機関誌『半文』

転調鳴鐘アニメ論 Change-ringing Animology-別のものが結ばれるということ-

長田 祥一 / 小松 祐美

第10回 研究日誌(1)――静かさについて

前稿「父(前編)」の続きを書こうとしていくつものモチーフがこんがらがってしまったところで、このサイトのトップページでこの連載のタイトルがその見出しの下に置かれているところの「研究日誌」という形式を、今こそ使うべきではないかと考えた。といって「研究日誌」たる基準を私が明確に理解・設定しているわけではないが、朧気には、論考を進めようとする中で筆者に去来する逡巡、直観、生活的な感情等々の仔細を、論旨への貢献の如何を問わず書き込んでいったりするのがそれなのではなかろうか、と推測している。そんな仔細を私は、少なくともそれが私についてのものである限りは読んでもつまらないし書くのも恥ずかしいと判断して、これまであまり書いてはこなかったつもりでいる。慎み深いと言えば慎み深いその判断が間違っていたとまでは思われないが、しかしその判断と連動する態度が慎みの態度というよりも実のところ自己規制の態度であったこと、これは明白に間違いだったように思われる。つまり上記で推測したような「研究日誌」になにかしら自省的な機能、例えば無用の長考によって己の実感が見失われたり、瞬間的な早計によって論理の必要段階がトバされたりするのを、己の考察自体を対象化し付随的な仔細までを記述することによってより自覚的に、ともすれば自分にとって思いがけない方向から考え直すような機能のあることが期待されるものとして、私がしてきたのはそうした自省的な機能を活用するにあたって逡巡や直感等についての記述が自堕落に続かないように慎むということではなく、そうした機能を犠牲にしてでもそうした記述を内罰的に切り詰めるということだったように思われるのだが、思うに、それはひょっとして、肩肘張って状況を活用しない頑固者ないし間抜けのやることではあるまいか。そうした自己規制の下でなおその種の記述がなされた場合には、少なからず自責のニュアンスが漏れ出してその記述に纏わりつくものだと思うが、自堕落というならそうした自責の漏洩もまた自堕落ではなかろうか。「つまらな」さ、「恥ずかし」さの予感は予感でなく、頑固で間抜けな自堕落をどこそこ察知することによって内から来たる、むしろ後悔ではなかったか。

今号では、これまで書いてこなかったたぐいの諸々を記述に入れて書いてみる。案外これまでとたいして変わらないかもしれないが、うまくいけばこの連載の『家なき子』話が先に進むかもしれない。


物語上のビタリスの死のシーンを私がそれと判断したのは、ひとえにナレーションの声が「ビタリスは死んだ」と断言するショットがそのシーンの中にあるからである。私はそれを聞いて、画面に映っているビタリスの横顔を見ながら、素直に「ビタリスは死んだのだ」と思った。私がそう思ったということは、その断言の前に物語に先んじて彼の死が生じていて私が物語的な要請に従えた、ということであるかもしれないし、そう思った時点では別の理由で物語的な要請に従えたに過ぎず、その要請を私が瞬時に受け入れることで単に物語上というのでない彼の死が生じるのかもしれない。いずれにせよ「画面にアップで映っているビタリスの横顔を見ながら」そう思った、ということは捨象できないと考えて良いだろう。

その時の画面には雪に半分埋もれたビタリスの顔が静止して映っていて、音は上記のナレーションが彼の死を断言するまで一切鳴らない。アニメキャラクターの死の場面が無音で、画面にそのキャラクターが静止して映るといったものであることは、すぐには思い出せないが他に例がないわけではないだろう。ただしビタリスの場面における無音と静止は、前稿で述べたジェロームのようにいまわの際でなにか呟いてから首を垂れるような、キャラクターの声がキャラクターの姿に係留されたのちに訪れる無音と静止ではなく、長いあいだ間断なく音が聞こえ画面に動きが見え続けた後に訪れる無音と静止である。そのときの経緯は大まかに言って次のようなものである。

