機関誌『半文』

文亡ヴェスペル 日常系ミステリ-人文学バトルマンガAURORAのためのプレヒストリー・スクリプト-

小説:折場 不仁

*登場する人物・機関・組織等は、実在のものとは何ら関係ありません

第19回 瓶割刀(かめわりとう)

9月に入ると早くも新学期の声が聞こえてくる。夏休みには授業がないから教師のほうも休みなのだろうと思っている学生が多いけれども、実は教師にも事務職員にも夏休みなどというものはない。一般的なお盆休みがあるだけであり、それとても制度化されたのはほんの十年ほど前なのであった。学生にとっての長期休暇の時期は、教師にとっては、授業以外の溜りに溜った仕事をやれやれとタメ息をつきながら片づけるための期間以外でないのは、小中高校も大学も同じだが、大学は9月末まで授業がないだけまだしもマシなほうである。それでも秋分を過ぎるころには新学期の授業準備だのプレ入試だのと一気にせわしなくなってくるので、暑さは一向に衰えずとも何となく空の色が薄くなってくると、教員たちはどこそこ浮足立って、繁忙が訪れる前のこの時期に各種の懸案事項をなるべく片づけてしまおうとする。特に、人事とかそういう微妙繊細な交渉を要する事案について副学長に膝詰め談判に行くなどのためには、この時期がうってつけなのであった。

十数年前から文科省の定めが変わって、学長・副学長の権限がとても強くなり、ものごとの決定にあたり教授会が果たしうる役割が相対的に小さくなったことは、一箸大学においても例外でなかった。昭和のドラマによく描かれたような、「教授」になったりさらに「学部長」になったりすることが何か権威と富への着実な一歩であるというような様相は、医学部はいざ知らず文系の学部や大学院ではもともとほとんど絵空事であったが、今や学部長とか研究科長とかいうものは、教授会の意見を副学長のところへ持っていっては却下され、その悲しい結論を学部や研究科へ持ち帰って一同をガッカリさせる役割以外の何物でもなく、同僚どうし血で血を争って押しつけあう面倒な役職のひとつにすぎなくなっていた。大学の制度や規約その他もろもろの重要方針を定めていくうえで、最終決定権はもちろん副学長自身にではなく、何人かで担当領域を分担している副学長たちの誰かをそれぞれ議長とするところの○○委員会とか○○会議とかいう名前のついた会議体にあるのだが、その会議体にその議題が出されて無事に承認され通過するかどうかは、ほぼ90パーセントくらい、議長はじめ居並ぶお偉方(及び場合によって学長)の意向次第だというのは、まあおそらく内閣の○○審議会でも企業のトップ会議でも似たようなものだろう。「教授会」なるものにおいて談論風発といえば聞こえはいいが要するに好き放題の意見を吐き、それらを「教授会からの強い意見」としてまとめて振り回していさえすれば適当に通るという長らく続いた麗しい慣習がすでに廃棄されて久しい現在、学部長やら研究科長やらには、事ごとに常務専務ならぬ副学長との個別談判・折衝をクリアしなくてはならないという、大企業営業部長並みの過大な責務が課せられるようになったのである。これには大いに実業界的な「コミュ力」を必要とするので、科長就任以来真弓が怏々として楽しまないのはひとつにはそれゆえであった。詩人とそのパトロン貴族たちの、いってみれば基本的に価値観を共有する内輪のソーシャル・ネットワークをめぐって、同じく基本的に価値観を共有する学会で議論するのとは、てんでワケが違うのである。真弓が今日、朝っぱらから広いデスクをはさんで対峙しているのは、経営戦略担当の副学長であった。

「おっしゃることはわかります」真弓はなんとか食い下がろうとしていた。「財政的にもっぱら厳しい状況にあってむやみな新規人事は極力控えなくてはならないというのは十分理解できることですし、資源が乏しいからには傾斜配分もやむなしというのも御尤もでしょう。しかし私たちは何も不要不急の贅沢な人事を求めているわけではないんです」

