保ち続けるのと同じであるのだ。
先んじて言えば、私はシャバノン村を離れ始めた時のレミの隣に映るものが教会だということと、その教会が映っている間ビタリスが画面に映らないことを、単に並行して起きただけのことだとは思っていない。教会がレミの隣を占めシャバノン村から彼を旅立たせる前に、まず「村の声が聞こえるものか」と言って言明のレベルでその旅立ちを準備したのはビタリスであるし、なんといっても、バルブラン夫人が隣にいる環境としてのシャバノン村を離れたレミが旅する広い世界というのは、レミの旅においてはビタリスが隣にいる環境のことなのだ。私は、上記のシークエンスにおける教会が、教会のかたちをしたビタリスである可能性を疑っているのである9。次回は教会とビタリス、あるいは鐘の音とビタリスの歌声について考えるつもりである。
2018.12.10
(おさだ・しょういち/城西大学付属城西高校)
第5回 画面連鎖における隣であることと音の関係(『黒子のバスケ』の声と必殺技)
今回の連載では、「連載」という形式を念頭に置いて、連載第4回の長田の論考(「遠さについて(その2)」)の中で書かれていたテーマの一つである、画面連鎖において隣であることと音の関係について、以前から気になっていたある例について考える。願わくば長田の論考の補足となるものでありたいが、それは同じ内容をトレースすることではない。テーマは共通していても内容はまるで異なるものになり得るのだが、しかしそのことがむしろ、それぞれの論考が扱う作品の作品論として成立していることを明らかにすることができれば望ましいと思う。
私が考えているのは、『黒子のバスケ』というテレビアニメ作品(2002年から2015年の間、断続的に放送)における声に関することである。インターハイ優勝を目指す高校バスケットボール部を舞台にしたこの作品には、チームスポーツを描いた作品の常としてたくさんのキャラクターたちが登場するのだが、彼らのセリフには面白い特徴がある。それは、まるで試合会場にいる主要キャラクターたち全員がテレパシー能力の持ち主であるかのように会話が交わされるということである。
スポーツを含め、広い意味で「バトル(戦闘)」を描いたマンガやアニメ作品では、ある二つの特徴を持ったセリフが多用される。一つは、戦うキャラクターたちの内面の声を語るセリフである。戦いには駆け引きがあり、自分の考えを全て相手に曝け出してしまうわけにはいかない。主人公がピンチに陥った時や、それまで不敵な態度を崩さなかった敵のキャラクターが主人公の思わぬ反撃にたじろいだ時など、絶望や狼狽や決意の言葉などが、時に発声を伴うセリフとしてではなく、モノローグとして語られる。アニメ作品で多用されるモノローグのセリフは非常に面白い特徴を持った声であり、連載のどこかで改めて論じたいとも思うのだが、この声の大きな特徴は、その場面に登場する他のキャラクターたちには聞こえていないのに、画面を見ている者だけに聞こえる声だということである。バトルの相手に対して発するのではない、そのキャラクターの心の中にしか響いていないはずの声が、画面を見ている私たちには聞こえてくるのである。そのため、モノローグのセリフが聞こえる時、絵の特徴としては、キャラクターの顔がアップになっても口の動き(口パク)が描かれないということになる。
バトルにおいて特徴的なセリフの二つめは、戦いを解説するセリフである。これは、バトルの当事者によるものと、傍観者によるものの両方がある。チームスポーツも含め、集団でのバトルであれば、当事者の人数も増え、バトルに参加するキャラクターが解説も担うという事態が増える傾向がある。また、前述のモノローグのセリフが解説も兼ねるという場合も当然あり得る。この解説は、そのバトルに熟達し、局面を常に正確に把握してその後の展開まで予想することができる達人が担当する場合に、とりわけ強い説得力を持つ。『黒子のバスケ』の場合であれば、互いのチームの監督やマネージャー、「キセキの世代」(かつて全国制覇をした「帝光中学」の中心となっていた同学年の選手達という設定で、それぞれが別の高校に進学してライバルとして戦っている)のプレーヤーたちがそれに当たる。
