機関誌『半文』

転調鳴鐘アニメ論 Change-ringing Animology-別のものが結ばれるということ-

長田 祥一 / 小松 祐美

第6回 ビタリス(1)

ビタリスは、彼の初めての登場からして少しおかしかった。逆説めいたことを言うようだが、『家なき子』においてキャラクターが初めて登場するときの下記の形式に照らしてみれば、彼は登場しなかったという方が近い。ビタリスは、いつのまにか居た。

『家なき子』におけるキャラクターの初登場には形式があって、それは、キャラクターが静止したまま画面に出現することを登場の契機とするものだ。例えば第1話、母とのいつもの楽しい夕食にそなえて手を洗おうと庭で井戸水を汲んでいた上機嫌のレミの元へ、父ジェロームの出稼ぎ仲間が訪ねてくる。このときショットの連鎖は、レミが笑顔でつるべをたぐり上げ足下の桶に水を空けるショット、誰かの両足がざっざっと足音を立て田舎道を歩いて来て立ち止まるクロースアップ、こちらを向いて額の汗を袖で拭うレミの背後に少し離れて大男が佇むショット、と続く。最後のショットにおいてレミがはっとして大男を振り返ると、微笑む大男のアップショットに切り替わって会話が始まる。それから大男がレミ母子に父の息災を知らせ彼から預かってきた金を渡す、という、物語的には穏当な交流がなされるに過ぎないのだが、気にかかるのは、レミとその背後の大男が映るショットにおいて大男は既に立ち止まっていて足音は鳴っておらず、レミが背後を振り返ったのが足音を聞きつけたからだというふうにはどうしたって見えない、ということだ。たしかに前のショットにおける両足の歩みに合わせて足音は鳴っていたが、ショットが切り替わりレミが額の位置に挙げていた腕を降ろし振り向くまでには、ほんの一拍とはいえ前のショットから間隔があって、足音に反応したものとして見るには彼の振り向きはタイミング的にいかにも遅い。その間に直立不動の大男の画面への出現があって、レミが背後を振り返る契機としてはそれしか見当たらないのだが、そうした消去法でやっと浮上する程度の契機として大男の出現を見過ごすことは、じっさいの試聴体験においてほとんど不可能である。やや浮かれた子ども、近づく足、背後に直立する大男、となればこれはほとんどホラー、あるいはスリラー。直後に理不尽な暴力が振るわれてもおかしくはない。というのは冗談として措くにしても、場合によってはホラーにもスリラーにも展開可能な不穏さが、直立不動の大男の出現に感じ取られうるのは確かである。

しかしその不穏さは、実写のホラーやスリラーにおける加害者の登場とは重要な点で内実を違えている。かの大男の出現における不穏さは、彼が膂力にまかせて暴力振るえそうな大男であることによってでも、レミに気づかれぬまま背後に立っていることによってでもなく、彼が完全に静止して瞬時に画面に現れることによって生じている。彼はアニメ絵であり、通例「止メ画のキャラクター」などといった制作用語を用いて受け流されもするその姿は実のところ、形態においても持続性においても人として見るにはあまりに不完全な、人型の視覚対象である。

完全に静止したアニメキャラクターの瞬間的な出現というものは、ベタ塗りのセル画がもたらす平面的な視覚的圧迫感も手伝って、非常に明白に我々に視覚的な衝撃を与える。そうした衝撃を筆者は「拍」と呼んでいる。拍は時にキャラクターの躍動における静動緩急切り替えの要点でタイミング良く画面から打ち出されてきて、我々にアニメ視聴の愉悦を与えもする。しかし元来、コマ数少ない静止画の連続映写に過ぎないアニメ画面において、拍は「出せる」というよりも「出てしまう」ものであり、キャラクターがギクシャク、カクカク動き、あるいはただ止メ画で画面に映るだけで不用意に出て、時に不快に我々の目を打つ。ジャパニメーションにおいては止メ画でのキャラクター出現は珍しいものではなく、イケメンがキメたり美少女が視聴者のハートをずっきゅんするショットで類例を多く観察することができるが、それは要するに、静止して出現する際の衝撃がメリットフルに応用されうるからである。拍とともに打ち出されるそれらの姿にはイケメンぶりや美少女ぶりが被せられていて、視聴者にもよるだろうがよく訓練された視聴者には何よりもまずイケメンぶりや美少女ぶりがぶつかってくる。そうしたキャラクターが視聴者にサクセスフルに受け入れられるときには、視聴者にはまず「かっこいい」とか「かわいい」とかいった部分への認識が先に来て、その認識が終わらぬうちに、つまり止メ画が長く続きすぎて視聴者が疑問を持つなどする前に、ショットが変わるかキャラクターが動くかなどするのが常である。その際視聴者が持ちうる疑問というのは、誰も実際口にはしないだろうけれど敢えて言えば、「かっこいいはかっこいいけれど、そのかっこよさを帯びた、画面に映るコレは一体何だろう」といったものであるかもしれない。その戸惑いがもしも、「これはアニメ絵であり、止まっているのをいつまでも鑑賞するべきものではない」といったような答えに至ってしまえば、物語アニメを見る体験は破綻する。言うなれば、「かっこいい」とか「かわいい」とかいった形容は、何かを修飾する前置修飾として置かれてはいても、それは都度、その何かにあたる非修飾部に至るのを遅延させ修飾機能を全うせぬために置かれていると言って良いだろう。

レミの元に訪れる大男はイケメンではないし、当然美少女でもなく、彼の姿に「かっこいい」とか「かわいい」とかいった修飾を認めることはできない。実のところこれまで彼を「大男」と呼んで来たのも、名もない彼を呼ぶために便宜的にそう呼んで来ただけのことであって、別段彼がアオリで映るなどして「大きい」ことが強調されるわけでもない。問題のショットが映って彼の姿が我々の目に飛び込んできたとき、我々は「なにかいる」とか「なにか出た」とか思うくらいがせいぜいなのだが、その「なにか」という認識は、「誰だか分からない者」を見たという人物同定不能の戸惑いというよりは、「何だか分からないモノ」を見たという存在把握不能の戸惑いを帯びている。

その出現から会話を始めるに至る間に、ソレは声を発し他のキャラクターと交流ができるような、物語的に人と見なされるようなものとして、そしてまたレミにとっての父の仲間として、『家なき子』の世界に場を占めるようになる。その「なにか」から『家なき子』の世界へ場を占めるまでの飛躍を本稿では登場と呼んでいる、ということになるだろう。『家なき子』における登場の形式は、つまり他のアニメでも基本的には似たようなかたちで行われうるキャラクターの作品世界への飛躍が、修飾のない拍の打ち出しを伴う画面への出現をもって、視覚に対し文字通り「衝撃的に」始められる形式であると言えそうである。

勿論そうした視覚的衝撃が、物語におけるキーマンの登場を囃し立てる類の衝撃として受容され、物語的衝撃に変換されることが制作者によって望まれていた、と考えることは可能だ。しかしそれは単に可能だというに留まる。そもそも大男の出現が気にかかったのは、彼が物語的にはそう大したキーマンではないからだ。彼の到来後ほどなくして父の順風満帆は破綻し母子の生活は転落を余儀なくされるが、その破綻と転落の凶兆として大男登場の不穏さがあると考えるのは、死亡フラグとかいう定義ガバガバの尺度をゴキゲンに適用したとて無理がある。

それよりも大男は、レミ母子以外で初めて画面に現れるキャラクターである。レミは野原を駆ける動作から、バルブラン夫人は雨の降り出した窓外を見やる動作から画面に映り始めて、どちらもしばらくずっと静止して映ることはない。そうした映り方は、彼らが『家なき子』の世界に登場するのでなくずっと前からその世界にいたものとして我々に見える点で特別である。彼ら以外の主要キャラクターは彼らとは別の形式で登場するが、大男登場のシーンにはその形式におけるエッセンスの全てが入っている。そのエッセンスというのが先述した出現の拍、加えて全画面的な運動とリズムである。

大男の画面への登場においては、レミが水を汲む動作が画面およそ1/3ほどの範囲に映った後で、歩く両足が画面に大きく映り、次のショットで大男が画面に出現する。これらのショットの連続は、運動範囲に即して言い直せば、局所的な運動、全画面的な運動、拍の打ち出し、という連続である。局所的な運動については後で述べるが、全画面的な運動は、やや俯瞰の角度で正面から画面いっぱいに映った両足が左右代わる代わる踏み出されることで生じる。正面からの俯瞰であるから、左右の足は、踏み出されるにつれ、画面上方の奥から画面下方の手前に動いて、また元の位置に戻る。その往復が画面に見えはするのだが、しかし画面いっぱいに広がった運動というものは、画面上下や奥・手前といった方向、言い換えれば仮想のカメラを相手とする相対方向はどうあれ、その運動が画面いっぱいに映っている限り、画面を地平とする方向に広がる運動たるを無視されえない。つまり歩く足とはいえ畢竟足の形を構成する線と色がテレビ画面上をつるつる滑っているだけという、その、画面の地平での運動が目前にどっと広がるのが認知される。画面一杯になにかが旺盛に動いている画面を見て、何がどの方向に動いているのか分からず、ただただ画面に広がる運動を漫然と眺める羽目に陥った経験はおそらく誰にもある。大男の両足のショットにおいては勿論仮想のカメラと相対する方向への運動も把握されるが、次のショットにおける拍の打ち出しとの連鎖において重要なのは、画面を地平とする運動の、画面いっぱいの充溢である。その充溢を眺めていた視線に、大男が画面に出現するときには画面から垂直方向に衝撃が打ち出されてくる。大男の姿へ向けてぎゅっと集中した視線の先から、大男出現の拍がまともにぶつかって来る。

