機関誌『半文』

文亡ヴェスペル 日常系ミステリ-人文学バトルマンガAURORAのためのプレヒストリー・スクリプト-

小説:折場 不仁 漫画:間蔵 蓮

*登場する人物・機関・組織等は、実在のものとは何ら関係ありません

第31回 ジノ亭(3)

森川と上野原が図書室の見学に行っている間、沢渡は古市の案内で上階を案内してもらうことにした。図書室も見たいけれども、それより屋上に出られるというので、むしろそっちに上ってみたいと思ったのである。武井は迷っていたが結局上野原たちと一緒に行った。

古市に導かれてとことこと階段を上がると、2階の上がり口のところに「関係者以外立入禁止」と書いた小さい立て看がおざなりに置いてある。その横をすり抜けて廊下に出ると、2階も下と同じような作りで、ただトイレの奥がシャワールームになっており、パブの真上に当たるところはスタッフ・ルームというか何というか、奥行きはパブより少し短いが、間仕切りのない広い室内にデスクや書棚・収納棚やホワイトボード、ぼろなソファやテーブルや冷蔵庫やゴミ箱などが雑然と配置された共同研究室様の部屋である。一見したところ事務室にも似た様子だが、ボードに落書きがしてあったり、テーブルにコーヒーカップや将棋盤などが置きっぱなしになっていたり、ソファに枕と毛布がまるまっていたりして、よりくつろいだ親密な、悪くいえばダラしない雰囲気である。

「ここは助手室で、われわれ研究員の普段の溜り場なんです」古市が言った。「来ると、講座の前後はだいたいここに溜りますね。今日はみんな下へ出払っているけれど」

「助手がいるんですか」

「昔はいたんだそうですけどね、JINO華やかなりし時代にはね。今はいないけど、慣習的に助手室と呼んでるんです。奥のデスクが固まってるところにPCが2台あるでしょう、あそこが助手の定位置だったんじゃないですかね。今はそのつど暇な人とか必要な人が、適当にあそこで本を購入したりホームページをいじったりね」

「JINOのホームページって、来る前に拝見しましたけど、ものすごくそのう、古風というか懐かしい感じというか――」

「(笑)オールドモデルでしょう」

「写真もろくに載ってないですよね。レイアウトは当初すごく工夫されたんだなっていうのはわかるんですが、今はもうめったに見かけなくなってきた類の」

「早く作りすぎたんですよね、言ってみれば。十数年前に、まだホームページというもの自体が非常に物珍しかった時代に他に先駆けて作ってしまったので、その当時はたいへん先進的だったと思うんですけど、その後ヴァージョンアップを怠っているうちに、いつのまにかやれる人も暇もなくなって、今では逆にひどく時代遅れな感じになっちゃった。どうにかしたいという声はむろんあるんですけどねえ」

「このソファに毛布がありますけど、ひょっとしてさっきまでどなたか寝てらしたんでしょうか」

「あ、薄田さんがね、そうかもしれないけど、どうかな。この奥が一応所長室になっていて、そこにもソファがあるから」

なるほど「所長室」とパネルのかかったドアを開けると、妙に細長い部屋で、同じくらいボロなソファとテーブルのセット及びデスクと書棚などがあって、書棚からコートやタオルが吊り下がっていて何となく生活感があるのであった。ただし書棚にはろくな本がなく、年代がかった書類ばかりがむやみに押し込まれており、片隅に寝具や段ボールが積み上がっていたりして、「所長室」というよりは、助手室なるスタッフ・ルームに付随する倉庫のような感じでもある。

「薄田さんは毎日のようにいらっしゃるけども、所長然としてここに座ってることはほとんどないみたいで、ほぼ、あっちの助手室のソファにいますね。小池さんもね」と言いながら古市は所長室を出て助手室に戻る。下のパブでドアがふたつ並んでいたあたりの位置にやはりドアがふたつあって、そのひとつが開けっぱなしになっている先は「いちおう会議室なんですが」と古市、「会議も日常は助手室で済ませちゃうから、ここを本来の目的で使うことは最近はあまりないらしい」確かに、助手室の親密で暖かい雰囲気に比べると閑散として、長テーブルと椅子も会議に備えてしつらえてあるというよりは、ただ何となく余ったのを並べてあるだけのような感じだ。壁際に卓球台が立てかけてある。「卓球やるんですか」「ときどき、やってる人いますよ。会議がめったにないのをいいことに台が出しっぱになってることもしょっちゅうで。それでも小人数で集中的に打ち合わせしたいときとか、受講生の個人的な相談に乗るときなんか、この隅っこを使ったりしますけどね」

