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第37回 柘榴と夾竹桃
教会の庭墓地にて。薄田甚五郎、小池信勝、トニ・リーファン。
「おやあ? おやおや、こりゃ、御曹司じゃあねえか、こいつあ驚えた!」
「どうも、めっきりご無沙汰いたしやして」
「こんなとこでお目にかかるたあねえ! 今日は、あれ、お忍びかい御曹司?」
「やめてくんなせえ、その御曹司ての、一体どこの御曹司だてえんで。そういうご老体がたこそお達者で、何よりで」
「ありゃ、さっそく逆襲だい、油断ならねえ」
「しかも複数形だね。トバッチリだ」
「あれかい御曹司、今日は、亡き先代の名代かい? さすがに義理堅えもんだねえ」
「なに、そういったわけでもねえんですがね。JJには以前、襲名のときにちょいとした恩がありやしてね」
「襲名のとき? へえ、そりゃあ初耳だね? 恩って?」
「ええ、ま、ちょいとね。けどご当人はそんなこたあ一向にご存じなかったんで」
「ほほっ! あそう、そりゃ、大いにありそうなこった。ノブさん、おめえ聞いたことあるか、何か、JJから?」
「いいやあ、なんにも」
「だろうねえ。へえ、ちょいとってな、どんな? 面白えから聞かせなよ、弔辞がわりに」
「いやどうってこたねんですがね。襲名決める会合んときに、ちっとばかし実はモメそうになってたとこへ、ちょうどのタイミングでJJがね、何だかでおれに礼を言いたいとかで――番兵どやってスリ抜けたんだか、ほらああいう感じの、空気読まねえフワフワーッとした感じで入ってきちゃってね。そんで例の天真爛漫な笑みでもって、英語混じりの片言でナントカカントカ!って子供みてえなことを言葉少なに喋っといてからおれの手を握ってこう、ぶんぶん!ってやってね、ハグして、そのまんまスーッと帰ってったのが、まあその場の流れってか、空気の質を変えてくれた――てなようなことなんですがね」
「へえー! あそう。そんなことがねえ。はあー、そりゃいかにもJJらしいや」
「番兵スリ抜けたってとこがいいね。元気なころはそんな感じだったね確かに。めったに出かけねえけど、出かけるときゃ唐突にわりと恐れ気もなくどこへでも行って、それでちゃんと用済まして帰ってきてたもんな」
「区役所行ってくる大丈夫だなんつって出かけて、花屋行って花買って帰っただけなんてのもザラだったけどな。ああ、御曹司おめさんが襲名なすったなあ、いつだっけ、もうかれこれ10年か、いやせいぜい7年か8年……立派になんなすったね」
「かたじけねえお言葉で。先代が亡くなってからこっち、すっかりご無沙汰しちまって」
「そりゃあお互えさまでね。けどおめさんがよくやってなさるこたあ、常々目にもし、耳にもし――」
「ええ、こっちも、ダンナがたが始終〈アゴラ〉のあっちこっちで盛大にトグロまいてなさるのを陰ながら拝見してね、頼もしく思っておりやすよ」
「こいつは敵わねえ」
「あんまり飲みすぎねえがいいですぜ、薄田のダンナ。こう言っちゃ何だが、もういいお年なんだからね?」
「あれっ、ヤクザに説教されてるよ。ヒヨっ子が何を言やがる――」
「うちの若えのがさんざ呆れていまさあね」
「若えのって、ああそうか、シロちゃんがね――あれ、そういやシロ坊主は今日はどしたんだ、あいつ、来てねえのかな?」
「ええ、シロは今日は来られねえんで。ちょいと怪我さしちまいやしてね」
「怪我?」
「なに、命に別状はねえんで、そうご心配はいりやせんよ」
「んならよかった。危ないねェしかしキミタチは、ええ!? ああいうね、若い有望な命をね、あたら無駄にしねえようにしてもらいてえね、頼みますよ御曹司。するてえとあれかい、今日のことはシロちゃんから?」
「え、地獄耳なんで」
「さっき、受付でティエンチンとちょいと話してたみてえだったけども?」
「え、そう!? なんだ、ノブさんあんた気づいてたのかい?」
「いや、どうもそうじゃねえかなと」
「なんだ、言ってくれよノブ公」
「はっきり見えたわけでもねえからね。あの夾竹桃の木の影に隠れてさ。でかいねあの夾竹桃ね」
「でかくなったね。あんなでかいのは珍しいね、まだ咲き残ってるけども、真夏はまったく見モノだよ――なに御曹司おめさん、チェンツとも知り合い?」
「知り合いってほどじゃあねえ、シロんとこでいっぺん見たことがあるだけですがね。あれですかい、今日のこの会葬の手筈は、全部あの子が一人で?」
「そ。案内状の送付から、段取りから、庭のこの立食の設えから、みんなね。おれらはさっき棺をかついでそこの穴へ下ろすのを手伝っただけ」
「まあ、JJがそう急でもなかったからね。前々から少しずつ準備してたんだろうけどな。急だったらこうは行かねえだろ、さすがに」
「半年くれえ臥せったかね? 最後は苦しみもしねえで大往生だってから、そりゃまず何よりだったよ。今日もいい日和で――ってのもおかしいけども」
「まあ、でも、いい日だよ、爽やかでね、秋らしい。こういうのもJJの人徳かね」
「埋めたての墓を見ながら飲むってのも、ちょっとしたもんだね。雨だったらどうする気だったんだろな? 礼拝堂で飲むんかな」
「いやあ、たぶんそこらの植木の間に天井シートでも張りめぐらしてね、意地でもここでやったんじゃねえかな」
「ああそりゃ、ありそうなこった!」
「牧師のマネごともみんな自分でやってやしたね、さっきね。前からちっと思ってたんだが、ありゃなかなかミドコロのある坊主じゃねえですかい?」
「へえ、おめさんの目からしてミドコロがあるってな、どんなミドコロだい? そいつはちょいと――」
「剣呑だ」
「剣呑だね」
「なに、うちにもああいう珍しいのが一匹いたら面白えなと思いやしてね」
「珍しいはよかったね」
「ま確かに、ミドコロがあるかどうかは別として、珍しいこた珍しいね」
「拾いモノってやつだあね!」
「拾ったほうのJJもおよそ珍しい人だったけどな」
「拾いっ子だってな、ほんとなんですかね?」
「そう聞いてるけどな。門の前に捨ててあったのをJJが拾ったっていう、それこそ今どき珍しい――」
「ほんとかよっていう、アンデルセンの童話じゃあるまいしね。でもそう聞いてんね。本当にほんとかどうかは知らないけどさ、そりゃ、けど深くは訊かなかったね、おれたちもね」
「チェンツはどう思ってんのかねあれ自分では、やっぱ、拾いっ子だと思ってんのかね?」
「そうだろ。わからねえけど。実はJJから何か聞かされてたりすんのかもしれねえけどな。ま、おれたちもそのへんは穿鑿しないでいるんさね」
「チェンツって呼びなさるんで、ダンナがたは?」
「おれはね。おれだけ。ティエンチンって呼びにくくて長くてめんどくせえからさ」
「中国名ななあ、なんでです? そっち系の血なんで?」
「さあ、そうとも限らねえだろね、なにしろただ捨ててあったってんだもの、わかりゃしねえやな血筋なんて。血統書はついてなかったんだろ確か、な?」
「雑種だ、雑種」
「預けて育てさした義理の母親がたまたま台湾系でって話だったね」
「たまたまってか、JJの遠い親戚だったんだよだから」
「親戚っつってもね、だいたいプレヴィル=ガウのガウって何? 高なの、そもそも?」
「高なら、表記は普通Gaoだよね、アルファベットだと」
「ドイツ語のGauも発音すればガオに近くなるぜ? ドイツ語だと、統治地区、とか、居住地区、とかだよなGauって」
「ナチ用語では限定的にそうだけどさ。Auの類義語だろ、もともとは。水と森の多い土地、とか辞書で見た記憶があるな」
「姓としてはドイツ語圏にはねえんだっけ?」
「わからねえけど、あんまり見ないね。アイルランドとかスコッチにあるんだろむしろ、Goweって姓はさ。もともとそっちじゃねえのかな?」
「JJがそもそも中国人とのハーフなんだろ? 前にそ聞いたことあんぜ。お母さんが中国人だって。それが高さんだったんじゃねえか? あっちの文化圏て、苗字が同じなら全員親戚なんだろ、概念としてはさ」
「Goweってのは母方の苗字をとったってかい?」
「訊いときゃよかったね、それも」
「だから訊いたって言わねえよ。だから訊かなかったんじゃないのよ」
「まあそうだ。そう、だから要するに血はね、チェンツの、ぜんぜんわからねえね」
「JJの血筋とティエンチンのと何の関係もねえだろがよ!」
「そういやそうだっけ」
「和顔だけどね一応ね」
「中国っぽいってや、ぽいよ」
「そりゃそういう目で見るからだろ。なら御曹司は香港ぽいのかよ、どこがだい?」
「まあいいでさ、そんな穿鑿あどうだって……しかしおめえさんがたも、たいげえ珍しい人たちだね」
「おめさんに言われちゃ、立つ瀬がねえね! シロ坊主のほうはどうなんだい、ありゃどっから拾ってきたんだい? それこそあんな珍しいのをさ」
「さあそれも、まるっきりわからねえんでねえ」
「あの子の育ての父親ももうとっくに亡くなったんだってね、確かそういう話――」
「実はおめさんの落とし種じゃねえんだろね?」
「ご冗談を」
「あの子の、オヤっさんてな、どういう人だったの? あいつらに訊いたってまるっきり判然としねえんだな、これがまた。オヤっさんは、オヤっさんでした、みてえなよ、ええ? 普通もうちっと頓着しねえもんかな、育ての親ってもんにね?」
「オヤっさんね――うちらじゃ、ホトケのジュイチって呼んでやしたがね」
「ホトケのジュイチ?」
「ええ、寿一ってねえ、まるで法師か検校みてえな名前だってんでね。実際、目があんまりよく見えねえで、マッサージやら、按摩やらがうまくって、それで食ってたってわけでもねえんですが」
「へえ。もともとどこの生まれ?」
「いやあ、それも実はよくわからねえ。昔っからの知りあいにゃ違いねえんだが、妙なやつでしてねえこれがまた。震災直後にふらっと尋ねてきてね、〈アゴラ〉に住もうと思うからこれからよろしく、そんで、小学校んとき一緒だった寿一だってえんで、そう言われてみりゃあ、チビのころ一年くれえおんなじクラスに混ざってた転校生がいたんで。確かにそんときにゃ、何だか気が合って仲良くしてたっけてえのを思い出してね、そうかい、ならまあうまくやれやってわけで住みついたなあいいんですが、1、2年した頃、何だかしばらく居なくなってたのが不意に戻ってきたときに、チビを連れてたんだあな。ふたつかみっつくれえの、よちよち歩きのをね。どっから盗んできたんだって訊いても何も言やがらねえんで、まあそのまんま、それからはずっと居たね」