こうした二つの特徴的なセリフは、『黒子のバスケ』の試合の描写においても多用されている。しかし、この作品においては、他の作品にはない奇妙な特徴がある。それは、モノローグのセリフがその場にいる他のキャラクターたちにも聞こえているとしか思えないような描写がされているということ、そして、そうしたシーンがいくつかあるというのではなく、徹底してそのような描写が行われているということである。この様相を、第41話「今勝つんだ」のあるシーンから確認したい。この回は、主人公の黒子のいる誠凛高校と桐皇学園の試合の中で、黒子がミスディレクション・オーバーフローという名の必殺技を初めて披露する回である。以下にセリフを抜粋するが、声に出しているセリフか否かで色分けをする(敵味方がわかるよう、名前の前に所属高校名を記す)。セリフが発せられている間、画面にそのキャラクターの口元が描かれ、その口が動いていれば、声に出しているセリフとして黒字で表記する。逆に、画面にそのキャラクターの口元が描かれ、その口が動いていなければ、モノローグとして桃字で示す。なお、画面上に別のキャラクターなどが現れているために口元の動きを見ることができず、発声されているのかモノローグなのかが判別できないセリフは、青字とする(なお、それぞれの文字の色はキャラクター名に含まれる色の名前とは関係ない)。
①
(桐皇学園)桜井:諦めてない、誰一人。しかも
(桐皇学園)若松:闘志は萎えるどころか、今まで以上だと?
(桐皇学園)諏佐:だが誠凛にもう打つ手はないはずだ。全員、虫の息同然
(桐皇学園)今吉:切り札のミスディレクションもう効果切れや
②
(桐皇学園監督)原澤:今吉くんが、一歩も動けないとは
(桐皇学園マネージャー)桃井:まさか伊月さんの新技?でもあり得ない。だって今のは
(桐皇学園)今吉:今のは黒子の、バニシングドライブやんけ
(誠凛高校監督兼マネージャー)相田:消えたんじゃない、消したのよ。ミスディレクションが切れて初めて使える大技、黒子くんの正真正銘最後の切り札。ミスディレクション・オーバーフロー!
③
(誠凛高校監督兼マネージャー)相田:相手の視線を自分からではなく味方から外す誘導。自分以外の味方全員に、バニシングドライブと同じ効果を与える。それが、ミスディレクション・オーバーフロー。ただし
(秀徳高校)緑間:ただし、あの技にはおそらくいくつかリスクがあるのだよ
(秀徳高校)高尾:リスク?
(中略)
(秀徳高校)高尾:つまり誠凛は、この大博打を仕掛けるために、この先桐皇に勝つための可能性を捨てたってことか?マジかよ
(誠凛高校)黒子:それでも。ここで負けるよりマシです
①から③は、それぞれ数秒から数十秒の短いシーンである。①のシーンでは、コート上にいる対戦相手の選手のうち3人が、モノローグでセリフを続けている。3人の顔がアップで描かれたカットが3つ続き、それぞれのカットに描かれたキャラクターの声でセリフが発せられているのだが、その間、3人の口元は動いていない。そのためモノローグのセリフだということがわかるのだが、それにもかかわらず3人のセリフは文章として繋がっていて、ひと続きのセリフを群読しているかのように聞こえるのである。複数のキャラクターのモノローグのセリフが続けて聞こえるという状況は、バトルシーンであればそう珍しいことではないかもしれない。しかしこのシーンで特徴的なのは、セリフに「しかも
」や「だが
」といった接続詞が使われていることである。互いの内心の考えが偶然一致していて、それがモノローグとして見ている者に聞こえただけだということで片付けることはできない。3人が、前のカットに描かれたキャラクターのモノローグを聞いた上でそれに応答しているということが強調されているのである。