「受講生も入っていいんですか。関係者以外立ち入り禁止って書いてありましたけど」

「まあね、受講生も古顔になると、講師に用があるときは下の事務室じゃなく直接助手室に来たりしますから。そうなるともう関係者と言えば関係者だしね、そのほうが事がはやく済むことも多い。秦さんなんか新顔なのにけっこう来ますよ」

「あの、こう言うとあれですけど、大丈夫なんでしょうか。下の事務室も相当あけっぴろげですよね。他人事ながらちょっと心配になります」

「あー、まあねえ」古市は笑って、「確かにセキュリティは甘いですね。沢渡さんいろいろ鋭いなあ(笑)。事務室は今日は空っぽのまま開けてたけど、普段は講座の多い午後だけ人がきて番をしてて、他の時間帯は暇な人が誰か座ってるか、ブラインド下ろして閉めてあるんですけどね。いま来た時も確かもう閉まってたでしょう。もっともシャッターじゃなくて単なるブラインドだから侵入しようと思えば簡単で、確かにこれも前々から問題視されてないことはないんだけども、今のところ特に深刻なトラブルがあったって話は聞かないです。あれば、もう少し何とかするんでしょうけどねえ。でも別に取られて困るようなものもないし」

「そうなんですか。受講生の個人情報とかは?」

「それはウチはいまだに紙なので、別途鍵のかかるところに置いてあるから。それに薄田さんによれば、財務記録なんか見られたからって何の恥じることもないそうで。貴重なものといえば本だろうけど、図書室はさすがにカードキーでいちおう防衛してるし、受講料は未だに現金だけど一度にたくさん溜まるわけでもないし、これもヒミツの金庫に入れてあるそうだから」

ジノのヒミツその2か、と思いながら古市の後について、会議室の手前のほうのドアから、こんどは事務室の真上にあたるらしい部屋へ入ると、「ここは応接室ね」という。まさしく応接室らしい応接室で、古びてはいるがそれなりに上等そうな絨毯が敷いてあり、壁も少しく風情のある暗色の板目のパネルが貼られている。「ここなんかも以前は国のお偉いさんなんかがいろいろ訊ねてきたんでしょうけど、今はそれほどでもね。最近では塙保さんの入所式をここでやりましたね」正面上方にいかにも応接室らしく額が飾ってあって、「會而期不」とある。期せずして会う、か、いい文句だなあと思っていたら、「いい字でしょう、それ、何年か前に福富さんが揮毫してくださったんですよ」という。

向かいのドアから廊下に出られた。階段をさらに上って3階に出ると、今度は廊下からT字状に別の廊下が延びていて、両側が教室になっているようである。助手室・所長室の上は2つほどの中くらいの教室に分かれていて、応接室・会議室の上は大教室である。80人くらいは入りそうだ。4階も教室で、小さい部屋が全部で6つか7つある。各教室のドアに週間スケジュールが貼ってあり、見るとだいたいどの教室も週の半分がたは埋まっていて、GenSHAの教室よりも稼働率はいいようだ。「こうしてみるとけっこう講座があるんですね」「そうでしょう、意外にね」「いやそんな」「実際、賑やかな日には3階・4階はけっこう賑やかですよ、受講生たちはおおむね3、4階に出入りするわけで。ただ学校と違ってチャイムが鳴ったりしないし、講座によって開始時間や終了時間もまちまちだから、いちどにわあっと学生が廊下にあふれるようなことはないですけどね」そこここに掲示板があって、新規講座の案内や、いろいろなポスター・チラシが貼ってあるのは大学と同様である。

5階に上がると、同じくT字の廊下の左側には6つばかりのドアがあり、それぞれに名前を記した「表札」がかかっているところをみると、いわゆる教員、もとい研究員の研究室のようである。表札がふたつかみっつ懸っているドアもある。「研究員が全員、部屋を持ってるわけじゃないんですよ」と古市、「古参のかたがたは持ってますけどもね」確かに、いちばん手前のドアに「薄田」、次のドアのノブのすぐ上に「Nob」とあるのは小池信勝のシャレだろう。「だんだん足りなくなったんで、今は2~3人で同居したり、他に本拠のある人は部屋を持たないことも多いです。要するに単に本や資料の置き場所ですからね。塙保さんは要らないとおっしゃって、あと田宮さんなんかも部屋はお持ちでないですね。私は吉井さんのお部屋の片隅に居候しています」見ると4番目の部屋には「UNO」と「UHU」とふたつの表札が懸っており、ウーフーと鵜野は研究室をシェアする仲であるらしい。

