第12回 『SK∞』における読み替え
私は少年が主人公のバトルもののアニメ作品が好きだ。そうした作品の多くがボーイズラブ(BL)1的な受容をされているということはよく知っている。しかし、アニメ・マンガ作品のBL的な受容について(つまり作品のテーマとしてBLを描いているというのではなく、主に二次創作を中心にBLとして受容されるということについて)、私自身は積極的にそうした受容に参加してきたことがないので、それほど詳しいわけではない。とはいえ、バトルもの作品の物語において重要な要素であるところの「仲間との固い友情や深い信頼関係や、敵への強い憎しみ」といったものが、登場人物が男性キャラクターばかりである場合には容易にBL的関係に読み替え可能なものだということは、経験がなくとも理解できるものなので(もちろん同様に、登場人物が女性キャラクターばかりであれば「百合」的関係への読み替えも起こるのだが)、少年たちが主役となるバトルもの作品においてBL的な受容が発生するのは当然のことなのだと思っている。読み替えというのはたしかに容易に起こり得るものなのだが、必要なものというわけではないというのが私の捉え方だ。
それでも、BL的な読み替えを遠ざけてはいられないと思える作品というものも存在する。その一つが『SK∞』(エスケーエイト)である。『SK∞』は2021年1月から4月にかけて放送されたテレビアニメ作品で、スケートボードが題材の、少年が主人公のバトルものアニメである。少年バトルものとしては珍しく、原作のないアニメオリジナル作品でもある。スケートボードが題材といっても、2021年の東京オリンピックで一躍有名になった、「トリック」と呼ばれる技を競い合うスポーツとしてのスケートボードとはやや異なり、この作品で描かれるのはストリートファイト的なレースによるバトルである。レースはS(エス)と呼ばれていて、限られたメンバーのみが入場を許された廃鉱山で、夜な夜なゲリラ的に開催されている。作品の舞台である沖縄の風景からは想像しがたい赤茶けた岩場の急斜面を猛スピードで下り、ゴール地点の廃工場では手摺りなどを使ったトリックも見せながら、(基本的には)1対1でどちらが早くゴールするかを競い合うレースだ。S(エス)で行われる勝負は「ビーフ」と呼ばれ(beefには揉め事や喧嘩というスラングがあるらしい)、ビーフの間は対戦相手にどんな妨害行為をしてもよいということになっている。そのため純粋なスポーツ対決というのとは趣が異なり、例えば愛抱夢(アダム)というラスボス的キャラクターの場合には、スケートボードに乗ったまま対戦相手の体を掴んで無理やり社交ダンスの女性役の動きをさせるなど、それぞれのキャラクター設定に沿った個性的なバトルが繰り広げられる。
1クール12話という限られた話数の中で8人のメインキャラクターたちの友情劇がジェットコースターのように展開し、その友情劇と深く結び付いたバトルが繰り広げられ、スケートボードの激しいアクションも終始見事に描かれるという非常に質の高い作品で、毎週わくわくしながらストーリーも作画も大いに楽しんだのだが、その間ずっと気になっていたのは、この作品においてBL的な受容をするために読み替えが必要なのかどうかということだった。読み替えるというのは、どこかに正しい読みだとか適切な読みだとか自然な読みだとか、何か基準になる読みというものがあって、それとは異なる読みを行うということを前提にしている。しかし、『SK∞』では読み替えるまでもなく元々直接的にBLが描かれているという可能性があるのではないかと思えたのだ。そのように考えてみると、「BLとして読み替える」ことと「直接的にBLを描く」ことには一体どのような区別が存在しているのだろうかと考えずにはいられない。読み替えとは、本当は存在していないものをあるかのように見せかけるものなのだろうか。それとも、元々あったけれど見えにくかったものを読み取っただけなのだろうか。このような問い方が正しいのかどうかさえもわからなくなってしまう。冒頭でも書いたように、バトルもので描かれるところの仲間や敵に対する強い感情に基づく人間関係は容易にBLに読み替えられるものなのだが、ある人にとっては「この関係は間違いなくラブだ」と思えてしまうものが実際にそうなのかそうではないのかというのを、証明することなどできるのだろうか。これはBLに限らず、男女の登場人物の関係がラブなのかどうかという問いでも同じことだ。しかしこうした話は、「明らかに」BLを描いていると言える作品があったとして「本当に」BLが描かれていると言えるのかどうかというような話になってしまいかねないし、そうなるとフィクションから読み取る意味についての一般的な問題ということになってしまって、バトルものとBLをめぐる問題という話からは大きく離れてしまうことになるだろう。ここではバトルものの描き方とBL的な読み替えの関係という問題に留めて考えたいと思うのだが、そう考えてみると、『SK∞』というのはバトルものの様々な要素がラブに読み替え可能であるということを意識的に物語に取り入れているように思われるのだ。