次に③のシーンについて、まず後半のやり取りだが、このシーンに登場する秀徳高校の2人の選手は、体育館の2階に設けられた観客席に座って試合を観戦している。緑間はキセキの世代の一人であり、試合の間ずっと、バトルを解説する役割を務めている。隣に座った高尾は合いの手を入れて解説を引き出す役割である。この観客席はコートからは非常に遠い位置にある。高尾の声は、口元の動きを伴って発声されたものではあったが、叫び声などではないため、体育館の構造や他の観客の歓声の大きさを考えれば、コート上の黒子に声が届くとは思えない。にもかかわらず、コート上にいる主人公の黒子は、高尾のセリフに「それでも
」と応じているのである。
そのため、この作品で発せられている声は、現実の物理法則に沿って届くはずだと想定される範囲内の空間だけに響くものではないのではないかということになる。③の前半のやり取りからもそのことはわかる。誠凛高校の監督兼マネージャーはコートサイドにおり、客席にいる緑間と彼女との距離は、黒子と緑間と同じくらいに離れている。しかし、マネージャーと緑間のセリフでも空間的な距離は問題になっていない。マネージャーがモノローグとして発したセリフを、緑間が「ただし
」という接続詞を使って継いでいるのである。これと同様の事態がさらに明白に起こっているのが②である。コート上にいる対戦相手である今吉のセリフは、彼のバストショットのカットに重ねられているのだが、彼のセリフは「今のは黒子の
」までは口元が動いておらず、続く「バニシングドライブやんけ」で急に動き始める。彼のひと続きのセリフは、途中までモノローグとして発され、途中からは通常のセリフなのである。続くカットでは誠凛高校の監督兼マネージャーの顔のアップが描かれ、彼女はまず、口元を動かしながら「消えたんじゃない、消したのよ」と発声する。そして突如、口元の動きが止まり、「ミスディレクションが切れて初めて使える大技
……」とモノローグのセリフを発するのである。つまり、二人は声に出しているセリフとモノローグのセリフをひと続きのものとして継ぎ合っているのである。
こうしたシーンで何が起こっていると言えるのだろうか。考えられるのは、次のようなことである。まず、『黒子のバスケ』のキャラクターたちは、声が届きそうにないくらい空間的に離れた場所にいても、互いに声が聞こえており、ひと続きのセリフを群読する。そして、たとえそのセリフの一部がモノローグであり声に出ていなかったとしても、やはりその声は互いに聞こえていて群読するのである。②のシーンでは、セリフを発しているキャラクターは全員がバストショットかクローズアップで口元の動きがよく見えるように描かれているので、セリフが突如モノローグになったり発声されたりする様をまざまざと見せつけられる。こうした描写が徹底して続くのである。それはまるで、彼らが互いの声を聞くに際して、空間的な距離も、その声が体の内に響いているのか外に発せられているのかも関係ないのだということを繰り返し見せつけているかのようだ。では、なぜこんな風変わりな事態が起こり得るのだろうか。全員がテレパシー能力の持ち主であるという隠された設定を想定しても仕方がない。この状況には何かしら物語的な整合性を見出すことはできそうもなく、説明になり得ることがあるのだとすれば、カットが繋がって隣り合っているためにどのような声も互いに聞こえているという、それだけなのだ。通常の映像作品にはそのような法則は存在しないが、しかし、カットが隣り合っていることは特別な意味をもたらし得るのだから、ここでは声についてそれが起こっているのだろうと思えるのである。
そしてこのことは、単純に風変わりなことが起こっているというだけに留まらず、『黒子のバスケ』というアニメにとって非常に重要な法則である。なぜなら、主人公の黒子の必殺技の描き方においても、カットが隣り合っていることが技を成立させる上で重要な役割を果たしているからである。言うなれば、声がこのような特殊な聞こえ方をしている様を徹底して描くことによって、ようやく黒子の特異な必殺技を描き出すことが可能になっているのである。
