第37回 柘榴と夾竹桃
教会の庭墓地にて。薄田甚五郎、小池信勝、トニ・リーファン。
「おやあ? おやおや、こりゃ、御曹司じゃあねえか、こいつあ驚えた!」
「どうも、めっきりご無沙汰いたしやして」
「こんなとこでお目にかかるたあねえ! 今日は、あれ、お忍びかい御曹司?」
「やめてくんなせえ、その御曹司ての、一体どこの御曹司だてえんで。そういうご老体がたこそお達者で、何よりで」
「ありゃ、さっそく逆襲だい、油断ならねえ」
「しかも複数形だね。トバッチリだ」
「あれかい御曹司、今日は、亡き先代の名代かい? さすがに義理堅えもんだねえ」
「なに、そういったわけでもねえんですがね。JJには以前、襲名のときにちょいとした恩がありやしてね」
「襲名のとき? へえ、そりゃあ初耳だね? 恩って?」
「ええ、ま、ちょいとね。けどご当人はそんなこたあ一向にご存じなかったんで」
「ほほっ! あそう、そりゃ、大いにありそうなこった。ノブさん、おめえ聞いたことあるか、何か、JJから?」
「いいやあ、なんにも」
「だろうねえ。へえ、ちょいとってな、どんな? 面白えから聞かせなよ、弔辞がわりに」
「いやどうってこたねんですがね。襲名決める会合んときに、ちっとばかし実はモメそうになってたとこへ、ちょうどのタイミングでJJがね、何だかでおれに礼を言いたいとかで――番兵どやってスリ抜けたんだか、ほらああいう感じの、空気読まねえフワフワーッとした感じで入ってきちゃってね。そんで例の天真爛漫な笑みでもって、英語混じりの片言でナントカカントカ!って子供みてえなことを言葉少なに喋っといてからおれの手を握ってこう、ぶんぶん!ってやってね、ハグして、そのまんまスーッと帰ってったのが、まあその場の流れってか、空気の質を変えてくれた――てなようなことなんですがね」
「へえー! あそう。そんなことがねえ。はあー、そりゃいかにもJJらしいや」
「番兵スリ抜けたってとこがいいね。元気なころはそんな感じだったね確かに。めったに出かけねえけど、出かけるときゃ唐突にわりと恐れ気もなくどこへでも行って、それでちゃんと用済まして帰ってきてたもんな」
「区役所行ってくる大丈夫だなんつって出かけて、花屋行って花買って帰っただけなんてのもザラだったけどな。ああ、御曹司おめさんが襲名なすったなあ、いつだっけ、もうかれこれ10年か、いやせいぜい7年か8年……立派になんなすったね」
「かたじけねえお言葉で。先代が亡くなってからこっち、すっかりご無沙汰しちまって」
「そりゃあお互えさまでね。けどおめさんがよくやってなさるこたあ、常々目にもし、耳にもし――」
「ええ、こっちも、ダンナがたが始終〈アゴラ〉のあっちこっちで盛大にトグロまいてなさるのを陰ながら拝見してね、頼もしく思っておりやすよ」
「こいつは敵わねえ」
「あんまり飲みすぎねえがいいですぜ、薄田のダンナ。こう言っちゃ何だが、もういいお年なんだからね?」
「あれっ、ヤクザに説教されてるよ。ヒヨっ子が何を言やがる――」
「うちの若えのがさんざ呆れていまさあね」
「若えのって、ああそうか、シロちゃんがね――あれ、そういやシロ坊主は今日はどしたんだ、あいつ、来てねえのかな?」
「ええ、シロは今日は来られねえんで。ちょいと怪我さしちまいやしてね」
「怪我?」
「なに、命に別状はねえんで、そうご心配はいりやせんよ」
「んならよかった。危ないねェしかしキミタチは、ええ!? ああいうね、若い有望な命をね、あたら無駄にしねえようにしてもらいてえね、頼みますよ御曹司。するてえとあれかい、今日のことはシロちゃんから?」
「え、地獄耳なんで」
「さっき、受付でティエンチンとちょいと話してたみてえだったけども?」