「へえ、じゃあそれこそ血なんかまるっきりわからねえわけだね」
「わかりやせんねえ。寿一の子かとも思ったが、それは、そうじゃねえって言うんでね」
「その寿一って人がどういう人だったかってのも、結局よくわからねえままなの?」
「やっぱ訊いても言わなかったねえ。ものしずかで、怒ったり言葉ァ荒げたのを誰も見たことがなくって、子供なんぞにやたら優しいんで、ホトケの寿一ってえ異名がつきやしたが、按摩はとにかく上手くってね、うちで怪我した連中なんか、たまに治りが悪いとみんな寿一んとこへやるとね、嘘みてえに元気になるんでさ。そんでも患者からは療治代をとらねんで、うちの医療部から多少の手当てを払ってやしたっけが、普段は何だかね、そのつどいろんな賃仕事して食ってたみてえでしたよ」
「亡くなったな、そんでもやっぱ病気か何かで?」
「病気っていや病気なんでしょうがねえ。特に何の病気ってわけでもねえ、ただだんだんもの食わなくなって、弱って死んだんで、これこそ大往生っちゃ大往生でね、医者も首かしげてやしたが――なにしろ妙な男でした、ありゃあね。ともかくそんなわけで、シロが自分で知ってる以上のこたあ、わっちもほとんど知らねえんでさあ」
「天涯孤独もいいとこだねえ、そいつはまた。〈アゴラ〉じゃ珍しくねえのかもしれねえけども」
「まあそんでも、かなり珍しいほうにゃ違いねえでしょね」
「しかしこれでティエンチンのほうも、似たりよったりのことになったわけだなあ」
「それよ。どうするかねあいつあ、今後ね? シロ坊主はなあ、そんでも何つってもほれ、稼業、ってえの? 御曹司おめさんのもとで、まあ、あるわけじゃねえの、なあ? けどチェンツのほうはさ、どうすんのあれ?」
「どうすんのっておめえ、だから学校やっとけって――」
「やっとけって何だよ! だって当人が行かねえもんどうしようもねえじゃねえか、おれだってさんざん口すっぱくして言ってよ、高校の学費なんて今やタダ同然なんだからさ、なきゃ出してやるっつってんのによ――」
「それ以前に中学だってまともに出ちゃいねえだろあいつはよ?」
「中学高校はどうでもいいとしてよ、大学ももう行かねえって言い出したぜ? だいたいJJがいい加減だから――」
「死んだやつのせいにすんなよ、ジンおめえが甘やかすからだろうよ! あんたはよ、ガッコ行け行けって口じゃ言ってっけど、その実あいつが高校も行かねえでウチに入り浸ってんのが嬉しくてしょうがねえくせによ、ええ? 孫か何かだと思ってるだろあんた!」
「だから通信でいいっつってんじゃねえか! だいたい高校々々ってどこの高校入れりゃいいってんだ、あんな妙なふうに育っちゃったやつをよ? あの性格でいったいぜんたい今さらどこのガッコに溶け込めるってんだよ?」
「おめえの教育が間違ってんだよ!」
「それおれのせいかよ! 今日だってなおめえ、JINOのみんなで手伝ってやるっつってんのに、意地はりやがってあの野郎はな! だいたい――」
「ダンナさんがた、聞こえますぜ、おっきな声出すと」
「――まあーともかく、当面ウチへ置いとくしかしょうがねえだろね」
「だろね。いずれにしても」
「……へへへ、ダンナがたがあの子を可愛がってなさるこたあ、よっくわかりやした。そんで、どうなんです、ミドコロ具合は?」
「ミドコロ――ミドコロねえ。どうなんだろね。どう思う、ノブさん?」
「どうってなあ。まあ、まだ海のものとも山のものともなあ。ある種の才能はあるけどな大いに」
「あるっちゃあるけども、使いどころがねえだろ、あんな才能よ?」
「wahnsinnigな才能だね、言ってみりゃ」
「そうそう」
「ヴァーン……?」
「あーつまりヴァーンジニヒてな、ドイツ語でね、ブリリアントとかエクセレントとかそういう、手放しで褒めるのとは違ってね、どっか狂気じみてるのよな」
「おーすげえみたいな意味で感嘆詞的にも使うようになったのって最近かね、Wahnsinn! て」
「ヴァーン人」
「あ、それいいな御曹司。そうそうヴァーン人なんだよあいつはなーあー」
「どうしたって学者にゃ向かないね」
「そうかな。けど勉強は好きだろあれさ?」
「いやあ、遊んでるだけだろ。今はね、勉強が好きに見えるけども、その実は単に、勉強して遊んでるだけだよ。気が多すぎるね、一心不乱にガクモンを極めたりはしそうにないね、まあ先々はわからねえけどさ、もちろん」
「ああ、そうなあ、確かに、今んとこそんな感じだあな。けどまだ17か何かだぜ? ガキじゃねえか、遊び盛りだよ、おめえだっておれだってガキの頃あ似たようなもんだったぜ、たぶん?」
「ああだからこそ、ガッコは行っとくほうがいいだろうと思うけどな、今からでも――すりゃ、そのうち学者のふりして稼業が持てるかもしれねえ」
「ふりかい?」
「そう。ふり」
「かのように、てやつだね」
「本式の学者にはならなくても、学者のフリくれえするにゃ充分なアタマだろ。フリする才能なんかは、ありそうだよ大いに」
「そんなヤクザな才能、あってどうすんだよ一体、しょうがねえな! まあな、けどおめえだって学者のフリして一生送ったようなクチだもんな、だろ? だろ?」
「悪かったなあ、ああどうせね! けどおれあ一応ガッコ行ったからよ! だからそ言って――」
「あー、そすっとあれですかい、おめえさんがたは、あの子にJINOを継がせるおつもりじゃあ別にねえんで?」
「継がせる? JINOを? いやまあ――どうなんだろね、JINOもね……」
「まあJINOはそもそも、継ぐとか継がせるとかってもんでもないからね、〈銀麟〉と違って、べつだん伝統があるわけでもねえし、おれたちが始めたんだからおれたちが死んだら潰れたって一向に構わねえようなもんでさ。ある意味もう、果たすべき役割は果たし終えたというかね――」
「おれたち自身がもう遊んでるようなもんだよな」
「そうそう」
「ほんとですかい?」
「ほんとも何もねえけどね――するてえとそっちは何、ひょっとしてゆくゆくシロ坊主をどうにかしようってえ算段でも?」
「いやなに、それこそ先々のこたあわからねえですがね。なにしろいつまで命があるって保証さえ、ろくにねえわけだからね」
「こ言っちゃ何だけども、あれだね、仮にもホトケと呼ばれた人の子をってかね、そういう方面へ向けてキタエるってな、どんなもんなの御曹司?」
「まあねえ、しかしそれこそ才能ってものがありやすんで」
「いろんな才能があるもんだね」
「寿一が死ぬときにおれにあいつを頼んで行きやしてね――」
「そんなら尚さらじゃねえの? 恨まれやしねえの寿一さんに?」
「それあねえでしょう。他のやつでなくおれにわざわざ頼むってこたあ、寿一も承知ってこったと思いやすよ? それに寿一はね、確かに一見ホトケみてえなやつで、〈アゴラ〉じゃことのほか静かにおとなしく暮らしてたっけが、ほんとのとこは、ずいぶん自分でもあれこれ手ェ汚してきたやつじゃねえかと実はわっちは思ってんでさあね。赤んぼのシロを拾ったてえのも、実んとこ、そうそう穏やかな話でもなかったんじゃねえかってね」
「へえー」
「シロにも話してねえことがひとつだけあってね――まあどっかで聞いてるかもしれやせんが、寿一ってのは実は、杖ェ頼りに歩ってるくせに妙に腕のたつやつだったって話でね、もっともこれあ、わっちが実見したわけじゃあねえから確かなこたあ何とも言えねえが、見たってやつの話じゃあ、何だかほれ例の、座頭市なみに凄かったってんで、嘘かほんとか知りやせんがね」
「座頭市?」
「ああいうね、日雇い仕事でしょぼしょぼ暮らしてる、目の弱え小柄な年寄りなんてものあね、〈アゴラ〉じゃ人によく労わられもしやすが、一方でいじめるやつってえのも必ずいるもんなんでさ。時にゃ夜道でぶん殴られてカバン取られたりね、何かの腹いせにいわれもなくイチャモンつけられてボコられたり、アガリを掠められたりね、結構するもんなんですがねえ、寿一にはいっぺんもそういうことがなくってね。黙ってたって、そういうことがありゃこちとらにゃわかるもんなんだが、なかったんだね。人けのねえ夜道も平気で歩ってね、だから腕が立ったてえなあ、本当だろうとわっちは思いやす」
「するてえと――」
「実の子じゃねえってなあ本当にしても、ただ拾ったんじゃねえ、何かの繋がりはあったに違いねえね。血縁かどうかはわからねえが、そっち方面の繋がりがね。なもんで、とりあえずそっち方面を鍛えてやって構わねえと思ってんでさ。早々とおっ死ぬようなら、それまでのこって」
「つまり、早々とは死なねえだろうと踏んでるわけだあね?」
「わかりやせんよ、そりゃあ、運次第で」
「するてえと――さっきからするてえとばっかりで何だが――おめさんはあれだね、シロ坊主とチェンツが仲のいいのに目ェつけて、さっそく何かしら考えてるわけかい、その――次代のことをね?」
「ダンナがたのほうはどうなんです、何もお考えでねえってこたあねえでしょう?」
「いやああ、あんまり何も考えていねえね、どうだいノブさん?」
「そうさね、そりゃ、考えねえこたあねえけどな、もちろんな」
「こちとらもうトシだからね、何しろ。もうとっくに70越えてんのよ? 棺桶に片脚つっこんでいらあね。後のこたあもう、御曹司みてえな男ざかり仕事ざかりのみなさんに任せるしかねえのよな?」
「そんなんなっても後継ぎが育ってねえってのがね、まあおれらの怠慢っちゃ怠慢だったろうけども、今も言ったみてえにな、JINOはもともとそういうもんでもねえからね。跡継ぎったってね、ある意味、ちゃんと後は継がれてるわけよ、ただね、おれらがいなくなった後は、あすこももうぜんぜん別のモンになるだろうなってなあ、そりゃ仕方ねえだろうな、どうしたってね」
「ジノ研からジノがいなくなりゃあ、そりゃ別モンになるわな」
「人文学研究所ってものになんのよ、つまりな。おれらのときは、つまりそういうフリして――」
「フリじゃねえよ別に! フリでもなかったけどもね。けどもうだんだん、純然とそういうもの以外のものではなくなんだろって気がすんね。それはそれでさ、新しい役割ってものがあるだろうきっと、けどそいつは、もうそれこそ次代の連中が自分でみつけてくしかねえのよ。おれらんときゃね、特殊な状況ってか、それこそまるで戦後みてえなぐっちゃぐちゃん中で、ぐっちゃぐちゃなことして、まあやりたい放題じゃねえけども駆け回れるだけ駆け回ってたわけだけども、今じゃもうそういう時代でもねえ、ハチャメチャが通る時代じゃねえっていうかね」
