機関誌『半文』

文亡ヴェスペル 日常系ミステリ-人文学バトルマンガAURORAのためのプレヒストリー・スクリプト-

小説:折場 不仁 漫画:間蔵 蓮

*登場する人物・機関・組織等は、実在のものとは何ら関係ありません

第19回 瓶割刀(かめわりとう)

9月に入ると早くも新学期の声が聞こえてくる。夏休みには授業がないから教師のほうも休みなのだろうと思っている学生が多いけれども、実は教師にも事務職員にも夏休みなどというものはない。一般的なお盆休みがあるだけであり、それとても制度化されたのはほんの十年ほど前なのであった。学生にとっての長期休暇の時期は、教師にとっては、授業以外の溜りに溜った仕事をやれやれとタメ息をつきながら片づけるための期間以外でないのは、小中高校も大学も同じだが、大学は9月末まで授業がないだけまだしもマシなほうである。それでも秋分を過ぎるころには新学期の授業準備だのプレ入試だのと一気にせわしなくなってくるので、暑さは一向に衰えずとも何となく空の色が薄くなってくると、教員たちはどこそこ浮足立って、繁忙が訪れる前のこの時期に各種の懸案事項をなるべく片づけてしまおうとする。特に、人事とかそういう微妙繊細な交渉を要する事案について副学長に膝詰め談判に行くなどのためには、この時期がうってつけなのであった。

十数年前から文科省の定めが変わって、学長・副学長の権限がとても強くなり、ものごとの決定にあたり教授会が果たしうる役割が相対的に小さくなったことは、一箸大学においても例外でなかった。昭和のドラマによく描かれたような、「教授」になったりさらに「学部長」になったりすることが何か権威と富への着実な一歩であるというような様相は、医学部はいざ知らず文系の学部や大学院ではもともとほとんど絵空事であったが、今や学部長とか研究科長とかいうものは、教授会の意見を副学長のところへ持っていっては却下され、その悲しい結論を学部や研究科へ持ち帰って一同をガッカリさせる役割以外の何物でもなく、同僚どうし血で血を争って押しつけあう面倒な役職のひとつにすぎなくなっていた。大学の制度や規約その他もろもろの重要方針を定めていくうえで、最終決定権はもちろん副学長自身にではなく、何人かで担当領域を分担している副学長たちの誰かをそれぞれ議長とするところの○○委員会とか○○会議とかいう名前のついた会議体にあるのだが、その会議体にその議題が出されて無事に承認され通過するかどうかは、ほぼ90パーセントくらい、議長はじめ居並ぶお偉方(及び場合によって学長)の意向次第だというのは、まあおそらく内閣の○○審議会でも企業のトップ会議でも似たようなものだろう。「教授会」なるものにおいて談論風発といえば聞こえはいいが要するに好き放題の意見を吐き、それらを「教授会からの強い意見」としてまとめて振り回していさえすれば適当に通るという長らく続いた麗しい慣習がすでに廃棄されて久しい現在、学部長やら研究科長やらには、事ごとに常務専務ならぬ副学長との個別談判・折衝をクリアしなくてはならないという、大企業営業部長並みの過大な責務が課せられるようになったのである。これには大いに実業界的な「コミュ力」を必要とするので、科長就任以来真弓が怏々として楽しまないのはひとつにはそれゆえであった。詩人とそのパトロン貴族たちの、いってみれば基本的に価値観を共有する内輪のソーシャル・ネットワークをめぐって、同じく基本的に価値観を共有する学会で議論するのとは、てんでワケが違うのである。真弓が今日、朝っぱらから広いデスクをはさんで対峙しているのは、経営戦略担当の副学長であった。

「おっしゃることはわかります」真弓はなんとか食い下がろうとしていた。「財政的にもっぱら厳しい状況にあってむやみな新規人事は極力控えなくてはならないというのは十分理解できることですし、資源が乏しいからには傾斜配分もやむなしというのも御尤もでしょう。しかし私たちは何も不要不急の贅沢な人事を求めているわけではないんです」

「ご事情は重々お察しします」デスクの向こうで銀縁眼鏡の奥からシャープな眼光をきらめかせながら御子神正(みこがみ・ただし)副学長は、慇懃だがきっぱりした口調で言った。「私どもとしてもむろん心苦しい限りなんです。根本的な状況自体はどの学部・研究科も同じですから、そうなるとどうしても、学部のないGenSHAは後回しにならざるをえない、それについては常々申し訳ないと思っているのですがねえ、そこはもうしばらく、曲げてご辛抱いただかなくては」

「え、それはもう」真弓はつい半歩ばかり後ずさる思いで呟くように言った。御子神副学長の態度は決して威圧的ではなく、声音ももの柔らかくてむしろフレンドリーですらあるのだが、それゆえに却って抗弁しにくい。後回しで申し訳ないなどとアケスケに先回りされては尚更だった。「待てというなら待つにやぶさかではありませんが、しかしもうすでに何年も何年も待たされていて、その間に人は5人も減って、こんどは科長すら亡くなったのにひとりも補ってもらえないのでは、ウチのように小さな所帯は立ちゆきません。どこの研究科も苦しいのは同じでしょうが、ウチはもともと20人しかいないんです、その中で5人も減っているんだということを、ぜひご勘案願いたいんです」

「4分の3というのは確かに辛い数字ですねえ」御子神は眉根を寄せて小首を傾けながら、声音にほんのりと共感を載せてきた。「比率ということでいえば、政治社会研は本来58のポストのうち現在49が埋まっている。8割5分というところでしょうか。商経研は9割以上埋まっていますが、近年の人事は全て独自に獲得した外部資金によるもので、ほとんどが任期つきの採用ですから置いておくとして――」御子神は商経研の科長を二期にわたって務めた人で、もともと商経研は実業界との連携が深いから外部資金獲得のルートも多岐にわたっていたところ、御子神の卓越した交渉力で2期4年間に獲得規模が倍増したといわれる。現在の一箸きっての切れ者であることは誰もが認めるところだから、外部資金に言及したのも別に今更ながらの自慢でもあるまいし、当人は他意なく淡々と各研究科の状況を説明しているだけなのかもしれないが、聞かされる真弓のほうでは、一人前に人事をやりたいならもっと頑張って外部資金の獲得につとめよ、それができないなら予算を要求する資格などないと遠回しに仄めかされているのではないかとついつい卑屈に勘繰ってしまう。「深刻なのは法学研究科で、充足率は8割ぎりぎりで政研とそれほど変わらないように見えますが、ロースクールのぶんの授業を合わせると、法のかたがたは平均ノルマ週7コマ前後、多い人は8コマ負担していることも珍しくありません。どこも本当に大変な状況です」

「運営交付金が年々1.6パーセントずつ着実に削られていくというこの状況は、これからもずっと続くんでしょうか」当たり障りのない応答をして時間を稼ぎながら真弓はやや途方にくれた。コマ数ノルマのことをさらりと持ち出されてしまったのは辛い。このぶんでは全学の誰がどういう授業を何コマ開講しているか、事細かに調べ尽くしてあるに違いない――GenSHAは明文的なノルマ規定はないが、なんとなく互いに6コマずつはやりましょうねという暗黙の申し合わせで動いている。自主的に法研並みの7~8コマをこなす者もいるが、逆に何のかのと理由をつけて政研並みの5コマに準じている者もいて、そのあたりを衝かれてもう少し頑張れるでしょうと言われたらどうにもならない。

そもそも案件が人事なのだから、本来の陳情、もとい相談相手は人事担当副学長であるべきであり、実際、真弓はすでに数日前に人事総務担当の斧善紀(おの・よしのり)副学長をも訪問していた。5名いる副学長のうち、現在の学長・伊藤久(いとう・ひさし)の懐刀と呼ばれるのは御子神だが、いかにも昔ながらの大学教授という風貌をした伊藤の磊落洒脱、良い意味でリベラルな性格をいくらか受け継いで見えるのはむしろ斧のほうで、伊藤学長がまだ副学長に上る前から補佐役として付き従ってきたいわば学長子飼いの感があった。ちょっと野生児の趣があり、盃を片手にガハハなどと豪放に哄笑しながら腹打ち割って話すのを好む、ある種の古めかしいタイプである。政研所属で、福富ともけっこう仲のよかった斧は真弓の訴えに真情をこめて頷いてくれた。「この状況がいつまで続くかわからんから」斧は言った、「GenSHAにもやっぱりそれなりに我慢はしてもらわなければならんでしょうが、そのためにもむしろここらで、少々一息ついてもらう必要があるのも確かでしょうな。ただし全学的な需要を考えて、どういう分野の人をとるのかについては、また改めてちょっと相談させてもらえると有難いですな」と、そこまではたいへん調子がよく、真弓も思わず相好を崩しかけたものだったが、続いて「あー、ただその前にちょっと御子神くんにも話を通しといてくださらんか」ときたので、崩しかけた相好が凍りつき、真弓はすっと蒼ざめた。「彼があらかじめ内々に了承しているといないとでは、会議の通り方がまるで違うのでねえ。まあ、うまく持っていけば、無下にイヤとはいわんだろうと思いますがな。なにしろほれ、あの御仁がイヤを通そうとなったら、もう梃子でも通らんからねえ」