「え、そう!? なんだ、ノブさんあんた気づいてたのかい?」
「いや、どうもそうじゃねえかなと」
「なんだ、言ってくれよノブ公」
「はっきり見えたわけでもねえからね。あの夾竹桃の木の影に隠れてさ。でかいねあの夾竹桃ね」
「でかくなったね。あんなでかいのは珍しいね、まだ咲き残ってるけども、真夏はまったく見モノだよ――なに御曹司おめさん、チェンツとも知り合い?」
「知り合いってほどじゃあねえ、シロんとこでいっぺん見たことがあるだけですがね。あれですかい、今日のこの会葬の手筈は、全部あの子が一人で?」
「そ。案内状の送付から、段取りから、庭のこの立食の設えから、みんなね。おれらはさっき棺をかついでそこの穴へ下ろすのを手伝っただけ」
「まあ、JJがそう急でもなかったからね。前々から少しずつ準備してたんだろうけどな。急だったらこうは行かねえだろ、さすがに」
「半年くれえ臥せったかね? 最後は苦しみもしねえで大往生だってから、そりゃまず何よりだったよ。今日もいい日和で――ってのもおかしいけども」
「まあ、でも、いい日だよ、爽やかでね、秋らしい。こういうのもJJの人徳かね」
「埋めたての墓を見ながら飲むってのも、ちょっとしたもんだね。雨だったらどうする気だったんだろな? 礼拝堂で飲むんかな」
「いやあ、たぶんそこらの植木の間に天井シートでも張りめぐらしてね、意地でもここでやったんじゃねえかな」
「ああそりゃ、ありそうなこった!」
「牧師のマネごともみんな自分でやってやしたね、さっきね。前からちっと思ってたんだが、ありゃなかなかミドコロのある坊主じゃねえですかい?」
「へえ、おめさんの目からしてミドコロがあるってな、どんなミドコロだい? そいつはちょいと――」
「剣呑だ」
「剣呑だね」
「なに、うちにもああいう珍しいのが一匹いたら面白えなと思いやしてね」
「珍しいはよかったね」
「ま確かに、ミドコロがあるかどうかは別として、珍しいこた珍しいね」
「拾いモノってやつだあね!」
「拾ったほうのJJもおよそ珍しい人だったけどな」
「拾いっ子だってな、ほんとなんですかね?」
「そう聞いてるけどな。門の前に捨ててあったのをJJが拾ったっていう、それこそ今どき珍しい――」
「ほんとかよっていう、アンデルセンの童話じゃあるまいしね。でもそう聞いてんね。本当にほんとかどうかは知らないけどさ、そりゃ、けど深くは訊かなかったね、おれたちもね」
「チェンツはどう思ってんのかねあれ自分では、やっぱ、拾いっ子だと思ってんのかね?」
「そうだろ。わからねえけど。実はJJから何か聞かされてたりすんのかもしれねえけどな。ま、おれたちもそのへんは穿鑿しないでいるんさね」
「チェンツって呼びなさるんで、ダンナがたは?」
「おれはね。おれだけ。ティエンチンって呼びにくくて長くてめんどくせえからさ」
「中国名ななあ、なんでです? そっち系の血なんで?」
「さあ、そうとも限らねえだろね、なにしろただ捨ててあったってんだもの、わかりゃしねえやな血筋なんて。血統書はついてなかったんだろ確か、な?」
「雑種だ、雑種」
「預けて育てさした義理の母親がたまたま台湾系でって話だったね」
「たまたまってか、JJの遠い親戚だったんだよだから」
「親戚っつってもね、だいたいプレヴィル=ガウのガウって何? 高なの、そもそも?」
「高なら、表記は普通Gaoだよね、アルファベットだと」
「ドイツ語のGauも発音すればガオに近くなるぜ? ドイツ語だと、統治地区、とか、居住地区、とかだよなGauって」
「ナチ用語では限定的にそうだけどさ。Auの類義語だろ、もともとは。水と森の多い土地、とか辞書で見た記憶があるな」