我々が彼の出現に際して「なにか出た」と思う時、その「出た」というのは、我々が意識するとしないとに関わらず、慣用的には画面に何かが出た=映ったことを意味し、直接的にはまさしく拍が「出た」ことを意味する。

レミによる水汲みのショットが大男の両足のアップショットに切り替わるとき、運動範囲はおよそ画面1/3から画面全体へと拡大する。そうして両足のショットに画面を地平とする拡大の運動が加わることで、大男の出現を見るにあたって視線凝縮の度合いが高まる。要するに『家なき子』的登場のエッセンスは全て大男の出現における拍の射出に向けて、その射出力増加に寄与すべく収斂するのであり、大男の足音のリズムもそれに寄与する。ざっざっと等間隔に鳴った足音のリズムが途切れ、訪れるはずだったその一拍に我々の注意が集中したところへ、大男の出現の拍が画面から打ち出されてくる。これと似たショット繋ぎは、アクションシーンにおける射出物描写の画面に多く観察される。画面片隅で巨神兵にハッパをかけるクシャナの奥で画面いっぱいに映って全身ドロドロ崩れていく巨神兵の口部から発せられるビーム一閃を思い出してもいいかもしれない。またリズムが続いた後にトドメの強拍が打たれるなどは、枚挙にいとまがない。

『家なき子』における主要キャラクターは、全画面的な運動とリズムの両方ないし片方を予備段階とした画面への出現を待ってからでなければ、他のキャラクターと交流を始めない。その法則は登場キャラクターが物語的なキーマンであればあるほど正確に守られる。第一話においては大男来訪のおよそ半年後、やはり父ジェロームの出稼ぎ仲間としてバルブラン家を訪れて父の大怪我を告げ、レミ母子の幸せな生活に転機をもたらすもう一人の訪問者は、数歩歩く両足、バルブラン家の扉を数回叩く拳のアップショットののちに、レミが開けた扉の向こうに静止した姿を現す。それまでの間、訪問者とレミ母子は互いに呼びも答えもしない。同じく第一話の終盤、バルブラン家に近づく両足は、仕事中に労働継続不可能な大怪我を負い、賠償金を求め雇い主を相手どって裁判を起こし、妻子に無心した金をつぎ込みながら敗訴して荒みきった父ジェロームのものであるのだが、そのジェロームは戸口から一歩入ってなおしばらく顔だの手だの動かし続けていて、彼が動いている間、レミ母子は彼を遠巻きに見つめるのみで彼を父だと認識しない。バルブラン夫人が「あなたなのね!」と夫を認識し彼と交流を始めるのは、彼の全身が大写しのパンアップで全画面を動いたのちに顔が止メ画で映った後である。またレミが旅芸人となってのち、ビタリス投獄のために彼と別れて金も底を突き、犬達を連れて途方に暮れ川原でハープなど弾いている時、のちに生みの母と知れるミリガン夫人が船に乗って彼の目前の川を流れてくるのと出会う時にも、その出会いはまずレミの歌に拍手するミリガン夫人の両手のアップショットから始まる。その拍手が続く間にレミはミリガン夫人を見やり、拍手を続ける彼女の全身が画面に映りもするのだが、「なぜ(歌を1)やめておしまいになるの?もっと聞いていたいわ」と彼女が宣ってレミと交流を始めるのはもちろん、彼女が拍手を止めてリズムが止んだあとに、彼女が静止して画面に映ってからだ。

『家なき子』における主要キャラクターは、まず顔なり全身像なりで拍を出してからでなければ他のキャラクターに声をかけないし、他のキャラクターから声をかけられもしない。それはなぜか。

声を出すというのは、アニメ絵であるキャラクターが我々によって人みたいなものとして認識されるための最重要条件である。しかし画面に映っているのは絵であり、絵というのはふつう声を出さない。アニメキャラクターが声を出すことができるのは、彼らが口パク等の動きによって拍を出すからである。口から声が出て見えるのは口パクの拍と声が同期しているからに過ぎず、例えば後ろ姿で肩なり頭なりがカタカタ動いているだけでも、声がその動きに同期していれば、我々はその声がそのキャラクターから出ているものと認識する。逆に言えばキャラクターは、声を出すためには肩でも頭でも、画面に映っているところをカタカタ動かさねばならない。声は口ではなく、拍につく。

どうやら『家なき子』においては、キャラクターはまず画面の姿が拍を出しうることを実証してからでなければ、登場するべき者と認められない疑いがある。誰に認められないのかはなお検討を要する。制作者がらみの可能性を言えば、『家なき子』放映当時、まだ現在よりもずっと鋭敏に感知され、その監督の出崎統をも悩ませていたらしいセル画アニメ絵のカンタンさ、言うなれば人物の像を描出するにおける絵画的劣等が、出崎らをして、拍の打ち出しという劣等絵画の不可避的随伴現象を、謂わばキャラクターの実存に向けた方途へと転換せしめた、という可能性は高い。

『家なき子』における主要キャラクター達は、物語的なキーマンとしての「キー」具合に応じて衝撃的に登場するのではなくて、物語的なキーマンたればこそ、まず『家なき子』における「マン」たりうることを証立てねばならず、そのために明確に拍を出し衝撃的に登場するものと目される。大男の場合、彼は物語的なキーマンであるというよりも、他のキャラクターに先立って登場し『家なき子』的登場の先例となるキーマンである。彼はジェロームの無事を知らせ金を運んでくるが、なに、そんなものは郵送で事足りるのだし、無事の便りだけなら単に無沙汰で済むともいう。父の破滅だって母子生活の壊滅だって彼なしで十分発生する。彼の「キー」具合はまさに登場するという部分にかかっていて、それだから彼の登場には他のキャラクターの登場に含まれる全てのエッセンスが入っているのだろう。

さて、ビタリスの出現は違う。彼の登場は以下のとおりだ。

荒んで帰宅したジェロームがレミを連れ、昔馴染みの営む酒場へ行って酒場の主人相手にクダを巻く。孤児院代わりに捨て子のレミを育てた養育費を役場から取り立てるだの、レミが立派な産着をつけていたから拾っただのと、彼が金に関する話ばかりしていると、酒場の奥の暗がりにいる人影が画面に映る。それがのちにビタリスと知れる人影であり、その人影が映るとき、「ジェロームさんとやら」と、のちにビタリスと知れる声がする。

ビタリスは、『家なき子』における登場の形式に照らして、ジェロームと交流するのが早すぎる。上記の画面に映るまでに、人影は前もって歩いてはいないし、体の他の一部が画面に映ってもいない。人影は静止して映りはするが、粗い筆致による無数の黒線で影が落とされていて、輪郭部付近にわずかに灰色がかっているとはいえ、その姿は概ね黒い塊である。セル画のアニメキャラクターというよりは背景画に近く、その姿には拍の打ち出しに寄与するベタ塗りセル画の視覚的圧迫感は認められない。人型と見えるかどうかも実際微妙なところで、彼の周りに朧に視認される椅子だのなんだのが、なんとなくそこを酒場の片隅であろうと思わせはするもの、椅子の脚にあたるだろう木部や何かに囲まれて微動だにせず、輪郭部に灰色を纏って暗がりにあるその人影ふうの黒い塊は、闇夜に月光で稜線を照らされた背景の山と大差ない。

そこに「ジェロームさんとやら」と、バリトンが響き渡る。そこ、というのはどこなのか。画面に映る人影から出たという証拠は画面内にないし、画面外に隣接する近隣から響いたことを証拠立てるショット繋ぎもこのショットまでの間にない。とはいえ次のショットではジェロームが振り向くから、彼にはその声が聞こえたのだろう。続くショットで人影はのっそり立ち上がる。まるで山が動いたようである。それからビタリスはジェロームに歩み寄る。そのとき彼はもはや人影ではなくセル画の姿で、『家なき子』における登場の形式どおり両足のアップで歩み寄り、全身の静止ショットへと移行する。立ち上がった山のような人影とセル画のビタリスは同じものであるだろうが、「同じもの」というのはどういう意味でか。人影がセル画の姿に変化したと見えるその姿は、まるで、なんというか、現世における仮の姿のようである。

暗がりにいた人影は山と見えなくもないとはいえ、闇夜に見える山がそうであるように、大きさ遠さの判断材料となるような細部が自身の体と周囲になく、大きさが判然としない。しかしセル画で映る時、彼の全身は極端なアオリで映っており、明確に大きい。そのショットにおいて出現の拍とともに打ち出される姿に被さっていてまず我々の目に飛び込んでくるのは、彼の体躯の大きさである。加えて言えば、ジェロームから買い取ったレミを迎えに後日ビタリスがバルブラン家を訪れるとき、彼の歩く姿も立ち止まる姿も極端なアオリで画面に映る。なぜビタリスはセル画の姿で映るに際し、そんなに大きくあらねばならないのか。