真冬の夜のパリ郊外、宿を取ろうにも金がなく、農家は目に入れど深夜に泊めてくれるとは思えず、一夜のシェルターとして頼みにした石切場は鉄扉に錠が下りていて、行くあてがなくなったビタリス達は吹雪の先に教会を見つけたと思い込む。近づけばそれは小高い丘の上の、壁が十字型に崩れ残った廃屋だったが、壁があれば風は凌げるというので彼らはその陰にうずくまる。そのうちに束の間眠ってしまい、目を覚ますと暴風はおさまって雪がはらはら降るだけになっている。とはいえこのままでは凍え死ぬのを待つばかりだと民家の灯りを求めてさまよい歩くうちに、レミは気を失い、ビタリスも気を失って倒れ伏す。犬に吠えられ起こされたビタリスが、既に目は盲いているということで片脇にレミを抱えて手探りでともかく数歩進むと、その正面から横ざまに無数の雪の粒がぶつかってくる。同時に風音が鳴り始める。それから以下読点ごとに1ショットずつ、ビタリスが「わしの息子は渡しゃせんぞ」と声を張り、脚をもつれさせてレミごと倒れ、倒れたままレミを抱えて這い進み、這い進む手が雪の中に藁をつかむ、というのが映っていくのだが、その全てのショットには吹きつける無数の雪の粒、聞こえるものとしては吹き荒れる風音が流れてやむことがない。その両者が流れるのは上記ショット群の後も続いて、ビタリスが藁山を探り当てて掻き分け、レミを寝かせ犬のカピを寄り添わせて、自身がその上に覆い被さるまでが数ショットに別れて映る間、雪と風音は荒れ狂いっぱなしである。

ありていに言って上記のシーンを見るとき私は、レミが助かるものと見えビタリスが死ぬものと予感される物語に引き込まれていくのと同時に、うるさい、と感じる。無数の雪が、ショットによってビタリス達の前景となり後景となり、あるショットでは白く細長い楕円、別のショットでは灰色の細い線、また別のショットではガラスの破片じみた白い多角形、あるいはエアブラシで吹いたような白い霞、とショット毎に大きさを変え密集度を変え速度を変えて、始終横殴りに画面を吹き飛んでいくのが目にうるさい。また風音が、微かに聞こえる穏やかなパイプオルガンの、通例BGMと呼ばれるだろう音楽をかき消すような音量で始終吹きすさんでいるのが耳にうるさい。総じて謂わば、物理的にうるさい。

しかしこのうるささは、『家なき子』を見ているときにいつでも発生しうる別種のうるささ、要するに視聴の最中に「気が散る」と言われるたぐいの、別言すればやかましさ、とは違う。そのやかましさは例えば今問題にしている回で、すぐに気を失って倒れうんともすんとも言わなくなるレミを励ましてビタリス一人があれやこれや語るその語りがなければ、つまり見聞きしたくなるものが「旅芸」になければ、すぐさま私のアタマの中に満ちてきかねないやかましさである。このやかましさを構成する要素としては、ひとまず私が画面から受け取っている視覚情報、音に聞いている聴覚情報が挙げられる。それらの情報は必ずしも私において中枢的に単一の線に繋げられていくとは限らない。物語という繋がりは大抵常にあって大抵破綻しないが、私が受け取る総情報量は物語に必要な情報量を遥かに上回っているし、ひとつの視覚対象が物語に必要な情報と、物語に整合しない情報を併せ持っていることもある。例えば勿論、画面に映るアニメキャラクターというもの自体、物語的な情報としては人間でありつつ、別種の視覚情報としてはポンチ絵である。そしてそうした情報は全て、それらが情報であるという点において、私のアタマに詰め込まれているその他の情報、連想だとか追憶だとかいったものによってもたらされる情報と同種のものである。それら全ての有象無象が、私がアニメを見ているうちに私のアタマの中で入り乱れ、勝手に繋がり、繋がっては途切れていくのがおそらく「気が散る」ということの内実であり、私にとって不随意のそうした情報の錯綜が、ここで言うやかましさである。