向かいはなんと「理科教室」となっていた。教室の中でもここだけは特に鍵がかかるようになっているらしく、古市は内ポケットから鍵をとりだした。「さすがに多少の薬品やなんか仕舞ってありますからね、バーナーとかもあるし」と言いながらドアを開けると、小学校などでもよく見る、昔ながらの理科室である。「古市さん鍵持ってらっしゃるんですね」「あー、ええ、つまり水と火を使える教室がここだけなもんで」「お料理の講座もなさるんですか」「ええ、あくまでも芸能史の枠組みの中でですが。今昔物語やなんかに出てくる料理を一緒に作ってみたりね」「芋粥とかですか」「そうそう、あとフナ寿司とかね」「いいなあ。他に理科の先生は?」「いやーそれも、今はたまに非常勤のかたを呼んでくるくらいのようで。昔は、聞くところでは化学者のかたがいらしたとか。生物学者だったかな。でも設備がこう、古いですしね、ちゃんとした理科のかたに常駐してもらえるような状況ではもうないんでしょうねきっと。一応、隣に「化学準備室」と「物理準備室」があることはあって、そっちにもう少しは高度な実験設備とか道具があると思うんですがね、遠心分離機とか。そっちの鍵は私も持っていないなあ」

「友人でこの春から十協大の生命科学科に移った人がいるんですよ、理科の教員免許をとりたいといって。彼女なんか、よろこびそうですけどね」

「十協大のひとが非常勤で来ることたまにありますから、そういうとき、ついて来られるといいかもしれないですね。それでも年に1講座あるかないかですけど」

「講座がないときは締切なんですか、もったいないですよね」

「普段はなにしろ空いてるんで、あのほらさっきお友達を図書室へ案内していった若い子がいたでしょう、ガウくんていうんですが、彼がときどき入り込んで遊んでるみたいです」

「ああ、さっきの。遊んでるって、実験とかするんですか、ひとりで?」

「ええたぶん。彼、高校生の年頃ですけど高校行ってないので、松ヶ枝さんから教科書や参考書もらって、そこに載ってる実験を自分で順々にやってみてるんだそうで」

「危なくないですか」

「とは思うんですけどね、最初は――小学生とか中学生くらいの頃は小池さんや薄田さんがつきあってやってたって話だけど、最近はひとりでどんどんやるらしいです。準備室の鍵も彼は持ってるんじゃないかな」

「小学生の頃から出入りしてるんですね。どういう人なんですかあの人は。きいてよければ」

「いや私もわりと最近入所したので、昔のことはあんまりよく知らないんですが、御大たちのご友人の息子さん?なのかな、なんか複雑な事情があって、わりと小さい頃から御大たちが半ば預かるような感じで育ったとか」

「ご両親がいない?」

「育てのお義父さんがいるそうですがね。震災直後に生まれた勘定になるようだから一種の「地震っ子」なんでしょう。中学生くらいから学校行かなくなって、ほとんどの勉強はJINOでしてきたみたいな」

「それはすごいなあ」

「大きくなったんで最近ではJINOの使い走りみたいなことをあれこれこなしてくれて、事務室の番なんかも時々やってくれてますね」

「ガウさん、ですか。中国人?」

「いやー、よくわからないです。名前はガウ・ティエンチン、それで漢字で書くときは高いにアッパレと書いて高天晴。でもそれだと普通「ガオ」くんになるところ「ガウ」くんと呼びならわしてますね、なぜだかわからないけど。その育てのお義父さんは永住資格とった英国人だそうですからそのへんと関係があるのかも」問わず語りに語りながらさらに階段を上がるのに沢渡もついてゆく。階段室を上がりきると小さいペントハウスのようになっていて、簡易な丸テーブルと椅子が3脚ほど。片隅に立てかけてあるのは望遠鏡らしいが、そこに収納してあるのやら単に放置してあるのやらよくわからない。「ほら、ここから屋上に出られます」

たかだか5階建てなので屋上といってもさして見晴らしがいいわけではないが、地上から見るよりは少しは空が広く、背の高い周囲のビルの隙間から、西のほうにかすかに残る残照が見える。この間に時刻はそろそろ7時近くなるようで、お天気の良かった今日の夜風はからりとして、それなりに気持ちがよかった。〈アゴラ〉の緑丘が青い影になって見える。その向こうの〈ドーム〉が望めないかと思ったけれども、〈アゴラ〉北辺の高台に隠れているのか、あるいはどれかのビルの陰になっているのかして残念ながらそれらしい形は見えなかった。そのちょうど反対側のあたり、残照を背にしてやや遠く聳えているのは、七本木あたりに最近竣工成った通称〈ブルースネーク・タワー〉、東京タワーに替わる新時代の電波塔兼観光名所としてとみに話題になっている。風圧対策のためか遠目に若干ねじれた形状で、薄青いライトアップがけっこう綺麗なのが、たまたまビルの切れ目から、上三分の一くらいが小さくのぞけて見えるのだった。AISA本社もそのふもとあたりにあるという。