もちろん体の大きさは重要なのだ。例えばレミが加わってのちのビタリス一座が野道を歩くとき、一行の真横水平位置から一列縦隊の一座を映し出すショットにおいて、レミの頭上には大きく空が広がっている。その大きな空があるがゆえ、あるとき喜び勇んだレミが頭上に投げ上げた帽子なども高く空を飛んでいくことができるのだが、画面内においてそうして大きく空を戴いたバランスでレミが画面に映ることができるのは、ビタリスの体の大きさあってこそである。その空の大きさは、ひときわ背の高い突出点としてビタリスを中心に据える一座が画面に収まる時に、背の低いレミの頭上にのみ広がる大きさである。空というのはアニメ画面においてとりわけ描き込むべきものの少ない区域であり、レミや犬たちだけが画面に映るときには空はもっと狭くなるのだし、仮にレミや犬たちだけが画面下端に映り、その頭上にあまりに大きく空の区域が広がるとすれば、その空虚な青色の区域で多くを占められた画面から生じるのは空の大きさではなく、レミの小ささ、ないし孤立でしかなかっただろう2

ビタリスはレミのため高く聳える。それは街々が画面に映るたびに街の中央に聳え、その高さをもってレミが向かう街の上に大きく空を導入する教会と同じである。前稿述べたビタリス教会化の詳細は次稿でさらに考えねばなるまいが、どこから響くか分からぬ声を発し、仮の姿で歩いたかもしれぬビタリスが、何であってもおかしくはない。ビタリスという名前は、彼が旅芸人をするための仮の名だそうである3

2019.4.10

(おさだ・しょういち/城西大学付属城西高校)

第7回 ビタリス(2)

レミです。僕がこうやって話してるってことに、みなさんは驚くかもしれません。でも、もともと僕にはそういうことができるのです。つまり時々1僕は、僕の旅で起こることなら、遠くの街で起こっていることでも先に起こることでも分かっていて、そのことについてみなさんにお話しするということができるのです。

いつも2の僕は、そういうことはできません。ビタリスおじいさんが死んでしまったとき、僕は気を失っていてそのことに気づいていません3。でも起きる前に4、僕の声がして、こういうふうに言います。「レミです。偶然僕は、アキャンという人に助けられた。でもビタリスおじいさんは死んでしまった。そんな僕をアキャン一家は親切に看病してくれた。そんなとき、思いがけないことからおじいさんの過去が分かったんだ。ほんとうの名前はカルロ・バルザーニといって、世界的に有名なオペラ歌手だったんだ。次回の『家なき子』をお楽しみに」。

そうやって僕がしゃべっているとき、みなさんの目に見えているのは、ベッドに眠るレミをアキャンさんたちが見守ってくれてるところとか、ビタリスおじいさんが安らかに横たわっているところとかで、僕の声をそのレミが出してるふうには見えません。もしそう見えてしまったら、それはもうレミが喋っているところでしかないから、どうしてレミが先のことまで知っているのか分からなくなってしまうと思うし、そんなレミが旅してるのなんかをみなさんが見守ってくれるのかどうかもきっと分からなくなってしまう。そういう困ったことにならないのは、僕が声だけだからです。みなさんの目に見えているレミに、僕の声は、というか僕っていう声は、くっついていないので、どこにいて、いつにいても、おかしくない。おかしい理由がないんです。

僕とレミとはあんまり違うから、かえって僕は、いくつか同じところがあるってことにびっくりしてしまう。じつは声だって、僕が「レミです」と言って話し始めて「僕は」と言って話し続けるからなんとなくレミがしゃべってる感じになるんだけど、そうでなかったら同じ声だって思わない人もいると思う。それに言葉づかいだって違う。僕は「分かったんだ」とか「オペラ歌手だったんだ」とかって言うけど、レミはそんな言葉づかいはしません。レミはまだ見習いだけど旅芸人だから、他の言葉づかいだったらいろんなお芝居をやったりお客さんに口上を言ったりするときにするんだけど。

でもじつはそこのところが一番、僕とレミが同じところなんじゃないかと思うんだ、つまり、そのときやらなくちゃならない役をするっていうところが。僕はたしかに、先に起こることについて、もう過ぎたことをしゃべるみたいに「アキャンという人に助けられた」とかって喋るけど、僕はどこにいついるか決まってないから、未来にいるって決まってるものでもありません。未来にいると思ったっていいんですけれど、でも、僕がこういうしゃべり方をするのは、僕がいる時間から決まってることじゃなくって、「看病してくれた」、「分かったんだ」、「オペラ歌手だったんだ」ってしゃべっていって最後に「お楽しみに」って終わらせる、そういうしゃべり方の型5から決まっていることなんです。そうやって「次回の『家なき子』」をみなさんに紹介するのが僕の役割で、役なのです。

レミも自分がしなきゃならない役をするんだけど、僕とは少し違う。レミは僕より大変です。レミはふたつの役をこなさなきゃならない。レミはまず、大道芸をやらなくちゃなりません。これについては、レミはすぐにやれるようになりました。そりゃ最初はできなかった。旅芸人の格好をするだけのことだって、最初は泣いて嫌がってました。お芝居でとんまな下男の役をするときにもすぐには台詞を覚えられなかったし、ビタリスおじいさんに歌を教わったときには音を外して怒られた。でもいつだってすぐに6できるようになって、ハープなんかは、練習もせずにいつのまにか弾けるようになりました。けれどレミは、もうひとつの役もやらないといけないんです。つまりレミは、なんていうか、レミをやらないといけない。道化みたいな服を来てとんまの役をやることを泣いて嫌がったり、でもそのうち受け入れたり、台詞を覚えられなかったり音を外したり、でもいつしか身につけたり、そうやって旅をしていくところを、みなさんに見てもらわなくちゃいけない。

そのふたつの役は、似てるけどちがう。レミの大道芸は服を替えることから始まるんだけど、ビタリスおじいさんに新品の服をひとそろい買ってもらったとき、レミは「町の子みたいだ」なんて言ってはしゃいでました。でもおじいさんはその服を切って飾って、青い帽子なんか赤いリボンでぐるぐる巻いて白い羽根なんか挿しちゃった。レミはその格好で大道芸の稽古に連れていかれてずっとぐずぐず泣いていたんだけど、そのときおじいさんは「目立つということが旅芸人では一番大切なことじゃ」、「お前はもう村の子レミではない、今から旅芸人レミじゃ」と言ってレミを叱った。「目立つということ」はレミたちにとってほんとに「大切なこと」なんです。レミたちが街を行進してお客さんを集めるときや街角で大道芸をするとき、レミがほんとに「町の子」みたいだったら、街のお客さんたちはきっとすぐにはレミを見つけることができません。でも街のお客さんたちがレミをすぐに見つけるってことは、ほんとは、なにかを見てる街の人をみなさんが見て、そしてみなさんがレミをぱっと見て見つける、っていうことです。レミにとってほんとに大切なのは、みなさんに見つけてもらうことなんです。青い帽子にリボンと羽根なんかついてるのがそのいちばんの証拠で、これはもうぜったい、街のお客さんがレミを見ることとは関係ありません。だいたいビタリス一座が街角で大道芸をするときには、レミたちと街の人たちとは間が離れていて、ほんとはあまりレミを見つけにくかったりしないんです。それよりレミを見つけにくいのは、レミが大道芸なんかしないで街や山を歩いてるときです。レミが買ってもらったのは青い「フェルトの帽子」と「藤色のシャツ」、赤い「ビロードのチョッキ」、青い「羅紗のズボン」で、そんなの全部着たらそれだけで十分目立つんだけど、でも、空から見たときだけは違います。どんなに派手な色ばっかりの服を来ていても、レミは空から見たら青色の帽子だけになってしまう。そしたら、レミが人混みにいたっていなくたって、ぱっと見ただけじゃ、それがレミかどうかなんてこと分かりません。青色の帽子にわざわざ赤いリボンや白い羽根なんかがついてるのは、そういうときでも空から見つけて、すぐにそれをレミだって思ってもらわなくちゃいけないからです。空からなんて、そんなところから街の人はレミを見ません。だいたい街の人たちには、レミだってことは分かってもらわなくたってかまやしない、大道芸人が来たってことを分かってもらうだけでいいんです。レミがその格好をするのは、みなさんに見つけてもらうためで、それは大道芸をしていないとき、レミがレミをしてるだけのときにも大切なんです。

レミが両方の役をするのの何が大変って、レミがレミをする方が大切なのに、そっちはあんまりにも大切でぜったい失敗しちゃいけない、レミがその役をしてることにだって気づかれちゃいけないってことです。言ってみたらレミは、その役がぜんぜん大切じゃないってふりをしなきゃならない。町の子が着るみたいな服をへんに飾りつけた、レミがあんなに嫌がってた格好、山道なんか歩きにくいに決まってるあの格好を、レミは、お客さんなんかいるわけない荒れ地でも、吹雪の雪山でも、いつでもしています。それはそんなときでもみなさんがレミを見てるからなんだけど、レミはみなさんに、レミが見ていてもらわなくちゃならないってことは知られないまま、見ていてもらわないといけません。たいてい知られてるのかもしれないけど、だとしても『家なき子』を見ながら思い出してもらっちゃいけない。それは、レミがみなさんに見ていてもらわなくちゃいけないのはどうしてかっていうことの答えが、レミが主人公だからっていう以外にないからです。レミが主人公になっている理由は、『家なき子』の中にはありません。レミはべつにとりわけ大道芸が上手いからとか、とりわけ聡い子だからっていう理由で主人公になってるんじゃないんです。『家なき子』の外にはレミが主人公にされた理由があるのかもしれないけど、それは『家なき子』の中では言えません。それを言うのは『家なき子』が作りモノだって言うことで、それはつまり、レミはいない、って言うことだからです。