そのように考えられる根拠となっている描写の例をいくつか挙げたい。一つめは、ビーフでの一対一の勝負が愛にまつわる語彙で比喩的に語られているということだ。これは主要キャラクターの一人である愛抱夢によって行われていて、愛抱夢は主人公であるランガとのビーフについて「愛」にまつわる語彙を多用して語る。愛抱夢は(もちろんこれは本名ではないのだが2、彼は本名も「愛之介」という名であり、名前からして愛から切り離せない人物として扱われている)、幼少期から「これは愛だ」と言い聞かされながら虐待を受けてきたキャラクターであり、「愛している」というのを歪んだ意味で捉えている。その愛抱夢は主人公のランガに向かって「共に墜ちよう。僕らはアダムとイブになるのだから」などと言うのだが、ランガを妻となる女性であるイブに例えるのみに留まらず、ランガとのビーフが決まった際には「僕には聞こえてきたよ、鳴り響くウェディングベルがね」とビーフを結婚式に例えてみたり、ビーフの前にランガが沈んでいる様子をマリッジ・ブルーだと言ってみたりして、ランガとのビーフを繰り返し愛のイベントであるかのように言い換えている。ようやく見つけた運命の相手との対決を相手と結ばれる愛のイベントに例えるというのは、たしかに「歪んだ愛」の現れ方として珍しいものでもないように思われる。ただし、愛抱夢のこうした比喩が悪戯のようなものだということもまた、同時に描かれている。歪んだ愛の持ち主である愛抱夢は、そんなイカれた名前を名乗っていることからも察せられるように、仮面を纏い、スケートボードのカルチャーにはまるで馴染まないマタドールの衣装でフラメンコを踊りながら滑るというキャラクターとして描かれているので、彼の言動はいつも悪ふざけのように見えていて、到底言葉通りに受け取ることはできないということもわかる。愛抱夢はいわば本心の読めないキャラクターなのだが、そうした人物がBLとしても受け取れるような言動を繰り返すというのは、BLともそうでないともどちらにも受け取れるものとして、キャラクターの言動の意味はいくらでも読み替えることができるし、それらの読み替えの間に正解はないのだということを示しているように思われる。
もう一つの例は、バトルにおける強さや作中での重要度と、BL的に読み替え可能な関係の濃さが連動しているように見えるということだ。このことはシャドウというキャラクターの描き方にとりわけ顕著に現れている。シャドウはこの作品の主要な登場人物8人の中で、最も重要ではない扱いをされているキャラクターと言えるのだが、その彼だけがはっきりと女性に恋慕している人物として描かれているのである(他のキャラクターには同性であれ異性であれ恋人や想い人の存在は描かれていない)。シャドウはまた、唯一美形には描かれていないキャラクターでもある。物語の中盤以降、S(エス)ではトーナメント戦が開催されるのだが、バトルものアニメにおけるトーナメント戦でよくあるように、シャドウは噛ませ犬のポジションに置かれている。さらっと描かれて終わってしまう初戦に登場し、真っ先に退場してしまうのだ。シャドウについては、いつも主役たちに負けてしまうにもかかわらず主人公たちと行動を共にする程度にS(エス)の界隈で一目置かれる強いスケーターでもあるわけだが、そのことは、対戦相手に爆竹を投げつけるというようなスケート技術以外の方法でビーフに勝ってきたキャラクターだとされることによって成り立っている。しかし、この作品は少年バトルものアニメの範疇で作られているために、スケート技術では勝負できずに別の方法でビーフに勝つというキャラクターは、中心的な役割を演じることができない。そのようなキャラクターが、ただ一人美形ではなく、また繰り返し異性への好意を示すキャラクターとして描かれているのである。美形であることや他のキャラクターたちとBL的に読み替えられる関係を結んでいることなどが、バトルものにおいて強いことと結び付いており、つまり重要な役割を果たすキャラクターとして扱われることに繋がっているのである。こうした法則は実のところこの作品だけではなく多くの少年バトルものアニメにも同様に働いているものではあるのだが、この作品ではとりわけはっきりと働いていると言える。そしてまた、この法則の裏返しのような描写も存在する。それは愛抱夢の執事である忠の例なのだが、忠がレキをラブホテルの一室に連れ込むというシーンがある。「人目につかない場所で口封じをするため」という名目はあるものの(議員秘書でもある忠はレキを車で撥ねてしまい、事件化させないために口止め料を渡そうとするのだ)、この突飛な展開のシーンは、終盤まで登場回数が少なかった忠というキャラクターに物語の上で重要な役割を演じさせなければならないという事情から、ラブホテルという舞台によって過度な「ラブ」要素の影をちらつかせることで(男性同士なのだからBL要素と言ってもいいだろう)、忠の地位を一気に引き上げようとしたもののように思えるのだ。