「まあだから、これからむしろどんどん厳しくなるだろって気もすんだけどね。今JINOに残ってるのがみんな、ちゃんとしてる連中なだけに尚さらな」
「ちゃんとしてんのかね、あれ? 鵜野とか由布とか――」
「ちゃんとしてるよ、何と言ってもさ。連中は連中なりにハチャメチャだし行動力も並じゃねえけども、何つったっておれらみてえにいい加減じゃねえよ、あいつらは」
「一緒にしねえでもらいてえな、おい!」
「だってそうじゃねえか。あいつらはやっぱり、どんなにハチャメチャに動いたって、根本はそれぞれの学術フィールドってもんを基盤にして動いてんのよ、な。おれらはね――ま、一緒にして悪いけども、やっぱどっちかっていや、ヤクザなほうに基盤を置いてね、その上でガクモンをやってたわけだからよ、そうだろ?」
「そんで祖父江がまたああいう、世にも稀な珍しいやつだったしね。そう、その祖父江がね、御曹司おめさんみてえなのを選んで後を任せたってのはさ、だからやっぱり一種の先見の明だったろうと思うわけよ。なんつうのかなあ、下手にね、祖父江のミニヴァージョンみてえのよりか、おめさんみてえに返って頭の先から足の先までずっぽりヤクザってかね、ヤクザの先祖返りみてえなのでなけゃダメだろうってのがさ、いかにも祖父江らしいブッ飛んだ読みだあね。これからまた一旦、厳しい、いってみりゃ闘争の時代が来るっていう、そういう読みだったと思うんだね、おれは」
「うん、つまり祖父江とおれらと、AISAの先代依田みてえな形の繋がりかたは――」
「先代だっけ? 先々代じゃねえかもう?」
「あそうか。今の依田の爺さんかありゃ、そうだそうだ。祖父江のかなり先輩だったわけだからな、うん。その先々代依田と祖父江とおれらとみてえな、ま言わば旧制一高的な、蜜月的でバンカラな繋がりかたってなね、やっぱどうしたって束の間のさ、一代限りのもんだろうと思ってたんだと思うよ、祖父江も」
「AISAの世代交代がわりとすみやかに進んだからね、ドラスティックにでもねえけども、体制が固まるにつれてだんだん変わってくるってのはさ、ああいうとこが一番早く進むのはまあ当然だろね」
「そこで下手にあっちに迎合するようなね、古い麗しい繋がりにぶらさがってそのまま行こうとするようなやつが〈銀麟〉を継いだりしたら、それこそ妙な上下関係ってかね、体制の中での支配関係ができあがっちまう、何といったって税制も何もかも、表だった国家機構を握ってんのはあっちなんだからさ、対外的にもね。そんなことになったら、ある意味おれらがやってきたことなんかみんな、てんからタマなしになっちまうわけだからさ。御曹司おめさんを投入したってのは、だから祖父江としちゃ最後に打ってみせた乾坤一擲の大博打みてえなもんだったろうと思うよ」
「見事なクラッシュだね、言ってみりゃ」
「……どうも、ダンナがたにあっちゃあ敵わねえね。おれだって何も好んで闘争しようたあ思っちゃいねえんですぜ。世の中、事もねえにこしたこたあねえ。けど先代のその博打ってのが当たったんだか、それとも返って裏目に出たんだかどうなんだか、このところえれえ、だんだんキナくせえ感じになってきてるなあ確かでさあね」
「裏目に出たってこともねえだろうけどな。当代の依田が、読めねえ男だからねあれがね。連絡はねえのかい、互いの?」
「ねえですね。しばらく前まじゃあ、それなりに何かとあったんだが、まあ親しいってほどでもねえがそれなりに定期的に誼みを通じてたんですがね、AISAとウチとね。けど数年前から当代の依田がいよいよ頭角あらわして、ひとり仕切りに仕切るようになってから、どうやらおかしな具合えになったね。あっちが若えからノリがよく掴めねえってだけじゃねえ、別にこれといって喧嘩売ってくるわけでもねえが、妙にしれっとしてというか、ヒンヤリしてるね。そのうち、何か仕掛けてくるだろうってェ厭あな予感がしやすね」
「そう――だから、なあ、御曹司よ。世の中がまた少しずつキナくさくなってるってなあ、確かなこった、おめさんが、心配ってのでもねえだろうが、懸念なさるなあ、よっくわかる。たいへんなものごとをしょっちまったもんだが、おめさんにゃ、それだけの器があらあね。けどおれらはさ――これから依田がどう出て、何がどうなるにしても、今日明日のこっちゃねえ、2年か、3年か――その頃にゃおれなんざ、もうとっくにくたばってんじゃねえかね。おれらは、やるだけのことをやって、後はもう順次おさらばするだけのことよ。冷てえことを言うようだが――」
「いや何もね、後のことあどうでもいいってんじゃねえよ――」
「どうでもいいよおれあ!」
「ああわかったわかった、ジンてめえは好きなだけ飲んだくれてりゃいいやな! 止めねえよ別に。こんなこと言ってっけどもね、実はどうでもよかねえのよこいつだってな」
「黙っとけ!」
「こいつが本心じゃ、JINOの成り行きにどんなにココロを痛めて――」
「うるせえっての!」
「――ティエンチンが入り浸ってね、シロ坊主みてえのまで連れてきてころころ遊んでんのを、こいつが馬鹿みてえに喜んでね、飲み食いに連れ歩いたりしてんのも、だから要するにまあ、御曹司がさっきちょいとほのめかしたような――」
「じゃねえよ、おれこそ、ただあいつらで遊んでるだけだよ、晩年の慰みによ? いいじゃねえかそんくれえ、おれにゃ女房も子も孫もいねえんだからねもうね? だいいちあんなガキどもにいったい何を期待しろっての、一方は人殺しで一方はヴァーン人だぜ? どうしろってのあんなヴァーンをよ? 仮に大いにミドコロがあるとしたってもね、そのミドコロを実際に発揮するようになるまであと何年かかると思ってんだい、間に合わねえだろよ到底、え?」
「ほらな、御曹司、間に合やいいなあと思ってんだよこいつだって本当はさ」
「……な、ノブさんよ。おれあね、たぶん、あんたより先に逝くよ、な」
「何言い出すんだジンちゃん、いきなりよ?」
「おれが逝っちゃった後でさ、な、チェンツに、あんまりでっかいものをしょわせるな。JINOをまるごとあいつの肩にしょわせるようなことあ、しねえでやってくれよな、頼むよ、ノブ公、な?」
「……」
「あいつがゆくゆく、どんなもんになるのがいいのか、おれにもわからねえ、全然わからねえよ、ひょっとしたらそのうち自分で何かしょって立つ気になっちまわねえとも限らねえ、そうなったらそうなったでいい、けどくれぐれも無理はさせんなよ、な、無理にそっちへ引っ張ってくようなことだけは、しねえでやってくれな? でねえとたぶんあいつあ、さきざきロクな目を見ねえ――そんな気がしてならねんだ、おれあ」
「わかったよ。わかってるよジンちゃん」
「おめえは、あいつに妙に期待しすぎなんだノブさん。あいつはな、ああ見えて根っから真面目なんだよ、真面目なヴァーンなんだからよ、なるべくパッパラパーに、いい加減に生きてくほうが幸せなんじゃねえかと思ったりもすんだけども、そうもいかねえで、かつ学者にゃなりそうもねえってんなら、いっそおれらが死んだ後はさっさと、それこそ御曹司にくれてやったらどんなもんだろうと思わねえこともねえんだ実は、なあ御曹司? シロ坊主と組まして刃物でも何でも発散的に振り回さした方がね、品のいい学者連中の中に置いてしずしず本なんぞいじらしとくよりよっぽど健康にミドコロを発揮すんじゃねえかってね、けどそれも、やっぱり今さらそうもいかねえだろうな。まあ所詮、なるようになるしきゃねえんだけどもよ。あいつの運命はあいつの運命だ。おれの知ったこっちゃねえ――」
「……お気持ちは、よっくわかりやした、ダンナがた。久々にお目にかかって、いろいろと、タメになる話をうかがいやしたよ。これから世の中がどう動いて、ウチらがどう動くことになんのやら、おれにもまださっぱりわからねえ、見当もついてねえってのが本当でね。けどまあともかくも、おれにやれるだけのこたあ、やってみまさ――」
「会えて、よかったよ御曹司。これもJJのお引き合わせ――」
「……何だ、オルガンが鳴ってるね、礼拝堂で。ティエンチンが弾いてんのかな。お引けの合図じゃねえか?」
「酒置いて礼拝堂に集まれってことかね?」
「さっさと飲み干しちまって集まれってことだろ。もう日も暮れる」
「そーかそーか、よーしよし――遠き山に/陽は落ちて――とね――」
「くどいようだが、飲みすぎに気ィつけて下せえよダンナ。なるたけ長生きして、あいつらの行く末を見届けてもらわねえとね」
「そう言われてもね、JJの次に埋まるなあ、どう考えたっておれなんだから……ここ、いいなこの墓地、なあ? こぢんまりして――おれもちょっとここに埋まりてえな。眺めがいいね。石榴の実がたわわだな……お天気がよくって、〈アゴラ〉がずっと見渡せるよ……」
(つづく)
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第38回 The Dome
◆沢渡歩夢修士論文「〈ドーム〉はどのように見えるのか(仮題)」序文第1稿(コメント入り)/部分◆
……前には〈東京ドーム〉と呼ばれる全天候型多目的スタジアムがあり、もっぱら月読コロッサスの拠点として球場に用いられるとともに、レスリング等の格闘技、音楽コンサートなど多様な大規模イベントに供されていた。スタジアム外周には博物館や各種ショップ、レストランなどが付属するほか、周辺には高層ホテルをはじめ商業ビルが林立し、数々のアトラクション、スパ、スポーツ施設、動物園などが入居して、全体として非常に大規模な一大娯楽施設を形成していた。飛鳥通り、城山通り、外濠通りの3本の大通りに囲まれたこの一角は「東京ドームパーク」と呼ばれ、震災直前の〇〇年には1日の平均入場者数〇〇人に及んだ 1。