「姓としてはドイツ語圏にはねえんだっけ?」
「わからねえけど、あんまり見ないね。アイルランドとかスコッチにあるんだろむしろ、Goweって姓はさ。もともとそっちじゃねえのかな?」
「JJがそもそも中国人とのハーフなんだろ? 前にそ聞いたことあんぜ。お母さんが中国人だって。それが高さんだったんじゃねえか? あっちの文化圏て、苗字が同じなら全員親戚なんだろ、概念としてはさ」
「Goweってのは母方の苗字をとったってかい?」
「訊いときゃよかったね、それも」
「だから訊いたって言わねえよ。だから訊かなかったんじゃないのよ」
「まあそうだ。そう、だから要するに血はね、チェンツの、ぜんぜんわからねえね」
「JJの血筋とティエンチンのと何の関係もねえだろがよ!」
「そういやそうだっけ」
「和顔だけどね一応ね」
「中国っぽいってや、ぽいよ」
「そりゃそういう目で見るからだろ。なら御曹司は香港ぽいのかよ、どこがだい?」
「まあいいでさ、そんな穿鑿あどうだって……しかしおめえさんがたも、たいげえ珍しい人たちだね」
「おめさんに言われちゃ、立つ瀬がねえね! シロ坊主のほうはどうなんだい、ありゃどっから拾ってきたんだい? それこそあんな珍しいのをさ」
「さあそれも、まるっきりわからねえんでねえ」
「あの子の育ての父親ももうとっくに亡くなったんだってね、確かそういう話――」
「実はおめさんの落とし種じゃねえんだろね?」
「ご冗談を」
「あの子の、オヤっさんてな、どういう人だったの? あいつらに訊いたってまるっきり判然としねえんだな、これがまた。オヤっさんは、オヤっさんでした、みてえなよ、ええ? 普通もうちっと頓着しねえもんかな、育ての親ってもんにね?」
「オヤっさんね――うちらじゃ、ホトケのジュイチって呼んでやしたがね」
「ホトケのジュイチ?」
「ええ、寿一ってねえ、まるで法師か検校みてえな名前だってんでね。実際、目があんまりよく見えねえで、マッサージやら、按摩やらがうまくって、それで食ってたってわけでもねえんですが」
「へえ。もともとどこの生まれ?」
「いやあ、それも実はよくわからねえ。昔っからの知りあいにゃ違いねえんだが、妙なやつでしてねえこれがまた。震災直後にふらっと尋ねてきてね、〈アゴラ〉に住もうと思うからこれからよろしく、そんで、小学校んとき一緒だった寿一だってえんで、そう言われてみりゃあ、チビのころ一年くれえおんなじクラスに混ざってた転校生がいたんで。確かにそんときにゃ、何だか気が合って仲良くしてたっけてえのを思い出してね、そうかい、ならまあうまくやれやってわけで住みついたなあいいんですが、1、2年した頃、何だかしばらく居なくなってたのが不意に戻ってきたときに、チビを連れてたんだあな。ふたつかみっつくれえの、よちよち歩きのをね。どっから盗んできたんだって訊いても何も言やがらねえんで、まあそのまんま、それからはずっと居たね」
「へえ、じゃあそれこそ血なんかまるっきりわからねえわけだね」
「わかりやせんねえ。寿一の子かとも思ったが、それは、そうじゃねえって言うんでね」
「その寿一って人がどういう人だったかってのも、結局よくわからねえままなの?」
「やっぱ訊いても言わなかったねえ。ものしずかで、怒ったり言葉ァ荒げたのを誰も見たことがなくって、子供なんぞにやたら優しいんで、ホトケの寿一ってえ異名がつきやしたが、按摩はとにかく上手くってね、うちで怪我した連中なんか、たまに治りが悪いとみんな寿一んとこへやるとね、嘘みてえに元気になるんでさ。そんでも患者からは療治代をとらねんで、うちの医療部から多少の手当てを払ってやしたっけが、普段は何だかね、そのつどいろんな賃仕事して食ってたみてえでしたよ」