それはつまり、この件は結局通らないという意味ではないのだろうかと真弓はここでも勘繰ったのである。御子神に反対されたら最後何一つ通らないというのは、なにも御子神が懐刀として学長の権威をカサにきているとか、理屈も道義もお構いなしに横車を押す人物だとかいうことではなく、むしろ反対に、極めて公平公正な視点から一分の隙もない論理構築ができる、しかも、いかなる案件に関してであれほぼ常にそれができる類まれな才知の持ち主だからであるということは、反御子神派の者たちさえ誰もが内心知っている。しかも人並み以上に数字に強く、いわゆるエビデンスの創出能力がずば抜けて高いのであり、合理性と効率を重んじつつ錯綜したものごとをスパリスパリと切り分けてゆき場合によっては肉を斬らせて骨を断つくらいの果断をも持ち合わせ、攻防ともに隙なく端正であるという定評がある。伊藤が定年を迎える2年後に予定されている学長選ではおそらく御子神と斧の一騎打ちとなるだろうと言われており、昭和育ちの古参職員たちはそれぞれを「テンゼン1」「ゼンキ2」と呼んで、ゼンキの天真爛漫よりはテンゼンの才知機略のほうにおそらく軍配が上がり、一子相伝の瓶割刀3は後者の手に落ちるだろう、伊藤は子飼いのゼンキが可愛いだろうが時勢からみて最終的にはテンゼンを立てざるをえまい等々の下馬評を姦しくしていた。

しかしテンゼンは真弓にはやりにくい。真弓に限らず人文系の目から見ると御子神は理系に近い思考パターンの持ち主に見え、手筋の形がまるっきり違うので、勝手がわからないのであった。斧とならば、「人文的なものごとの価値というものは何といっても数字では測れないですからねえ」「あー、そこが難しいとこですわなあ、しかし何とかやってみましょう」でめでたく済むかもしれない話でも、御子神相手だとこうなるのだ――「確かに、価値そのものは数字では測りきれないでしょうが、当座の需要を測ることはできます、例えば履修者数という形で。履修者数だけで何がわかるものかとおっしゃるでしょうが、広い大きな意味での需要をまるごと、要素ひとつも取りこぼすことなく測りきることはむろんできないわけで、仮にそんなものを測りきったところで、それに対応するだけの措置がとれるわけでもない。現在のわれわれに可能な対応は限られています、今、測りうる需要に、今できる供給措置でもって対応する、そういう小さな対応を重ねていくことによってはじめて、やがてGenSHAにも必要なだけの人員を補う余地も生まれてくるでしょうし、またそういう小さい対応を重ねてゆくことなしに、事態をクリアすることはできません。そのあたりを、どうかお汲み取りいただきたい。現在の履修者が多くないからといって、人文系科目、ひいてはそれをベースとする教養科目が大学にとって本質的に非常に大切であることは、わかっているつもりです。決してそれをないがしろにしようというのではありませんから」

「お気持ちは、ありがたく思います」息も絶え絶えになりながら真弓はかろうじて返した。「しかし――しかし、そうはいっても、例えば語学などにおいて――」どこから斬りかかれば少しはましな仕掛けになりうるのだろうか、どこから掛かったって、手首の返しひとつで跳ね返されてしまうだろうという暗い予感がじわじわと迫ってくる。「いま目立った需要がない、ように見えるからといって、それに見合う供給しかしなかったら、そのことによって、需要が生まれる可能性をも摘んでしまうことになりはしませんか。需要があると見えるところに配備する以上にむしろ、需要を創出するというかそのう、潜在している需要を掘り起こす必要がまず、あるのではないでしょうか」

「それはおっしゃる通りです」御子神は軽く弾いて身を躱した。「語学でいえば例えばアラビア語です。今はまだ需要もそれほどないように見えますが、今後必要とされてくる可能性は大でしょうし、それをいうならもっと肝要なのは中国語ですよね。英語についてはおかげさまで1年生必修カリキュラムが外注でうまくいっておりますが」それはそれで自分たちとしては痛恨事だったのだが、と真弓は思う。教養教育の根幹である語学の一端を外部企業に譲り渡すなんて――授業としては、平準化され練り上げられた良い授業が行われているのかもしれないが、痛恨事には違いない、それとも、それを痛恨事だと考えること自体がすでに時代遅れなのだろうか?「……中国語も、場合によっては同じように外注で全員必修化してもいいんじゃないか、する必要があるのではないかと考えているんですが、そのへんはどうお考えでしょうか」

下段から不意をついて擦り上げてきたのを、「第二グローバル言語として中国語が大事になってくるというのは、ご見識に違わないでしょうが」と危うく受け流しつつ真弓は思いきって飛び込み、返す刀で空いた首筋を狙おうとした。「しかし外注はどうでしょうか。今はまだ英語と違って、大規模な語学授業をシステマチックに受けてくれる良質な業者は――」

「あ、それはあるそうですよ」読まれていた。御子神はふわりと地を蹴って一間ばかり飛びすさると、余裕たっぷりに構え直す。「伊藤学長は中国語関係の人ですから恐縮ながら調べてもらいましてね、そしたら、授業の質も悪くなさそうなところがどうやら幾つか」「そうですか」それは朗報です、と言ってやろうかと一瞬迷ったが、そもそもGenSHAとしては福富亡き後を埋めてくれる中国文学者がまず第一に欲しいのである。中国語教育は外注するから専任は要りませんと言われたらそれこそ立つ瀬がない。「それにしても、まあ英語もそうですが個々の授業を外注するとしても、一箸の教養教育の一環としてのそれらの授業を統括する役割は、本来やはり専任の誰かが引き受けるべきではないでしょうか、責任をとるという意味でも」気を静めて改めて青眼に構え、じりじりと回り込む戦法に出てみた。

「そうはおっしゃるけれども」テンゼンも歩調を合せてゆっくり回り込んでくる。「いまAmerican Councilに差配してもらっている1年生必修の授業の統括を、英語の専任のかたがたが引き受けてくださるお気持ちはないんでしょう?」

「気持ちがないわけではなく、物理的な余裕がないだけなんです」

「ふうむ。物理的な、つまりは人的なゆとりがもう少しあれば、統括の役目をお引き受けいただけそうなんですか? 中国語も?」

「あるいは」

「なるほど」窓の向こうで次第に中天へとよじ登りつつある初秋の陽を背後にテンゼンはいつしか逆光になっていた。「常々思うんですが、GenSHAのかたがたをはじめとして、いま一箸にいらっしゃる人文系・教養系のかたがたはみな優秀なかた揃いでしょう、どこの大学だって欲しがる、引く手あまたでいらっしゃるだろうに、こんなねえ、ひたすらお金がなくなっていく国立大学に残ってくださっているだけでも実にありがたいと思っているんです」剣先に逆光がきらりと光って、真弓は思わず目が眩んだ。

「……は。いやそんな」

「それでね、さっきも言ったように私としては、人文系の教養授業というものは大学教育の根幹をなすべき大事なものだと考えているわけで、せっかく優秀なかたがたがおられるのだから、例えば外注語学を統括してくださるにしても、ぜひ皆さんの貴重な専門的知見を活かしていただけるといいと思うんですよね、こう、何というか、どういう役割と言えばいいんでしょう――」

「そうですね、いわば語学というベーシックなスキルを他の教養科目へとなだらかに、かつ実質的に繋げていく役割といいますか」

「そう、そう、ベーシックなスキル、まさにその通りです、語学というものは。そうですよねえ?」しまった、誘いの隙に乗ってしまったと真弓はほぞをかんだ。「ここまで人が足りない中で、そういう優秀なかたがたに、あえてベーシックなスキルの部分なんかを旧態依然として担っていただく必要は、時勢に鑑みても、どこにもないんじゃないでしょうか? 言ってみれば、チイチイパッパの部分はそれこそそれに特化した訓練を受けた外部の優れた業者さんに任せてしまって、それと一般教養、さらには本格的な人文学あるいは社会科学を繋いでいく役目を、小数精鋭の専任のみなさんに担っていただく。それが理想的な形なんじゃないかと常々思っているんですけれども、いかがでしょう、そういうのは? ね、いいとお思いになりませんか?」「はあ。そうですね……」「そしたら人が足りないからって悩む必要もなくなります」「……はあ」真弓はたじたじとして、もはやひたすら受けるのが精いっぱいである。真弓に息をつかせようとするのか、御子神は少しばかり調子を変えて、穏やかな口調で言い足した。「もっとも、仮にそういう体制を考えるとしても、そうすぐにというわけにもいかないでしょうからねえ。他に何か、目新しい需要発掘の方針が何かおありでしたら、ぜひお伺いしたいですね。例えば政治社会研究科からは、スマート・ソサエティに向けた新たな科学哲学の創出というので、やはり人事の要請がきているんですが、一箸の強みである社会科学と最新の科学技術の連携を強めて、そろそろ種々の問題が浮き彫りになってきたJIP制度への批判と提言を打ち出しながら、返す刀で一箸のこれはもう弱点と言うしかないIT方面の脆弱さを一気に解消しようということで、これは受けざるをえないかなと思ってるんですよ。履修者数をみても情報系の授業の人気はうなぎ登りですからね」しかしこれではむしろ追い打ちになってしまうと気づいたのかどうか、御子神はさらに優しく身を乗り出すようにして、「うなぎ登りといえば、留学生の問題なんかはどうでしょう、GenSHAとしては。留学生が増えるのは大歓迎だし、増やそうと努力してきたのが実りつつあるのはいいんですが、単に増えればいいというものでもない。卒業してそのまま日本に居つく学生も多いけれども、それが昔のように単に日本に溶け込むという形ではなく、何か新しい混成文化というか、日本という共同体の新しいありかたに繋がるのでなければ意味ないわけですよね」「……はあ」「そこに一箸として何かもっと貢献できないかなあと思うんですが、異文化交流とか混成文化というあたりはGenSHAお得意の分野でしょう? そのあたりで、ひょっとして何かアイディアがおありではないですか?」落とした剣を拾え、待ってやると言われたかのような惨めさを覚えながら真弓はかろうじて口をきいた。「……それでいうと、あのう」「うん」「前回、学内公募のときにGenSHAから提出した重点戦略プロジェクト案がありましたが」「うん、うん」「これからの多文化共生を考えるというのが――」「うんうん、はい、ありました、あーれはねー採択できず申し訳なかったですねー」「ああいうのでは、やはりだめなんでしょうかね」「いや、だめだなんて。大きい、重要な構想だと思うんですよ、何より思想がありますよね。理想といいますかね」「……つまり机上の空論だ、と?」「そんな、まさかそこまでは! もちろん人々の意識を変えていくというのが根本的に肝要であるに変りはないでしょうが、しかし実際問題として、現在の日本におけるこの異文化共生とか混成の問題は、だんだんともう具体的に切迫した政策レベルの問題になりつつあるでしょう、一方で優秀な留学生がどんどん根づいていこうとするのに、受け皿はわずかしかなく、他方ではヘイトスピーチとかそういう事象がいやましに深刻になっていくという状況に対して、さすがにそろそろ何らかの施策をガンガン打ち出していくべき段階に来ているだろうと思うんです。そこに何がしかの有為な提案を打ち込める、政策提言に直結するプロジェクトができれば、たちまちお金はつくと思いますよ。そしたらもちろん人もつけられます。そういうのをぜひ何かご提案くださいませんか、そしたら間違いなく、検討の俎上に載せることができますから」