「こんなことお伺いしていいのかどうか」沢渡はためらいがちに切出してみる、「今ではJINOは、AISAとは完全に切れてしまっているんでしょうか。そういう噂をきくんですけど、そんなに簡単に縁が切れてしまうものなんですか?」

「さあ、私はなにしろ完全に畑違いなのでねえ。御大たちもその点については黙して語らないというか、わざとでもないんだろうけど何も語ってくれないし。当時――震災の後で一緒に活動していた研究員たちの多くは物故したり遠くへ移ったりして、ほとんど残ってないですしね。鵜野さんくらいかなあ」

「鵜野さんは古いかたなんですね」

「当時まだとてもお若かったと思いますが、講演やら演説やらでずいぶん活躍してたみたいですよ。今はしょっちゅう海外に行ってて日本にほとんどいないですけどね。まあーやっぱりJINOに勤めただけでは生計が立たないですから、研究員として長く残るのは普通は難しいんでしょうね」

「お給料が出ないって本当ですか」

「うん。出ないんだねえ。いやそれもかつては出てたのかもしれないけどもね、臨時収入がいっぱいあったころは、でもお給料というよりは特別ボーナスみたいなものが支給されてただけじゃないかなあ。今お給料をもらってるのは、資産運用のために専門の会計士を頼んでるんだけどその人と、昼間数時間だけ来て電話番してくれる事務員と、それだけだと思うねえ。それすらだんだんキツくなってるのかもしれない」

「さっきのガウさんも、じゃ無給ですか」

「そうだろうね。何かのバイトで食べてるんだと思いますが、ただ彼に関してはときどき御大たちがお駄賃程度のものをあげてるみたいだね。〈アゴラ〉を連れ歩いて食わせたりね。親代わりみたいなもんだから。可笑しいのは、小池さんはなるべく機会をみつけては彼にいろいろやらせようとしてるんだけど――たぶん仕事を覚えさせるためにね、けどその一方で薄田さんのほうはなるべく仕事はさせまい、勉強だけさせようとしてるみたいで、それでときどき言い争ってるところを見かけるね。それ以外めったに喧嘩しない2人なのに」

「御大たちご自身はどうやって生計を?」

「基本的にはいわゆる年金暮らしだと思うけれど、他にもいろいろあるんじゃないですかね、ナントカ有識者会議とかそういう。パブの樽酒やなんか薄田さんのポケットマネーだしね。まあ薄田さんも小池さんも独身ですし――地震で奥さんやお子さんを亡くしてますから。いや小池さんは後添いがいるのかな。薄田さんは3人いたお子さんとお孫さんを全部亡くしたとかでね。震災後のあの脇目もふらぬ活躍ぶりは、そのせいもあったんでしょうきっと」

ややしんみりとして風に吹かれているうちに、さすがに少々冷えてきたので中へ入って1階のパブに戻ると、宴はいよいよたけなわの模様であった。相変わらず吉井が軽やかなサロンピアノを弾き続けていたが、人が妙に増えていて、外国人らしき人々がそこここに混ざり、いろいろな言語が聞こえる。英語やフランス語も聞こえれば、何語ともわからぬ言葉も聞こえ、ちょうど〈ドーム〉と〈アゴラ〉の中間をいくような混在ぶりである。南側の奥のあたりの掃出し窓が開かれて、隣のビルとのわずかな隙間に設えられたささやかなベランダのようなところに、屋外パーラーめいたパラソルつきの丸テーブルがふたつほど出してあるのがわかる。小池と森川とあと2名ほどがそちらに移動してホタル族を決め込んでいたが、中はますます混んでおり、森川が戻っているからには上野原と武井も戻ったのだろうが、どこにいるのか俄かには見定めがたい。古市はちょっと厨房へと言って離れていったので、とりあえずまた飲み物を貰おうと沢渡がカウンターに寄ると、バーテンは他ならぬ薄田御大であった。

さすがに気軽にスミマセーンともいかず、どうしようかとためらう間もなく、御大のほうから目ざとくみつけて、「ほい、いらっしゃい。何にする?」と全くもって屈託のない調子である。