実写に比べてアニメは情報量が少ない、とは聞いたことがあり言ったこともあるように思うが、本当にそうだろうか、とは常々疑問に思うことだ。色数だの形状的な細部だのといった視覚要素、聴覚要素は勿論大抵実写よりも少ないだろうとはいえ、それらが我々に受け取られたときの視覚情報、聴覚情報となれば双方ないしどちらかに、例えば運動性、持続性等といった語で言われようとするような性質、あるいは未だ言語化されようとしていない性質が情報として無数に含まれていることになるだろうし、場合によっては、我々の現実と比較してそうした性質がないということでさえ情報と呼べるかもしれない。それらの情報が互いに関連し、連動し、集束するかと思えば散逸する、その極めて多岐に渡る関係と運動の様相までをも情報と呼べば呼べるだろう。そして無論「極めて多岐に渡る」などというのは上記の場合、把握不能であることの体のいい言い換えに過ぎない。つまるところ上記ひっくるめて「極めて多岐に渡る」ところの情報の全てが、人間が中枢的に処理することができる量を遥かに超えているのではないか、仮にその超過の程度が実写視聴時に比べてアニメ視聴時の方が低いとしても、処理しきれない限りは同じことではないか、と常々疑われるのである。

そうした処理不能のやかましさについて、「恥ずかし」くて書かなかったことの代表として言うが、私における限りアタマの中はやかましいのがデフォルトである。視聴における注視が途切れたときの欠落的な状態というのは、私においては本来、それによって自動的に無なり静寂なりがやってくるようなものではなく、必ずやかましさがやって来るという発生的な状態である。静寂は欠落の結果としてでなく、それ自体発生しなければ訪れない。先述の吹雪のシーンを見る際はやかましいのではなくうるさいだけであり、その中ではビタリスを見ること、彼の声を聞くことはちゃんとできる。むしろうるさい中だからこそより集中的に彼を見てその声を聞こうとする。このとき吹雪は私のアタマの中でうるさく吹き荒れることで、常のやかましい嵐を吹き飛ばしている。

とはいえうるさい。そのうるささが消えていくのが彼の死の場面へと向けて感知されていくのだが、その場面のディスクリプションは簡潔に済む。その場面を構成する初めの3ショットが、その後に数ショット続く歌唱のシーンを挟んだのちに、逆順で、ほぼ同じ画面内容で繰り返されるからだ。ショットA+B+C→歌唱のシーン→ショットC’+B’+A’の順である。詳しくは以下のとおりだ。

藁山の掻き分けられたところに横たわるレミとカピの上にビタリスが覆い被さるのを遠く見下ろす、俯瞰のショットA。うつ伏せて顔を左横に向けたビタリスの上半身と、その下から僅かにはみ出しているレミとカピの顔が彼らの左横から映るミドルのショットB。ビタリスの顔がアップで映るショットC。要するにビタリス達を上方から見下ろし、近づき、ビタリスの顔をのぞき込む連鎖の3ショットである。その間ずっと雪と風音、一言で言って吹雪はずっと吹き荒れているのだが、ショットCが、「おやすみレミ、明日はきっとすばらしい天気じゃよ」とビタリスが呟いた後で溶暗するにつれて吹雪がやんでいく。見えるものも聞こえるものもなくなっていくのだから、うるさくはなくなるだろう。だがそのうるさくない状態、見るべきものも聞くべきものもなくなることでやってくる欠落の状態がそのまま、静寂が発生する状態であるわけではない。「明日はきっとすばらしい天気じゃよ」とはこの場面においてまずは吹雪がやむことを意味するが、吹雪がやむだけで静寂がやってくるわけではないし、ともすればビタリスが彼の「旅芸」によって退けようとしてきたやかましい嵐がやって来かねない。