〈東京ドーム〉は災害時の広域非難2場所に設定されており、震災時には幸い天幕屋根等にも大きな損傷がなかったため多くの被災者を収容した。また都内及び近隣では多くの病院が甚大な被害を受け、地方の病院への転院・移送が間に合わない多くの患者がここへ運びこまれた。政府は緊急医療体制の一環としてここに残った3医療機器や、被災をまぬがれた健康な医療従事者を可能な限り集め、外周を含めた〈東京ドーム〉の一角を仮設の医療施設とし、また周辺ビルのいくつかを接収して関連施設とした 4。関東一円の復興が徐々に進むにつれて、4年ほどの間に5、健康な者や軽傷だった者は次第に他所へ移って散っていき、修復のなった元の病院へ移った者もあったが、重篤な後遺症や障害の残った患者の多くはそのままここに残り、またこの間に直接震災の被災者ではない新規の入院患者も受け入れざるをえなかった6ため、その数はなお数百名に上っていた。もともと〈東京ドーム〉が医療施設化したのはあくまでも緊急臨時措置としてであって、復興が軌道に乗り次第すみやかに復旧してスタジアムに戻す予定であったが、患者の滞留が長引き、その間にいきおい仮説といえども設備も整ってくる7一方、〈東京ドーム〉運営側の複合資本としては一刻も早く球場を再開したかった。前身の公洛苑球場以来日本の国民的娯楽であった8プロ野球の主たる開催地のひとつが、いつまでも再開のめどが立たないのでは国民の士気にかかわるとの意見も強く、再開を望む声が多くあったが、他方、ここを本拠地としていた月読コロッサスの後援会社、月読メディアグループでは、国民的娯楽といえども球場のために病院を追い出すなどということは倫理的にも、またレピュテーションの上からもできかねるとして、代替地を求めてスタジアムを移設することを検討していた9。伝統ある公洛苑の地、都心の一等地であり最高のアクセスを誇るロケーションをそうして手放すのかということについては喧々囂々あったようだが、政府とAISAおよび関連子会社(ならびにおそらく〈銀麟〉10)との度重なる折衝によって、震災でほぼ壊滅的な打撃を受けた江濤区に代替地を得て、同地区の再開発プランを兼ねてここに新たに〈東京ドームスタジアム〉を建設することになったのである。
この頃までに、元の〈東京ドーム〉は、多くの患者を収容したままで部分的・段階的に施工改築が行われ(それにあたって騒音・振動対策等に非常な手間と資金を要したという)、ほぼ正規の病院としての体裁が整った。患者のほとんどは難治性の疾病あるいは長期のリハビリや義肢等の開発装着を要する者であったのと、仮設運営時代によんどころなく大いに出張協力していたのが大学病院関係者であったことから11、もっぱら先端医療に注力する病院として〈AISA中央病院〉が誕生することになったのである(この名称からわかるように、病院設立の時点では出資者はほぼAISA系列に一本化されていたが、その経緯は略す12)。また仮設時代には、被災した大学病院から非難13してきた患者を含めて多くの患者の治療を、複数の総合病院・大学病院関係者が協力して行うということが生じており、そこで生じた協力関係を一部そのまま有効な形で維持するため、すでに自然発生的に形成されていた共同ラボ14が改めて付設され、日本国立生化学研究所(以下、生化研)という看板が付された(こちらは「日本国立」という名称である15)。ごく近隣にある東京綜合大学の大学病院ないし研究所と競合するようであるが、むしろ立地が近いゆえに協力研究が密接に進むことが期待され、20xx年にはおおむね棲み分け16が確立したとおぼしい。現在では東京綜合大学および十協大学の関係者が研究開発をもっぱら主導しているようである17。
AISA中央病院と生化研は、もとの〈東京ドーム〉の結構を残しながら抜本的に改築されてできており、現在、おおよそ1階から4階が病院、5階・6階が生化研だが部分的に入り組んでいる。また周辺に林立していた雑居ビルも徐々に買収されて病院ないし生化研の付属施設あるいは入院・リハビリ・保養施設となり、互いに渡り廊下で連結されていて、全体として広いだけに非常に複雑な迷路状を呈しているが、一般の患者が出入りする区画はごく一部で、それもたいへんわかりやすく区分けされており「歩く歩道18」なども設置されているので、患者や介護者が道に迷いながらむやみに長く歩かされるようなことはない。職員にとっても同様である19。最上階の6階の屋根はドーム状になっているが、これは〈東京ドーム〉時代の空気膜式屋根をそのまま援用したもののように見えるけれども実は構造からして全く異なるもので、鉄筋と集成材および特殊強化ガラスで構成された巨大な温室のようなものである。スタジアム時代の座席は一部を残して講堂とした他は全て撤去され、外壁も講堂部分以外は傾斜が取り払われたが、その傾斜部分から連続するようにドーム屋根が全体の五分の四ほどを覆っており、中は巨大なビオトープとなっている。ドーム屋根に覆われていない部分は、非公開だがおそらく付属ラボと思われる20。
このビオトープとガラスドームの詳細については後に詳しく述べるが、ここでまず疑問に思うのは21、なぜまたよりによって〈東京ドーム〉跡地に立った病院+研究所の最上階を透明丸屋根で覆い、それが〈ドーム〉と呼ばれることになったのかである。実験ビオトープが最上階に作られることは不思議ではなく、それがガラスないしそれに類する透明素材で覆われることも不思議ではなく、透明丸屋根で覆われればそれが「ドーム」と呼ばれることもまた決して不思議ではないのだが、たまたま〈東京ドーム〉の跡地に建ったのがたまたま〈ドーム〉と呼ばれている、というだけのことではおそらくないだろう――〈東京ドーム〉の跡地に建てるから、〈ドーム〉と呼ばれてもおかしくないような何かを建てることにしたのではないか。仮にそうだとして、設計者ないし出資者のその選択に何か問題があったとか、ドーム屋根採用の根拠としては薄弱だとかいうわけではない。結果として〈ドーム〉と呼ばれることで、〈東京ドーム〉時代からの何がしかの連続性が感じられるのだが、しかし内実としては、かつては一大娯楽施設であったものが今では病院と研究所の複合施設であってその間には何の連続性もない、むしろ震災による断絶が挟まっているのは明らかである。〈ドーム〉という呼称が持つ過去との連続性は、却って過去との断絶性をも呼び起こす。この名称が持つこの両面性は、これをそう呼ぶ者や、これがそう呼ばれるのを聞く者の心理に22、何らかの陰翳23をもたらすのではあるまいか。それはどのような陰翳なのか。これが、この論文を通して問いたい筆者のささやかな問いである。
江濤区に移った球場もなお〈東京ドームスタジアム〉という名称であるが、病院+研究所が一応の完成をみて以来〈ドーム〉なる呼称はほぼ完全にこちらの複合施設を指すものとなり、スタジアムのほうはより古い呼称が復活して〈東京エッグ〉ないし端的に〈エッグ〉と呼ばれることが多いようである。〈東京ドーム〉時代にはスタジアムがしばしば「東京」を略して「ドーム」と呼ばれたが、それは類似の全天候型ドーム屋根式球場が他になかったからで、今では各地に同様の空圧式屋根球場ができているから「東京」を略せる場合は限られてくるのかもしれない。例えばドイツのケルンで「ドーム」といえばそれだけで有名なケルン大聖堂を指すものとして通用する24が、そもそも「ドーム」とは丸屋根のことであるから、丸屋根を持つ大聖堂は全て「ドーム」と呼ばれうる、それどころか「ドーム」とはもともと「duomo(神の家)」という意味だそうであるから、そういう意味では丸屋根がなくとも教会堂はみな「ドーム」でありうるだろう。各地・各都市にそれぞれの「ドーム」があるのである。固有名詞が省略されうるのは、その「ドーム」がその土地にとって無二のランドマークである場合である。
〈東京ドーム〉だったころは、確かにランドマークに違いなかったが、純然たる娯楽施設であったので、時として〈ドーム〉25と呼ばれてもそれは端的に丸屋根の形状と結びついた名称にすぎなかっただろう26。しかし現在〈ドーム〉という呼称には、どこか権威的な響きがある――いや、むろんかつても、野球というスポーツをことさら大切なものと思う人々、あるいはコロッサスのファンにとっては〈ドーム〉は権威ある場所であっただろうし、規模からしても「ドームでやる」ということは、各種アスリートやパフォーマーにとってはそれぞれに大変なことであったには違いないだろう。野球が「国民的娯楽」であることと、その最もメジャーなチームの本拠であること27とが、規模や先進的建築法とともに〈ドーム〉なる名称に「スポーツの殿堂」としてのひとかたの権威を与えていた。現在、施設の性質は変わっても、「国民のための施設」であることには変わりなく、その点にかかわる権威がおそらく引き継がれていると言えようが、「スポーツの殿堂」に替わっては、病院といういわば「神聖冒すべからざる赤十字」の権威、生化学という「科学」の権威が敷かれ、さらに、非公開部分の謎めいた神秘性がいやましに権威性を高めている。しかしその一方で、「国民的娯楽」「スポーツの殿堂」だったころの名称を何となく引き継いでいることによって、その権威性が薄められ、国民にとって親しみ深いものとして〈ドーム〉が呈示されるという逆の要素もまた、大いにあるのではないだろうか28。もちろん同じ呼称でも、世代によって受け止め方は異なるだろう。〈東京ドーム〉時代をよく知っている人と、震災後に生まれた人とでは、この呼称に感じる権威も愛着も全く別様のものだろうし、また震災で大きな被害を受けた人とそうでない人との間にも、感じかたには非常な差があるだろうと思われる29。以下、これらの要素をひとつずつ章を追って検討していき、〈ドーム〉はどのように見えるのか30、それは〈ドーム〉が〈ドーム〉と呼ばれることとどのように関わりあっているのか、について論じようと思う。
【論文の構成31】
序
第1章 「国民のための施設」
第2章 赤十字と社会的要請
第3章 「生化学」が担う期待と生命倫理
第4章 神秘の聖堂
第5章 透明さと不透明さについて
(つづく)
- 番外篇「『あゝ、荒野』をめぐる対話」
- 第37回
- 第38回
- 第39回
- | 第1-6回 | 第7-12回 | 第13-18回 | 第19-22回 | 第23-26回 | 第27-30回 | 第31回-36回 | 人物一覧
第39回 積もる話、秋の一日