もう一つ別の例は、誰かに目を奪われるという描写である。この作品の主要人物たちには、他の主要人物の誰かがスケートボードをしている姿に目を奪われるという描写が何度も繰り返し登場する。レキと愛抱夢は、スノーボードの経験に裏打ちされたランガの滞空時間の長いジャンプに釘付けになるし、若き日のチェリーはスケートボードの抗争の中で愛抱夢に釘付けになる。そうした場面はほぼ必ず、相手の姿を見上げながら目をキラキラと輝かせる表情がアップで描かれるというものになっている。スケートボードなので相手はジャンプしていることも多く、自然と見上げる構図になるということもあるだろうが、それよりも顔を上に向けて半分驚いたような表情で瞳を輝かせるという表情こそが、いかにも恋に落ちる描写といったものに見えるということが重要なのだ。おそらくその表情だけを抜き出して見たら、恋愛感情が現れた表情と区別することはできないだろう。そのため、こうした表情は何よりもBLへの読み替えを強く誘発して、いわば根拠付けているように思われる。キラキラとした瞳で同性のキャラクターを見つめるという行為が、バトルの中で凄い技を繰り出す相手を敬意を持って見つめるという行為として、堂々と描かれているのである。スローモーションで微かに髪を揺らしながら宙を舞うランガの美しい顔が描かれたカットの後に、それを見上げるように目を輝かせるレキや愛抱夢のカットが続いた時に、彼らが実のところ「何」を見ていたのかというのは、確定させることができない。そこにはいつでも容易く読み替えが起こるのである。
これらの例からは、この作品にはBL的な読み替えが起こり得る描写が非常に多く登場するのだということがわかる。しかしそれだけに留まらず、私はこの作品のテーマが読み替えなのではないかとも思っている。そう確信した最大の理由は、一見するとBLと深い関係にあるわけではなさそうな、「ゾーンに入る」ことの描き方を見てのことである。
スケートボードが題材とはいえ、まっとうな競技を描いているわけではないこの作品では意外なことでもあったのだが、最終話のランガと愛抱夢のビーフの最中に、二人が「ゾーンに入る」様子が描かれている。仲間の中でも解説キャラであるチェリーが(この役割分担はバトルものではよくあることだ)、二人の様子を見てゾーンに入っていると言い出し、それは「トップアスリートに時折起こる現象」であり「極限まで集中している状態のことだ」と説明する。こうした説明はスポーツ言説の中で語られているゾーンについての説明と齟齬はない。しかし、スポーツ言説の中では「ゾーンに入る」ことは限られた者だけに許された優れた達成として肯定的に捉えられていると思われるが、この作品ではそうではない。ゾーンに入ることは、愛抱夢が求めていたことでもあるようなのだが(彼はランガに「君ならついてこられる」とか「二人だけの世界へ」と誘い、「ようこそ」とランガを迎え入れる)、その一方で、ゾーンに入った愛抱夢とランガは全く楽しそうではない。「楽しい」ということについては、スポーツも含めたバトルものの作品では定番の物語だが、ランガや彼の親友のレキたちにとって、スケートボードをやるのは「楽しい」からであるという話が何度も繰り返されている(彼らがそう繰り返すのは、何度も楽しくない状況に追い込まれてしまうからでもあるのだが)。とりわけランガにとって「楽しい」というのは、胸の鼓動が高鳴るという描写によって描かれているため、ランガが胸元に手を置いて目を伏せて自分の胸が高鳴っていることを確かめるという表情が何度も描かれるのである。この表情もまた、容易にBLに読み替え可能な表情でもある。ランガは圧倒的な強さを見せつける愛抱夢とビーフをしたことで胸の高鳴りを感じるのだが、そのように愛抱夢(とのビーフ)にときめいてしまったがために、レキと仲違いしてしまうことにもなるのだ。愛抱夢を嫌うレキはランガに対し、愛抱夢とはビーフをするなと求めるのだが、胸の高鳴りを抑えられないランガは愛抱夢とビーフをすることを選んでしまうのである。「楽しい」というのは、胸が高鳴るとか笑顔を見せるということと結び付いているのであって、ビーフに勝つとか、ゾーンに入る(ほどの勝負をする)ことには結び付いていないのである。