「ご事情は重々お察しします」デスクの向こうで銀縁眼鏡の奥からシャープな眼光をきらめかせながら御子神正(みこがみ・ただし)副学長は、慇懃だがきっぱりした口調で言った。「私どもとしてもむろん心苦しい限りなんです。根本的な状況自体はどの学部・研究科も同じですから、そうなるとどうしても、学部のないGenSHAは後回しにならざるをえない、それについては常々申し訳ないと思っているのですがねえ、そこはもうしばらく、曲げてご辛抱いただかなくては」

「え、それはもう」真弓はつい半歩ばかり後ずさる思いで呟くように言った。御子神副学長の態度は決して威圧的ではなく、声音ももの柔らかくてむしろフレンドリーですらあるのだが、それゆえに却って抗弁しにくい。後回しで申し訳ないなどとアケスケに先回りされては尚更だった。「待てというなら待つにやぶさかではありませんが、しかしもうすでに何年も何年も待たされていて、その間に人は5人も減って、こんどは科長すら亡くなったのにひとりも補ってもらえないのでは、ウチのように小さな所帯は立ちゆきません。どこの研究科も苦しいのは同じでしょうが、ウチはもともと20人しかいないんです、その中で5人も減っているんだということを、ぜひご勘案願いたいんです」

「4分の3というのは確かに辛い数字ですねえ」御子神は眉根を寄せて小首を傾けながら、声音にほんのりと共感を載せてきた。「比率ということでいえば、政治社会研は本来58のポストのうち現在49が埋まっている。8割5分というところでしょうか。商経研は9割以上埋まっていますが、近年の人事は全て独自に獲得した外部資金によるもので、ほとんどが任期つきの採用ですから置いておくとして――」御子神は商経研の科長を二期にわたって務めた人で、もともと商経研は実業界との連携が深いから外部資金獲得のルートも多岐にわたっていたところ、御子神の卓越した交渉力で2期4年間に獲得規模が倍増したといわれる。現在の一箸きっての切れ者であることは誰もが認めるところだから、外部資金に言及したのも別に今更ながらの自慢でもあるまいし、当人は他意なく淡々と各研究科の状況を説明しているだけなのかもしれないが、聞かされる真弓のほうでは、一人前に人事をやりたいならもっと頑張って外部資金の獲得につとめよ、それができないなら予算を要求する資格などないと遠回しに仄めかされているのではないかとついつい卑屈に勘繰ってしまう。「深刻なのは法学研究科で、充足率は8割ぎりぎりで政研とそれほど変わらないように見えますが、ロースクールのぶんの授業を合わせると、法のかたがたは平均ノルマ週7コマ前後、多い人は8コマ負担していることも珍しくありません。どこも本当に大変な状況です」

「運営交付金が年々1.6パーセントずつ着実に削られていくというこの状況は、これからもずっと続くんでしょうか」当たり障りのない応答をして時間を稼ぎながら真弓はやや途方にくれた。コマ数ノルマのことをさらりと持ち出されてしまったのは辛い。このぶんでは全学の誰がどういう授業を何コマ開講しているか、事細かに調べ尽くしてあるに違いない――GenSHAは明文的なノルマ規定はないが、なんとなく互いに6コマずつはやりましょうねという暗黙の申し合わせで動いている。自主的に法研並みの7~8コマをこなす者もいるが、逆に何のかのと理由をつけて政研並みの5コマに準じている者もいて、そのあたりを衝かれてもう少し頑張れるでしょうと言われたらどうにもならない。

そもそも案件が人事なのだから、本来の陳情、もとい相談相手は人事担当副学長であるべきであり、実際、真弓はすでに数日前に人事総務担当の斧善紀(おの・よしのり)副学長をも訪問していた。5名いる副学長のうち、現在の学長・伊藤久(いとう・ひさし)の懐刀と呼ばれるのは御子神だが、いかにも昔ながらの大学教授という風貌をした伊藤の磊落洒脱、良い意味でリベラルな性格をいくらか受け継いで見えるのはむしろ斧のほうで、伊藤学長がまだ副学長に上る前から補佐役として付き従ってきたいわば学長子飼いの感があった。ちょっと野生児の趣があり、盃を片手にガハハなどと豪放に哄笑しながら腹打ち割って話すのを好む、ある種の古めかしいタイプである。政研所属で、福富ともけっこう仲のよかった斧は真弓の訴えに真情をこめて頷いてくれた。「この状況がいつまで続くかわからんから」斧は言った、「GenSHAにもやっぱりそれなりに我慢はしてもらわなければならんでしょうが、そのためにもむしろここらで、少々一息ついてもらう必要があるのも確かでしょうな。ただし全学的な需要を考えて、どういう分野の人をとるのかについては、また改めてちょっと相談させてもらえると有難いですな」と、そこまではたいへん調子がよく、真弓も思わず相好を崩しかけたものだったが、続いて「あー、ただその前にちょっと御子神くんにも話を通しといてくださらんか」ときたので、崩しかけた相好が凍りつき、真弓はすっと蒼ざめた。「彼があらかじめ内々に了承しているといないとでは、会議の通り方がまるで違うのでねえ。まあ、うまく持っていけば、無下にイヤとはいわんだろうと思いますがな。なにしろほれ、あの御仁がイヤを通そうとなったら、もう梃子でも通らんからねえ」