晴れた午後、昭二郎は落葉を集めて庭先でのんびりと焚火をしていた。色づいた紅葉も枯れ枝もみなよく乾いて、なんとなく良い香りがする。山火事が危険だから、そんなに盛大な焚火はできない。地面に浅い穴を掘って、そこでささやかに燃すのである。奥玉は紅葉のシーズンで、主要な観光スポットは軽い山歩きを楽しみにくる近郊の人たちでごった返しているが、山深いこのあたりは至って静かで、そこここで鳥の声がするばかりだ。犬たちも陽だまりの中でのんきそうに遊んでいる。積んである落葉を掻きまわしていた立ち耳の太郎は、大きなコオロギが一匹あわてて飛び出したのを追いかけて、虫と一緒に飛び跳ねる。折れ耳の四郎は昭二郎のポケットの中身が気になるのか、まつわりついてしきりに匂いをかいでいる。昭二郎は相変わらず作務衣様のものを着て、頭に菅笠(たぶん御多気山の観光地で売っているものだろう)を被っているが、それで熊手を持って落葉を掃いているところは、見るからに田舎の隠居で、ちょっと徒然草かなにかに出てきそうだ。日の盛り、1時を回るころあいである。
不意に犬たちが耳をピンとそばだてたと思うと、庭の入口のほう――トロッコの終着点のあるほうへいっさんに駆けていった。坂道のてっぺんで立ち止まり、下のほうを見下ろしながらウー、ウーとかすかに唸りはじめる。誰か来たな、と思いながら昭二郎はなお落葉を掃いていた。あの様子ではよほど珍客なのであろう。登り道は曲がっていて見通しがきかないが、犬たちはまだ見えない何者かに向かってワンワンとやかましく警告の吠え声を上げはじめた。
どれどれと熊手を置いて見にいくと、坂道をちょっと下りた曲がり端のあたりに小柄な老人がひとり、息をはずませながら立って、両手を前に出してマァマァと揺り動かしながら犬たちをなだめようと無駄に奮闘していた。「そないに吠えんかてよろしがな」老人は言った、「ドロボーと違いまっせ。ご主人に会いにきたんやがな。通しとくなはれや、頼んますわ」それほど怯えているようにも見えないが、処置に困じているのは確かで、見ていて気の毒ながらちょっと微笑ましい光景である。「な、ご主人、いてはるのやろ。ショウジロはんや。わかるやろ。ショウジロはん!――昭二郎はーん!」
「ほい。おいでやす」
「あ! そこにいてはったか、何やお人の悪い――」
「おまえたち、ご苦労、もういいよ。あっちへ行って遊びなさい。さ、どうぞおあがり、お頭――いや幸四郎さん」
「どうぞおあがりて、なんやえらい堅固な防衛やなあ」
「防衛もなにも、守るもんとてあらしまへんがな。幸四郎さん歩いて上がってきなはったんか、そこのトロッコに乗ってきはったら楽やったのに」
「どないして動かすんかわからへんかった」
「はは、相変わらずお丈夫でよろしおすな。足腰お達者で、何より」
「皮肉かいな」
「そない僻まんでもよろしやないですか。ま、とりあえず焚火にでもお当たりやす」
「ほー。こらまた風雅やね。ほっこり……ていうより暑いがな。いまハァハァ言いもって登ってきたとこやさかい」
「汗で冷える前に乾いたほうがよろしおすやろ。いま何か飲むもんさしあげまひょ。番茶でよろしか、他に何ものうて。それか軽い水割りでも?」
「いや水でよろし、水いっぱい頂戴か。あ、犬! 犬なんともないやろねこれ?」
「心配おへん。太郎四郎、伏せ」
「ほほー。ええ子ぉらやな……あー確かに、風がひんやりしとる……焚火なかったらじき寒なったかもしれん。な、太郎四郎か、あんたら、どっちが太郎? 太郎! ……あ、そっちやな。ならこっちが、四郎!……うん、ええ子や、はー、は! まあ唸らんといてや……」
昭二郎が片手にグラス、片手に折り畳みのパイプ椅子をふたつ持って戻ってきた。「はい、おひや。それと――はい、こちらにおかけやす」
「こらおおきに。やれやれ、よっこらしょと」
「お天気がようて、よろしうおしたな」
「そやね。雨やったらどもならん。せやけどお天気のええ日はあんさん出かけとるかもしれんし、雨の日のほうが家にいてはるやろとも思たけどな。年には勝てんさかい」
「ようここがおわかりでした」
「なに、半年ばかり前にな、わかってはおったんやけども、夏は暑うて、よう来られんかった。今日ふと思い立って来て、どうやら正解やね」
「どないですかな。ちょうど、もてなしものも何もない日で。ああそや、いま栗焼いてたんや、あかんあかん、焦げるとこや――」
焚火を掻きまわして、いい具合に皮の焦げた大きな栗を7つ8つ掘り出すと、懐から懐紙を抜いて5つ載せて差し出した。「熱いさかい気ィつけやっしゃ」
「こらご馳走やな。おおきに。やっぱりええ日やった――けど、こないにくれはったら、あんさんの分少のなるやないか」
「4つやと縁起悪いですやろ」
「はー、はー! ほな、ありがたく一個よばれます。あ熱、熱……ふうふう……あー、こらうまい。ほくほくやね。これどないしたん、植えてはるん?」
「なに、そこらで拾てきますのや。誰のものとも知れん大きな樹がぎょうさんあるさかい。せやけど栗も今年はこれでもうしまいですやろ」
「いま1個たべたさかいあと4つある。縁起悪いさかい、1個あげる」
「いまもろたら4つになってあかんよって、ならわたしもひとつたべて……うん、あんじょう焼けとる……これでふたつになったよって、はい、1個もらいまひょ」
「はー、はー! せやけどショウジロはん、あんさんもう東京長いのやろ。今でも京言葉なん?」
「そら、あんたさんがいてはるよって臨時に戻ってますのやがな。もうだいぶん忘れましたがな。それにどないしても、関西のことばのほうが、関東のことばよりも強おすよって」
「そやろかね。東京言葉はキツイきついて皆いいますやろ」
「キツイいう話とは別に、音のな、ウネリいうか波というか、関西ことばのそれに東京ことばは勝てまへんな。そら相手のウネリを断つことはできても、自分の波に相手を載せることはできひんのと違いますか。そやさかいあんたさんかて、20年近く東京いてはってもずっと関西弁ですやろ」
「わたしが20年も東京におるん、知ってはった?」
「いやそれも、1年ほど前にたまたま人づてに――そのうち見えはるやろ思てました」
ポケットから干し肉のかけらを取り出して太郎四郎にやると、犬たちは喜んでひとしきり無心におやつを齧る。食べ終わると、くつろいだ様子でそろそろまた勝手にそこらで遊びはじめた。
「ええ犬だすな。甲斐犬だすか。猟犬?」
「セガレが少し猟するよって。もともとセガレの犬で、今留守しとるさかい預かってますのや」
「へえ、どちらへ?」
「またまた。そないなことかてもう知ってはりますのやろ、お人の悪い」
「ほー、ほー、こら参った。そら事のついでにいろいろわかりますけえどもな、そら習い性ちうもんや。懐かしいさかい、つい何かと知りとうなりますのや。あんさんがおらんようになってからもう30年近うなります。今さら、抜け忍を追うてどうのこうの――」
「抜け忍て、はは、どこの忍者ですのや」
「忍者や思われてもしょうおまへんやろ。今かて懐に小柄のんどられますやろ」
「小柄てこれ、ただの果物ナイフやないですか、栗剥こ思て――」
「あ、ムカデ!」
「!」
「……あ惜しい、はずしはったな。腕落ちたんちゃいますか」
「わざとや」
「ほんまでっか?」
「ムカデかて山の生き物やさかい、むやみな殺生はあきまへんやろ」
「ほー、ほー!」
「今頃出るんは珍しおす。もう冬眠してるころあいやけど、あんたさん歓迎に出てきたんとちゃいますかな」
「そらまた迷惑な。けど大きいかったな今の、鞍馬におるんと変わらんな」
「京都はムカデ多いさかい、若いころよう的にして、投げもって練習してましたけどなあ、ダーツだけは昔から得意で。けどそれだけや」
「家ん中にかてようけ入ってきますやろ。結界やら張ってはる?」
「あッは! んなもん効けしまへんがな、なんの悪意ものうて、ご近所さん顔してコンニチワー言うて入ってきはるだけなんやから。こっちゃも、ようおこしやす、お構いせえへんさかい噛まんとって下さいねー言うて放っとく以外どないしようもおへんですやろ。せんに、日官さん飼うてみたことありますのやけどな」
「日官さん。あー、ニワトリやね。ムカデの天敵やら」
「5、6羽放し飼いにしてたらよう獲ってくれるんやないか思て。けど逆に鶏のほうが狐に獲られてあきまへんでしたな。どのみちキリないさかい、今ではもう仲良うしてます」
「狐もおるんかいな。狐狸の里やね。悠々自適を絵にかいたようやなあ、見習いたいもんや。わたしも街の隠居暮らしで、きっぱり引退して久しいけえども――」
「ほんまですか」
「ほんまや」
「隠さんかてええやないですか。せっかくこないなとこまではるばる上がって来やはったんやし。何ぞ打ち明け話でも?」
「打ち明け話も何も、大概のことはあんさん知っとられるやおまへんか。そやからあんさんが不意に抜けてどっか行たとき、あんだけ焦ったんや。けど何も右往左往することなかったんやね。あんさんは信頼でけるお人や」
「そない持ち上げてもろたら、却って不安になりますな。せやけど今は今で、右往左往せんならんようなこと、またできてきたんやないですか」
「どないなこと?」
「……さあてねえ」
昭二郎は残り火にバケツの水をかけ、熊手で掻きまわして手際よく消すと、須崎をうながして、「さ、焚火もしまいになったさかい、ちょとお上がりやす。おぶ淹れますよって」
「ああ、そらおおきに。あ、そこの縁側でかまへんよ。景色がええさかいな。めったにこんなとこまで来ることあれへん、これが生涯最後やないか」
「またまた」
昭二郎が座布団を出してきて敷くと、須崎はちょこなんと座って、足をぶらぶらさせた。午後の陽だまりを浴びて、まことにのどかな光景である。いったん引込んだ昭二郎はややあってお茶とお茶うけらしきものの載った盆をたずさえて戻り、自分も並んで縁に腰掛けた。昭二郎も小柄なほうなので、ふたりで田舎着姿で並んでいる様子は、さしずめ仲良く年をくった寒山拾得という風情である。
「さ、おひとつ。ミズの実の塩ゆでと、山わさびの醤油漬けがありましたでな、おためしを」
「山わさび。こら珍しこと。何の実ィやて?」
「ミズの実。なに、こんくらいの丈の、草ですわな」
「草の実かいな」
「山菜やいうたらえらい高級に思えますけども、要はそこらの草ですな。けどどれがよう行ける行けへん、どないしたら美味しいいうのん、皆よう知恵貯めてきたる、えらいもんや思います。猿の知恵にはまだよう及ばんかもしれんけど」
「あ、美味しなこれ、ええ味や。あれやね、むかご、みたいなもんやね」
「そうそう」
「30年前から、ずっとこないして暮らしてはるのん?」
「なかなかそうでもおへん。わりあい街中にもいてました、震災前はな。それに子供がちっこい時分は、ようけもの食わさんならんし、学校もやらんとならんし」