しかし画面の溶暗が始まって吹雪がやんでいくにつれて、イタリア歌曲が聞こえてくる。真っ黒の画面の右端から、十字型であったり*型であったりするいくつもの大きな透過光の粒が横列になって、画面上中下に三列ほど流れてくる。ショットが変わると、画面にはこの回までの『家なき子』では見たことのない、ビタリスにどこそこ似通って見えなくもない顔立ちの壮年のオペラ歌手が両手を広げて大きく口を開けているのが止め画のバストショットで、画面全体が左にスライドしつつ映る。誰だ、とは一瞬思うが、ビタリスがかつて高名なオペラ歌手であったと物語上で既に述べられており、聞こえているイタリア歌曲もビタリスが歌ったことに物語上一応なっているので、この壮年のオペラ歌手をビタリスの若い頃の姿だと一応推測する。その彼のアップ、全身、ホールに向かう彼の背中が全て止め画で順次映り、最後に観客達に取り囲まれた彼が片手を挙げて応じる引きの絵がやはり止め画で映ると、歌のボリュームがぐっと下がって、「カルロ・バルザーニ!素晴らしいテナーでした!」だの「世界一の歌手、カルロ・バルザーニに乾杯!」だのと叫ぶ歓声や拍手の大きな音が聞こえてくる。上記全てのショットに画面スライドが加わっている。最後に、観客に囲まれた彼の姿と、やや遅れて透過光の列が薄れ消えていくと、画面は再び溶暗していき、歌も聞こえなくなる。

上記の画面について私が気になるのは、全ショットに加わっているスライド、ズームアップ、ズームアウトだけである1。さらに言えばスライドとズームの違いだとかいったことも全然まったく気にならない。それらが「全ショットに加わっている」と書いたが、実際はそう言う必要も感じない。そうしたことは慣習に従って撮影用語を用いて記述すればそのようになり用語選択の正誤が云々されうるというだけのことで、私に感知されたことをより正確に言えば、スライド云々と言われもしようところの流れに全ショットが全画面的に加わっている、と言う方が近い。上の段落で用いた制作用語「止め画」も正確に言えば、その全画面的な流れの中に別の動き、ないし動きの断絶・変化が入り込まないかたちでなされている「カルロ・バルザーニ」の様態である。この画面を見るにおいては、その画面に映って「カルロ・バルザーニ」と呼ばれていたのが若き日のビタリスであるかどうかも、まずはどうでもいい。なにか思うとして、他の人が映っているのだとわけがわからなくなるからビタリスだといいなという、せいぜいそれくらいのものだ。だからといって勿論画面に映っていたあの壮年の男について考えなくてもいいというわけではなく、おそらく全く逆に、彼が誰でも「どうでもいい」ということこそを今後考えなければならない。画面に映っているのがビタリスだと思われなければならないとは限らない。

上記の音について私が気になるのは、歌が聞こえたということだけである。しかしそれは私が聞いた対象が上記のシーンで流れた歌であったということではなく、私が上記のシーンを視聴するにおいて「歌が聞こえた」という認識が生じたということであり、その認識の内実が気になるのである。言い換えれば上記のシーンにおいては、他の何を聞くときでもなされうる「聞く」という行為が、他の何を聞くときでもなにかしら聴取対象を必要とするようにその「歌」を対象にとったのではなく、仮に日本語に名詞と動詞を合わせた「歌を聞く」という複合動詞が存在するとしたら2その語でもって言われるだろうところの行為が、私とその歌との間で生じたのである。「歌を聞く」という体験は、歌が流れていて私の聴力に問題がなくても常になされるわけではない、と言ったらそれは少し間違っているだろう、なぜなら流れている音を私が歌だと認識しているのであればそのとき既に「歌を聞く」という体験は生じているだろうから。おそらく今後は、対象と分割できない体験としての「歌を聞く」ということについて考えなければならない。

上記のシーンを見たあとで私が最も気になることのひとつは、「素晴らしいテナーでした!」と歓声が聞こえるときに「素晴らしい」はずの歌のボリュームがぐっと抑えられ、歌の途中で消えてしまうことである。それが気になるのは、そうしたことが起こるのはつまりその歌が「素晴らし」くないからではないかと疑われるからであり、事実その歌はオペラや歌唱に全く詳しくない私からしても3別段審美的に飛び抜けて「素晴らし」いようには聞こえないのだが、その歌が持つ審美的な価値の高低などは『家なき子』においておそらく全く問題となっていない。確かなのは、上記シーンを含めてその歌が流れる3つのシーンがその歌の審美的な価値を提示するシーンではないことであり、その全てのシーンにおいて歌の途中で別のもっと大きな音が入るか歌が途中で終わってしまうことである。物語上、あるとき公演の途中で歌が歌えなくなったことで自分を許せず旅芸人になったという、原作『家なき子』であれば身分失墜およびある種の芸術家的高慢を突いて語られもしたビタリスの過去が、子ども向けアニメの『家なき子』になってネガティヴな面を薄めてなんだかよく分からないことになってとにかく「歌が歌えなくなった」過去があるということだけが語られるようになったということ、そうしたかたちの過去を背負うことになったビタリスと歌との関係を、今後考えなければならない。