それはつまり、この件は結局通らないという意味ではないのだろうかと真弓はここでも勘繰ったのである。御子神に反対されたら最後何一つ通らないというのは、なにも御子神が懐刀として学長の権威をカサにきているとか、理屈も道義もお構いなしに横車を押す人物だとかいうことではなく、むしろ反対に、極めて公平公正な視点から一分の隙もない論理構築ができる、しかも、いかなる案件に関してであれほぼ常にそれができる類まれな才知の持ち主だからであるということは、反御子神派の者たちさえ誰もが内心知っている。しかも人並み以上に数字に強く、いわゆるエビデンスの創出能力がずば抜けて高いのであり、合理性と効率を重んじつつ錯綜したものごとをスパリスパリと切り分けてゆき場合によっては肉を斬らせて骨を断つくらいの果断をも持ち合わせ、攻防ともに隙なく端正であるという定評がある。伊藤が定年を迎える2年後に予定されている学長選ではおそらく御子神と斧の一騎打ちとなるだろうと言われており、昭和育ちの古参職員たちはそれぞれを「テンゼン1」「ゼンキ2」と呼んで、ゼンキの天真爛漫よりはテンゼンの才知機略のほうにおそらく軍配が上がり、一子相伝の瓶割刀3は後者の手に落ちるだろう、伊藤は子飼いのゼンキが可愛いだろうが時勢からみて最終的にはテンゼンを立てざるをえまい等々の下馬評を姦しくしていた。

しかしテンゼンは真弓にはやりにくい。真弓に限らず人文系の目から見ると御子神は理系に近い思考パターンの持ち主に見え、手筋の形がまるっきり違うので、勝手がわからないのであった。斧とならば、「人文的なものごとの価値というものは何といっても数字では測れないですからねえ」「あー、そこが難しいとこですわなあ、しかし何とかやってみましょう」でめでたく済むかもしれない話でも、御子神相手だとこうなるのだ――「確かに、価値そのものは数字では測りきれないでしょうが、当座の需要を測ることはできます、例えば履修者数という形で。履修者数だけで何がわかるものかとおっしゃるでしょうが、広い大きな意味での需要をまるごと、要素ひとつも取りこぼすことなく測りきることはむろんできないわけで、仮にそんなものを測りきったところで、それに対応するだけの措置がとれるわけでもない。現在のわれわれに可能な対応は限られています、今、測りうる需要に、今できる供給措置でもって対応する、そういう小さな対応を重ねていくことによってはじめて、やがてGenSHAにも必要なだけの人員を補う余地も生まれてくるでしょうし、またそういう小さい対応を重ねてゆくことなしに、事態をクリアすることはできません。そのあたりを、どうかお汲み取りいただきたい。現在の履修者が多くないからといって、人文系科目、ひいてはそれをベースとする教養科目が大学にとって本質的に非常に大切であることは、わかっているつもりです。決してそれをないがしろにしようというのではありませんから」

「お気持ちは、ありがたく思います」息も絶え絶えになりながら真弓はかろうじて返した。「しかし――しかし、そうはいっても、例えば語学などにおいて――」どこから斬りかかれば少しはましな仕掛けになりうるのだろうか、どこから掛かったって、手首の返しひとつで跳ね返されてしまうだろうという暗い予感がじわじわと迫ってくる。「いま目立った需要がない、ように見えるからといって、それに見合う供給しかしなかったら、そのことによって、需要が生まれる可能性をも摘んでしまうことになりはしませんか。需要があると見えるところに配備する以上にむしろ、需要を創出するというかそのう、潜在している需要を掘り起こす必要がまず、あるのではないでしょうか」