「息子はんは大きうなって、北陸に出張やてね。あんさんもひとりで、寂しおますやろ」
「なに、犬がいまっさかい。はは……なにも〈銀麟〉に婿入りさしたんと違いますで、心配しはらんでも」
「ショウジロはんこそ、そない用心しなはらんといてえな。今のは探り入れたんと違う、ほんまの本気で、あんさんのこと思うて言うたんや――そら探りも入れとうおますけどな」
「ハッハッ」
「だいいち、あんさんが息子はン〈銀麟〉に婿入りさしたかて、何をわたしが心配せんならんことおますのや。ようしなはった言うて、むしろ褒めたらんなんくらいや。何を好きこのんでわたしが10何年このかた、坂東のド田舎なんぞに老残の痛い腰落ち着けてる思わはるねん」
「ほう、なんでやの?」
「そら、あんさんが早々とこっち来たんと同じようなわけやがな」
「どんなわけ? そういやコウシロさん、相変わらず町の遊び場、盛んに探索してなさるそうやね」
「あそび場?」
「くにまちの公民館やらにしげしげ出入りしてはりますのやろ」
「あー! ええ、そないなことなんで知ってはるねんな」
「実はその関連の学生さんから聞きましたんや。たまたま何やらの会で知り合うて、したら何や須崎ちうお年寄りが――」
「あそうなん!? そんなん初耳や。あの子ら一言も――」
「そらわたしが口止めしといたよって。その須崎ちゅうお年寄りがスーパーやいうて、わたしも会うたら面白いやろから紹介する言い出しましてな」
「はーはー、そらかなん!」
「せやから一応、わたしのことあんまし人に言わんとってほしいいうて。なかなかに気のええ、面白い子ぉらで、去年の夏ここで合宿さしたり――」
「合宿、あーなんやいうとったな! なんや、ここでやったんかいな」
「この夏にも2人ほど顔見せに来てくれはってね。よう鉢合わせなんだことやね」
「鉢合わしたら、そらそれでおもろかったやろけどね。そや、こたびあんさんのこと調べてもうたんも、その公民館と関連のあるお人なんや」
「あそう?」
「民間の、探偵の卵やちう。あんさんのこと調べてもらうのに身内にさすわけにいかんでっしゃろ」
「そうですな。お頭がなんや、しょもない抜け忍いつまでもねちこう追うてはるいう噂でも立ったらつまらんし」
「噂も立たんやろけど、下手に勘繰られたら面倒やさかいな。だいたい、なんで抜けはったん?」
「お手紙書いたやないですか昔」
「も一度、直接聞いとこ思て。住所も書いてくれへんさかい返事もよう出されへんかったやないか。今さらやけど、さき言うてくれたらよかったんや」
「言うたら止めはりますやろ。止められて、ごたくさしたらもう抜けられん思てね。これも今さらやけど、堪忍しとくれやっしゃ。あんたさんには、悪いことした思うてます」
「悪いも何もな。あんさんは学者さんやから、古い係累断ち切ってそっちゃの道選びはったのやろ思うてたさかい、それはええのや。けどいきなり、何の跡形もなく消えたよって、ほんま仰天しましたで。青天の霹靂や。家まで売ってあんさん、あの由緒ある――」
「由緒いうたかて、うちはもう傍流の傍流の傍流みたいなもんですよって。売ってきいひんだら東京来てたちまち飢えますがな、当座無職やのに」
「思いきりのええこっちゃね。占いの学校でも開いたらもうかったん違います?」
「あほらしい、そういうのん、幾らでもありますやろ。うちの流れ名乗るお人もようけいはるさかい、ひょとして本家の生き残りのお人かしらん思たりして、どれがイカサマやらわからんようになるよって」
「イカサマなん?」
「言うたらそうですやろ。結句、自分ひとりの気の持ち方の話で、一種の心理学ですわな。それが実地の役に立つことも、ないこともない――けどまあ、おおよそ大した役には立ちまへんな」
「そないなこと言うて。ま、話半分に聞いとこ。せやけど大概の学問ちゅうんは、そんなもんと違いますかいな」
「何が学問かによりますな。公民館でやるようなんは、そういうのんも珍しないやろけど、コウシロさん、そこがええんですのやろ」
「こ言うと言葉は悪いけえど、クソの役にも立たんようなこと学ぶためにな、週1やら月1やらで喜々として通うてはる人ら、わたし、そらもう好きやねんほんま。公民館はタダやけど、大層な金とる教室かてようけありますやろ。それ文句も言わずに払て、うた詠んだり本読んだりやね、あー、こんなことこの人本気で面白い思て、人生の励みにしてはるのやな、このこと、こんなんしてこの人の役に立っとんのやな、いうて、その人らの気持ちになりもって学んどったら、わたしにも面白うなってくんのや。そんでおもろなってくると、ほんまもんの学者さんの話きいたり、書いたもん読んだりもすんねんけど、それはそれでな、なんでまたこないアホみたいなこと、立派な先生がええ年して目の色変えて言わんならんのやろ思たり――」
「ハッハッ!」
「――せやけどそれも、必死こくだけのわけがあんのやろ思て見てたら、やっぱおもろいいうか、いとしい、いうか――もうこの年になるとな、誰もかれも、なんや愛しうてならん」
「お頭の口からそないな言葉出るん、30年前やったら思いもよらなんだことやね」
「せやろか? そら所詮は年寄りのたわごとや。誰もかれも愛しいいうたからいうて、誰もかれも同じように大事にせんならんいうわけやないさかい。それはそれ、これはこれや」
「捨て念仏に投げ合掌、いう言葉がありますな」
「たいがいな悪人でも昔はそのくらいのこと、したもんや。せやけど、わたし悪人と違いますで。悪人いうんは、そやね、四方津(よもつ)みたいなんを言うんちゃうかいな」
「四方津さん。あんたさんの跡目ついだお人ですな。どないなお人でしたかいな」
「あんさん会うたことおまへんかったかな。四方津の筋は近畿に残っとるうちでは強いほうやが、強い筋ほど形骸化してものの役にも立たんようんなったあるんは、ご存じの通りや。プライドばっかり高うて欲が深うてどもならん。けど、それが形だけやのうて、自分は何や特別なもんしょってるいう意識が、当人にたまたまホンマもんの実力与えることもある。突発的で、歪んだ実力やけどね。四方津は、そういうひとりやね」
「確か、えらい病身のおひとやなかったですかな。ほぼ人前に出んちゅう話、聞いたような」
「せや。いやむろんわたしは何度も会うて、よう話もしとりますけどな、話はまともや、ええお人やで。ええ、ちゅうのはつまり人をそらさんしポイントもそらさん、いう意味やが、まだ若い――今いくつくらいやら、そろそろ50超えはったんちゃうかな、わたしが最後に会うたとき40そこそこやった。それであれは仮病やな」
「あそう?」
「けどほんまに病気やないんかいうたら、病気でもあるんやね。体の病か精神の病か、どっちともいえん。独特の、言うたら穏やかな壊滅思想のあるお人でな」
「壊滅思想」
「けど、それでええ、この人がええ思てね。〈陌陽〉はこのお人に委ねたい、そう思たんや」
「けどみんな、それでええ言わはったん? 反対する人いてはったんやないですか」
「反対するもんなんぞおらへんよ。跡目継がすいうたかて、何も襲名式やらするわけやおまへん、後になってさらっと回状一枚回すだけやさかいな。反対する者がおったとして、その反対をまとめる機会も、まとめる者もあらへん。ようまとめるとしたら、当の四方津しかおらへんのや、ふ、……ふ、ふ」
「なるほど、そういうことですのやな。ちょうど〈銀麟〉の代替わりと同じ頃でしたかな」
「わたしなあ、ほんまは、こない長いこと東京おるつもりと違たんや。せいぜい1、2年見聞して、その見聞持ち帰ろいうつもりやったんやけどなあ、ずるずる居たっきりになってもて」
「いま、おひとりですか。誰かいてはります?」
「最初は、入れ替わり立ち替わりようけの人おったけど、もう順次、帰したって、今は佐分利(さぶり)だけだす」
「ああ、佐分利さん」
「夫婦でついてくれとってね。最期はあれが看取ってくれますやろ」
「……」
「〈陌陽〉はなあ、古い古い結社や。〈銀麟〉なんぞとは比較にならしまへん。古い古い、それこそ室町の「こないだの戦争」にまで遡る、組織ともいえんようなネットワークでっしゃろ。一方の〈銀麟〉は、元は言うたら近代ヤクザや。祖父江が出てそれも脱皮して、今やパリパリの、何やこう――何ていうたらええんかいな、言うたらポストモダン・グローバル・ヤクーザ、ちゅうのんか――」
「ヤクーザ、は、は」
「――何ちゅうのかでっしゃろ。しかも学術団体と組んで、JIPたらいうところまで震災で一気に食い込みよったうえに――あ、そや! 忘れるとこやった、ひとつおもろい話あんねや。あんさん、菅原ヒトミいう学者はんご存じでっしゃろね、東大の」
「菅原人躬。3年ほど前から評判のお人ですな。AISAの御用学者やいうて悪口いう人もいてはるようやけど、見たとこ、必ずしもそうでもない」
「せや。そのお人がな、2年ほど前から何や新し学会つくるいうて、人あつめて動いてはったんやけども、一方の中核担うはずやったお人がな、意外に中国文学の人やったけえどそれが急に亡うなってしもたんやね、心臓発作か何ぞで。それでまた構想建て直さんならんようになって一旦その学会の話は頓挫してもうたのやて。でその亡うなった人ちゅうんが、ほれあのJINOたらいう――」
「ああ――それ福富吉男さんやないですか、亡うなったのて。わたしよう知ってました」
「せやろせやろ。せやないか思たんや。あんさん、どことのうJINOに出入りしてはるいう話やったし――」
「いや知り合うたのはJINOやなくて、そのずっと以前からやってんけどね、べつの、中文関係の学会で――あそうですか、菅原さんと。その話は聞いたことおへんかった。福富さん、誰にも言わはらんかったん違いますかな」
「ほんの中核メンバーだけが知っとって、ぎりぎり立ち上げのときまで秘密にしよ言うてたそうや。隠し玉やね、言うたら」
「隠し玉。そらま、確かに福富さんは根っから学際的なお人で、ほとんど破天荒なほどでしたけどな。大学にいてはる間はそれは大人しうしてはったけれども、それでJINOの御大連とも気が合うてたんでしょう。せやからいうて、それで隠し玉いうほどの破壊力は――もひとつ、何ぞのうては――ああ、そうか――」
「それや」
「それやて、けどそないうまいこといくとは思えへんね。菅原さんも、大胆なこと考えはるけども、まだ少々、時期尚早いう感じやね」
「なんぞそないな卦ぇでも?」