考えてみますと言って真弓はすごすごと引き下がった。政策提言。需要があり、お金のつくプロジェクト。またしても、それこそがGenSHAの最も苦手とするところなのだ。御子神は決して意地が悪いわけでもなければ、ワカランチンでもない――語学系の同僚は口を揃えて、目先のことしか考えない効率一辺倒の実務家で学問の香気を理解しないとかなんとか悪口を言うが、そういう人では決してない、それどころか、我々あたりが考えている(つもりでいる)程度のことはすっかりきちんと考慮に入れた上でものを言っているらしいことが今回初めてサシで話してよくわかった気がするのだが、それだけに、全く有効な反論ができない己が歯がゆく感じられる。言いたいことは本当は幾らでもあるはずなのだが、御子神が矢次早に繰り出してくる剣先に対してそのつど「それはその通りだが、しかし必ずしもそういうものでもないと思う」という至って輪郭のおぼろげな反発を覚えるのみで、その反発を有効な斬撃に転じることができず、かすり傷だけが増えていく感覚、そしてかすり傷で済んでいるのはおそらく向こうが手加減しているからにすぎないだろうという推測が、よりいっそうこちらを惨めにするのだ。「そういうのをぜひ何かご提案ください、そしたら必ず俎上に載せます」というのは実質的には「おととい来い」という意味でしかないだろう、こちらにその種の提案能力がないことをはなから見透かされているのだ。

「手もなくひねられました、申し訳ありません」副学長室から和久研究室へ直帰した真弓はうなだれて言った。「いいんですよ」と和久、「仕方ありません。テンゼンと議論してまともに勝てる人なんて、そうそういないんですから」

「福富さんだったら、あの大人の風格でもう少しどうにかなるんじゃないんですかねえ」

「いやー風格でどうなるもんでもないですよ、向こうはそんなもの全く意に介さないですから。福富さんも何度か挑戦して、そのつど閉口して帰っておいででしたよ。中国語での議論なら、非論理的な言語だからこっちが余裕で勝てるのになんておっしゃってましたけどね」

「弁のよほど立つ人ならきっと。ぼくなんか元々口下手だから――」

「いやーそれがそういうわけでもないのは、政研の、ほら塙保さんね、政治哲学のね、彼なんか議論は本当に一級の人ですが、それでも全く敵わなかったんですから」

「えっ、塙保さんでも?」

「テンゼンがまだ商経研の科長だったときに、塙保さんが何かの会議に出てて大喧嘩になったんですって、数年前のカリキュラム改革のときだったかな。喧嘩というか、論争のね、テーマが何だったか聞き洩らしましたけど、最終的に塙保さんの意見は全く通らなかった。当時の副学長で議長だった伊藤さんが仲裁に入ったらしいんですが、その伊藤さんがうまく仲裁に入れるようにテンゼンが水を向けたんだって話です。つまり彼が塙保さんを力ワザで言い負かしたとかねじ伏せたとかいうのではなくて、その場を一時的にであれ味方につけるのが極めて上手いんですよね彼は。それで、テンゼンが副学長になるタイミングで塙保さんが政研の科長になる予定だったのを取りやめたっていうの、有名な話ですよ」

「はあー。じゃあ、御子神さんが副学長でいらっしゃる間は、GenSHAの新規人事は見込みがないってことでしょうか」

「そうでもないでしょうけどね。プロジェクトを持ってくれば検討するというのは、嘘でもないでしょうから。ただ、我々の側でその要請にこたえる力が、残念ながらない、GenSHAにというより、狭義の人文学というものにその力が欠乏しているというのは多かれ少なかれ事実でしょうし、人文学の需要を掘り起こせと言われたところで、その掘り起こし自体が抜本的に阻まれているような情勢は、テンゼンがどうというよりもそもそも国立大学の枠組みの問題なんですよ。だから福富さんが退任後にJINOへ行こうとなさってたのは、まさにその、人文学の需要を外部から掘り起こそうというおつもりだったんでしょうが――」

電話が鳴った。和久が出ると城崎からで、ゆうべ久しぶりに呑み過ごしたら今朝は寝坊してしまって今から出ても昼過ぎになってしまう、申し訳ないがミーティングはまたにしてもらえないかということであった。


(つづく)

2021.4.10

第20回 À la Lumière

◆言語文化論学会20XX年度秋期研究発表シンポジウム
一般パネル エントリーシート

パネル概要:

総合タイトル「希望の光を見る者が誰かいるのか?」

第1発表 上野原涼(一箸大学大学院綜合人文芸術科学研究科 博士課程)
「白ガチョウのモルテンが飛んで海を渡るとき」
第2発表 加納史織(フランセ・リーブル語学学院嘱託)/向坂理久(家具職人)
「anima/animal/animation――ものに「生命を吹き込む」という言説について」
第3発表 石山坤(一箸大学大学院綜合人文芸術科学研究科 博士課程)
「希望が来るのが見えるはずの方角から聞こえる音楽に耳を傾ける」

古くはパンドラの箱の神話以来、人間は飽くことなく「希望」を語り、表象し続けてきた。希望がふんだんにあるときにはもちろん、希望がないと思えるときにはことさらに。著名な文学作品から日常目にするCMや投稿動画にまで、大小さまざまな希望の表象があふれているが、そこに表象されている(とすれば)希望は誰に向けてのもので、その表象機能は(機能しているとすれば)どのようなものなのか。「希望の光」という定型句が呈示してやまない「希望」と「光」のマッチングは、現代のメディア状況において果たしてなお有効なのか。誰かそのようなものを見る者がいるのか。

第1発表では、「ノアの方舟」伝説1における、希望を表象する鳩が「帰って来なかった」ときに初めて希望が現実のものとなるという図式をベースとして、希望表象としての鳥のありかたを考える。飛べない鳥、特に家禽に着目し、ラーゲルレーヴの小説『ニルスの不思議な旅』2のガチョウのモルテンの飛行と、映画『Bird』3におけるYardbird(ニワトリ)ことチャーリー・パーカーの死とを、それぞれノアの鳩と関連づけながら考察することで、希望表象の二段階としての「まだそこにいる鳥」と「飛び去った鳥」の関係性を明らかにする。第2発表ではこれを受けて、日本のアニメ『ニルスのふしぎな旅』のオープニング4におけるモルテンの飛翔の描かれかたを最初の手がかりとして、日本アニメーションのオープニング・エンディングにおける希望表象の定型とその発展経緯を、アニメ技術の進展と視聴環境の変遷を視野に入れつつたどる。他方、デカルト及びライプニッツとその周辺における「動物霊魂(anima)」5に関する議論を参照しつつ、無生物であるアニメーションにおけるanimateということの本質とそこに託された希望について再考する。第3発表では、ノア伝説からはるかに下った20世紀初頭の西洋哲学・思想における希望表象について、ふたりのブロッホ、すなわちErnst Bloch の『希望の原理』6およびHermann Brochの『ヴェルギリウスの死』7それぞれから特異な希望表象をとりあげて論じる。前者に記された、開いた窓の向こうから不意に音楽が聞こえてくるというエピソードと、後者における「文学の義務」すなわち「希望がやってくるであろう方角へ目を向けていること」に関する一節および「ぬめぬめした若葉」の表象とを、それぞれ「帰還する鳩」「飛び去った鳩」とに関連づけながら、20世紀初頭の西欧知識人が一定程度強いられていたとおぼしい共通の「希望態度」とでもいうべきものを見出すことを試み、併せて、現代における希望表象に何が期待されているか、されるべきなのかを考える。

審査結果:不採用
講評:

興味深く魅力的なテーマではあるが、問題設定が壮大にすぎるせいか、概要記述は具体性に欠け抽象に傾いて散漫な印象があり、三つの発表それぞれの結構も、また三つ相互の関係性もよくわからず、全体としてどこへ到達することを目的としているのか判然としない。1時間のパネル発表であるということを念頭に置いて、よりふさわしいテーマ設定を試みるべきであろう。なお、要旨中に先行研究への言及が全くないのは重大な不備であるので、今後は注意されたい。

学会発表をしなくてよくなったので、コンは内心、少なからずホッとしていた。上野原に乞われて、本棚でうっすら埃をかぶりつつあったドイツ語の本を久々に取り出してパラパラとめくりながら、なんとか発表の構想を練りはしたものの、われながらいかにも付け焼刃、デッチ上げ以外の何物でもないと人知れず頬から火が出る思いをしていたからである。加納と向坂のanima論の要諦は合宿でもう聞いてしまったし、上野原とはそれこそいつでも話せるのだ。何を好きこのんで、雁首揃えてアウェイな気分を味わいにのこのこ人前に出向く必要があろうか。ただ、学会にかこつけて旅行ということをする理由がなくなったことはいささか残念ではあった。今年は中国地方の西のほうのとある県庁所在地で開催が予定されていて、海沿いで新幹線も止まるその〇〇市からローカル線に2時間ばかり揺られて内陸のほうへよほど入ったあたりの小都市に、河辺千鶴の勤める出版社・霧菻舎があるからである。〇〇市へ赴いたついでに、あわよくば少々足をのばして千鶴を訪ねてみたいものだと密かに思っていたのだが、学会という大層なツイデと旅費補助があれば格別、何の理由も金もないのにわざわざ訪ねていくというほどのあれでも――と自分で思う以上に実はけっこう気落ちしているコンでもあった。しかし、そうだ、電話をするという手もある。7月に例のスクリプトの件で電話したばっかりといえばばっかりだけれども、学会があるので寄ろうと思っていたのが行けなくなったので挨拶だけしようかと思ってね、とまあそういう電話をちょっとするぶんにはきっとそれほど不自然でもないに違いない――