「それはおっしゃる通りです」御子神は軽く弾いて身を躱した。「語学でいえば例えばアラビア語です。今はまだ需要もそれほどないように見えますが、今後必要とされてくる可能性は大でしょうし、それをいうならもっと肝要なのは中国語ですよね。英語についてはおかげさまで1年生必修カリキュラムが外注でうまくいっておりますが」それはそれで自分たちとしては痛恨事だったのだが、と真弓は思う。教養教育の根幹である語学の一端を外部企業に譲り渡すなんて――授業としては、平準化され練り上げられた良い授業が行われているのかもしれないが、痛恨事には違いない、それとも、それを痛恨事だと考えること自体がすでに時代遅れなのだろうか?「……中国語も、場合によっては同じように外注で全員必修化してもいいんじゃないか、する必要があるのではないかと考えているんですが、そのへんはどうお考えでしょうか」

下段から不意をついて擦り上げてきたのを、「第二グローバル言語として中国語が大事になってくるというのは、ご見識に違わないでしょうが」と危うく受け流しつつ真弓は思いきって飛び込み、返す刀で空いた首筋を狙おうとした。「しかし外注はどうでしょうか。今はまだ英語と違って、大規模な語学授業をシステマチックに受けてくれる良質な業者は――」

「あ、それはあるそうですよ」読まれていた。御子神はふわりと地を蹴って一間ばかり飛びすさると、余裕たっぷりに構え直す。「伊藤学長は中国語関係の人ですから恐縮ながら調べてもらいましてね、そしたら、授業の質も悪くなさそうなところがどうやら幾つか」「そうですか」それは朗報です、と言ってやろうかと一瞬迷ったが、そもそもGenSHAとしては福富亡き後を埋めてくれる中国文学者がまず第一に欲しいのである。中国語教育は外注するから専任は要りませんと言われたらそれこそ立つ瀬がない。「それにしても、まあ英語もそうですが個々の授業を外注するとしても、一箸の教養教育の一環としてのそれらの授業を統括する役割は、本来やはり専任の誰かが引き受けるべきではないでしょうか、責任をとるという意味でも」気を静めて改めて青眼に構え、じりじりと回り込む戦法に出てみた。

「そうはおっしゃるけれども」テンゼンも歩調を合せてゆっくり回り込んでくる。「いまAmerican Councilに差配してもらっている1年生必修の授業の統括を、英語の専任のかたがたが引き受けてくださるお気持ちはないんでしょう?」

「気持ちがないわけではなく、物理的な余裕がないだけなんです」

「ふうむ。物理的な、つまりは人的なゆとりがもう少しあれば、統括の役目をお引き受けいただけそうなんですか? 中国語も?」

「あるいは」

「なるほど」窓の向こうで次第に中天へとよじ登りつつある初秋の陽を背後にテンゼンはいつしか逆光になっていた。「常々思うんですが、GenSHAのかたがたをはじめとして、いま一箸にいらっしゃる人文系・教養系のかたがたはみな優秀なかた揃いでしょう、どこの大学だって欲しがる、引く手あまたでいらっしゃるだろうに、こんなねえ、ひたすらお金がなくなっていく国立大学に残ってくださっているだけでも実にありがたいと思っているんです」剣先に逆光がきらりと光って、真弓は思わず目が眩んだ。

「……は。いやそんな」

「それでね、さっきも言ったように私としては、人文系の教養授業というものは大学教育の根幹をなすべき大事なものだと考えているわけで、せっかく優秀なかたがたがおられるのだから、例えば外注語学を統括してくださるにしても、ぜひ皆さんの貴重な専門的知見を活かしていただけるといいと思うんですよね、こう、何というか、どういう役割と言えばいいんでしょう――」