上記の歌唱のシーンが終わるとき、再度言えば、観客に囲まれた彼の姿と、やや遅れて透過光の列が薄れ消えていくにつれて画面は溶暗し、歌が聞こえなくなる。この溶暗を見る際には、吹雪が終わるときの溶暗を見るのとは違って、うるさくなくなるだろう、とは最早思われない。それは、吹雪が荒れ狂って流れていたのとは違って歌唱のシーンでは画面とイタリア歌曲が穏やかなカンジで流れていたから物理的にうるさいというほどではなかった、言い換えれば相対的にうるさくなかった、からではなくて、歌唱のシーンを見るときにまずもってアタマの中がやかましくなくなっていったからであり、やかましくなくなっていく中で、うるさくなくなることが希求されることさえなくなっていったからである。物理的にうるさいことと情報過多的にやかましいことは連動することもあるにせよ、質的には全く異なる。比較的うるさくないシーンを視聴する時であっても、そのシーンでとってつけたようにことさら穏やかに画面が流れ穏やかな音がするということ自体がアタマの中にやかましさを招くということは非常にしばしば経験されるし、アタマの中がやかましい中では僅かばかりのうるささでさえ処理しきれずにやかましさが増加する。吹雪のシーンと歌唱のシーンの間には、うるささにおける限り程度の違いがあるに過ぎない。双方ともに画面に流れる運動があり耳に継続して流れていく音が聞こえていて、片や流れが荒れ狂い、片や流れが穏やかなカンジだったというだけである。両シーンの間にある決定的な違いは、歌唱のシーンにおいて耳に聞こえて流れていたものが歌だったということであるだろう。「歌を聞」いた後、あるいは「音楽を聞」いた後と言い換えてもこの場合構わないと思うが、そのときには必ず聴覚的に、そしてアタマの中に静寂が発生する、と経験的・直感的に思う。「音楽を聞」いている時にはすでに、確かに音が聞かれているのではあっても同時に静寂が発生しているのであり、そのうえで音楽がやんだときには、依然行使されている聴力によって静寂が聞き取られる。と、考察の現段階でそう言ってしまえば夢見話のようであるかもしれないが、しかし直感的にはそれで正しい。

上記の溶暗のあと、ショットが変わってビタリスの顔が静止して映る。アップの顔が瞬間的にぱっと映し出されるので視覚的な衝撃はかなりのものだが、それに付随する音はない。目に見えるものは静止し、耳に聞こえるものはなく、一言で言って静かである。うるささが欠落しているのではなく、静寂が発生しているように思える。ナレーションが「ビタリスは死んだ」と言い、これだけ静かなら死んでいるだろう、と、その静かさが私のものかビタリスのものかも分からないまま納得されるような気がする。「歌を聞」いた後には必ず静寂が発生するという、先ほどの直観がもしも正しいのだとして、この静寂は、それが発生したからには私は「歌を聞」いたのでありビタリスは歌を歌ったのだ、と言えるようなものなのかどうか。

上記のショットが、先述したショットC’にあたる。続けてレミやカピが雪に埋もれてビタリスだけが視認できるようになったミドルショットB’、遠く俯瞰で、やはりビタリスだけを見下ろすショットA’が続く。要するに彼の顔をのぞき込んでいたところから離れて上に上がっていく連鎖のショットである。その上昇の運動は、いつしか流れ始めていたパイプオルガンの葬送曲めいた音楽が流れる中、背景が教会内に変わり、ステンドグラスに変わっても維持される。すっかり感動しきった素直な視聴においては、いい場面だな、とか思いながら私はそれを見ているのだが、待てよ、とも思う。これを素直に受け止められることにこそ、ビタリスの死の秘密があるのではないか。「考えなければならない」いくつかのことを考えさえすれば意外と秘密は解けたりする。と言えば簡単だが、仕方ないのでそう言ってみて、簡単だということにしてみる。(つづく)