その格好をいつでもしている理由を、レミは自分で言うことができません。そのかわりにビタリスおじいさんが、知ってか知らずか、上手に言ってくれます。「目立つということが旅芸人では一番大切」だ、レミは「今から旅芸人レミ」だ、って。だからレミは、ずっと、目立つ服を着てなきゃならなくなった。もちろんビタリスおじいさんは大道芸のことだけ考えてそう言ってたのかもしれない、でもおじいさんがどう考えていたとしても、大道芸も、レミがレミをやることも、役をやるってところは同じで、目立たなくちゃいけないってところも同じなんです。そしておじいさんがどう考えていたとしても、みなさんはきっと、おじいさんが大道芸のことしか考えていないと思いながらそれを聞いてくれると思います。おじいさんは、主人公の役がぜんぜん大切じゃない、とは言わないけど、おじいさんが大道芸を大切にしてることで、主人公の役の大切さが引っこんでる。そういう意味では、レミがレミの役をやるために、大道芸もやっぱり大切なんです。

レミがレミをして旅してくことに『家なき子』の中で名前はついてないけど、レミは「旅芸人」だっておじいさんが何度も言うから、レミがレミをして旅する芸は「旅芸」とか言ったらいいかもしれない。その旅芸を、レミはビタリスおじいさんに支えてもらってます。レミが見習いなところは、ビタリスおじいさんみたいに大道芸を大切にすることができなくて、旅芸をおじいさんに支えてもらってるところだっても言えるし、レミがどうも聡すぎる感じがするところは、そうやって見習いの分をわきまえてるみたいなところがあるからだとも言えます。

レミはビタリスおじいさんを「お師匠さん」と呼びます。そこが僕とレミの一番違うところです。僕はみなさんにしゃべるっていう役はやるんだけど、「目立つということ」が「大切」な大道芸はやらないし旅芸もやらないから、「お師匠さん」ではなくて、「ビタリスおじいさん」とか「おじいさん」と呼びます。

レミは、旅をしながら大道芸なんかの芸をする「旅・芸人」でなきゃいけないし、それ以外のときでもレミの旅芸を見せる「旅芸・人」でなきゃいけないから、けっきょくレミは、どっちにしても「旅芸人」にならなきゃいけないんだと思う。

でもレミはまだ見習いです。そのことが目に見えて出てくるのが、レミが大道芸をするときです。ビタリスおじいさんは、レミたちが「街の立派な劇場で入場料をとって舞台に立つ芸人ではな」くて「旅芸人じゃ」と言ったけど、レミが大道芸でするお芝居はじっさいのとこ、「街の立派な劇場で入場料をとっ」たりしてみなさんに見てもらうような、その芸だけで見てもらえるような芸じゃありません。だからレミのお芝居は、初演のときでもすぐに途中で終わっちゃうし、その後はみなさんに見てもらえる時間がどんどん短くなっていきます。

だけど、っていうか、だから、レミの大道芸が始まるときにビタリスおじいさんがハープを弾きます。レミが「よたよたよた」とか言いながら、とんまの下男の役を始めるとき、ビタリスおじいさんがハープの上で手を動かし始めてハープの音楽が鳴る。その音楽は、下男につけられた伴奏です。でもレミが下男を演じる芸がみなさんにお見せできるものでないことはすぐに隠せなくなってきてしまう、そうすると、たどたどしくセリフを思い出しながら「えー……おいらは、おいらは」なんてやってるレミの、ぶきっちょに初舞台をふむっていう旅芸だけが、みなさんにお見せできるものになる。そのときちょうど、ビタリスおじいさんの手の動きがぜんぜんハープの音楽と合っていないことが、みなさんに分かってきます。そうすると、少し滑稽でおだやかな感じのハープの音楽は、どこから鳴っているのか分からなくなって、もういつの間にか、下男についてる伴奏ではなくて、たどたどしく大道芸をやるっていう旅芸をするレミについてて、その様子を見守るみたいな伴奏になってる。

なんてすごい芸なんだろう、と僕は思います。ハープの音楽が、レミの大道芸と旅芸をわたってつながっていることが、すごい芸だと思うんです。同じ音楽が鳴っていることで、レミの大道芸もなんとなく旅芸につながってく。レミには悪いけど、大道芸だけじゃなく旅芸だって、レミはべつに上手じゃないんです。よたよた歩くのをたどたどしくやるなんていうのはすごく難しくって7、「よたよた」とか「たどたどしく」とかいうよりは、こわれた機械みたいにレミは動いちゃってるんだけど、でもそうやってへんな動きしかできないところもハープの音楽が見守ってる感じで、あまり気になりません。はっきり言っちゃうと、レミが大道芸をすぐにできるようになったのは、レミに大道芸の才能があったからじゃなくて、うまく大道芸ができないっていうレミの旅芸がへたくそだからなんだけど、でも、レミがそんなふうにしかやれないことまで包み込んで音楽が見守ってる感じもする。そんなことまで音楽が包み込めるのか分からないけど、それが分からないということ自体、なんだか音楽がおおってしまって、気にならないようになってるみたいだ。

ハープの音楽はすごいけど、でも、それがだれの芸なのかははっきり言えません。ビタリスおじいさんは途中からもうハープを弾いているみたいじゃないから、その音楽がビタリスおじいさんの芸なのかどうか分からない。ビタリスおじいさんの演奏から出ることができるっていう、ハープの音楽の芸なのかもしれない。

ビタリスおじいさんの、とは言い切れないけど、ビタリスおじいさんと関係がある芸が、レミの旅を包んでつなげるようです。ビタリスおじいさんは旅芸人について、「いま親切にしてもらったことを忘れてはならんぞ」とか、「旅芸人の身分は低い」とか言って、レミにいろいろ話すんだけど、そういうお話が、レミが出くわすたくさんのできごと、ほっといたら起きるはしから散らかっていくたくさんのことを、旅芸人レミの旅に合わさっていくようにつないでいきます。

親切を忘れるなってビタリスおじいさんが言ったのは、真冬、「旅芸人の身分が低い」せいでレミたちがつらい目にばっかりあってたときに、たまたま出会ったお百姓さんの一家に芸を見てもらったあとです8。その一家のひとたちは、レミたちが水を切らして困っていたら井戸水をくれて、レミたちが水とパンだけでごはんにするって知ったら一緒のテーブルに招いてくれて、あついスープを出してくれて、レミたちがお礼に大道芸をしたら楽しんでくれた。「こんなに楽しい気分で芸をするのはうれしいな」って、レミは思ったみたいだ9

レミたちはそのとき、「旅・芸人」としてお百姓さんに親切にしてもらったんだけど、でも「旅芸・人」としても、みなさんに、親切にしてもらったんです。もしもみなさんが「レミよかったね」とかって思ってくれたら、ですけど。そういうふうに思ってくれることはレミへの親切だと、僕は思います。それは、思ってくれたことの中身が「この卑しい芸人め」なんかじゃなくて「よかったね」だったからじゃありません。それもあるんだけど、そのためにまず、「よかったね」って思う相手として「レミ」を、いる、って思ってくれたからです。それは親切っていうことじゃないのかもしれないけど、でも、レミにはぜったい必要なことで、そして、みなさんにしてもらう以外にないことです。

みなさんにそういうふうに思ってもらえるっていうのは、あたりまえのことじゃありません。「旅芸人の身分は低い」んです。「旅・芸人」の身分も低いんだけど、「旅芸・人」の身分だって高くはありません。低くもないんだけど、なんていうか、低いよりももっとどうにもなりません。つまりもともとレミには、身分をもらえるような、ずっとつながってる体がありません10、体って言っていいのか、みなさんだったら持っているかもしれない、ずっとつながってる自分が、レミにはないんです。自分ってものは、体があれば自分もあるってものじゃないと思うけど、体がかんたんに変わっていっちゃったらきっと持てない。その体ってものが、レミにはありません11。だから「旅芸・人」の身分は、低いとかってより前に、ただ、ないんです。

そこのところが、レミにとって旅芸が大切だってことのいちばんの理由です。レミにはつながった自分がないけど、ないから、旅芸をして、みなさんを通して、それを作らないといけません。なにを作るかっていうのは、ほかの芸だったら、べつに自分じゃなくたっていいんだと思う。大道芸だったらとんまの下男を作る。芸をするときには、なにかつながってるものを作ります。旅芸のばあい、レミは主人公だから、つながった自分を作る。でも、自分がつながってるだけじゃ、だめだと思う。だって自分や、自分のすることがつながってるだけだったら、レミはいつまでもひとりぼっちの、なんていうか、「家なき子」のままになってしまう。