「えーそれ残念やったわあー」関西弁というわけでもないような柔らかな訛りで千鶴は言ってくれた。「コンくんどうせまた、テキトーな要旨書いたんよねえ。ちゃんと書いてくれたら会えとったんにー」

「いやテキトーというわけでは、その」誰もいない夜の開発室である。「もともと無茶振りのテーマで、私としてもそれなりに頑張ったんではあるんですが」

「希望の光。えらい大きく出たんねえ、けどうちの社長とか、好きそうよ。光のある絵が好きやち、いっつも言って。絵でも写真でも」

「そういえばそうですね、エッセイでも光のことをよく書いてたような。でもそういえばこのところあんまり更新がないように思うけど。お元気ですか社長は」

「んー、それが、なにしろ暑っつかったでしょう夏が、それでちょっと体調崩されてねー、年も年だし、ほら去年奥さまを亡くされてからずっと今いちお元気ないようになって、新しい本もあんましよう出さんと、手持ちの写真やら絵やら本やらめくってエッセイ書いて、それで気力振り絞ってたみたいなとこあってねー。それがもう」

「じゃあチヅさん大変じゃないんですか、会社も」

「んー、会社はねえ、もともと私にできること、あんましないんよね、企画やらはみんな社長が自分でやっとられたし、企画があれば私が手伝う仕事もそれなりにあれこれできてくるけど、写真家さんやら画家さんやらとのつながりはみんな社長のものやしねー。私も知り合いにはなったけど、そこでそういう人たちと面白い、いい企画つくれるほどの見識ないし」

「そんなことはないでしょう、チヅさんだって」

「んーん、絵や写真、見るのは好きでも、これが好きとか、これがいいなあ以上のことはわからんもの。詩集とか、文学のほうならまだしも、でも社長はそっち興味持っとられんからねー、そもそも、もう売れんのよ、作っても」

「そうなの? 写真集?」

「固定客だけで保っとるん、結局は。写真集がよかったんはせいぜい10年前くらいまでとやら」

「ネットのせいとかですか、やっぱり」

「ネットのいうか、ディスプレイのせい? どっちかいうと。社長がほら、光がぼうっと照るような写真とか、光がどこやらから差し込んできてるような絵とかそういうのが好きで、そういうの紙で見てるかぎりは、光を感じるねとか言うてたらそれで、ねえ、まあこんな言い方、悪いみたいなもんやけど。それがいつやったかどこやったかのネットアーカイヴで、ウジェーヌ・アジェの建物写真8を見て――ああいうの今は流行らないみたいけど社長けっこう好きでねー、それが、綺麗なーって、ディスプレイで。光るやんディスプレイて。それでもうずーっと見ててねえ、嬉しそうな、けど寂しそうな悲しそうな目しはってずーっと。もう2年前くらいかなー。それくらいからもう何やら、がっくり来てあったのと違うかなあ、エッセイはその頃ますますよう書いてなったけどもねえ」

社長はきっと、自分がずっとこよなく愛してきた写真や絵をそのときみずから裏切ったような気持ちがしたのだろう、とコンは思った。ディスプレイの上で、電気の力によって光る写真や絵よりも、実際に光っているわけではない光沢紙の上のそれらのほうがずっと綺麗だ、ずっと美しいと何の疑いもなく瞬時に実感できたならどんなによかっただろうと社長は胸を叩いて人知れず哀哭したのではなかったろうか。自分は写真や絵にそれほど興味がないけれども、そういう感じはわかる気がしないでもない。光るはずのないものが光って見えるからこそ、そこに光があると思えることに価値があるのだと頭では確信していても、その確信も、生涯貫いてきたつもりの信念もどこへやら、光って当然のものが光っているその端的な美しさに、というより光そのものの端的さに本能的に吸着されてしまうという事実に対して抗えない己れの不甲斐なさ、に愕然としたりするのではないだろうか。ほとんどそこで頽れてしまったのだろう社長を、千鶴はきっとどんなふうにか懸命に支えてきたのだ。わずかながら自分もそれに手を貸せたのであれば、幸甚だったというべきだが――

「固定のお客で、応援してくれる人、けどけっこういるんよ。社長のお友達で、何やかや名目つけて資金援助してくれたりとか、ちっちゃい卸問屋さんが上等な紙、破格で卸してくれたりとか、それでなんとかやってたんけどねえ、その問屋さんももうあかんとかで、こんど相談に行くんよ。あー、でもごめんねえ、こんな愚痴みたいな話ばっかりして。コンくんのほうはどう、論文とか進んでる?」

「あ、いえ、ぜんぜん構いません」

「なにそれー」千鶴は楽しそうにくすくす笑った。考えてみたら別に何か自分のことを千鶴に話して聞いてもらいたいわけではなかった、とコンは改めて思うのである。千鶴がその妙に物柔らかな声音で何か話してくれるのを聞きたいだけなのだった。やっぱりもっとがんばって一級の要旨を書いて、無理にも学会に採用されればよかった。

「あそうだー、会社の人たちと話してるんけど、社長のエッセイ、できれば本にしてあげたいと思ってね。サイトはサイトで、本は本で、そしたら社長また元気出るんやないかなって。それで今、出版社を当たってるんよ、あちこち」

「え、出版社って、自分のとこで出さないんですか、霧菻舎で」

「自前で出す力がもうないんね、つまりねえ。それに自前でないほうが、広く売ってもらえるやろうって。それでひょっとしたらその話で来年くらいに東京行くかも。年明けごろに」

「あ、ほんとに」

「そしたら会えるよねー。ね、そしたらなんかおいしいもの食べにいこ。このへん何もなくて、飢えてるんよ私。コンくんまた痩せてしもてやないしょうねー」

「え、あの」

「大丈夫まかしといて。本当このへん何もなくて、お金使うところも何もないんよ。使いたくてしょうがないんよね、もう。メンテナンスの御礼、たまにはしたいし」

「あ。はあ……」

これではまるで形無しであると思いつつも、ほのかに嬉しいのだった。やはり学会なんぞに採用されなくてよかった。携帯を切ったあとコンはしばらくぼうっとして暗い窓の外のほうを見るともなく見ていた。室内の明かりの反射以外の何が見えるわけでもないが、いつのまにか雨が降り出して、ガラスに水滴が流れはじめているのがわかる。10月に入って、そろそろ少しずつ夜はひんやりしてくる季節だ。


(つづく)

2021.6.10

第21回 駅馬車

梓雨が台湾へ帰ってしまって、マッピング・チームはまた少し寂しくなった。沢渡がそろそろ本腰を入れて修論を書かねばならず、人吉は十協大への学士入学試験を控え、小笹は小笹で例の「沈黙の賑わい」古書展の準備と子育てでさすがにキャパオーバーだということで、合宿直後の9月に梓雨の歓送会を兼ねて閉店間近な「セフィロス」でお名残の会合を催き、手持ちのデータを整理してコンに渡す資料をととのえたところで、2月末までしばし休会ということになったのだった。

しかるに10月のこの日、一同がパブ「駅馬車」に急遽あつまったのは、亡くなった鶴巻研二の子息・浩太氏から高藤に連絡があったからである。研二のアトリエでアシスタントを務めていた青年から、マッピング・チームに遺品を渡しがてら一度お目にかかりたいとのことであると、そういう伝言を浩太から貰って、高藤が取り急ぎ席を設けたこの「駅馬車」は、市境にあって隠れ家的なたたずまいのジャズパブで、実は高藤の実質的なパートナーが経営している。今後どうするかはともかく、ひとまずこの日は店主の好意で休業日の夕方を開放してもらったのだが、急だったので小笹と原口は都合がつかず、高藤のほか沢渡・人吉と須崎の総勢4名が、黄昏どきに現地集合した。1階はよく陽の当たるガラス張りの瀟洒なカフェだが、小さい丸テーブルが数席ぶんしかないので、地下のバーへの階段を下りる。ひと昔前のジャズ喫茶を思わせるレンガ張りの壁に古い映画のスチールなどが額に入って飾ってあるのを見やりながら下りていくと、ちょっと「セフィロス」のチリリンドアに似た、擦りガラスの嵌った木製ドアがあって、開けるとこちらも広くはなくて、カウンターの前にお決まりの2人掛けの小テーブルがいくつか、柔らかい照明がしっとり心地よいバーである。かろうじて6人掛けのテーブルが手前の引っ込んだところにあり、4名はそこに陣取った。ふと奥を見やると小型のスクリーン、聞けば時折り気が向くと常連相手に映画の上映会をやったりもするのだそうであった。今はスクリーンは暗いままで、とりあえずのもてなしという感じで穏やかなピアノ・トリオの音楽だけがかかっていた。

「こらごっつええお店だすな」足を踏み入れるやいなや須崎が言った。「こんなとこあるん、ぜんぜん知らんとおりましたわ。昔からしてはるんと違いますやろ。最近だすか」

「5、6年になりますかね」姿勢のいい執事ふうの優雅な物腰とウェービーな肩までの長髪がややミスマッチな四十絡みの正岡三春(まさおか・みはる)は普段着ながらいかにもバーテン然とグラスを磨きながら、「昔から住んではいたんですが、店としては新参で。やっと少しずつお客様もついて下さって、なんとか落ち着いてきたかなというところです」