では、ゾーンに入ることはどのように楽しくないこととして描かれているのか。そもそもゾーンに入るというのが映像としてどのように描かれているかというと、はじめは愛抱夢とランガの瞳の中に虹色のきらめきが発生して、それがスイッチであるかのように、背景が真っ暗な空間に変化して、スケートボードの進行方向に沿って虹色の細い光線が走った異空間へと変容する、というものである。その様子は異空間(ゾーン)に入るように見えるので、「ゾーンに入る」という説明にも違和感はない。ただし、異空間に入るというのはいわば心象風景としてであって、本当に時空間を移動してしまったわけではない。愛抱夢とランガは、仲間たちも含む観客から見れば、少しコースを踏み外せば死んでしまうような崖を猛スピードで滑り降りているのだが(極限まで集中しているからそんな滑りができているということになっている)、その描写の合間に異空間の中のカットが差し挟まれている。異空間の中では愛抱夢もランガもほとんど体を動かしていない。レースが動だとすれば、ゾーンは静の空間である。そのため、ゾーンに入ることが楽しくないというのは、ランガにとってだけではなく画面を見る者にとっても同様である。優れたアクション作画が見せ場の作品にあって、ゾーンに入った愛抱夢とランガは(髪や服のはためきとカメラの小さな動き以外)アクションが消えてボードの上にただ立っているだけになってしまうのである。その後、背景からは虹色の光線すらも消えてしまって、ゾーンはただの真っ白な空間へと変貌してしまう。そこでランガは無気力な表情で、胸の鼓動が聞こえないのを確かめながら、「何も見えない。何も聞こえない。何も感じない」と言う。まるで、ゾーンに入ったことで感覚を遮断されてしまったかのようですらある。
そう考えると、愛抱夢が一途にランガをゾーンに導き、ついに想いを遂げて二人でゾーンに入ったにもかかわらず、それが理想的なものにはならなかった理由というのは、二人の間にBLに読み替えることのできるような言葉のやり取りもスキンシップも、見つめ合うことすらなくなってしまったからということなのではないだろうか。だからこそ、と言えるだろうが、ゾーンから脱出するシーンは先述したBLに読み替え可能な表情によって描かれる。まずはランガがゾーンから脱出するのだが、このシーンは大立ち回りで、ゾーンの外では崖から転落してしまっていたランガが、「このまま死ぬのか」と虚ろな目で落下していくところから始まる。落下の最中、親友であるレキがボードに施した「FUN」という文字がランガの目に映るのだが、そこでランガの瞳が光を取り戻し、ランガは驚いたような顔でボードを見上げて瞳をキラキラさせるという表情を見せる。レキとの回想シーンが差し挟まれ、ランガのその表情が単にボードという物体に向けられているだけでなくレキにも向けられていることが示唆されると、ランガは胸の鼓動を取り戻して、「スケートは、楽しい!」と笑顔を浮かべながらゾーンから脱出するのである。愛抱夢もまた、一人残されたゾーンの中で「僕の側には誰も……」と絶望しているのだが、その愛抱夢の腕をランガが掴んでゾーンの外側に引っ張り出し、「俺が教えるよ、スケートの楽しさを」と言う。二人は激闘の最中に共に倒れるのだが、先に起き上がったランガは愛抱夢にボードを差し出しながら、柔らかい笑顔で「滑ろう」と誘う。その姿に愛抱夢はスケートボードを教えてくれた幼少期の忠の姿を想起し、忠が「一緒に滑りませんか」と愛抱夢に微笑みかける回想シーンが重ねられる。すると、愛抱夢の目を覆っていた仮面が崩れ落ち、愛抱夢はまた例の、驚いたような顔とキラキラした瞳で、ランガを見つめるのである。これはBL的には複雑なシーンでもあって、愛抱夢はランガに対して恋に落ちるような表情を見せながら忠という別の男の姿を重ねて見ていることになるのだが、ともかく、ゾーンの中では二人の関係も冷え切っていたのが、ゾーンから抜け出すことで、再び胸が高鳴ったりキラキラとした瞳で見つめるという関係が取り戻されるのである。ゾーンに入るというのが限られた人々にしか到達し得ない境地である以上、ゾーンに入るほどに突き抜けるということは、それまでの人物たちの関係性から断絶されるということにもなり得る、だから楽しくないということにもなるのだというのが、ここでのゾーンの意味の読み替えなのだろう。楽しさが胸の鼓動と結び付いていたように、このことはもちろんBL的な読み替えとも関わっているのだ。
スポーツの描写においてゾーンに入るということが否定的に扱われた例を、私は他に見たことがない。かなり大胆な読み替えだと思えるのだが、こうした思い切った読み替えが行われるほどに、この作品では読み替えが何度も起こっているし、そのどれもが容易に、そして避けがたく起こり得ているということなのだと思う。
2022.4.15
(こまつ・ゆみ/信州豊南短期大学)