「前に進め、じゃ」とビタリスおじいさんは言うけど、お話っていう、前につながっていくものをつないでいって、その中をレミが進んで旅していけるようにしてくれるのがビタリスおじいさんです。その旅をレミは前に進んでいって、そして、なにをするんだろう。どういうふうにつながって、なにとつながれば、レミは「家なき子」じゃなくなって、「ほんとによかったね」って思ってもらえることになるんだろう。そういうことは、僕か、だれか別の人に芸があれば、またの機会にお話しできるかもしれません。

2019.8.12

(おさだ・しょういち/城西大学付属城西高校)

第8回 次回予告の語りが示唆するもの

前回の長田の連載(「第7回 ビタリス(2)」)では、『家なき子』の次回予告について語られていた――「について」というだけでなく、あの文章そのものが、その後に書かれる(はずの)文章の次回予告にもなっていたのだが。そこでは、次回予告での主人公レミの語りが本編のレミの語りとは異なる特徴を持つということから、本編のレミが「旅・芸人」であるだけではなく「旅芸・人」であるということが浮かび上がってくるのだということが述べられていた。

次回予告は、大半のテレビアニメ作品の最後に15秒か30秒かで作られており、内容的には予告の役割を果たしていない場合でも、便宜上「次回予告」と呼ばれている。映像が音声を伴う場合、大きく分けて、音声はナレーション型かセリフ型に分類することができる。セリフ型の場合は、作中に登場するキャラクターの声と口調で、次回の予告や余興的な会話などが語られることが多い。そのため、そうしたセリフはその声を持つキャラクターの語りであるとみなされる(『家なき子』では、レミの声で、「レミです」という名乗りから語り始められることで、誰の語りかと言われれば「レミの語り」としか言いようのないものとなっているのだと思われる)。そして、たいていは声のみで次回予告に現れるキャラクターと本編のキャラクターとの間にどこか異なるところがあるとしても(『家なき子』のレミの場合もそうであったと思うが)、やはりその語りはその声を持つキャラクターと結び付けられて受け取られる。その、同一の存在だと言えるのかどうかあやふやなキャラクターたちの間には様々な関係性があって、レミの場合には、次回予告のレミによって本編のレミが「旅芸・人」でもあることが照らし出されていたのだと思われるが、前回の連載を読んで私が思い浮かべた2つの作品――『∀ガンダム』と『Gのレコンギスタ』1でも、主人公たちの次回予告の語りが、本編でのキャラクターの描かれ方に沿ってそれぞれ異なる形で、本編の彼らのある性質を浮かび上がらせている。今後、本編でのキャラクターたちのコミュニケーションの描かれ方について考えていくための手掛かりとして、次回予告の語りについて考えてみる。

『∀ガンダム』(1999)の次回予告は、主人公のロランという少年のセリフ型の語りである。この作品では、かつて地球から月に移住した人々(ムーンレィス)が地球に帰還しようと軍隊を組織して地球に降下し、地上に住む人々と戦争になってしまうという物語が描かれる。主人公であるロランはムーンレィスであり、月の軍隊(ディアナ・カウンター)の降下に先駆けて調査員として地球で生活していたのだが、戦闘の最中に∀ガンダムを操縦することになってしまい、そのまま地球側の部隊(ミリシャ)のエースパイロットとしてディアナ・カウンターと戦うことになる。物語の序盤、ロランは自らがムーンレィスであることを地球の人々に隠しているのだが、すぐに(第8話)その正体は明らかになってしまう。その時、彼は、どちらの勢力に属するのでもないのだと叫ぶ。「僕は2年前に月から来ました。けど、月の人と戦います。だけども、地球の人とも戦います。人の命を大事にしない人とは、僕は誰とでも戦います!」。このロランの叫びに、同じムーンレィスの友人であるフランという少女は「正直すぎるよ」と呟く。こうしたあらすじだけを抽出すると(そして初期の富野由悠季の作品の主人公たちを知っていればなおさら)、ロランというのは敵対する勢力の間で引き裂かれ思い悩む人物として描かれるのが適切であるように思えるのだが、彼の振る舞いからはそのようなところは見受けられない。ロランが思い悩んでいないわけではないのだが、彼が何を考えているのかを掴むのは難しいのだ。ロランというのは、ムーンレィスの下っ端扱いの調査員でありながら、急ごしらえのミリシャで主役機を操るエースパイロットでもあるし、また、エースパイロットでありながらお屋敷の使用人でもあり続けるし、それどころか、男でありながら女を演じろと言われればすんなりとその通りに振る舞うというように、いつでも複数の対立するような立場を躊躇なく受け入れているという人物なのだ。その時に重要なのが、彼がしばしば嘘をついているように見えるのにその意図がわからないということである。

ロランはこの作品の主人公であり、全50話の大半は彼の周囲で起こった出来事が描かれ、私たちは彼の言動をつぶさに見届ける。描かれていないところでロランに重大な出来事が起こっているような節もないので、ロランのことはよく把握できるように思われる。しかし、それにもかかわらず、ロランが何を考えているのかがわからない場面というのが何度も出てくるのである。それは例えば、彼がミリシャに対してもディアナ・カウンターに対しても正体を隠さなければならないような場合に見られる。第4話では、ロランがディアナ・カウンターの軍人から事情聴取される場面で、∀ガンダムの操縦者がロランであったことを知らない軍人に対し、ロランはそれまでに起こっていたこととは別の説明をする。自分が見た出来事を伝聞の形に変えて話し、さらに、実際にはしていないことをしていたのだと話す2。その理由は∀ガンダムを操縦していたことを知られまいとするからだろうが、その点だけをはぐらかしているというわけではなく、ミリシャにとって不利になりかねない情報も包み隠さずに話しているし、ディアナ・カウンターのスパイとして働くよう示唆されても表情一つ変えずに真っ直ぐ相手を見つめて「はい、それはできます」とも答える。その様子からは、果たしてミリシャとディアナ・カウンターのどちらに味方しようとしているのかわからないし、どちらにも味方していないのだとすれば積極的に動きすぎているように見える。また、この場面でとりわけ気になるのは、会話の途中で突如、ロランが全身の力が抜けたという様子で倒れ込むところである。それを見た月の軍人たちは、「緊張して気が張っていたんだろう」とか「久しぶりにムーンレィスに会えて、ほっとしたのだろう」などと、それまでのロランの言動と照らし合わせれば的外れなことを言うのだが3、ロランはその発言に合わせるように、呼吸を整えながら「すみませんでした、急に気が楽になっちゃって」と応じる。彼がなぜ倒れ込んだのかはその後もわからないのだが、呼吸が上がって苦しそうな状況なのに相手の発言に合わせた理由をさらりと答える様子は、彼にとって平静を装って演じることが容易いことなのだろうと想像させる。とはいえ、彼が本当に平静なのか、演じているのかどうかすら、見ている者にはわからない。

しかし、こうしたことを考える前に、そもそもあるキャラクターの意図がわからないということが何か戸惑いを生じさせるように思えるのはなぜなのだろうか。アニメの登場人物というものは、視聴者が彼らの「本心」を理解できるものだと捉えられているように思われる。もちろん、登場人物の心情がどれほど細やかに明瞭に描き出されていたとしても、それが本当に彼らの「本心」であるかどうかということは実のところ判別できない(そもそもフィクションの登場人物なるものが「本心」を持ち得ているのかどうかも断言できない)ので、その意味では『∀ガンダム』と他の作品に根本的な違いはない。しかし、そうした問題とは別に、見る者は様々な手掛かりから物語的な意味での彼らの「本心」を読み取ることができると考えており、実際に多くの作品はそれができるように作られている。感情を読み取ることのできるような表情が描かれているとか4、「伏線を回収する」かのように、回想的に「実はあの時……」と解説する場面が描かれるなどして、物語上の「本心」を理解することが重要であるように作られているからだ。そうした「本心」を推測する根拠の中でも特に決定的なものとして扱われやすいのが、モノローグのセリフである。モノローグというものの性質については私の前回の文章(「第5回 画面連鎖における隣であることと音の関係(『黒子のバスケ』の声と必殺技)」)でも述べているが、その場面にいる他の人物には聞こえていないのに画面を見ている私たちだけに聞こえる声だという特徴がある。そのため、一人称で語られる小説の地の文のように、嘘をつかない本心からの発語であるように捉えられる。キャラクターが私たちに聞こえていることを自覚してモノローグを発しているという奇妙な状態を想定しない限りは、モノローグは誰かに聞かせるために声にしたものではなく、モノローグが私たちに聞こえて「しまう」というのは二次的に起こっていることに過ぎないはずである。だから、もしモノローグが誰かに聞かれるものとして想定されているのだとすれば、その誰かとはモノローグを発したキャラクター自身に他ならない。となれば、モノローグで語られる内容が嘘だということになれば、彼は彼自身に対して嘘をついているというなどということになってしまう。もちろん、「自分に嘘をつく」というのが起こり得ないとは言えないし、自分の本心がわからない状態で発する言葉もあるだろうが、ほとんどのモノローグはキャラクターの本心を語るものと捉えて差し支えないものであるように思われる。ロランにもそのようなモノローグはいくつもあり、例えば、物語の冒頭(第2話)、遺跡の石像が崩れた中からモビルスーツ(∀ガンダム)が現れた時、モビルスーツの存在を知らない地球人のソシエが「ホワイトドール(遺跡)に機械人形が入っていたの?」と動揺する横で、ロランは彼女の言葉を繰り返すように「入っていたんですよね」としか答えないのだが、その直後、汗を浮かべたロランの顔がアップになると口元は動いておらず、「これはモビルスーツだ。なんでモビルスーツが、遺跡みたいになってるんだ?」というモノローグのセリフが聞こえる。ロランは自分がモビルスーツという存在をよく知っていることをソシエに知られてはならないため、このセリフをモノローグとして発しているので、ソシエに知られてはならない彼の本心を表すセリフなのだと私たちは受け取る。つまり、前述の第4話の場面のように、ロランの本心がわからないと感じられる場面というのは、感情を読み取りやすい表情が現れていないとか、モノローグがないことによってそう捉えられるということになるのだろうが、では、モノローグさえあればいつでも彼の本心を理解できるのかといえば、そうではない。そのことを最もわかりやすく示しているのが、次回予告だと思われるのだ。