「亡くなったな、そんでもやっぱ病気か何かで?」
「病気っていや病気なんでしょうがねえ。特に何の病気ってわけでもねえ、ただだんだんもの食わなくなって、弱って死んだんで、これこそ大往生っちゃ大往生でね、医者も首かしげてやしたが――なにしろ妙な男でした、ありゃあね。ともかくそんなわけで、シロが自分で知ってる以上のこたあ、わっちもほとんど知らねえんでさあ」
「天涯孤独もいいとこだねえ、そいつはまた。〈アゴラ〉じゃ珍しくねえのかもしれねえけども」
「まあそんでも、かなり珍しいほうにゃ違いねえでしょね」
「しかしこれでティエンチンのほうも、似たりよったりのことになったわけだなあ」
「それよ。どうするかねあいつあ、今後ね? シロ坊主はなあ、そんでも何つってもほれ、稼業、ってえの? 御曹司おめさんのもとで、まあ、あるわけじゃねえの、なあ? けどチェンツのほうはさ、どうすんのあれ?」
「どうすんのっておめえ、だから学校やっとけって――」
「やっとけって何だよ! だって当人が行かねえもんどうしようもねえじゃねえか、おれだってさんざん口すっぱくして言ってよ、高校の学費なんて今やタダ同然なんだからさ、なきゃ出してやるっつってんのによ――」
「それ以前に中学だってまともに出ちゃいねえだろあいつはよ?」
「中学高校はどうでもいいとしてよ、大学ももう行かねえって言い出したぜ? だいたいJJがいい加減だから――」
「死んだやつのせいにすんなよ、ジンおめえが甘やかすからだろうよ! あんたはよ、ガッコ行け行けって口じゃ言ってっけど、その実あいつが高校も行かねえでウチに入り浸ってんのが嬉しくてしょうがねえくせによ、ええ? 孫か何かだと思ってるだろあんた!」
「だから通信でいいっつってんじゃねえか! だいたい高校々々ってどこの高校入れりゃいいってんだ、あんな妙なふうに育っちゃったやつをよ? あの性格でいったいぜんたい今さらどこのガッコに溶け込めるってんだよ?」
「おめえの教育が間違ってんだよ!」
「それおれのせいかよ! 今日だってなおめえ、JINOのみんなで手伝ってやるっつってんのに、意地はりやがってあの野郎はな! だいたい――」
「ダンナさんがた、聞こえますぜ、おっきな声出すと」
「――まあーともかく、当面ウチへ置いとくしかしょうがねえだろね」
「だろね。いずれにしても」
「……へへへ、ダンナがたがあの子を可愛がってなさるこたあ、よっくわかりやした。そんで、どうなんです、ミドコロ具合は?」
「ミドコロ――ミドコロねえ。どうなんだろね。どう思う、ノブさん?」
「どうってなあ。まあ、まだ海のものとも山のものともなあ。ある種の才能はあるけどな大いに」
「あるっちゃあるけども、使いどころがねえだろ、あんな才能よ?」
「wahnsinnigな才能だね、言ってみりゃ」
「そうそう」
「ヴァーン……?」
「あーつまりヴァーンジニヒてな、ドイツ語でね、ブリリアントとかエクセレントとかそういう、手放しで褒めるのとは違ってね、どっか狂気じみてるのよな」
「おーすげえみたいな意味で感嘆詞的にも使うようになったのって最近かね、Wahnsinn! て」
「ヴァーン人」
「あ、それいいな御曹司。そうそうヴァーン人なんだよあいつはなーあー」
「どうしたって学者にゃ向かないね」
「そうかな。けど勉強は好きだろあれさ?」
「いやあ、遊んでるだけだろ。今はね、勉強が好きに見えるけども、その実は単に、勉強して遊んでるだけだよ。気が多すぎるね、一心不乱にガクモンを極めたりはしそうにないね、まあ先々はわからねえけどさ、もちろん」