「ほうだすか。これだけのお店しつらえるん、そやけどえらい苦労しなはっただっしゃろ」相変わらず直截な須崎は感に堪えたように、「お若いのに、えろうご立派なこっちゃ。映画はどないなもん掛けはりますのん、駅馬車いう名前からしたら、やっぱり古いほうだすか」

「そうですねえ、けどその時々のお客さま次第で色々です。さすがにフィルムを集めているわけではないので、手持ちのDVDとか昔録画したものやなんかでね」

「音楽ビデオみたいなもんもありますかいな」多面鏡のようなこの老翁が今度はまた何を言い出すのだろうと傍らで沢渡と人吉ははらはらしていた。「むかし若いころに、レコードだけやなくビデオもかけてくれるとこ近場にありよって、好きでよう通うてたもんだすね」

「なくはないですが、どういうのがお好みで?」

「リクエストさしてもらえるんやったら、そうだすな、セロニアス・モンクどないだっしゃろ。なんや、えらい酔いどれて弾いたあるのがおますやろ」

「また渋いところにきましたね。モンクですか。そうだなあ、酔いどれぶりが一番おもしろいのはどれだろう……いま探しますね。ここで掛けたことあったかなあ」

その間に高藤がメニューを持ってきた。「本日はチャージ無料、ワンドリンク無料です」「ほんとですか」「追加とフードはお代をいただいてもよければありがたいです」高藤は笑って、「休業日なので大したものはできないですけど、乾き物と、あとチーズオムレツとか、簡単ピザくらいなら」

小笹がいれば、とりあえずビール!と叫ぶのかもしれないが、こういうところへ来るとやっぱりもう少しそれらしいものを飲みたくなる。あれこれ迷っているうちにプロジェクターのスイッチが入って、スクリーンが明るくなり、ぽつぽつとしたソロピアノの擦れたような音が流れはじめた。「これですかね」「あーこれ、これだすがな。えらいもんだすなあ、ちゃーんと持ってはるんやねえ」「試験には合格いたしましたか」「試験やなんて、そない人聞き悪いこと言わはらんといてえな」「いえいえ、音楽カフェのお客様で常連になられるかたは、たいてい一度はその手の試験をなさるものですんで」「こらまた一本参った! そやったらわたしもこれもって、常連の資格を貰うたちうことになりますやろか」「滅相もない」「これこれ、このモンクのな、ごっつい指輪しとるのがな、ゆるうて、ピアノ弾きながらクルーリクルリ始終回って、重たい塊のほうが下になって邪魔になるのんを、弾きながら直しますやろ、直しては落ち、落ちては直しもって弾きよるのん、面白うてかなん」「かなんですか、ははは、ええ同感です、もういいから指輪外せよっていう」「せや、そんでもって外さへんねや」「ずっと見てると首筋がもぞもぞしてくるところがいいですよね」「マスターあんさんほんまに話のわかるかただすな」「光栄です」

二人が思いがけずのっけから意気投合して対等な掛け合いに邁進しているのを沢渡たちが唖然として眺めていると、ふと耳元で、

「どうも、弘明寺(ぐみょうじ)です。遅くなりまして」

と円やかな声がしたので、びっくりして振り向くと、いつの間に入ってきたのか、何やらツルッとした感じの青年が音もなくテーブルの傍らに立っていた。ツルッとしたというかクリンとしたというか、弘明寺という名のせいかどことなく地蔵めいて見える雰囲気の、太っているわけでないが頬がふっくらとした、福相とでもいうべきものをたたえた若者である。ざっくりと皺のよった無地シャツを着て小脇に折鞄をかかえ、右手で名刺を差し出しながら礼儀正しくわずかに上体を前屈みにしている姿勢はちょうど、片手に薬瓶を持ち片手の掌を衆生へ向けて差し出している薬師観音か何かのようだ。写真家にして建築デザイナー、俳人にして印刷職人と多々彩々な活躍をしていた鶴巻の有能なアシスタントというから、何となく安倍行親のような風貌の青年を想像していた沢渡は、これが誰なのか一瞬わからず、「あ、えっとど、どうも」と吃りながらかろうじて、今日の会のそもそもの目的を思い出したことである。

正岡がさりげなく立ち上がってカウンターの方へゆき、空いた椅子を高藤がすすめる。挨拶がひとわたり済み、最初の飲み物が運ばれてきたあたりで、弘明寺至(いたる)はおもむろに鞄を開けて一束の写真とUSBメモリを取り出し、「ようやくアトリエの整理が済みましたので」とまことに円満な声音で言った、「まずはみなさんにこれをお届けしようと思いまして。こちらは」とUSBメモリを指し、「マッピング関連の写真をとりこんでデータにしたものです。そちらには紙でしかお渡ししてないと聞いてたもので。それからこちらは」と写真の束のほうを押し出して、「たぶんまだみなさんのお手元に届いていないと思うんですが、たぶん、「くにまち文教スポット」の写真じゃないかなと思うのが少々」

少々といっても50枚ほどもあって、匡坊市の南辺から西辺にかけて、まだ一同の「取材」が行き届いていなかった地域を探索して発見したらしい小さいギャラリーや「教室」つきの雑貨屋など、さすがに写真家だけあって、ただ記録資料として撮りましたという域をはるかに越え出て、アングルや光の加減を精緻に計算して撮ろうとしていたらしいのは、微妙に角度や距離を変えて同じ対象を撮ったものが何枚もあるところからも伺えたし、実際、うち何枚かは目を瞠るように美しいものだった。弘明寺はあえて自分では良し悪しを選別せず、関連のものは全部持ってきてくれたらしかった。中には、すでに沢渡か人吉が撮影済みの「スポット」の写真もあったが、それらはどうやら、スポット自体のたたずまいに純然と撮影意欲をそそられて、お天気の加減の良い日を選んで自分で撮り直してみたということのようだった。福祉作業所や託児所の写真があったし、公民館を裏の自転車置き場のほうから撮った写真もあって、人がそこで何かを営んでいる場所、としてのそれらの場所のありようが生き生きと映し出されているように見えた。大学図書館前の噴水池のベンチで本を読んでいる学生の姿や、GenSHA研究棟の前の木立で犬と子供を散歩させている女性たちの姿がある。マッピング用の写真は原則として人は写さないことにしていたが、鶴巻はあえて人を撮ることも恐れなかったようで、してみるとやはり資料に供するためというよりは純粋に自分が撮りたくて撮ったスナップだったのだろう。一同しばし、しんとしてそれらの写真を眺めた。

「あ、これ」と高藤が一枚の写真を目にして、「ここじゃないでしょうか。駅馬車」「あ、ほんとだ」「海棠が花盛りですね。きれい」「4月ですね、撮ったのは。今日の待ち合わせ場所が「駅馬車」だときいて、あっと思ったんです」確かに、見ればさきほど公民館のほうから歩いて来て見えたのとほぼ同じ角度で、庭の植え込みの間からガラス張りのカフェが見える。午後の陽なのか陰影が美しく、まるで英国のコテージのようで、ガラスの向こうで快活に立ち働いて見える影は正岡らしい。「どれどれ」当の正岡もやってきてのぞきこんだ。「おおっ、これは。何とこれは! いやはや言葉もありませんね」「わりといい写真だと思いましたもので、少し大きく焼いたのも持ってきました」弘明寺は言って、鞄から簡素な額を取り出した。「よかったら受け取ってくださいませんか。鶴巻さんもきっと喜びます」

おおこれは、おおこれはと繰り返しながら正岡があたふたと、さっそく釘と金づちを取り出してきて、さてこの額をどこに掛けるべきかと思案しているのを見ながら、沢渡も人吉もぐっと込み上げてくるものがあったが、「ほんまに、ええお人だしたなあ」須崎は涙ぐんで、「ほんまに、ええお友達やおもて行き来しよりましてん、こんな年寄りによーう付きおうてくれはりましたんだっせ。弘明寺はんもさぞお寂しいことだっしゃろ。アトリエはあんさんが継がはりますのんか」

「いやあ、さすがにそれは。インテリア工房としては閉めざるをえませんし、俳句やら地域史や雑誌やらのほうは、それぞれのお仲間が引き継いでいかれるはずです。その種の手配はもう済んだので、あとは写真が膨大にあるのと、カメラや暗室の機材やなんか。ぼくも少し貰うんですけど、ほとんどは形見として浩太さんが引き取ることになっているので、その後きれいに掃除をすれば、それでぼくの仕事は終わりです」

「そうなんですか。それも少し寂しいような気がしますね、せっかくお目にかかれたのに」と高藤、「弘明寺さんご自身は匡坊にお住まいではないんですよね」

「ええ、隣の国府(こくぶ)にいます。もともと鶴巻さんがそっちにいたころの知り合いなんですよ。でも、そうですね、これでもう匡坊のほうへ来ることもなくなるのかなと思うと、寂しいのは確かですね。さっきお渡しした名刺は肩書が工房アシスタントになってますけど、実は最後の残りの5枚だったんです」

「そうでしたか。じゃ本職は別におありになるんですね」

「本職というほどのものではなくて、まだ見習いなんですが。鶴巻さんのもとでも、いろんなことの見習いをさせてもらってましたが、まあ、万年見習いですね」

「今度は何の見習いなんですか」

「ええ、実は探偵社に勤め始めまして」

「たんてい!」須崎が頓狂な声を上げた。「こらまた、びっくりだすな! 探偵はんだすか!」

「いやいや本当にまだ見習い小僧なんですよ、それに探偵といったって、ご承知のように、シャーロック・ホームズみたいな恰好いいもんじゃありません、たいていは素行調査とか浮気調査とかね、会社の経営状態を調査するとか、地味なもんです」