次回予告は(そしてまた、全話にあるわけではないが、前回のあらすじも)、ロランのモノローグである。本編の映像を抜粋して再編集した映像に重ねられた声は、ロランの発語する姿とはくっついていないが、ロランの声で語られているし、登場人物の呼び方がロラン特有のものであるため(例えば、キエルやソシエを「お嬢さん」と呼んでいるのは、彼がこの家の使用人だからである)、ロランのモノローグだとみなされる。語られる内容としても、本編ではロランがその都度どのような感情を持っているのかははっきりと描かれていないことが多いのだが、次回予告では「嬉しかった」とか「大変だった」というように主観的な言葉で彼の感情が語られるため、本編よりも一層ロランの本心が語られているように思われる。しかし、確かに語りの形式や口調としては本心を語っている言葉のように思えるのに、前後の整合性から考えると大きく矛盾するような点もある。第9話の本編では、月の女王ディアナと、ロランが仕えるお屋敷のお嬢様であるキエルが、見た目が瓜二つだということから悪戯心で互いの衣装を取り替えて入れ替わるのだが、思わぬ展開から入れ替わったことを周囲に打ち明けることができなくなり、互いの立場を演じ続けなければならなくなってしまう。この秘密の入れ替わりは二人しか知らないものであり、当然ロランも何も知らないままディアナをキエルだと思い込んで接しているはずなのだが、この回の次回予告では、まるで入れ替わりのことを知っているかのように語る。「ディアナ様は、ご自分の後ろ姿を眺めてみたいと思っただけだし、キエルお嬢さんも、いつもと違う自分を、演じてみたかったんだと思う」。これを、本編では隠していた秘密の吐露だと、一旦は認めることもできるかもしれない。しかし、その後の第11話の次回予告でのロランは、今度は一転して二人が入れ替わっていることなど何も知らないかのように語り始め、第17話の次回予告でも、そこで初めて入れ替わりに気付いたのだと語るのだ5。そうなると、第9話の次回予告でロランが入れ替わりを見抜いていたのはなぜだったのか。入れ替わりを知っているロランと知らないロランがいて、どちらもモノローグという形式で語ってはいるが、どちらかは(またはどちらも)第4話で倒れ込んだ場面で咄嗟に「すみませんでした、急に気が楽になっちゃって」と答えていた時のように、その都度の次回予告で求められる立場を受け入れて役割を演じてみせていたということなのだろうか。このような彼の掴みにくさは、本編でのロランのあり方を理解する上で妨げになるのではなく、むしろ有意義な視点を提示しているのではないかと思える。つまり、ロランというのは悪意があって虚偽の説明をしているとか、相手を騙しているというのではなく、ただ何でも受け入れてしまう人物だというだけなのだ。その都度求められる役割を受け入れてしまうから、本心を語るものであるはずのモノローグにしたところで、やはりそれが本心なのかどうかを見抜くことができなくなってしまう。そして、だからこそロランは、本心を語るような描写が十分にあるにもかかわらず本心がわからない人物になり得ているのであり、何らかの戦略や目的があって嘘をついているのだと思われてしまうことなどなく、また、政治的な駆け引きに取り込まれてしまうことや、ヒロイズムに囚われてしまうこともないのだという、稀有な存在となることが可能になっているのではないか。

つまり、『∀ガンダム』においては、次回予告での語りから見えてくるロランのあり方というのは、本編のロランにとっておまけに過ぎないものではなく、本編でのロランというキャラクターの成立に大きく関与しているのだ。そしてこのことは、『Gのレコンギスタ』(2014)の主人公の少年、ベルリにも共通している。『Gのレコンギスタ』でも、次回予告はベルリのモノローグ形式である。ベルリの場合には、正体を隠さなければならない事情もないため(本人の知らなかった出自が明らかになる展開はあるが)、ロランのように「本心」がわからないという事態は生じていないのだが、ベルリのモノローグのセリフがベルリのものに留まらなくなるということが起こり、その特徴が本編でのベルリのあり方とも関わっている。

『Gのレコンギスタ』の次回予告でも、本編で描かれる展開をベルリの視点で整理し直すかのように、ベルリの感情が端的に語られている。例えば第3話の次回予告は次のようなものである。「アイーダさんの気持ちが複雑なのはわかるけど、こちらだって複雑。敵の軍艦でG-セルフを動かしてみせろって言われるし、偉そうな中尉さんと一緒にキャピタル・アーミィとは戦わされるし、信じられません。次回、Gのレコンギスタ、『カットシー乱舞』。見たくなくても、見る!」。この次回予告で特徴的なのは、最後の決めゼリフ的な一言だ。ベルリは次回のサブタイトルを告げた後に、「見たくなくても、見る!」と締め括る。唐突なこの決めゼリフは、誰が誰に向けて発したものなのか。「見る!」という終止形の動詞が発話者の行為について宣言しているのか、それとも、強く断言するような語調から命令形として発語されているのか、どちらの可能性も考えられるだろうが、この時、いわゆる「富野節」と呼ばれる特徴的なセリフ回しの法則に慣れていれば、すんなりと命令形だと受け取るに違いない。命令形であることをもっとわかりやすく伝えるなら「見ろ!」とか「見て!」という言葉を使った方が解釈の余地なく伝わるだろうが(例えば『機動戦士Vガンダム』の次回予告ではシャクティが「見てください!」と言っていた)、「富野節」では動詞の終止形も命令形として使われることがよくあるからだ。ベルリ的だというよりは富野的だと言えそうなセリフは他にもある。「見たくなったでしょ?」とか、「どうなるか見たいでしょ」、「見なけりゃ人生暗いぞ」、「見なければ何もわからない」などの視聴を促す言葉があり、その一方で、次回予告であるにもかかわらず「スリリング過ぎるから見なくていい」とか、「息を詰めて見るんじゃないよ」といった回もある。そのため、こうした言葉は「富野的」が色濃く現れたものと捉えられて、視聴者から面白がって受け取られていた。富野由悠季はかつて『機動戦士Vガンダム』ボックスの発売時に「このDVDは、見られたものではないので買ってはいけません」と述べたこともあるので、自作について「見なくていい」などと言い出すのも富野らしい発言だと捉えられていたようだ。さらに、「話、わかりたければ見るしかないでしょ」という回もあり、これは放送時にインターネット上で「話がわからない」などと批判されたことに対する富野からの応答であるとみなされていたように思う。「現実を直視しなさいよ」というのも、富野由悠季がインタビュー等で頻繁に口にしている言葉であった。そのため、『Gのレコンギスタ』の次回予告の最後の一言は、ベルリの声で語られてはいるのだが、ベルリの語りとも言いきれず、監督である富野由悠季の言葉を代弁しているもののように捉えられていたのだ。

富野由悠季作品については、どの作品に対しても多かれ少なかれこうした捉え方をされることがあり、例えば「シャアのこのセリフは富野由悠季の考えを代弁している」といった語りが無数に存在する。しかし、私はそうした語りに対しては懐疑的であり、慎重な立場を取る必要があると考えている。生身の富野由悠季は、他のアニメ制作者と比較しても発言の多い監督であり、作品制作の意図やキャラクターの感情について膨大な解説を繰り広げていて、その際の口調は「富野節」とも共通している。それらの解説は話として非常に魅力的であり、また、いつでも論理的で信用できるもののように思えるのだが、だからといって完成した映像作品の上にそのままの形で現れていると受け取ることはできない。別の言い方をすれば、ある登場人物のセリフが富野由悠季の考えを代弁しているのだと考えるのであれば、作中のあらゆるセリフが代弁であり得るし、それを認めるのなら、富野作品に限らず他のあらゆる監督のあらゆる作品のあらゆるセリフが監督の(もしくは他の制作者の)代弁になり得るという意味で同じ条件で扱われるという、それだけのことに過ぎないのだ。だから、このベルリの次回予告についても、そこで富野由悠季の言葉が代弁されているのだということを言いたいのではない。そうではなく、ベルリの声でベルリが語っている言葉の中に、誰か別の発話者の存在が予感されてしまうということが起こっている(それがここではたまたま富野由悠季だと考えられやすかった)ということであり、ベルリというのはそのように自分の言葉を誰かに明け渡してしまう人物だということである。そして、主人公にそんなことが起こっているにもかかわらず、作中の物語においても見る者の受容においてもそれが問題にはならないということが、この作品にとって重要だと思えるのだ。このことは今後本編について考える際に詳しく見ていくのだが、そうしたベルリの性質を感じさせる一つの例として、イタコのようなセリフがある。第4話の終盤でベルリが3体のモビルスーツに取り囲まれて危うい状況に陥った場面で、彼は突然手のひらを外に向けて両手を胸の前に重ね、「スコード!」と叫ぶ。その掛け声と連動しているかのように、彼の操るモビルスーツから光の帯が発せられて敵の機体がはねのけられる。それだけを見れば、このセリフは「必殺技を発動させるための必殺技名の発語」のようなのだが6、しかし事前にこれが必殺技名だと認識させるようなやり取りもないため、このセリフの唐突さは見る者を困惑させる。彼はまだ自分が操縦するモビルスーツの性能をほとんど知らなかったのだし、光の発生はセリフと手の動き(または他の何か)のどれと結び付いていたのか、その後もわからないままなのだ(この後には同じ描写は出てこない)。それでもベルリは迷いなく叫んでおり、起こったことに対して驚いたような様子も見せていない。