「ああ、そうなあ、確かに、今んとこそんな感じだあな。けどまだ17か何かだぜ? ガキじゃねえか、遊び盛りだよ、おめえだっておれだってガキの頃あ似たようなもんだったぜ、たぶん?」
「ああだからこそ、ガッコは行っとくほうがいいだろうと思うけどな、今からでも――すりゃ、そのうち学者のふりして稼業が持てるかもしれねえ」
「ふりかい?」
「そう。ふり」
「かのように、てやつだね」
「本式の学者にはならなくても、学者のフリくれえするにゃ充分なアタマだろ。フリする才能なんかは、ありそうだよ大いに」
「そんなヤクザな才能、あってどうすんだよ一体、しょうがねえな! まあな、けどおめえだって学者のフリして一生送ったようなクチだもんな、だろ? だろ?」
「悪かったなあ、ああどうせね! けどおれあ一応ガッコ行ったからよ! だからそ言って――」
「あー、そすっとあれですかい、おめえさんがたは、あの子にJINOを継がせるおつもりじゃあ別にねえんで?」
「継がせる? JINOを? いやまあ――どうなんだろね、JINOもね……」
「まあJINOはそもそも、継ぐとか継がせるとかってもんでもないからね、〈銀麟〉と違って、べつだん伝統があるわけでもねえし、おれたちが始めたんだからおれたちが死んだら潰れたって一向に構わねえようなもんでさ。ある意味もう、果たすべき役割は果たし終えたというかね――」
「おれたち自身がもう遊んでるようなもんだよな」
「そうそう」
「ほんとですかい?」
「ほんとも何もねえけどね――するてえとそっちは何、ひょっとしてゆくゆくシロ坊主をどうにかしようってえ算段でも?」
「いやなに、それこそ先々のこたあわからねえですがね。なにしろいつまで命があるって保証さえ、ろくにねえわけだからね」
「こ言っちゃ何だけども、あれだね、仮にもホトケと呼ばれた人の子をってかね、そういう方面へ向けてキタエるってな、どんなもんなの御曹司?」
「まあねえ、しかしそれこそ才能ってものがありやすんで」
「いろんな才能があるもんだね」
「寿一が死ぬときにおれにあいつを頼んで行きやしてね――」
「そんなら尚さらじゃねえの? 恨まれやしねえの寿一さんに?」
「それあねえでしょう。他のやつでなくおれにわざわざ頼むってこたあ、寿一も承知ってこったと思いやすよ? それに寿一はね、確かに一見ホトケみてえなやつで、〈アゴラ〉じゃことのほか静かにおとなしく暮らしてたっけが、ほんとのとこは、ずいぶん自分でもあれこれ手ェ汚してきたやつじゃねえかと実はわっちは思ってんでさあね。赤んぼのシロを拾ったてえのも、実んとこ、そうそう穏やかな話でもなかったんじゃねえかってね」
「へえー」
「シロにも話してねえことがひとつだけあってね――まあどっかで聞いてるかもしれやせんが、寿一ってのは実は、杖ェ頼りに歩ってるくせに妙に腕のたつやつだったって話でね、もっともこれあ、わっちが実見したわけじゃあねえから確かなこたあ何とも言えねえが、見たってやつの話じゃあ、何だかほれ例の、座頭市なみに凄かったってんで、嘘かほんとか知りやせんがね」
「座頭市?」
「ああいうね、日雇い仕事でしょぼしょぼ暮らしてる、目の弱え小柄な年寄りなんてものあね、〈アゴラ〉じゃ人によく労わられもしやすが、一方でいじめるやつってえのも必ずいるもんなんでさ。時にゃ夜道でぶん殴られてカバン取られたりね、何かの腹いせにいわれもなくイチャモンつけられてボコられたり、アガリを掠められたりね、結構するもんなんですがねえ、寿一にはいっぺんもそういうことがなくってね。黙ってたって、そういうことがありゃこちとらにゃわかるもんなんだが、なかったんだね。人けのねえ夜道も平気で歩ってね、だから腕が立ったてえなあ、本当だろうとわっちは思いやす」
「するてえと――」