「そうですね、いわば語学というベーシックなスキルを他の教養科目へとなだらかに、かつ実質的に繋げていく役割といいますか」

「そう、そう、ベーシックなスキル、まさにその通りです、語学というものは。そうですよねえ?」しまった、誘いの隙に乗ってしまったと真弓はほぞをかんだ。「ここまで人が足りない中で、そういう優秀なかたがたに、あえてベーシックなスキルの部分なんかを旧態依然として担っていただく必要は、時勢に鑑みても、どこにもないんじゃないでしょうか? 言ってみれば、チイチイパッパの部分はそれこそそれに特化した訓練を受けた外部の優れた業者さんに任せてしまって、それと一般教養、さらには本格的な人文学あるいは社会科学を繋いでいく役目を、小数精鋭の専任のみなさんに担っていただく。それが理想的な形なんじゃないかと常々思っているんですけれども、いかがでしょう、そういうのは? ね、いいとお思いになりませんか?」「はあ。そうですね……」「そしたら人が足りないからって悩む必要もなくなります」「……はあ」真弓はたじたじとして、もはやひたすら受けるのが精いっぱいである。真弓に息をつかせようとするのか、御子神は少しばかり調子を変えて、穏やかな口調で言い足した。「もっとも、仮にそういう体制を考えるとしても、そうすぐにというわけにもいかないでしょうからねえ。他に何か、目新しい需要発掘の方針が何かおありでしたら、ぜひお伺いしたいですね。例えば政治社会研究科からは、スマート・ソサエティに向けた新たな科学哲学の創出というので、やはり人事の要請がきているんですが、一箸の強みである社会科学と最新の科学技術の連携を強めて、そろそろ種々の問題が浮き彫りになってきたJIP制度への批判と提言を打ち出しながら、返す刀で一箸のこれはもう弱点と言うしかないIT方面の脆弱さを一気に解消しようということで、これは受けざるをえないかなと思ってるんですよ。履修者数をみても情報系の授業の人気はうなぎ登りですからね」しかしこれではむしろ追い打ちになってしまうと気づいたのかどうか、御子神はさらに優しく身を乗り出すようにして、「うなぎ登りといえば、留学生の問題なんかはどうでしょう、GenSHAとしては。留学生が増えるのは大歓迎だし、増やそうと努力してきたのが実りつつあるのはいいんですが、単に増えればいいというものでもない。卒業してそのまま日本に居つく学生も多いけれども、それが昔のように単に日本に溶け込むという形ではなく、何か新しい混成文化というか、日本という共同体の新しいありかたに繋がるのでなければ意味ないわけですよね」「……はあ」「そこに一箸として何かもっと貢献できないかなあと思うんですが、異文化交流とか混成文化というあたりはGenSHAお得意の分野でしょう? そのあたりで、ひょっとして何かアイディアがおありではないですか?」落とした剣を拾え、待ってやると言われたかのような惨めさを覚えながら真弓はかろうじて口をきいた。「……それでいうと、あのう」「うん」「前回、学内公募のときにGenSHAから提出した重点戦略プロジェクト案がありましたが」「うん、うん」「これからの多文化共生を考えるというのが――」「うんうん、はい、ありました、あーれはねー採択できず申し訳なかったですねー」「ああいうのでは、やはりだめなんでしょうかね」「いや、だめだなんて。大きい、重要な構想だと思うんですよ、何より思想がありますよね。理想といいますかね」「……つまり机上の空論だ、と?」「そんな、まさかそこまでは! もちろん人々の意識を変えていくというのが根本的に肝要であるに変りはないでしょうが、しかし実際問題として、現在の日本におけるこの異文化共生とか混成の問題は、だんだんともう具体的に切迫した政策レベルの問題になりつつあるでしょう、一方で優秀な留学生がどんどん根づいていこうとするのに、受け皿はわずかしかなく、他方ではヘイトスピーチとかそういう事象がいやましに深刻になっていくという状況に対して、さすがにそろそろ何らかの施策をガンガン打ち出していくべき段階に来ているだろうと思うんです。そこに何がしかの有為な提案を打ち込める、政策提言に直結するプロジェクトができれば、たちまちお金はつくと思いますよ。そしたらもちろん人もつけられます。そういうのをぜひ何かご提案くださいませんか、そしたら間違いなく、検討の俎上に載せることができますから」