2020.6.15

(おさだ・しょういち/城西大学付属城西高校)

第11回 声が遅れて聞こえる

この連載の前回から今回までの間に、およそ半年ほどが経った。諸般の事情があるにはあったが、今となってみればいずれの事情も例外なく、つまるところ事情がどうあれ書きあぐねている、という単純な事実のうえにあくまで立ったうえで連載にストップをかけていたものと知れる。書けるときには大抵どんな事情があっても書くはずだ。

書けなさを反省しているばかりではあまりに得るものがないので、この際は、書きあぐねて半年空いたこの状況を少し活用してみたいと思う。半年前に掲載された前回の内容などが読者にどれだけ記憶されているものかわからないから、『家なき子』のビタリスの話に入るにあたって若干の導入を設けることにし、その導入として、これまで置き去りにして述べずにきた『家なき子』の周辺状況について延べ、その周辺状況と関わる話題からビタリスの考察に入ってみよう――つまり画面に具体的な証拠を見つけられない話題をそのままそういうものとして書いてみよう――と思うのである。

この連載で目下考えているのは『家なき子』というアニメだが、これは全51回のテレビアニメとして、1977年10月から丸1年間にわたって放送された。DVD1付属のブックレットには、当時流行り始めていた所謂「名作もの」のひとつとして制作されたという旨のことが書かれている2

「名作もの」の定義について同ブックレットには、「<名作もの>と呼ばれる海外の文芸作品を原作にしたTVアニメ」とある。これはこれで間違いではないだろうし、俗に呼びならわされるジャンル名などに厳密な定義を与えようとしても詮ない。ただブックレットの記載であるから身も蓋もない言い方はしないだろうし、文句の出ない広い定義だけを言おうとするのかもしれないと思われるので、私の知識で、身も蓋もない文句も言い足してもう少し狭い定義にするなら、人口に膾炙している「名作モノ」というのはおそらく、「子ども向けのアニメで、子どもが主人公になっている海外文学を原作とした、不幸な境遇にある子どもががんばるヤツ」というような意味である。

その意味での「名作モノ」であるということが、『家なき子』に重くのしかかってきているように思える。なによりもまず、レミが視聴者によって例えば「いい子」であると思われても思われなくても、その前にまずレミは「名作モノ」の主人公であるから、原作でもそうした側面はあったにせよ遥かに増幅されたかたちで、不幸な境遇にあってがんばる「いい子」でなくてはならないのではないか、そのレミを教え導くビタリスも同様に、「名作モノ」であるから原作と比べて遥かに増幅されたかたちで「人格者」でなくてはならないのではないか、ということが疑われるのである。

この疑いはしかし、『家なき子』が「名作モノ」だということを意識する前から私において視聴中に生じていたのだが、そのように疑う明確な根拠が作品内にどうにも見つからない。レミがどういうヤツか、ビタリスがどういうヤツかということを、子ども向けアニメであるから物語的には当然たちまち把握していきつつも、ずっと朧気な違和感がつきまとっているのみであり、レミは「いい子」には違いないだろうが、視聴していて紡がれ、あるいは流れていく物語においてそう感受されていく一方で、どうもレミは初めから「いい子」だということになっているようだ、ということが漠然と感知されるのである。

おそらく単純な話、ナレーションのせいだというのは大きいだろう。素直に喜んだり、悲しみに耐えたり、ビタリスから訓示を聞いた後で幼さ故に理解が及ばないながら感じ入ったり、といった、おおかた「いい子」とされるような性格類型をナレーションがレミにつけて回るものだから、見ている我々が視聴中、あるいは視聴後にじわじわと、まあ大体同じようなことを結局は感じていく場合であっても、それよりもナレーションがそれを述べてしまう方が一歩も二歩も早い、ということが併せて感知されるのである。こうした現象を指して、ナレーションが述べる「名作モノ」的レミ像が、我々の感受しようとするレミ像よりも常に先んじている、とも言えるが、主語をレミにすれば、レミは常に「名作モノ」的レミ像に対して遅れている、と言えるだろう。