「実の子じゃねえってなあ本当にしても、ただ拾ったんじゃねえ、何かの繋がりはあったに違いねえね。血縁かどうかはわからねえが、そっち方面の繋がりがね。なもんで、とりあえずそっち方面を鍛えてやって構わねえと思ってんでさ。早々とおっ死ぬようなら、それまでのこって」
「つまり、早々とは死なねえだろうと踏んでるわけだあね?」
「わかりやせんよ、そりゃあ、運次第で」
「するてえと――さっきからするてえとばっかりで何だが――おめさんはあれだね、シロ坊主とチェンツが仲のいいのに目ェつけて、さっそく何かしら考えてるわけかい、その――次代のことをね?」
「ダンナがたのほうはどうなんです、何もお考えでねえってこたあねえでしょう?」
「いやああ、あんまり何も考えていねえね、どうだいノブさん?」
「そうさね、そりゃ、考えねえこたあねえけどな、もちろんな」
「こちとらもうトシだからね、何しろ。もうとっくに70越えてんのよ? 棺桶に片脚つっこんでいらあね。後のこたあもう、御曹司みてえな男ざかり仕事ざかりのみなさんに任せるしかねえのよな?」
「そんなんなっても後継ぎが育ってねえってのがね、まあおれらの怠慢っちゃ怠慢だったろうけども、今も言ったみてえにな、JINOはもともとそういうもんでもねえからね。跡継ぎったってね、ある意味、ちゃんと後は継がれてるわけよ、ただね、おれらがいなくなった後は、あすこももうぜんぜん別のモンになるだろうなってなあ、そりゃ仕方ねえだろうな、どうしたってね」
「ジノ研からジノがいなくなりゃあ、そりゃ別モンになるわな」
「人文学研究所ってものになんのよ、つまりな。おれらのときは、つまりそういうフリして――」
「フリじゃねえよ別に! フリでもなかったけどもね。けどもうだんだん、純然とそういうもの以外のものではなくなんだろって気がすんね。それはそれでさ、新しい役割ってものがあるだろうきっと、けどそいつは、もうそれこそ次代の連中が自分でみつけてくしかねえのよ。おれらんときゃね、特殊な状況ってか、それこそまるで戦後みてえなぐっちゃぐちゃん中で、ぐっちゃぐちゃなことして、まあやりたい放題じゃねえけども駆け回れるだけ駆け回ってたわけだけども、今じゃもうそういう時代でもねえ、ハチャメチャが通る時代じゃねえっていうかね」
「まあだから、これからむしろどんどん厳しくなるだろって気もすんだけどね。今JINOに残ってるのがみんな、ちゃんとしてる連中なだけに尚さらな」
「ちゃんとしてんのかね、あれ? 鵜野とか由布とか――」
「ちゃんとしてるよ、何と言ってもさ。連中は連中なりにハチャメチャだし行動力も並じゃねえけども、何つったっておれらみてえにいい加減じゃねえよ、あいつらは」
「一緒にしねえでもらいてえな、おい!」
「だってそうじゃねえか。あいつらはやっぱり、どんなにハチャメチャに動いたって、根本はそれぞれの学術フィールドってもんを基盤にして動いてんのよ、な。おれらはね――ま、一緒にして悪いけども、やっぱどっちかっていや、ヤクザなほうに基盤を置いてね、その上でガクモンをやってたわけだからよ、そうだろ?」
「そんで祖父江がまたああいう、世にも稀な珍しいやつだったしね。そう、その祖父江がね、御曹司おめさんみてえなのを選んで後を任せたってのはさ、だからやっぱり一種の先見の明だったろうと思うわけよ。なんつうのかなあ、下手にね、祖父江のミニヴァージョンみてえのよりか、おめさんみてえに返って頭の先から足の先までずっぽりヤクザってかね、ヤクザの先祖返りみてえなのでなけゃダメだろうってのがさ、いかにも祖父江らしいブッ飛んだ読みだあね。これからまた一旦、厳しい、いってみりゃ闘争の時代が来るっていう、そういう読みだったと思うんだね、おれは」