考えてみますと言って真弓はすごすごと引き下がった。政策提言。需要があり、お金のつくプロジェクト。またしても、それこそがGenSHAの最も苦手とするところなのだ。御子神は決して意地が悪いわけでもなければ、ワカランチンでもない――語学系の同僚は口を揃えて、目先のことしか考えない効率一辺倒の実務家で学問の香気を理解しないとかなんとか悪口を言うが、そういう人では決してない、それどころか、我々あたりが考えている(つもりでいる)程度のことはすっかりきちんと考慮に入れた上でものを言っているらしいことが今回初めてサシで話してよくわかった気がするのだが、それだけに、全く有効な反論ができない己が歯がゆく感じられる。言いたいことは本当は幾らでもあるはずなのだが、御子神が矢次早に繰り出してくる剣先に対してそのつど「それはその通りだが、しかし必ずしもそういうものでもないと思う」という至って輪郭のおぼろげな反発を覚えるのみで、その反発を有効な斬撃に転じることができず、かすり傷だけが増えていく感覚、そしてかすり傷で済んでいるのはおそらく向こうが手加減しているからにすぎないだろうという推測が、よりいっそうこちらを惨めにするのだ。「そういうのをぜひ何かご提案ください、そしたら必ず俎上に載せます」というのは実質的には「おととい来い」という意味でしかないだろう、こちらにその種の提案能力がないことをはなから見透かされているのだ。

「手もなくひねられました、申し訳ありません」副学長室から和久研究室へ直帰した真弓はうなだれて言った。「いいんですよ」と和久、「仕方ありません。テンゼンと議論してまともに勝てる人なんて、そうそういないんですから」

「福富さんだったら、あの大人の風格でもう少しどうにかなるんじゃないんですかねえ」

「いやー風格でどうなるもんでもないですよ、向こうはそんなもの全く意に介さないですから。福富さんも何度か挑戦して、そのつど閉口して帰っておいででしたよ。中国語での議論なら、非論理的な言語だからこっちが余裕で勝てるのになんておっしゃってましたけどね」

「弁のよほど立つ人ならきっと。ぼくなんか元々口下手だから――」

「いやーそれがそういうわけでもないのは、政研の、ほら塙保さんね、政治哲学のね、彼なんか議論は本当に一級の人ですが、それでも全く敵わなかったんですから」

「えっ、塙保さんでも?」

「テンゼンがまだ商経研の科長だったときに、塙保さんが何かの会議に出てて大喧嘩になったんですって、数年前のカリキュラム改革のときだったかな。喧嘩というか、論争のね、テーマが何だったか聞き洩らしましたけど、最終的に塙保さんの意見は全く通らなかった。当時の副学長で議長だった伊藤さんが仲裁に入ったらしいんですが、その伊藤さんがうまく仲裁に入れるようにテンゼンが水を向けたんだって話です。つまり彼が塙保さんを力ワザで言い負かしたとかねじ伏せたとかいうのではなくて、その場を一時的にであれ味方につけるのが極めて上手いんですよね彼は。それで、テンゼンが副学長になるタイミングで塙保さんが政研の科長になる予定だったのを取りやめたっていうの、有名な話ですよ」

「はあー。じゃあ、御子神さんが副学長でいらっしゃる間は、GenSHAの新規人事は見込みがないってことでしょうか」

「そうでもないでしょうけどね。プロジェクトを持ってくれば検討するというのは、嘘でもないでしょうから。ただ、我々の側でその要請にこたえる力が、残念ながらない、GenSHAにというより、狭義の人文学というものにその力が欠乏しているというのは多かれ少なかれ事実でしょうし、人文学の需要を掘り起こせと言われたところで、その掘り起こし自体が抜本的に阻まれているような情勢は、テンゼンがどうというよりもそもそも国立大学の枠組みの問題なんですよ。だから福富さんが退任後にJINOへ行こうとなさってたのは、まさにその、人文学の需要を外部から掘り起こそうというおつもりだったんでしょうが――」

電話が鳴った。和久が出ると城崎からで、ゆうべ久しぶりに呑み過ごしたら今朝は寝坊してしまって今から出ても昼過ぎになってしまう、申し訳ないがミーティングはまたにしてもらえないかということであった。


(つづく)

2021.4.10

(小説:おりば・ふじん/一橋大学大学院言語社会研究科 
漫画:まくら・れん/一橋大学大学院言語社会研究科)