この作品では主要なキャラクターたちのそれぞれに、およそバスケットボールの技とは思えないような「必殺技」が設定されている。黒子にも「必殺技」が複数あるのだが、上記のシーンの前後で描かれているのが、セリフの中にも登場した「ミスディレクション・オーバーフロー」という技である。
ミスディレクション・オーバーフローは、黒子が既に披露していた「ミスディレクション」という技のいわば発展型であり、他人の視線を自分から逸らすと説明されるミスディレクションという技とは異なり、誠凛高校の監督兼マネージャーのセリフによれば、「相手の視線を自分からではなく、味方から外す誘導」だと説明されている。説明を読むだけでは何が起こっているのか想像するのが難しい技だが、しかし映像を見ている限りでは、確かにそのように説明するしかないものなのだということが理解できるのではないかと思われる。実際に第41話で黒子がミスディレクション・オーバーフローを使用した場面で、この技がどのように描かれていたのか、カットを順番に追って各カットに何が描かれていたのかを確認する。
④
- a. 今吉(桐皇学園)と向き合った伊月(誠凛高校)のバストショット(セリフ「切れたんじゃない、切れさせたんだ」)
- b. 今吉の目元のアップ(セリフ「あ?」)
- c. 風を切るような効果音と共に、ドリブルをしているらしい黒子(誠凛高校)のバストショット
- d. 今吉の斜め後方からの伊月の膝から上のショット、カット尻に電子音と共に伊月の姿が画面から消える
- e. 今吉の目元のアップ(セリフ「消えた?!何やと?!」)
⑤
- f. ドリブルをする日向(誠凛高校)を左側から捉えたバストショット
- g. 日向を正面から捉えた顔のアップ
- h. 日向の進路を塞ぐように飛び込んでくる桜井(桐皇学園)を背中側から捉えた全身ショット
- i. 桜井を右側から捉えた顔のアップ
- j. 電子音を伴って、黒子がふっと体を揺らしている顔のアップ
- k. 日向と桜井が向かい合っており、日向が桜井のディフェンスを抜くショット
- l. 桜井の正面側から、抜き去った日向がドリブルで遠ざかる背中を描いたショット
対戦する選手たちは、黒子のチームメイトと一対一で対峙し、ボールを持ったその相手を見ている。ここで「見ている」というのは、対峙する二人の姿がカットを切り返すことで描かれ、その体の向きが向かい合わせになっていることから推察される。そして、カットの切り返しの間に一瞬だけ、黒子が描かれたカットが差し込まれるのだが、そのことが「相手の視線を味方から外す誘導」になるのだとすれば、今吉や桜井が、一瞬だけ現れた黒子のカットを「見る」からということになるだろう。この時、見ているものがカットであるということは重要である。黒子のカットは一瞬しか画面に現れないのだが、今吉と桜井はカットに現れている間だけ、現れている姿でのみ、黒子の姿を捉えているのである。
何が言いたいのかというと、このことは、彼らが画面に映っていないものを見ることができないということと、画面に映っているものについては私たちが見ているのと同じように見ているらしいということを示しているのではないかということである。画面を見ている私たちに関して言えば、私たちが画面を見る時には、画面上に現れたカットの連続以外のものを見ることはできない。カットの外に何があり、何が起こっているのかを(想像することはできても)直接に見ることはできないし、それらをカットの順番を入れ替えて見ることもできない。だからこそ、映像の原則として、連続するカットには特有の意味が生じ得るのである。しかし、この法則が一般的にアニメ作品に登場するキャラクターたちにも適用されるのかどうかについては、確証がない。私たちはキャラクターの視聴覚を共有することができない――主観ショットなどの手法によってそれに近いものを経験していると想定することはあるが、それにしても本当にキャラクターたちと同じ視聴覚であるかどうかを判断する術はないからである(現実においても自らが他人の視聴覚を共有していると判断することはできないが、それ以上に画面の中に描かれたキャラクターと画面を見る私たちの知覚の間には大きな隔絶があると考えるのが自然だろう)。