こうしたことはベルリだけに起こっているわけではなく、『Gのレコンギスタ』のキャラクターたち全員に起こっていることだと思われる。『Gのレコンギスタ』では、富野作品としては短い26話という話数の中で少なくとも4つの組織が入り乱れ、多数の人物が登場する。ロボットアニメらしく固有名詞が入り乱れ、あらすじを解説するのは困難だ。だからこそ、「話がわからない」などという声も上がっていたのだろう。しかし、私が作品を見た印象は、起こっていることはとてもシンプルでわかりやすいというものだった。なぜこうした真逆な印象が生じるのかといえば、キャラクターのコミュニケーションの描かれ方をどう受け取るかという点に大きな違いがあるからだと思われる。富野作品において、会話はキャラクターごとに独立したセリフの繋ぎ合わせとは限らない。文字面だけを見れば、なぜ相手が意味を理解したかのように振る舞っているのかわからない応答が続くことも多い。自分が質問したことに相手が答えてくれなくても一向に構うことなく、それどころか相手の応答の内容に合わせて次々に話題を変えていくような場面も目立つ。そこには大きな特徴が2つあり、それぞれについて今後さらに具体的に考えていかなければならないのだが、まず1つには、セリフの終わりが完結した文末表現にならない(文として閉じない)ということと、もう1つには、相手のセリフに応じていることを示す感動詞が非常に少ないということが挙げられる。もちろん、これらのセリフの応答の特徴に加えて、カットの構成や繋ぎ方などの映像の特徴も重要な役割を果たしている(映像の特徴についてはこれから見ていかなければならない)。そのため、富野作品でのセリフの応酬というのは、どこか個々の発言として区別しがたいところがある。言葉を発する前から互いの考えを見通していて確認し合っているだけのような場面がいくつも登場する。その上でこのことは、富野作品には人間ドラマが描かれているとか、「キャラが立った」人物たちが描かれていると評されていることとは全く矛盾していない。ベルリの次回予告からそこまで明らかにすることはできないのだが、『Gのレコンギスタ』はこうしたキャラクターの応答の特徴がとりわけ強く現れた作品であるからこそ、ベルリの語りがベルリのものに留まらなくなってしまうという事態が引き起こされていたのではないかと思えるのだ。

私たちは、主人公のモノローグを聞いてもなお、ベルリという人物の輪郭だとか、ロランという人物の本心だとかを捉えきることができない。それにもかかわらず、彼らが作中のキャラクターたちを受け入れている様をなぞるように、ベルリのこともロランのことも理解しているかのようにも感じている。そんなことがなぜ成り立つのかというのを考えることは、「話がわかりにくい」などと言われる富野作品がいかにわかりやすいのかということを解き明かすことになるだろう。

2019.10.10

(こまつ・ゆみ/信州豊南短期大学)

第9回  父(前編)

ビタリスは吹雪の夜に行き倒れて死ぬ。路傍にみつけた藁の中に、寒さと疲れで気を失っているレミを包んで、その隣には冬になってから次々死んでいった一座の動物たちの最後の生き残り、犬のカピを寄り添わせ、自らはその上に覆い被さって死ぬ。そのときの死に方がずっと気になっている。死んだように見えるからだ。

アニメのキャラクターが死んでも、そのキャラクターはふつう、死んだようには見えない。たとえばあるキャラクターが最期に何か一言つぶやいて、首をガクッと垂れたりする。それで物語上は死んだことになるのだが、そうしたサマを見ているとき我々に起きているのは、そのキャラクターが死んだことが感受されるということではなく、そのキャラクターを死んだものとして見るよう要請を受けるということであるに過ぎない。

レミを拾ってビタリスに売ったシャバノン村のジェローム・バルブランは、まさしくそのようにして死ぬ。本連載の今回と次回では、ジェロームとビタリスのあり方と死に方を考えようと思う。


ジェロームは馬車に轢かれた怪我が元で、パリの安宿のベッドの上、レミとその友人マチヤに見守られながら「冴えねえ人生送っちまった」と言って野垂れ死んでいくのだが、そんなことになった発端は、バルブラン家からレミが去って数ヶ月後の、ロンドンからの弁護士の来訪である。実の両親がレミを探しているからレミに会わせろと言うその弁護士に、レミは旅芸人に売ったがその旅芸人と落ち合う算段はあるから俺が直々にレミを引き取ってロンドンに連れて行く、とジェロームは答える。そうしてジェロームはレミをネタにレミの実父母から謝礼金をせしめるべく、旅芸人が集まるというパリのドヤ街へとレミを探しに出たのだった。

ジェロームは死ぬ間際、最期の顔のアップでうっすら微笑んで「ひとつだけこんな俺にも嬉しいことがあったよ、母さんに精一杯愛されたことだ」と漏らしてガクッと首を垂れる。そうやってわりあい穏やかに死にはするものの、それを見たマチヤが「おれはこんな死に方はしねえぞ」と泣いて宿屋から駆けだしていくのが妙に納得されるのは、じゃあどんな死に方だったらよいのだろうと考えて思い当たる一特殊例が、ジェロームが死ぬ数話前に死んだビタリスの死に方であり、それとジェロームの死に方とが正反対のものであるように思えるからだ。

まだ老年というには遠いジェロームのやさぐれた晩年は、出稼ぎ先、パリの土木工事現場で足場の崩落事故に遭って、彼がもはや周囲の者が言うような「働き者」でいられなくなったことに端を発する。妻子の元へ実直に送っていた仕送りを途絶えさせ、賠償金を求めて起こした訴訟の費用を妻に無心し続けて財産を使い果たし、杖を突き々々帰郷したときには彼はやさぐれた金の亡者になっている。家に入るやいなや、レミは捨て子だ、なぜ余計者がまだ家にいるんだ孤児院へやれ、と凄むジェロームに、バルブラン夫人は「あなたはもっと優しかった、もっと神さまを信じていたわ」と言って泣く。

もとは優しく、神を信じ、働き者であったジェロームに訪れた変化の、その屈曲点は彼が働けなくなって金を稼げなくなったことであるだろう。しかしそのこと自体が彼のやさぐれ方を決定づけるわけではない。その屈曲点を通過したのち、場合によっては自給自足的につつましく郷里で妻子と暮らすという方向へ舵を切ることもありうるだろうし、あるいはパリで悪いことをして金を稼ぐという方向へも向かいうるだろう。前者なら妻子の野良仕事の描写によって、後者なら裏路地育ちのマチヤ絡みの描写によって『家なき子』の中にその方途が存在する。しかしジェロームはそうしない。歴史上当時のフランスには簡単にそうできない社会事情があったのかもしれないが、それは『家なき子』に描かれておらず分からない。ただ分かるのは、屈曲点を経てのちの彼が、謂わば己の歩んだ道を正確に帰ろうとしたということである。場所についてもパーソナリティーについても自分がもといた地点へ帰ろうとする帰郷的な自己回復の欲求が彼を支配していて、なんとかして再び金を稼がねばならぬ、再びシャバノン村でバルブラン夫人と暮らさねばならぬ、という、そのことだけが彼の目的となり、彼にとっての自己回復の方途となっていたようである。しかし彼の自己回復の勘定にはレミが入っていなかった。それでレミを売るのだが、もちろん拾い子とはいえ子どもを売るとなれば元の優しい働き者には戻れない。新しい自分として生きていくことにしかならないはずだが、彼の生真面目な自己回復の欲求がそれを許さない。それで彼はレミを売ることをやめるのではなく、回復すべき自己を、もともと根っからのならず者だったと規定した。そのジェロームを見て、お前はいい男だったが変わっちまったと呟く昔馴染みの酒場の主人に答えてジェロームが返すのは、変わったがそれがどうした、ではなく、いや今だって俺はいい男だよ、でもなく、脂汗垂らしながら絞り出す「俺ァもともとそんないい男じゃあねェよ」という呻きである。