前回まではビタリスについて考えてきたのだったが、上記の遅延現象についても、むしろ気になるのはビタリスについてである。DVD付属ブックレットには監督へのインタビューが載っていて、そこでは、ナレーションを名優である(らしい)宇野重吉に担当してもらえて幸運だったと述べられた後に、「宇野さんだったらビタリスの気持ちがナレーションに入ってくるよね3」と述べられているのだが、視聴時に思うのはむしろ、ナレーションの役割がどんどんビタリスにかぶさってくる、ということである。第26話に至って「レミを死なせてはならない、愛する息子を守れるのは今この広い地上にわし一人しかいないのだ」と覚悟して死ぬまでになるビタリス、その死に向けてどんどん優しくなっていくビタリスが、レミという、基本的には艱難辛苦に無言で耐える「いい子」の横にいるのだが、子ども向けアニメだからだろうか、ビタリスの優しさというのはそのレミを無言で見守るというような秘めたるものではない。例えば冬にレミの靴に穴が空いているのにビタリスが気がついて、「なぜ黙っていた。そんな靴では雪道は辛かったろうに。水がしみこんで足が冷たかったろうに。金がかかると思ってか。靴の修理に金が。それで言わなんだのか。ああレミ、なんてばかなやつじゃお前は。自分の辛いことはなんでも我慢をしようというのか。なんて優しい子だお前は」などと言ってレミを抱きしめ泣き崩れる、などという場面はいくつもある。もちろんナレーションがこのようにレミに呼びかけはしないが、ナレーションとビタリスが合致した見解を持ってそれぞれの立場からレミを語っている、とは言えそうである。

無論、べつにナレーションやビタリスが大袈裟に言うか嘘を吐くかしてレミを「いい子」に仕立てていると疑う根拠はない。彼らが真っ直ぐにレミのことを思って話している、と考えていけない理由はない。ともすれば、『家なき子』の監督だって同じように思っていたのかもしれない。上記のインタビューの続きには、「(『家なき子』を4)作り進めていくうちに、どんどん自分自身の気持ちもビタリスに近づいていったんだ。ビタリスの目で、レミを見るようになっていった。そういう風に作れたのは嬉しかったよ5」とある。レミは物語上捨て子であり、たった一人の実の父はとうに死んでいるということだが、レミを「愛する息子」だと思っている「父」はおよそ三人ほどいる、のかもしれない。ただその「愛」が結果的に、「愛」ゆえのスポイルとまでは言わずとも、「愛」ゆえの遅れをレミに強いることになっているのだ。

ビタリスに話を戻せば、例えば上記、靴の穴に関する長い感嘆の言葉を彼が一息に喋る間、彼とレミが対面するバストショットの中で動いているのはビタリスだけである。レミは目を閉じてやや俯いたまま静止していて、「金がかかると思ってか」とビタリスが言った後にだけ、それに応えて頷くようにやや俯きを深くして再び静止する。このショットを見る時、論証しようのないところであり、微妙なところであるのだが、ビタリスが一方的に喋っているな、という印象を私は拭いがたい。レミは70年代の子ども向けテレビアニメであるから、いかにも恥じ入って黙っていますという複雑な表情を持ってはおらず、お腹が空いてうなだれているのと表情に大差なくて、彼に対して所謂「表情を読み取る」ということを我々がしづらい、というのはべつに良いし、現代の高技術アニメが複雑な表情を大写しにする6のよりも、一瞬俯きを深くするという動きだけでレミが恥じ入って固まって見える、というのは素晴らしいとさえ思う。だが、そう思えるのは二度、三度と見直した時だけであって、初見の時には、ごく単純な話、レミの横にいるビタリスが始終喋り通しに喋ってずっと動いているから、どうしても視覚の反応としてビタリスに目が行ってしまい、またビタリスが底抜けに優しくなっていくのがまざまざとその段階を深めていっているシーンであるのでなおのこと、レミが視界に入らないのである。