「はあー、せやけどなんでまたそっちの方向へ行かはったんだす」

「なんでということもありませんが、もう三十になろうというのにいつまでもブラブラしてても仕方ないですし、何というんでしょう、観察するのが好きなんですね、たぶん。人でも、ものでも、ものの仕組みでも。人を観察するのが好きだなんていうと覗き魔みたいに思われそうですけど、そういうのでもなくて、こう――例えば鶴巻さんとかは、職人さんですから、いいものを作るということ自体が楽しくてお仕事なさってるのがよくわかって、それでぼくも楽しいんだけれども、ぼく自身は、いいものができるのを手伝うのが楽しいというよりは、何をどうすればいいものが、というか、鶴巻さんがいいと思うものができるのかという、その仕組みというんですかね、印刷でも写真でもね、ここをこうすれば、こうなって、それを鶴巻さんが、こうこうだからいい、と判断する、という、そのプロセスを観察して知っていくのが楽しいんだな、ということにあるとき気づいたんですよ。現像や活版の技術の仕組みを知るということも含めてですね」

「ははあー、そない聞いたら、なるほどなあ思わんこともないけえどもな」

「素行調査なんかでもね、それ自体は人に蔑まれるようなところのある仕事ではあると思うんですけども、そういう仕事でもなければ決して知ろうと思わない、知りたくもない人の行動パターンを観察する機会が与えられるわけで、仕事が終わればターゲットのことなんかほぼ即座に忘れてしまうにしても、観察して、ああこの人のこの振舞いの背景にはこういうことがあるんだとか、そういうことを知っていくプロセスには、ぼくがそれなりに夢中になれる何物かがあるなと、まあそんなふうに思ったんですかね」

「鶴巻さんはご存じだったんですか、そのこと」

「それが、ちょっと言い出しにくくて。活版と写真と俳句と建築デザインとどれが一番好きだなんてよく訊かれたもので、一番好きなのを本格的に仕込んでやろうと思ってくれてたらしいので、でもさすがにそろそろ言わなきゃと思ってた矢先にね……」

「そうだっしゃろな。そやなかったら鶴巻はん、そんなおもろいこと、わたしにも聞かしとくれなんだちうことないやろ思いますわ、弘明寺はんのお名前はこたび始めてうかごうたけえども、よう手伝うてくれはる若い人のことは始終言うてはったさかいなあ」

「そうそう、それでですね、すみません余計なおしゃべりをお聞かせしてしまいましたが、今日お伝えしようと思ってたことが実はもうひとつありまして」少々居住まいを正して弘明寺は言った。「亡くなった後でたいへんに慌ただしくデザインやら地域史やらのほうを片付けていて、写真の整理がつい後回しになったんですがね。もともと何でもきちんと整理してらしたんで、最近の未整理のところだけ、まだファイル化してない写真は分類してファイルして、まだ焼いてないフィルムは僭越ながら焼いてあげようと思ってね。で今お渡しした写真は、もともと焼いてあった中からピックアップして焼き増しを持ってきたんですが、さて焼き残したフィルムを焼こう、と思ってふと気づいたら、ないんです。ひとつもね」

「ないって、フィルムがですか」

「ええ。今言ったように鶴巻さんは整理好きなかたで、撮りきったフィルムを入れておく箱というのがありまして、いくつか溜まったら暇な日にまとめて焼くことにしてました。で、ですね。たまたま亡くなった日の前の前の日が、ぼくが手伝いに入る日で、帰る前に見たらその箱に確か3つ4つあったんです、撮り終わったフィルムがね。それを覚えてたので、じゃあその翌日に全部焼いちゃったんだろうかと思ってそれらしい写真を探したんですけど、それらしいのは一枚も見当たらない。どういうことなんだろう、焼いてないフィルムがあったと思ったのはぼくの勘違いだったのか――まあそれはありそうにないことだけれど、何かの理由で捨てたか人にやったのかもしれないし、ともあれひとまず放念して古い写真の荷造りを先に済ませようとしたんです。十数年ぶんくらいのネガとポジがきちんと年代順にファイリングされてるのを、日付を確認しながら箱に詰めていくんですが、そしたら途中、何週間かぶんが抜けてることに気づいたんです。そのくらいどうってことないと思うかもしれませんがね、十数年ぶんがずーっと保存されているなかで、抜けてるのはそこだけなんですよ、で鶴巻さんは以前、一枚も撮らなかった日はほとんどないって断言してたんです。三日以上続けて撮らなかったときは一度もないってね」

「それ私も聞いたことがあります、そういえば。よく自慢みたいに言ってらしたですね」

「でしょう。その抜けてるのは10年くらい前の夏で、匡坊にアトリエを作ってからわりとすぐの時期です。前後の写真を見てみましたら、アトリエの近辺から川べりあたりにかけての、わりと人けのないあたりの何てこともない風景をよく撮ってる。新しい土地で手当たり次第に被写体を探す練習みたいなものですね。で、よく見ると確かに前後に断絶がある。少なくとももう一本ネガがなかったはずはない。それで思い出したんですが、亡くなる2、3週間くらい前ですか、ちょうどそのあたりのファイルを引き出して何やら調べてらしたことがあったんです。過去の写真を引っ張り出すなんて鶴巻さんにしては珍しいなと思って覚えてたんですがね、なくなったのはひょっとしたらそのとき見てたファイルかもしれない。でまた思ったのは、考えてみたら直近のフィルム――まだ焼かないまま置いてあったはずのフィルムは、ちょうどそのころ、つまり亡くなる2、3週間前からのものなんですね。そのころ以来、何だか、調べることができたとかで忙しくしてらしたことを思っても、何を調べてたのかわからないけれどもその過程で撮った写真がないわけはない。フィルムがなくなってることと、十年前のネガがなくなってることは、関係あるかもしれない、そう思ってですね、まあー、まさかとは思いましたが、ほら、そういう商売を始めたところですもんで、ただの気まぐれといえば気まぐれなんですけども玄関の鍵をね、ちょっと調べてみたんですね。そしたら、ごく目立たないかすかなものではあるけども、明らかなピッキングの跡がね」

「……」

「いつのことだったのかは、わかりません。そんなわけで気づいたのがもう9月で、4か月も経っちゃってますしね、調べようもない。亡くなる直前だったのかもしれないし、亡くなった後だったかも。それにしても、妙な泥棒ですよね」

「……警察に届けたりはなさらないんですか」

「いやあ、届けてどうなるものでもね。他に盗まれたものは何もないんです、たぶんですが。それにもしその泥棒が、何かの理由があって特にそれらのネガやフィルムを盗んだんだとしたら、とっくに廃棄されているだろうという気がしますしね。届けても、何かわかるとも思えませんね」

「あの、弘明寺さんはそれで――その盗難、というか――と、鶴巻さんの事故と、何か関係があると考えてらっしゃるんですか」

「関係は、ないと思いたいです。あったとしても、今更知りたくないというか、知りたくなってしまいたくないと言いますかね。だから今日このことをみなさんにお伝えしたのは、お伝えしてそれで一緒に協力してどうこうということではなくて、何というか、鶴巻さんが最後にいちばん一生懸命に関わろうとしていらしたのがこの「マッピング」企画だったと思うので――なくなったフィルムには、今さしあげたのと似たような写真がたくさんあったかもしれないし、他のものもあったかもしれない。だいたい、メモというものはいっさい残さない人でしたからねえ、メモ代わりに写真を撮っていた、図書館の本のページさえも写真でね。よく図書館で怒られてましたけど、だから何を調べてたのかは、そのころのフィルムがなくなっているからぜんぜんわからない、マッピングとは何の関係もないかもしれませんけれども、どなたかにこのことをお伝えしておくとしたら、みなさんだろうと思いましてね。言ってみればぼくは、ずるく立ち回ってこの件を忘れようとしているんです、みなさんにハテナの謎を押しつけておいて、身軽になって立ち去ろうというわけなんですよ……」

「……」

「いや、すみません、どうもこんな話でね。鶴巻さんにはぼく学生のときから本当にお世話になったんで、ぼくにできることがあれば、してあげたいと思ってます。でもそういうわけで、この件について今後積極的に追求しようという気持ちは当座ないし、手立てもないもんで、むしろ残された写真をね、やがてまた浩太さんと相談してどうにかまとまった形にしてあげられたらなという気持ちだけ持って、新しい生活に向かうつもりです。でももしみなさんの方で、何かご入用になることがありましたらね、ぼく肩書は変わっちゃいますけど、電話番号はお渡しした名刺にあるままですから」

「……そういうわけやさかい、写真はもうどこにも残っとらしまへん、それは確かや思います。そやさかいあんさんはもう心配せんでよろし。せやけど写真ちうのはほんまに恐ろしおまんな、顔のつくりがどないに一見違うとっても、撮る角度やら加減によっては見紛いようもない面影がうつってまういうんは、不思議なこっちゃ。今頃になってこないな仕儀になるたら……いいや礼には及びまへん、礼やら言わはるようなことやおまへんのやで、よろしか、坊(ぼん)、これも元はといえばみいんな、あんさんの若いときの軽はずみから出たことだすのや。あるとき、ある場所にたまたまおったちうだけのことが、後々になってどんだけ周りに迷惑かかるかちう、ええ例(ため)しだすな。わたしかてほんまに辛うおましたで、この年になって、大事なお友達があないなことになるのん見んならんようなこと、思いもよらなんだこっちゃ。……せや。……いいや、ええのんやそら、わたしがな、あの世へゆいたらなあ、鶴巻はんには真っ先に謝っとくよってに。謝ったかてどないもなりまへんけえどもな、そら宿命ちうもんだす。よりによってわたしに写真まで見せもってあらいざらい話してくれはったんが、あのおひとの運の尽っきゃったが、それ言うたら、そもそもわたしが仲良うなったりせなんだらよかったんやちう話でな、ほんまに悲しうおます。80年生きてきてこないなこと初めてや。カタギのお友達にトバッチリ行くのんよう防がなんだて、こういうのん、ヤキが回ったいうんと違いますかいな。……坊も、くれぐれも気いつけとくなはれや。こないなことは、一度ですっぱり綺麗に片がつくいうことはめったにあらへん。なんや探偵の卵みたいなんが一人、うろついとるちうこともあるよってにな。……卵や。けどなかなかに油断ならん、言うたら見どころのある、ええあんちゃんだすがな……いいやそないなこと考えたらあきまへん。見たとこ、いざとなっても扱いようはあるお人や。何かて、たいがいは、やりようがあるもんやさかいな。言うときますけえどな、坊、例の学生たちにはきっと手ェ出したらあきまへんで。わたしの目ェの黒いうちは……言うたかてもうあと何年もあらしまへんやろけえどもなあ。坊。こないしてまた直接に声聞いて話しするようなこと、もうないやろ思うてましたさかい、嬉しおます。たぶんこれが最後だっしゃろ。こたびみたようなことがなくとも、なあ坊、誰かて、生きてあったらかならず、他人のしかばねの上に立っとるんやいうこと、忘れたらあきまへんで。人の上に立つ者こそ、それを忘れたらどもならん。自分が一日生きたら、そのぶんきっとどこかで誰かが死んどるんや。よろしか。日ごと、増える後悔をぎしぎし踏みしめてやで、なあ、報いのほうへ向かって、止まらんと歩んでいきなはれ」