キャラクターたちは画面の中に、作品世界の中に存在しているのだから、画面を見ている私たちとは異なる視聴覚を有していてもおかしくはないので、もしかしたら私たちには見ることのできない画面外のあらゆるものを自由に見ることもできるのかもしれない。しかし、少なくともこの作品においては、私たちが受け入れている映像の原則が、キャラクターたちにも適用されているはずだと考えられる。なぜなら、そうでなければ黒子のミスディレクション・オーバーフローという技は成立しないからだ。このシーンにおいて今吉や桜井が、画面に描かれていない黒子の姿を見ることができて、黒子がコート上のどこにいるかを把握してしまっていたら、唐突に一瞬だけ黒子に視線を導かれるというこの技は成立しなくなってしまう。それではミスディレクションでも何でもなく、単に敵チームの一人である黒子の動きを把握しただけだという、バスケットボールの試合の中で当たり前に行われている行動になってしまうだろう。そんな当たり前の状況ではなく、特殊な事態が起こっているのだと描くために、まず、今吉や桜井と黒子の位置関係は意図的に曖昧にされている。c.とj.の黒子のカットは、画面全体にソフトフォーカスがかかり、背景は極力少ない面積に追いやられ、黒子以外のキャラクターは誰も映り込んでいないので、黒子がどこにいるのかを推測する手掛かりがない。また、一連のシークエンスにはコート全体を描き出すカットも存在しない。そのことで、黒子がコート上のどの位置に立っていてどちらに向かって動いたのかはわからなくなっている。さらに、今吉や桜井が顔の向きを変えたり目を動かすなど、視線の向きを変えたことを示す絵も描かれていない。彼らは黒子のカットの前後で、ずっと目の前に対峙する相手から目を逸らすことがないのだ。もし顔の向きや視線の向きを変える様が描かれてしまえば、視線を移動させた先に黒子がいて、その姿を見ただけだということになってしまう。見るという動作があり、対象が見られるという、ごく当たり前のカットの連続ということになるだろう。だから、今吉と桜井は自ら能動的に黒子を「見た」ようには描かれない。見るという動作をしていないのに黒子のカットを見せられてしまっているのだ。それが「見た」ということになり得るのは、カットの連続において前のカットに描かれたものについては見ていたことになるという、画面を見ている私たちが映像を見る作法に従って捉える場合である。その意味で、今吉と桜井が黒子に「視線を誘導」されたというのは、私たちの映像の見方に矛盾するものではないために、設定としては荒唐無稽な大技であるにもかかわらず、説得力のある描写として成立しているのである。
モノローグの声であってもあらゆる声を私たちが聞いているのと同様に彼らも聞いているという事態も、そして、能動的に見るという運動が描かれていないのに唐突に現れたカットを見ているという事態も、カットが隣り合っていることで成り立っている。黒子のミスディレクション・オーバーフローという大技は、作中では高尾のセリフによって「大博打」だと言われているのだが、たしかに物語的に説明しようとすれば荒唐無稽なだけの技になってしまい、説得力を欠いてしまうに違いない。そんな技を成立させるというのは博打のようなものである。しかし、カットが隣り合っていれば声が聞こえる、それも、声に出していない内面の声までも聞こえるという描き方を積み重ねることによって、カットの連続の中で黒子の姿を見せられるためにどうしても黒子に視線を向けさせられているのだという事態を見る者に納得させることが、可能になっているのである。これは力業である。しかし、トリッキーな業だと思うと同時に、カットが連続することに意味を持たせるという意味では、ごくオーソドックスな業だとも言えるのであり、こうしたことが実験作と言われるような作品においてではなく、『週刊少年ジャンプ』の人気作品をアニメ化した作品の中で行われているということに、アニメというメディアの面白さを見るような思いがするのだ。
2019.2.10
(こまつ・ゆみ/信州豊南短期大学)