「うん、つまり祖父江とおれらと、AISAの先代依田みてえな形の繋がりかたは――」
「先代だっけ? 先々代じゃねえかもう?」
「あそうか。今の依田の爺さんかありゃ、そうだそうだ。祖父江のかなり先輩だったわけだからな、うん。その先々代依田と祖父江とおれらとみてえな、ま言わば旧制一高的な、蜜月的でバンカラな繋がりかたってなね、やっぱどうしたって束の間のさ、一代限りのもんだろうと思ってたんだと思うよ、祖父江も」
「AISAの世代交代がわりとすみやかに進んだからね、ドラスティックにでもねえけども、体制が固まるにつれてだんだん変わってくるってのはさ、ああいうとこが一番早く進むのはまあ当然だろね」
「そこで下手にあっちに迎合するようなね、古い麗しい繋がりにぶらさがってそのまま行こうとするようなやつが〈銀麟〉を継いだりしたら、それこそ妙な上下関係ってかね、体制の中での支配関係ができあがっちまう、何といったって税制も何もかも、表だった国家機構を握ってんのはあっちなんだからさ、対外的にもね。そんなことになったら、ある意味おれらがやってきたことなんかみんな、てんからタマなしになっちまうわけだからさ。御曹司おめさんを投入したってのは、だから祖父江としちゃ最後に打ってみせた乾坤一擲の大博打みてえなもんだったろうと思うよ」
「見事なクラッシュだね、言ってみりゃ」
「……どうも、ダンナがたにあっちゃあ敵わねえね。おれだって何も好んで闘争しようたあ思っちゃいねえんですぜ。世の中、事もねえにこしたこたあねえ。けど先代のその博打ってのが当たったんだか、それとも返って裏目に出たんだかどうなんだか、このところえれえ、だんだんキナくせえ感じになってきてるなあ確かでさあね」
「裏目に出たってこともねえだろうけどな。当代の依田が、読めねえ男だからねあれがね。連絡はねえのかい、互いの?」
「ねえですね。しばらく前まじゃあ、それなりに何かとあったんだが、まあ親しいってほどでもねえがそれなりに定期的に誼みを通じてたんですがね、AISAとウチとね。けど数年前から当代の依田がいよいよ頭角あらわして、ひとり仕切りに仕切るようになってから、どうやらおかしな具合えになったね。あっちが若えからノリがよく掴めねえってだけじゃねえ、別にこれといって喧嘩売ってくるわけでもねえが、妙にしれっとしてというか、ヒンヤリしてるね。そのうち、何か仕掛けてくるだろうってェ厭あな予感がしやすね」
「そう――だから、なあ、御曹司よ。世の中がまた少しずつキナくさくなってるってなあ、確かなこった、おめさんが、心配ってのでもねえだろうが、懸念なさるなあ、よっくわかる。たいへんなものごとをしょっちまったもんだが、おめさんにゃ、それだけの器があらあね。けどおれらはさ――これから依田がどう出て、何がどうなるにしても、今日明日のこっちゃねえ、2年か、3年か――その頃にゃおれなんざ、もうとっくにくたばってんじゃねえかね。おれらは、やるだけのことをやって、後はもう順次おさらばするだけのことよ。冷てえことを言うようだが――」
「いや何もね、後のことあどうでもいいってんじゃねえよ――」
「どうでもいいよおれあ!」
「ああわかったわかった、ジンてめえは好きなだけ飲んだくれてりゃいいやな! 止めねえよ別に。こんなこと言ってっけどもね、実はどうでもよかねえのよこいつだってな」
「黙っとけ!」
「こいつが本心じゃ、JINOの成り行きにどんなにココロを痛めて――」
「うるせえっての!」
「――ティエンチンが入り浸ってね、シロ坊主みてえのまで連れてきてころころ遊んでんのを、こいつが馬鹿みてえに喜んでね、飲み食いに連れ歩いたりしてんのも、だから要するにまあ、御曹司がさっきちょいとほのめかしたような――」