(つづく)

2021.8.10

第22回 回顧 (1)

……それから、いろいろなことがあった、と沢渡は後になってしみじみ思うのであった。もっとも、世の中はすっかり変わってしまったと言う人は多いものの、実のところはそれほど大きく変わったわけではなく、もともと動いていこうとしていた方向へ、ただ非常な加速度を以て動いただけのようでもある。博士課程へ進んでしばらくしたころに教務壊滅の大事故があって以来、少なくとも一箸大学は大きく揺らぎ、GenSHAに限っていうならばまさしく崩壊のほうへ、後戻り不可能な形で傾いてしまったのだが、それも言ってみれば、福富科長の死の報せとともに心の深いところで予感された「何かしら古く麗しきものの滅亡」が、そういう形でまざまざと現れたにすぎないのではないか。偶然などというものは存在しないとニーチェは言ったが、全てが「めぐりあわせ」という名の必然であるとすれば、いろいろな事情でGenSHAが解体の憂き目にあい半ば政治社会研究科に吸収されることになったのも、おそらくは何か必然の成り行きだったのである。これは決して無気力な運命論ではないと沢渡は考えていた。あらゆることが必然の成り行きだと考えることは、何もかも仕方なかったのだとして諦めることとは違う。むしろ、その必然はどのように醸成されたのか、嫌でも考えざるをえなくなることで、何を誰のせいにするでもなく自他の行為の動機と帰結とを明らかにしていくことへ繋がる、それが、つまりは歴史を編むということなのだろうと思う。歴史がいかに人為的な、捏造された物語であるとしても、それを編むことによってしかおそらく人類は、遠い希望を見ることができないのだろう――かつて言語文化論学会で非採択になった「希望」表象に関するパネルディスカッションは、その後結局数年にわたり科長を勤めた真弓の肝煎りでGenSHA主催のシンポジウムとして華々しく挙行されたが、思えばそれがGenSHAの、風前の灯の最後の輝きだった――それはそれで、よしとしなくてはなるまい、ただし自分は、GenSHAがどうとか言っても所詮は田宮ゼミとその周辺のこと以外ろくろく把握しないままに過ぎてしまったのだけれども。

一箸の教務壊滅をもたらしたパンデミックから数年経って、マスクをはずして出歩く人々の姿もようやく見かけるようになったが、それは要するにワクチンが広く行き渡り、「接種済」の証明カードを持ち歩ける人が大半になったからである。逆にいえば、接種証明を持ち歩かない限りマスクをはずしてはいけないし、どころか、マスクをしていてさえおおかたの公共空間には立ち入ることができないというのが、まるで当然の規則のように定着したからだ。致死率の高い新型気管支肺炎C-ARS-2 (Coronavirus Acute Respiratory Syndrome 2) ウィルスに対して全世界的に急ピッチで開発が進められたワクチンには、ある程度の確率で失声するという副作用があって、当初は、接種するかしないかは個人の選択に任され、諸事情により接種しない人を差別してはならないという話だったのが、結局いつのまにか接種証明のあるなしで厳然と線引きがされるようになり、それが当たり前になった。失声をもたらす声帯麻痺は必ずしも恒久的ではなく、数か月から1年ほどで何事もなく回復することも稀ではないとはいえ、職業によってはそれこそ致命的だし、命を失うことと、永遠に声を失うことを秤にかけて接種をためらい、拒絶する人が一定以上いたことは当然理解できることであるけれども、だからこそ逆に、自身と家族の安全と感染拡大防止を優先してリスクを顧みず接種を選択することが「勇気ある決断」として賞賛されることにもなり、翻って、そのリスクをあえて冒さなかった者は、「たかが」みずからの声をいとおしむあまり他人の命を顧みなかった「非国民」として糾弾される恐るべき風潮もまた生じたのである。そのような風潮の中では、失声リスクと関わりなく体質等により接種が危険と医学的に判断された結果接種しなかった者も、証明カードを所持していないというだけで一緒くたに区別なく「非国民」呼ばわりされ石を投げられるという、およそ前近代的としかいいようのない事態が出来していて、そのことに心を痛める者も多いけれども、世の常として、そうした良識派の人々はその心を痛めれば痛めるほど、喧しく大きな「声」の前にいやましに沈黙を強いられてゆくのである。

その一方でまた同時におかしなことも起こっていた。歌手、俳優、声優などその声を命とする舞台アーティストたちは当初ほとんどが接種を拒絶したが、接種証明を持たない彼らは一般の公共空間の多くに入れず、したがって主だったホール等の舞台に立てないことにもなってしまった。都心ではことにこの傾向が顕著で、生活に窮したある種の芸能人たちはそのような状況の中でかろうじて芸の場を提供してくれる〈アゴラ〉の舞台へ、争うように流れ込んだ。〈アゴラ〉でならば芸人たちは〈銀鱗〉の密かな、というよりむしろ今や大っぴらな庇護のもと、小規模であれふんだんな晴れ舞台と、それに伴う収入を得ることができるからだ。ホールやライブハウスに限らずストリートにも、〈アゴラ〉では非接種の芸人たちが溢れかえっていた。そしてそのことは「世論」によって摩訶不思議にもお目こぼしされた――非接種の人々を「非国民」呼ばわりし糾弾してやまない者たちさえ、そうしたアーティストの舞台そのものは実のところ見たいのであろうという穿った推測が、芸人たちの溜り場では皮肉をこめてささやき交わされてもいたが、それら「無明芸人」(無証明という意味で)の芸は〈アゴラ〉でなら披露することを許され、また〈アゴラ〉へならそれを見にゆくことが許される、ただしブレイクスルー感染リスクは自分で負うこと、そして〈アゴラ〉へ出入りの際は必ず接種証明を呈示すること、という慣習がいつごろからかできてきて、それに伴い、それまでは曖昧だった〈アゴラ〉の境界があるとき誰かの手によってあっという間に明確化された――といっても〈アゴラ〉円周の半ばほどはもともと掘に囲まれていたのだが、残りの部分にも簡単な柵が設けられ、出入り口が制限され、それぞれの出入り口には、接種証明を確認する係員が常駐するようになったのであった。

シティ――〈アゴラ〉の外のいわゆる都心部は対比の上でいかにもベタなそういう呼称で、誰が呼び始めたともなく呼ばれるようになっていた――では今なお厳しく管理される「三密回避」の対策も、〈アゴラ〉では無に等しいものになっており、至るところ「路上飲み」が展開し、あらゆる酒場は深夜を越えて営業し、不夜城の名を〈アゴラ〉はいよいよ欲しいままにした。そこで暮らす人々には芸人に限らず「無明」の人々が多く混ざっているのだが、彼らといえども時には〈アゴラ〉の外へ出る必要も欲求もあるから、当然のように接種証明の偽造は盛んで、これも当然のように〈銀鱗〉が組織的にこれを生産し、高額で流通させている、そしてそのことは誰知らぬ者もないにも拘らずこれまた黙認されることで、特殊芸能地区としての〈アゴラ〉はその存続を暗黙のうちに保証されるという、まことに奇々怪々な状況が出現しているのだった。もっとも、そういう危うくも確固とした状況が維持されているのも、要するにワクチン流布後ここ3年ほどは感染拡大が嘘のように収まって、〈アゴラ〉がマスク装着も形ばかりの無法地帯と化していてもそれがゆえに再度の感染爆発が起こるような気配もないからであろう。仮に罹患しても死に至る重症化を防ぐ有効な薬剤がすでに開発されている。それならばなぜ――と沢渡は常々思うのだが――シティのほうももっと自由に気楽な日常に戻ろうとしないのだろうか? 奇怪ということを言うなら、〈アゴラ〉のありさま自体はむしろ人間の自然の欲求に従っているだけで、それと対極的に、過度なほどに自律的なシティのありさまのほうがよほど奇々怪々であるかもしれない。礼儀正しいソーシャルディスタンスを常に保ち、会話をするときには決してマスクを欠かさず、たまさか友人と酒席を囲むときにも互いに距離をおいて2時間を限度とし、それ以上に及んでいささかなりとも羽目をはずしたいときには〈アゴラ〉へ赴く、あたかも〈アゴラ〉が良民たちのための感染リスクの捨て場であるかのように。しかしそれゆえにこそ、そこはすでにシティライフにとっても欠かせない場所となっているのだった。考えてみればおかしな話で、シティでの厳しい自律も、「無明」の人々へのあくなき警戒心も、事態が収束した今となっては医学的根拠はほぼ何も見出せなくなっているにも拘らず、当初の混乱の中で突発的に形成された警戒態勢がたった2年かそこらの間に、ほぼ実質を欠いた純然たる生活様式として定着したわけである。シティからの〈アゴラ〉のいかにも中途半端な切り離しと〈無明〉の封じ込めは、言ってみればパンデミックそのものがいまだ完全にその内実を解明される前になぜかすみやかに収束してしまったことによって生じたと言えようが、ウィルスというものはそのように人知の預かり知らぬ理由で不意に活動をおさめるものであるらしい。