だからこれは私が初見で見たときのように視聴者が見てしまった場合にはそうなる、という限定がつくのだが、その場合、レミは上述の遅延現象の理屈のとおりでいけばビタリスが述べる「いい子」のレミ像に対して遅れるということになりそうなところ、彼はそもそもほとんど視聴者の視界に入っていないのでその現象は起こらない7。代わりにビタリスについて、ビタリスが言うとおりの「優しい子」だと思って私がレミを見て、そのレミをビタリスが抱きしめる、ということが起こる前に、画面のビタリスがレミを抱きしめてしまう、ということが起こる。平たく言えば、視聴者によっては「お涙頂戴だね」と白けたりとか、「監督が監督自身にとってはあらかじめわかってる物語の中にすっかり入り込んじゃって演出が先走ったんだねえ」と訳知り顔をしたりとかするかもしれない場面だということだが、確かにお涙頂戴には違いないにせよ私は白けてはいないし、監督の意図を探りたくて画面を見ているわけでもないし、加えて言えば先述のとおりビタリスの発話内容を疑う理由はないと思っているので、その私がこの場面を見れば、ビタリスの声による発話の内容が要請することになるだろうやりとりに先立って、画面のビタリスがレミを抱きしめてしまうように見える。このとき、声としてのビタリスが画面のビタリスに対して遅れる、という現象が生じる。

気になるのは、前回から考えている第26話、ビタリスが死ぬ回においては、声としてのビタリスが上記とはまた別様に、画面のビタリスから離れるように思えることである。もちろん声と画面とは、これまでこの連載の中で述べたことを振り返るまでもなく別のものだが、第26話においては、声としてのビタリスと画面に映るビタリスとが、別の主体となって別れていくように思えるのである。詳細はのちの稿で検討したいと思うが、そのために今回、周辺情報に関する推測をもう少しだけ述べておきたいと思う。前出のブックレットの監督インタビューに次のようなやりとりがある。

インタビュアー:で、ビタリスは人間的に完成された人物じゃないですか。当時の出崎さんは、ビタリスを憧れの対象として描いていたんですか。

出崎:憧れとは違うかもしれない。自分の中に「大人の男は、こうあらなければならない」という基準があって、ビタリスをそういった基準として見ていた。原作とは違っていたかもしれないけれど「きっとビタリスはこうだろう」と思ってやっていた。8

インタビュアーによる「で、ビタリスは人間的に完成された人物じゃないですか」という問いかけ、というよりわかりきっていることを一応確認するみたいな文句、を読んで私は愕然とした。「人間的に完成」されるということがビタリスのどういう側面を指して何を言っているのかわからないにしろ、私の理解では、それは「人格者」とか「立派な人」とか言うのと同種の空虚な褒め言葉である。それがまるで「ビタリスは元オペラ歌手じゃないですか」と所謂物語設定を確認するかのような口調で口にされたということに、私は、やはりビタリスがそんなような者であるということは物語というよりも設定の範疇の物事なのかもしれないという疑いを深めたのである。そうした設定がビタリスに背負わされているものとして、気になるのは監督の発言である。「原作とは違」っていて、「大人の男は、こうあらなければならない」という「基準」がアニメ『家なき子』のビタリスに置かれていた、という旨の発言は、無論画面に見出しうる何ものの根拠にもならないにせよ、ある意味で妙に納得されるのである。原作の「ヴィタリス」は言うなればゴリゴリのリアリストであり、また彼が何か失敗したり「正気でな9」いような行動に出れば、原作を一人称で語り進める語り手のレミがその失敗を辛辣に評することもあるのだが、アニメ『家なき子』からはビタリスを批判するモメントがごっそり抜け落ちていて、ビタリスは死ぬに先立ってまだ訪れぬ春を語ったりもする。その語りが、前回述べた第26話で彼が死ぬ間際のシーンの少し前にあるのだが、のちの稿では、ビタリスによる春の語りを含めて第26話を順に語ることで、ビタリスの歌について述べることができ、そのことによって、ビタリスの「人格者」的類型および「大人の男」的類型と、彼への批判の欠如についても述べることができるのではないかと思うのである。

2021.2.10

(おさだ・しょういち/城西大学付属城西高校)