彼は生真面目に自己を回復しようとしたに過ぎない。ただその勘定からすっぽりと、決定的にレミが抜け落ちていたのであり、その結果彼は元とは似ても似つかぬ自己を回復せんとして呻吟することになった。ジェロームの生の方途からレミが欠落していたことをもって、ジェロームの父親失格者たる証左とすることはできるだろうし、その点にジェロームとビタリスの対照性があると言うこともできるだろう。しかし『家なき子』における父を考えるにあたっては、ジェロームの生が、自己を見失った自己回復、言い換えれば不可能な自己の同一化に腐心して過ぎたことが重要であるように思われる。彼はその物語的な生をなぞるようにして、画面と映像のレベルにおいて、自己の同一化に邁進して生きて死ぬことになるのであり、その点においてこそ、彼とビタリスとの間に対照性があるように思われるのだ。

いまわの際に「冴えねえ人生送っちまった」とこぼしてジェロームが目を閉じると、マチヤが急いで「父さんて呼んでやれ!」とレミを促し、レミは「父さん!もうすぐお医者が来ます、父さん!」と呼ぶ。するとジェロームは目を開けて「母さんに精一杯愛された」云々と言って首を垂れる。ジェロームはレミを一度も息子とは呼ばないが、レミは彼を父さんと呼ぶ。一方でビタリスは晩年どこまでも優しくなっていき、レミを息子と呼んではばからなくなるものの、レミはついに彼を父と呼ぶことはない。ジェロームが父に適格しないからレミがジェロームを父と呼ぶのだとすれば、レミがビタリスを父と呼ばないのはビタリスが父に適格するからだ、という、試みに考えてみた詭弁が、十分でないか間違っていると思われるのは、『家なき子』の物語において帰郷的欲求に支配された、半ば地縛霊みたいな自己同一化の権化、ジェロームが、以下に述べるようにその死に際の画面においても自己の同一性を守ろうとしたがゆえに死にきれなかったようであり、一方次回述べるだろうように、ビタリスは画面における自己の同一性をおそらくはレミのためにのみ保持し、あるいは放擲したようであって、そうした点を除いてしまっては『家なき子』における父を考えることはできないように思われるからだ。

ジェロームはベッドに仰向けに横たわり、彼の隣に立つレミを見上げて、「母さんに精一杯愛された」云々と喋ってから一息、フーともウーともつかぬため息を漏らして、そのため息が終わったところで首をガックリ垂れて動かなくなる。「動かなくなる」という、その言辞自体はそのまま「死ぬ」ことの暗喩でありうるだろうが、ことアニメキャラクターの死の場面についてはその暗喩は機能しない。アニメキャラクターが一切動かなくなるのは我々がそうするのとは違って非常にしばしば起こることであり、死ぬに際してのみ起こる特別なことではない。上記の死の場面で起こっている特別なことは、アップで映る彼の顔にはっきり視認される口が、明確に声と同期して動いて、彼に声がほとんど最大限に強く繋留されたのちに、その声の鳴り終わったのが画面におけるキャラクターの動きで明示されることである。これは通例、死の場面以外では起こらない。

アニメキャラクターの生の仮構は、画面の姿と声との繋留にかかっている。始終崩れ変わるアニメキャラクターの画面上の姿に同一性はないが、声には同一性があるからだ。その声が画面の姿に不断に繋留され続けることによって初めてアニメキャラクターはイマジナルに生を帯びるのだが、その繋留は持続するに限りがある。厳密に言えば繋留は画面から出る拍1と声が同期していなければいつでもほどけうるし、声が聞こえなくなれば当然その瞬間繋留の即事的な根拠はなくなるのだが、しかしそうした危険はいつでも曖昧に回避される。たとえば死の場面でなくともキャラクターによる発語には常に鳴り終わりがあるが、発語の終わりにキャラクターの動きが同期する場合でも、同期は発語の最後の一音の響き終わりではなく響き始めになされ、その音の響き終わりは、音響データや発話者の体感においてはともかく、その音が空間に放たれてのち我々に聞こえる限りにおいて、いつでも判然としない。我々はいつでもキャラクターの声が聞こえなくなった後に、それが聞こえなくなったことに気づくのであり、聞こえなくなる瞬間はいつでも曖昧にやりすごされる。また、たまさか響き終わりらしき頃にキャラクターの姿が動き、あるいは止まることがあっても、それは次の行動に移って動き出すためのものあり、動くのであればその動きから拍が出ていて、その拍と再び鳴るかもしれない声が同期するだろうという期待が持たれうる。そうした曖昧な響き終わりのやり過ごしと、再同期への期待とを、いまわの際の喋り終わりにガックリ落ちる首が拒絶する。それは物語においてキャラクターが死んだことの合図であるとともに、声が画面の姿から離れたことの合図である。

しかしそれはあくまで合図に過ぎない。画面の姿が声を出しておらずとも、依然、声を出しうる者としてそれが見えるということは可能だ。画面に映るアニメキャラクターが生きているように見えるのは、我々の脳裏においてイマジナルに生を帯びた姿の照り返しであり、我々の脳裏においてイマジナルに帯びられた生は物語的にキャラクターが死ぬことでは失われないし、首がガックリ落ちることで照り返しが終わるわけでもない。そうでなければ、実際のところ始終繋留がほどけかけているはずの、アニメキャラクターというものを見続けることはできない。ジェロームの死に顔にしても、もしもイマジナルな生が失われたり、照り返しが終わったりしているのであれば、その時見えているジェロームの顔は、死んだ者としてのジェロームの顔ではなくて、単に粗雑な絵としてしか認識されないだろう2

ジェロームはジェロームとして死ぬために、同一性の根拠である声が離れた状態で一応は死に顔と呼べるような顔を画面に晒しつつ、しかし我々によるイマジナルな生の照り返しは終わっていない状況で、画面にある。しかしそれは、死んでいるというのではなく、それよりむしろ、画面という場所に縛られた地縛霊として漂っている状態であると言った方が近い。

その彼を哀れな一特殊例だと言うことはできない。アニメキャラクターはジェロームと同じく、画面における姿に同一性を、意図せずとも構造として、付与し続けようとするのが常態である。省みれば強く拍を出して画面に現れることで登場し、死ぬに際して上述のようにして死んだ――あるいはその時点では死にきれなかった――ジェロームのあり方は、目に見える世界を現世だとか世俗だとか言う語用法に則って言うのであれば、画面への彼の執着からして、『家なき子』における父の、謂わば現世的な、世俗的なあり方だと言うこともできるかもしれない。

特殊なのはビタリスの方である。彼は高名なオペラ歌手であったという過去を捨てて、新たに旅芸人として生きることにしたのだということだが、彼はかつての自分の名と経歴を明かすことを頑なに忌避する。旅芸人を蔑む警官に難癖をつけられて裁判にかけられた時には、ビタリスという名が戸籍にないことを明るみに出されつつ彼がかつての名を口にできなかったために素性を怪しまれて投獄され、それが元で体を弱らせたのが遠因となって、結局吹雪の夜に死んだ。詳細は次回に述べるが、ビタリスの物語的な生死もまた、彼の画面的な生死にリンクするようである。ビタリスが死に向かうに際しては、吹雪の夜を歩く中で彼の声は次第に画面の姿から離れていく。吹雪の中眠り込んで凍えてしまわないようにレミと二人して歩き続ける、そのうちにも眠り込もうとするレミを起こすために、ビタリスは来たるべき春を思い描いてレミに話しかけ続ける。その時画面に映るのは吹雪の中を変わらぬ歩調で歩き続けるビタリスとレミの小さな姿であり、あるいはその夜の初めに視力を失った彼の盲いた目の主観ショットとしてある春の情景であって、ビタリスの声は画面のビタリスの動きと全く同期しない。その声が画面の彼の姿に帰ってくるのは、つまりビタリスがアップになって喋るのは、折々二人して倒れるたびにビタリスが先に気づいてレミを起こそうとするときだけである。疲れ切ったビタリスは、そのときレミを死なせてはならぬということしか考えられなかった、とナレーションは言う。事実ビタリスが抱き支え運んでいくレミは、画面においてレミというよりカラフルなぼろ雑巾のようになってしまっていて、ただビタリスが語る春の描写の中でだけ元気でいるのだが、ビタリスの声が画面に帰ってくるとレミに意識が戻ってくるし、画面にレミが帰ってくる3

ビタリスの声が画面から離れるのは、彼が死ぬに際してのみ起こることではない。登場の時点において画面に姿を現す前に声が響き始めていたビタリスは、その後大道芸で動物の曲芸に添えて弁士を務める時、あるいは時折歌を歌う時にも、非常にしばしば画面の姿から離れて声が響いているのであり、彼が街や村の人々と話す時にも、画面に映っているのは彼を見守るレミであってビタリスではない。例外的に彼の声が画面の彼にはっきり繋留されるのは、常にほとんどレミの相手をする時だけである。『家なき子』の主人公がレミであり、物語がレミを中心に回って画面にもっぱらレミが映るがゆえに、その例外が頻度として通例になってはいるものの、そうした時でも画面に映るのは大抵レミであり、基本的にビタリスは、その声はすれども姿は見えぬ、という事態に変わりがない。

ビタリスの最期の顔は、奇しくもジェロームと全く同じ構図の、枕でなく雪に顔を半分うずめたアップショットである。しかしその顔は首をガックリ垂れることなく止め画で、無音で映るのみであり、そのショットの直前に響き渡っていったのは彼の歌声であった。そうしたことを、つまり先んじて言えばビタリスの芸を、次回は述べたいと思う。

2019.12.10

(おさだ・しょういち/城西大学付属城西高校)