「卦にも及ばんでしょう。だいいちJINOの御大たち――薄田さんや小池さんは噛んではらへんかったやろし。自分らがまた政策方面に復帰するやら、そないな気ィ毛頭ないお人らですさかい、JINOも今のところはもう研究所いうより飲みサーみたいな有様になってるもんを、今さら表舞台へ引っ張り出したかて――ああ、せやから福富さん、御大らにも言わんと内緒にしてはったのやな。不錬にも言うてへん思いますな」
「不錬。ああ、あんさんの息子はんのテテ御やね」
「は、は、もう誰の息子やら」
「福富はんのお友達やったんか」
「飲み友達やってね。確かに不錬はこよのう〈銀麟〉と密接なとこにおるお人やさかい、福富さんといろんな話もそら、しはったやろけども。菅原さんがほんまに欲しいのは、JINOやのうて〈銀麟〉との接点ですやろ、あの本見てもな、そこが書けん、論が立たへんいうのが、困ったことや思てはるんがようわかります。けど不錬はあくまでも実践のひとで、べつだん論客でもおへんしね。今んところ、〈銀麟〉に近いとこで、アンダーの立場でもの言って、それで広う受け入れてもらえる論客いうのん、誰もおらへんのと違いますかな。せやけどコウシロさんなんでまたそないなこと調べてはりますのや」
「それがやねショウジロはん。くにまちの公民館の行き帰りに、えろう感じのええジャズバーがおますのやが、小ぢんまりした落ち着く店でな、たびたび寄ってカウンターで聞き耳立てとるとな、そこ最近、一箸大学の偉い人らがたまに来てはんねん、副学長やら何々科長やら。そんで、なんとか学部で菅原はんを特任教授で呼びたいいう話が、せんにあったんや」
「ほー」
「なんや東大の向こう張って、JIPのややこし問題いよいよどないかするちゅう研究会、全学的に構築したいような話で、けど〈銀麟〉のことわからん、西のことはもっとわからん――」
「は、は、は」
「それで菅原はんに人づてに打診して誘うてみたけえど、なかなかウンといわん、なんでやろみたいな話やってね。へえ、なんでやろとわたしも思て、これちょこっと調べてみたろ思て、ああ、その例の探偵の卵に、ついでのことに頼んでみたのや」
「その探偵さんの卵さんとやら、どないなお人なん? コウシロさんの正体知ってはります?」
「正体てほどのこともあらへんがな。なかなかに有能な、今んところは使い勝手のええお人やね、先々はわからんけえど。それにそのお人、なるべく傍に置いて見張っとかんならんことのあるさかい」
「へえ。……ま、訊かんときましょう。そんで、菅原さん、なんでですて?」
「いやそれはわかりまへん、直接にはなあ、けどそないな具合やさかい、最先端社会科学オンリーで攻めるいうんが気に入らんいうこっちゃろ思うねんけどね」
「一箸は社会科学の大学やからね。それ押し出してトップに立とう立とうとシャカリキになってはる」
「まあけど、そないなわけで福富はんの件はわやになってもたし、結局一箸のそれに加わるかもしれへんよ。副学長の、御子神はんいうんが、次期学長と目されとるけどもこれもちょっとした傑物らしさかいな、説得されてまうかもしれん」
「一箸て、もともと福富さんがいてはったとこやないですか。例の学生の子ぉらがいてるとこですやろ、GenSHAいうんは。それでも菅原さん気が進まんいうんやったら、福富さんの他の教授連のことは評価してはらへんいうことやろか」
「ただ縁があらへんかったいうだけかもしれんけえどな」
「その御子神さんいう副学長が知恵はたらかして、うまいことGenSHA持ち上げてくれはったら、菅原さんも気ィ取り直して一箸と組みはるんやないですかな」
「GenSHAて、どうなん? 福富はんの代り務まるような論客いてはるの?」
「さあ、今のGenSHAがどないなってるのか、わたしもそれほど知らんのです。福富さん級というか、御大級の目立った論客いうんは、今ちょっと欠けてるかもしれまへんな、ちょうど代替わりで。けど論客いうもんは、育つときには育つ、それ待つよりほかどうもならんさかい。今ちょうど、もう数年ぶりに新規の採用人事にかかってはるいう話やけども、どないなひと来はるやら――それでその学会いうのんは、頓挫して、それで?」
「それが可笑しうて。なんや福富はんが急に死んだんは、そのプロジェクト邪魔に思た誰ぞに消されたんちゃうかいうて――」
「あ、は!」
「そないな噂がメンバーの間に飛び交うてな、何人かえろう怖気震うて抜けてもたいう話で」
「いやそれほどのプロジェクトやないでしょう、なんぼなんでも。しょいすぎと違いますかな、あれ、普通に自然死ですやろ」
「ほんまに?」
「そらそうですやろ。もともと心臓えらい悪かってんやから」
「そないな卦ェが?」
「卦ェも何もな。自然死は自然死に間違いおへんやろ。けどあのタイミングであないして倒れて死にはったんが、星の配置、大きう変えてしもたんは確かやね。縁起よすぎる名前も考えもんや思いますな」
「ははあ」
「似たよな疑い持ってるいう話、わたしも聞いたことあります。けど自然死やないんやないかいうより、何が原因でそない急に発作おこしはったんかいう。何ぞよほどショックなことあったんやないか、言うてはったお人ありましたけどな。その学会、そしたらあれやね、社会科学と人文学をうまいこと混ぜもって両輪にしよいうコンセプトでしたのやろな」
「そうらしいけえど、うまいこと混ぜるいうのん、どないするもんなんやら、こればっかりはわたしにはわかりまへん、そら学者はんのやるこっちゃ。あんさんやったらどないしはる」
「そら、社会科学やら人文学やらの区分なくしたらええだけのことやけどね」
「そう聞いたら、なんや簡単そうやね」
「けど実際はそう簡単にはいけへんでしょうな。それぞれ、そういうカテゴリに――言うたらアイデンティティやら、情念やら、深あく絡めてしもてる人多いさかい。それも優秀な人ほど、区分守ることがおのれの分守ることや思てはるところあるんは、結句それが人の性(さが)いうもんなんやろ思います。学者やから合理的にもの考えるやろ思たら大間違いや。そないな噂かて、誰かがわざと立てたん違いますか、区分崩すんイヤや思てはる人が、実は中核にいてはったとか」
「勘繰りすぎと違うん?」
「学者のそないな情念て、案外ねちこいよって」
「はー、は! そないしてガクモンの中にも、筋やら流れやらがでけて、それが長いことかかって、何や決まったもんになっていてまうのやろね」
「そない長いこともかかりまへんやろ。流派つくるには20年くらいかかるかもしれんけど、流行つくるのは一瞬やね。……おぶ、のうなりましたな。淹れかえてきますよって」
「あーおおきに。もうそない構わんといてや。……なんの話やったかいな……太郎! 四郎!……おお、来たか。まだ少うし、用心しとる? まだそこよりこっち寄らへんのやな。あ、そんでも尻尾ゆるーり振ってくれはるのやね、おおきに、おおきに……ええ子ぉらや」
「……はい、どうぞ。趣向を変えて桑茶にしてみました」
「桑茶。ほー。これもお手製?」
「いやこれは残念ながら。あとこれはサルナシの実の砂糖漬け」
「サルナシ。何や珍しいもん次々出てきますやないか。あんさんの保存食違いますのん?」
「なに、これは去年果実酒作った残りで、酒のほうはとうに飲んでしもた」
「うん、なかなかイケます。わびさびした味やね、懐かしい甘みや……美味しいもんやな」
「……それで、何の話でしたかいな」
「あそうそう、つい余計な話してもうて……そう、筋いうたらな。〈陌陽〉いうのん、べつだん正式な名前やないのはご存じでっしゃろ。もとはただ「筋」とか「流れ」とかいうて、それで通じるもんには通じる、それで構へんかったんやけえど」
「筋者の筋ですな」
「そう、そのスジモンいうのがそもそも「筋の者」いうとこから来とんのやから」
「陌いう字は、道、あぜ道いう意味ですもんな。綺麗な名で、わたし好きですよ。縁起はあんまりよろしゅない――はっきり言うて、ぎらぎらに不吉やけども」
「はーはー、以前もそ言うてはったね。それで逃げはったんちゃうん?」
「そういうわけでもなかった思いますけどな。いずれにしてもわたしなんぞは、いても、ただいてるだけやったんから」
「それ言うたら誰かてそうやがな。四方津の筋かて須佐木(すざき)の筋かて、そないな筋があります、その筋を、人とカネとモノがこう流れるようになっとりますいうだけのこっちゃ。流れていくだけで、何も手元に残るわけやおまへん」
「筋にせよ流れにせよ、どこそこに実体があるようなもんと違いますよってな。川は、どこそこにあるやもしれんけど、流れは、そのときたまたまその川のあるとこを流れてあるだけですな」
「せや。目に見えんもんや。筋は、それに沿うて人やら物やらが移動してなんぼの筋で、移動する物は見えるけえど、移動の力は目に見えへんよってにな。せやけど〈陌陽〉、百の太陽いうんは、千の川やらと同じで、目に見えるもんや。呼び名そのものは古うからあったんかもしれんけど、そういう、形をはっきり見せるような名前、表に出すようなったんは結局、戦後になっていよいよ近代ヤクザに本気で対応せんならんようなことになったからやろ思うのやね。ほれ、あのおひとが人間に下りはったさかいな。そのうえ近頃では海外からもいろんな勢力が入ってくるんを、それなりにおさめていこ思たら、筋やら流れやらでは外のもんにはまるきり話通じんよって。うちは、言うたら土倉、地付きの金融屋で、あくどく稼いどるあたりから利得吸い上げて自治体へ戻したるかわりに発言権を得るいう、それだけのことやけども、〈銀麟〉と違うて自前の兵隊がようけおるわけやないさかい、筋の権威と発言権だけで回していかんならん。それでも幸か不幸か西のほうは震災が及ばなんださかい昔のまんま、価値観も、やりかたもまあまあ通用しとるとこがあるけえども、目に見えん筋はどんどん薄れて、流れは枯れていきよる。それでどないするいうても、〈陌陽〉は何もせん、何もでけんのや。太陽が百あるいうても、ほんまにそれだけのことで、百集まったからどうなるいうことでもない。〈銀麟〉が全体として一匹のケモノで、全体として機動力があるんとは違います。あれは、若々しい組織やね〈銀麟〉は」
「文字通り平均年齢がぜんぜん違いますさかいな。派手に喧嘩しまっさかい平均寿命も短いですやろ。近代ヤクザは、ことに戦後のんは、世の中からあぶれた若いもんを拾い上げて吸収する役目、いくぶん担ってたとこあるのやろけど、〈銀麟〉はいま相当そこに力入れてるようですな」