とはいえ、C-ARSパンデミック以前の都内の歓楽の賑わいが全て〈アゴラ〉へ移動したわけではない。〈アゴラ〉はもとはといえば宮城で、さすがにそれほどの広さがあるわけではないし、都内のあちこちにむろんモグリの「無明酒場」やハコは数知れずある。それに緊急事態宣言から外出禁止令、短期間ではあったがロックアウトを含めた一連の過程で、仕事のみならず娯楽においても多くの人がその活動をオンラインへ移行させた。もともとインターネット上での娯楽提供量はうなぎ登りに増加していたけれども、パンデミックを経て各通信・配信ツールの性能は格段に上がった。なにしろ何か月も自宅に籠ったままでも楽しく暮らすための工夫に、全世界のIT企業が総力を奮ったのである。沢渡らがまだ修士課程のころには、田宮がリモート授業を専一にしているのがたいへん奇矯なこととみなされていたのが、パンデミック以後は全く当り前のことになった。感染がおさまればその「オンライン騒ぎ」も収束して元の日常が戻るだろうと当初予測されていたのが、実際には日常営為のかなりの部分がオンラインにとどまり、時差出勤やテレワークも一定以上定着して、朝夕のラッシュアワーにも電車が昔ほどは混まなくなったのは、ひょうたんから駒というべき幸いではあった。街は昔に比べるとはるかに閑静に、静謐になった――しかしまた同時に、奇妙なことに昨今はオンライン・ワールドもまた妙に「静か」になりつつある。というのは、「オンライン騒ぎ」当初もっぱら改良がめざされていたのは音声伝達であったのにもかかわらず(案外なことに映像通信よりも音声通信のほうが、複数人数での支障ない「共有」が困難なのであった)、このところコミュニケーションのメインツールが音声からテクストチャットへと移行しつつあるのである。それはひとえに、ワクチン接種の甚大な副作用としての失声が、無視できぬほどのものとして広く認知されるに至ったからに他ならない。

ワクチンの後遺症としてだけでなく、そもそも重症化したケースにおいてしばしば重度の声帯麻痺が起こること、深刻な場合にはそれがほぼ恒久的に続くらしいということは早期から指摘されていたのではあるが、実際に失声し、その恒久性を宣告された人々について具体的で詳細な情報共有がしげしげとなされるようになったのは、接種が軌道に乗り始めて少し経ったころのことである。当の人々がみずから情報発信を行うケースも多くあり、その発信の多くは、当然ながら声ではなくテクストによって行われた、そしてそういう「勇気ある発信」をする人々はしばしば「人魚姫」と呼ばれ賞賛されたりもし、そういう賞賛は却って歪んだ差別をあおるものだとして批判する向きもあったけれども、世の趨勢は次第に音声チャットよりも無声のテクストチャットを尊重する方向へ、じわじわと押しとどめがたく動いていた。一箸では幸いなことに学生の死者は出さずに済んだが、教職員にはかなりの死者が出たほか、教職員にも学生にも失声者が一定数いて、恒久的に失声した講師の中には、その講義などにおいて自動読み上げ音声機能を用いる者もある一方で、講義テクストを書いてそれを読ませる形態に移行した者も多かったし、ディスカッション・ゼミナールでは遠隔会議ツールのチャット機能を最大限活用する向きも増えた。装着が容易で負担の少ない人口声帯が開発途上にあると言われる一方で、失声していない講師でも、むしろ失声学生のためにテクストチャット授業の利点を率先して取り入れようとする者が出てきた。それ自体は、目に過剰な負担がかかることを別とすればむろん全く悪くはないことのように沢渡には思われたが、「オンライン騒ぎ」の当初あれほど動画配信々々々々とそればかり称揚され、オンラインであってもあたかも対面のように受講者に顔を見せて「語りかける」ことこそ肝要とされてそこに誰も異議を唱えなかったことを思い返せば、手の平を返したようでまことにいぶかしくもある。あろうことか最近では、従来同様に肉声を用いて講義や授業、あるいは報道をしようとする姿勢に対して、「いまだに声にこだわっているのか」「失声者に対して不謹慎だ」「時代遅れの不見識」などという批判が飛ぶ場面さえ散見されるようになりつつあるのだ。これもまた奇妙で極端な現象であると沢渡は感じ、胸底にひどく不穏なものを感じつつも、何がどう「必然」であるのか、今ひとつ掴みがたく悶々とする夜もあった。

弟の示遠はこの間にすらすらと現役で東大理Ⅰに合格し、大学の近くに下宿していた。べつに兄弟疎遠になったわけではないが、幼かったころのように何かと連れ歩くことがなくなったので、話すのは示遠が休暇でたまに実家に帰ってきたときか、折々の用事にかこつけたPterpeでの通話時くらいである。菅原人躬の社会情報学の演習に出ようと思ったけど抽選で落ちてしまって残念だが講義はオンデマンドで履修制限がないからラッキーだとか、ネットワーク研究会に入ってみたけど今イチで結局ピアノのサークルに入ってしまったところ予想外にけっこう面白い人がいるとか、そんなような話がもっぱらで、もともと子供の頃からオンライン志向だった示遠だから、特に違和感もなく楽しく現状に溶け込んでいるようで、沢渡としては却って物足りない気がするくらいだ。

「JIP自体はね、うん、あんまりどうにもならない感じらしいよねやっぱり」まだ少年らしさの残る示遠のほっそりした顔が、画面越しだと妙に大人びて見える。

「そうなの? 一斉接種であれだけ不備があからさまになったのに?」

「あからさまになったって言っても、もともとわかってた不備が、やっぱり不備だってことがあからさまになっただけじゃん、だって。国民一人につき1IPでそれが住所に紐づいてるっていうのが、思想的な是非はともかく少なくともちゃんと機能してれば、接種会場の割り振りも順番の設定も日時の指定も、洩れなくスムーズにいったはずで、そしたらそこでやっと、わけわかんないJIP制度も初めてそれなりに活きたってことになったんだろうけどさ。結局、制度の遅れたままになってる地方では旧来の戸籍に基づいて段取りするはめになったし、都心はもうぐちゃぐちゃでさ、最終的には職域接種に洩れた人は大規模会場で早い者勝ちの申し込み式にするしかなかったっていうの、いったい何のためのJIPなんだかなー」

「誰もがそう思っただろうし、ずいぶんニュースにもなったのに、その後何か対策は打たれてないわけ?」

「うん、それ、こないだ菅原先生のとこへいって訊いてみたんだけどねー。やっぱり今まだ改革の決め手はないみたいな感じで、整備を急ぐ的な方向でしか議論されてないとかで、ちょっと言葉を濁してたなあ」と、ここで示遠のいう「先生のとこへいく」とはすなわちメールなりPterpeなり何なりのオンラインツールで先生にコンタクトするという意味である。

「菅原さんて今、例の、全国ネットワーク関連の諮問委員会に入ってるんだよね?」

「そう、それで質問に行ったんだけどね。その言葉を濁してたあたりのことというか、要するに〈銀鱗〉絡みのことはどっちかっていうとやっぱり田宮先生のほうが、詳しいというのでもないだろうけど、よく話してくれるよ。菅原先生とは逆にJINOはそういう国家的なプロジェクトとは今は完全に縁が切れてるからなんだろうけど」

「大規模会場での接種がそれでもたいした混乱なく案外スムーズに進んだのは、裏で〈銀鱗〉が仕切ったからだっていう噂だけど、どの程度本当なのかな?」

「そういう方面のことは兄さんのほうが詳しいんじゃないの? 大規模会場に申し込みさえできない人たち、特に〈アゴラ〉周辺にもともといた一人暮らしの老人とか、いわゆる情報弱者の面倒も、都心では結局のところ〈銀鱗〉がみたんでしょ。一口にいえば、正規JIPが行き届かないたくさんの人たちを、正規JIPなしでも支障なく暮らせるように支援ないし支配しようとしてきた〈銀鱗〉の、そういうものとしての地位が、接種一件でダメ押しに確定しちゃったわけじゃん」

「AISA側もそれを完全に黙認した形だね」

「黙認というか公認というか、表立って言及はしなかったけど実質的には、自分のほうでぜんぜん手が回りきらないそういう部分については積極的に〈銀鱗〉に任せた形だよねむしろ。公的手配から漏れる人たちの面倒を〈銀麟〉がみたっていうのは、つまりそういう大変なことに従事する人たちの収入を〈銀麟〉が保証したってことで、その見返りは、何だったのかわからないけどAISAからがっつり取ったんだよきっと。ともかく一連の過程で〈銀鱗コーポレーション〉が完全に表に出ちゃった感じで、そのあたりの駆け引きというかカラクリを菅原先生に聞きたかったんだけど、言葉を濁されたわけ」

「しかもそのうえ〈銀鱗〉は今度は都内の娯楽産業のすごく大事な部分をがっちり押さえちゃったわけだからね。関東は〈銀鱗〉だけど関西は〈陌陽〉とかいろいろな「反社会的」組織が、あちこちの都市で極めて社会的な活動を展開してるよね」

まだC-ARSもGenSHA解体もオンライン騒ぎも何ひとつ予期されなかったころ、十協大への学士入学を無事に果たした人吉と一緒に生化研の〈ドーム〉を見学に行ったときのことを懐かしく思い出す。帰りに〈アゴラ〉に寄って遊んで帰った。あのころからすでに〈アゴラ〉は一種独特なバザールめいた、エキゾチックな雰囲気の歓楽街をその中央部〈キャッスル〉のうちに擁していたが、何といっても今のような突出した隔離区域ではまだまだ決してなかったのだ。


(つづく)

2022.2.10

(小説:おりば・ふじん/一橋大学大学院言語社会研究科 
漫画:まくら・れん/一橋大学大学院言語社会研究科)