「じゃねえよ、おれこそ、ただあいつらで遊んでるだけだよ、晩年の慰みによ? いいじゃねえかそんくれえ、おれにゃ女房も子も孫もいねえんだからねもうね? だいいちあんなガキどもにいったい何を期待しろっての、一方は人殺しで一方はヴァーン人だぜ? どうしろってのあんなヴァーンをよ? 仮に大いにミドコロがあるとしたってもね、そのミドコロを実際に発揮するようになるまであと何年かかると思ってんだい、間に合わねえだろよ到底、え?」
「ほらな、御曹司、間に合やいいなあと思ってんだよこいつだって本当はさ」
「……な、ノブさんよ。おれあね、たぶん、あんたより先に逝くよ、な」
「何言い出すんだジンちゃん、いきなりよ?」
「おれが逝っちゃった後でさ、な、チェンツに、あんまりでっかいものをしょわせるな。JINOをまるごとあいつの肩にしょわせるようなことあ、しねえでやってくれよな、頼むよ、ノブ公、な?」
「……」
「あいつがゆくゆく、どんなもんになるのがいいのか、おれにもわからねえ、全然わからねえよ、ひょっとしたらそのうち自分で何かしょって立つ気になっちまわねえとも限らねえ、そうなったらそうなったでいい、けどくれぐれも無理はさせんなよ、な、無理にそっちへ引っ張ってくようなことだけは、しねえでやってくれな? でねえとたぶんあいつあ、さきざきロクな目を見ねえ――そんな気がしてならねんだ、おれあ」
「わかったよ。わかってるよジンちゃん」
「おめえは、あいつに妙に期待しすぎなんだノブさん。あいつはな、ああ見えて根っから真面目なんだよ、真面目なヴァーンなんだからよ、なるべくパッパラパーに、いい加減に生きてくほうが幸せなんじゃねえかと思ったりもすんだけども、そうもいかねえで、かつ学者にゃなりそうもねえってんなら、いっそおれらが死んだ後はさっさと、それこそ御曹司にくれてやったらどんなもんだろうと思わねえこともねえんだ実は、なあ御曹司? シロ坊主と組まして刃物でも何でも発散的に振り回さした方がね、品のいい学者連中の中に置いてしずしず本なんぞいじらしとくよりよっぽど健康にミドコロを発揮すんじゃねえかってね、けどそれも、やっぱり今さらそうもいかねえだろうな。まあ所詮、なるようになるしきゃねえんだけどもよ。あいつの運命はあいつの運命だ。おれの知ったこっちゃねえ――」
「……お気持ちは、よっくわかりやした、ダンナがた。久々にお目にかかって、いろいろと、タメになる話をうかがいやしたよ。これから世の中がどう動いて、ウチらがどう動くことになんのやら、おれにもまださっぱりわからねえ、見当もついてねえってのが本当でね。けどまあともかくも、おれにやれるだけのこたあ、やってみまさ――」
「会えて、よかったよ御曹司。これもJJのお引き合わせ――」
「……何だ、オルガンが鳴ってるね、礼拝堂で。ティエンチンが弾いてんのかな。お引けの合図じゃねえか?」
「酒置いて礼拝堂に集まれってことかね?」
「さっさと飲み干しちまって集まれってことだろ。もう日も暮れる」
「そーかそーか、よーしよし――遠き山に/陽は落ちて――とね――」
「くどいようだが、飲みすぎに気ィつけて下せえよダンナ。なるたけ長生きして、あいつらの行く末を見届けてもらわねえとね」
「そう言われてもね、JJの次に埋まるなあ、どう考えたっておれなんだから……ここ、いいなこの墓地、なあ? こぢんまりして――おれもちょっとここに埋まりてえな。眺めがいいね。石榴の実がたわわだな……お天気がよくって、〈アゴラ〉がずっと見渡せるよ……」
(つづく)
(おりば・ふじん/一橋大学大学院言語社会研究科)