「〈陌陽〉にそれだけの気概も力ももうまるでおまへんさかい、そこも大きな違いのひとつやろね」
「赤色巨星と白色矮星の違いですかな」
「うまいこと言いはる。もう今ではそこらじゅうに近代ヤクザの組やら水際組やらがきりものうできてあって、お互いしょっちゅう喧嘩しとるのん、それだけ見たら東も西もおんなじやね。裏に〈陌陽〉があろうがなかろうが何の変わりもないようなや。わたしかて頭やいうても、ほんまのとこは何もすることおまへんかって、もう暇で暇で――」
「そないなこともないですやろに」
「ほんまやで。公民館でも行て遊んどるほかに何がでけるいいますのん。目に見えん筋の網目から、いろんな組やら、自治体やらまで、まるで乳房雲みたく不吉にぶら下がったあるのやけど、それがみなもう、今にもポトリポトリ落ちそうやね。枯れ果てた筋、かろうじて支えとるようにも見えるんが、もう古い古いやつや。血ィや。血ィと、それ、情念や。あかん。――あんさんは早いとこ見切りつけて去にはったけえど、わたしはそうもいかんで、なおあれこれやってみたけえども、ついに、何ともならんかってね」
「四方津さんに後任せた言わはりましたな。けど実質的には、〈銀麟〉に委ねるおつもりですのやな」
「いいや、何もせえへんよ。委ねるいうてもな。実質的には――放っといたら自然に〈銀麟〉が取るやろいうこっちゃ。まだあと10年20年はかかるやろけどな」
「〈銀麟〉が取るいうことは、やがて表に回収されるいうのんも見込んではる?」
「さあそれは、〈銀麟〉次第やろね。AISA次第言うてもええけども。ふたあつの駆け引きがどないなっていくにしても、〈陌陽〉が〈陌陽〉として介入する余地なんぞもうどこにもおまへんのやから、〈銀麟〉の側にそれとのう立つほかに、言うたら有終の美を飾る術はないいうこっちゃ」
「〈アゴラ〉を取られたんが、やっぱし大きかったですかな」
「はー、はー! あれはほんまに壊滅的や。もうほんまに一瞬のことで、あれよあれよ言う間もなく宮城まるごと取られてもた。それも半ばあのおひとのご意向いうんやさかいな、そんで京都へ帰ってきはるんか思たら帰ってもきはらへん。むろんあのお人自身は〈陌陽〉とは何の関わりもあらしまへんで。「こないだの戦争」のころは、あったちゅう話もきくけえど、そら話だけのことで、けどそういう話が、残りの情念の根っこにはいまだにあるのやね。ひどい裏切りやいうて悲しむ人もあったけえども、そないな手前勝手な情念、向ける相手ももうどこにもおらへんやろ。そないな、言うたら歴史の怨念みたいなもんは、当然どんどん薄れて来たあって、そのうえに〈アゴラ〉や。あかんやろ。もう、ようやっと、しまいにせんならん。600年越しに――」
「……」
「四方津やったら、それがでける。当人の気持ちと関わりのう、自然とそうでける。四方津と――あんさんや、ショウジロはん」
「ええっ!?……こらまた唐突な」
「ひょっとして、今もまだあるんと違いますのんか。連絡」
「……連絡。ああ。……手段は、一応あるようなやけど、いっぺんも使こたことおへん。もう何代も、ひょとしたら十何代も使こたことないんやないですかな。笑うほどアナクロな手段ですえ。使こても、ほんまに届くんやらどないやら」
「そうか。そんでも、そのうち、使こてもらわんならんときが来るかもしれへんで。あのおひと、早間でおとなしうしてはるけえど傑物やさかい、勝手に動かれたらどないなことになるか、それ以上に、何やおかしな連中に担がれはったりしいたらわややさかいな」
「……それ言いにおいでなはったんか」
「それもある。なんやソーシャルメディア始めはったやないか最近。夢人たら幻人たらいうアカウント名で。わたしもうそれ見て開いた口ふさがらんかった、はー、はー」
「ああ、わたしフォローしてますわ。わりとおもろいですな、あれ。綸言集やらのまとめサイトもあちこちできてて。あれ役所は止めへんのですかいなあ」
「止められへんのやろ、傑物やさかい。イマゴミノオたら……危なっかしうて、はらはらしてかなんわ」
「けど、それだけやないでしょう」
「へ?」
「いや、おいでなはったんは。わたしがいてた最後のころ面倒みてはったお子、「坊」て呼んではった、あれやっぱり――」
「しー。それ言うたらあかん。せや。あんさんもたびたび家庭教師つとめてくれはったけえど、当時より大概秘密にしたあったさかい、今もう誰もそのこと知らん、あんさんくらいや。そやからあんときあないにアタフタしたんやけどな、よう誰にも言わんとっておくれやった」
「いや、ひとりにだけ、実は洩らしてます。それもごく最近になってからやけど」
「……」
「そういう枢要な情報は、誰かひとりには、それとのう洩らしとかんならんもんですやろ。万一寝首掻かれた時のために――」
「誰が寝首掻く言わはるねん」
「言葉のアヤですがな。わたしの他にも誰か知ってないとも限らんのやから、万一悪用されたとき対抗できるだけの、せめてヒントは残しとかんなりまへんやろ。大丈夫、信頼できるお人やさかい」
「……あんさんがそない言わはるなら、それでええ。それが誰かも訊かん――訊いても言わはらへんやろし。息子はんとは違うのやろ」
「あれは、婿入りはさしてないとは言うても、何というても〈銀麟〉に近すぎます。ほんまに、学問だけやっててくれたらええもんを――育て間違うたわ」
「陰陽師でもようけ間違うもんなんやね」
「そらもう間違いだらけや。むしろ人よりようけ間違うんちゃうか思います。せやけど養子いうんは、あれやね、何の種やらわからんまま育てるさかい、草になるか樹になるか、どないな花咲くやら、咲いてみるまでまるっきりわからんとこが面白いですな。もう2、3粒拾といたらよかった」
「はー、はー! 何ちゅうても、あんさん、わたしよりかハタチも若いんや。わたしはもう先がないけえど、あんさんにはまだまだ、いろいろ見といてもらわんならん」
「見てるだけでよろしのか」
「見とるだけでええ。坊のことも、どうか見といたってや。人間、どない年とって、ろくに何もようせんようになっても、見聞きするだけは、めいっぱいしとかんならん。それが年寄りの義務ちゅうもんや。あんさんもそないして犬と暮らして、行いすましたあるごとやが、ほんまに大変なんはこれからやで、ええか」
「……は」
「な。やさしうして、寝首掻かんといたるよって、かわりにわたしの最後の頼み、きいたってや、頼んます」
「……うふ、ふっふ。コウシロさんあんた、なんでまたそないな無意味な脅し、付け加えはるのや。怖いやないですか、相変わらずの〈陌陽〉流やね。安心しとくなはれ、言われんかて、枢要なところはずっと、見てるだけはわたし見てますさかい。そのために東京にいてるんやから」
「おおきに――おおきにな。ああこれでもう思い残すこともないようなった」
「またそないなこと言わんとってくださいよ。何事もないようなら、あと10年は普通にいけるんやないですか」
「はー、はー、それ確かに、何も言うとらんのと変わりおまへんな」
「せやから気ィの持ち方ひとつですがな。コウシロさんどないしはります、山やさかい、うかうかしてると4時には下、真っ暗になりますえ」
「そやね。まだ3時過ぎやのになんやえろう暗なってきた。急がんと」
「何やったら、泊まっていかはったらどないです。誰もいてへんさかい。無理して帰らはるより、夕餉に、一献さしあげますよって」
「やさしこと言うてくれはって、おおきに。けど、せやね、やっぱり帰ります。今日こないして元気なうちに帰らんと、明日は明日で体調どないなるか、年寄りはわからへんよってな」
「……ほなら、バス停までお送りしまひょ。そや、ええもんがある――」
「どこ行かはるのん?……なんや太郎四郎、寄ってきてくれんのんか。やさしな……ちと、撫でさしてえな。よしよし……よしよし、おー、ええ子ぉらや。ええ子ぉらや――」
「……お待っとうさん、これ、よかったらお持ちやす。小さいビンやさかいお荷物にもなりしまへんでしょう、マタタビ酒」
「マタタビ酒。ほー、こらまた珍しいもんを。これもお手製?」
「滋養強壮、血行促進によし。それほど美味いもんやおへんけど、寝酒に、ほんのちょっぴりずつ飲みなはったらええ」
「ちょっぴりやね」
「飲みすぎたら却って心臓に悪うおす」
「ドッキンドッキンしそうやね。ほな気ぃつけて頂戴します、おおきに、ありがとう。あ、そや。そんならお礼に、これあげる」
「何やら。襟に縫い込んではって――お守り?」
「いいや。青酸カリ」
「……はッ……は、は、はははは」
「笑い事やないで。何があるかわからん思て、とち狂うて持ってきましたんや。結局要らんかったさかい、あげる」
「あげる言われても――コウシロさんそれ、もう50年くらい長ーく縫い込んで忘れてはったんを、今ふっと思い出しはっただけですやろ」
「実はそや。これな、中学生のころ着とった半纏やねんけど、年寄って体縮かまったさかい着られるかしらん思て今日、押し入れから出しもて着てみたんや。可愛らしやろ。どや」
「お似合いですな。ほならやっぱしお守り違いますかそれ、んなもん貰えますかいな」
「遠慮せんと貰といてや。今もうそう簡単には手に入らへんさかいな。古い古いやつやで、包やらもうボロけてある、ビニールに入っとるは入っとるけども、このまま何度か丸洗いしたさかいもう効目も何もないかもしれん。まお守りっちゃお守りやな、そのうち何かの役に立つかもしれへん」
「そないなもん何の役に立ちますのや……けども、なら記念に頂戴しまひょ。おおきにありがとう」
「ほな行きまっさ。お茶やら、えらい世話かけてしもたけえど、珍しいもん食べると寿命が75日延びるいいまっさかい、おかげさんでだいぶん延びたやろ。なあ太郎四郎、元気でなあ」
「えらいなついたようですな」
「名残惜しいこと。ほんまここ、ええとこやね。鞍馬の山、思い出します。ムカデはん、もうおらへんかな……これ、トロッコどないして乗んの?」
「そこへ座って、そこへ足かけて、そうそう。それでレバー引いてもろたら――」
「あ、動いた動いた!」
「しっかりおつかまり。下までご一緒さしてもらいます。太郎四郎もおいで」
「あーなんや子供に返ったようや。サッパリして、ええ気分や。楽しなあ――楽しなあ」
(つづく)
2025.8.14
(おりば・ふじん/一橋大学大学院言語社会研究科)