「あ、えっとあの」

「ビールもうイった? あそう、どう旨かった?」初めての人だね、と言わないところが他の人たちと一味違うのかもしれない。「何が好き?」

「あ、あのじゃああのジンフィズで」

「ジ・ン・フィーズ一丁!」

「あジンはボンベイ・サファイヤっていうやつで」

「ほほー、古市くんのお仕込みだねえ? さっき一緒に入ってきたろ。どっか見てきた?」

「はい、屋上に行ってきました」

「いいね。何にもないけどね。昔よりは空気がよくなったから、たまーに暗い夜にゃ天の川だって見えることがあるさ。はいよ」手早くジンフィズを作ってよこす。礼を言ってちびちび飲みかけるのを、気づけばじっと薄田の眼が楽しそうに眺めている。この機会にAISAのことを訊いてみたいと思いながら訊けず、つい別の、当たりさわりのないことを訊いてしまう。

「あの、上に理科室があったのでびっくりしたんです。講座があったら出てみたいんですけど、近いうちに予定がありますか」

「理科実験に興味ある? あそう! そう! 理科の講座すぐにはないけどね、うん、秋には、何かあると思うんだ、いま生物化学の人と交渉中でね、そのうちホームページに出ると思うから、そしたら適当に申し込んでくれりゃね。遺伝子とか興味ある? あそう、うん、ちょっと興味あるかもしんないくらいが一番いいんだ、小さい種から大きい花が咲くほうが、大きい種から大きい花が咲くよりか意外でおもしろいだろ。いや大きい花もいいけどね、ハスの花なんかオレ大好きだね、東大の実験所には260種くらいのハスの花の遺伝子が保存されてんだってえけどね、ね、でもオレ一番好きななァ松葉ボタンなんだよな、な、あんなに色とりどりの花つけんのに吹けば飛ぶよな芥子粒よかもっと小ーっちゃい種でさ、なあ。お前さんはどんな花ァ好きだい?」

そういきなり訊かれて、何か気の利いたことでも答えたいと思うのだが、相手がシラフなのか酔っているのかよくわからなかった。薄田のまなざしは若年者に向ける老師の慈愛に満ちたそれに見えて、その実、こちらを突き抜けてどこか遥か彼方に茫洋と向けられているようでもあって、さっき古市からきいた話の印象のせいか、年齢を感じさせない無尽蔵の活気の中に、はかりしれない深い失意もまた複雑に綯交ぜられているかのように感じられて、何か恐ろしいような気がした。もごもごと口籠りながら幾つか花の名前を挙げたが、ちゃんと聞いているのかいないのか、うんうんとうなずきながらも薄田の眼は次第にホールをさまよいはじめ、やがて演台のほうで動きがあるとそちらへふいと向けられた。沢渡もつられてそちらを見やると、吉井のピアノが調子を少し変えて、歌の伴奏をするようである。マイクの前に立っているのはかのガウ青年で、前説も何もなくいきなり歌い出したのは楚々としたフランス語のメロディであった1。声は高めのよく延びる声で、細部に繊細な音高の揺れがあるのが妙に耳を惹く感じだ。ふと傍らを見ると、薄田の眼はまっすぐにガウに向かって、心底いとおしげな、悲しいような光を湛えている。曲が終わると、拍手のさなか吉井はピアノを離れ、かわってギターの音がするので、見るといつのまにかピアノの前、窓とガウの間にギタリストが座っていて、間を置かず次の曲のリズミカルな前奏をかなで始めた。その見紛うことなき銀髪を目にして沢渡はようやく思い当たった――あのとき〈アゴラ〉で見た青年たちだ。人吉が助けられたという2人組、ギターケースを携えて遠ざかっていく後ろ姿だけを沢渡が見た、あの猛禽類なのだった。なぜまたこんなところで音楽を? 一方はしかもJINOで育ったも同然だという。もうひとりの銀髪のほうもそうなのだろうか? 同じくらいの年頃と見え、質素で飾り気のない半袖シャツをきて非常に精悍な感じがする一方で、何だかおそろしく暗い表情をして、顔や腕に青あざのようなものも見える気がするが――しかしあれこれ考えをめぐらすいとまもなく、思わず音楽に聴き入ってしまう。リズミカルでジャジーな短調の、ドイツ語らしい歌は、後できけばヒルデガルト・クネフの往年のヒット曲で2、それから一転して、シンプルなメロディのリフレインがちょっとバラッド調のアップテンポな英語の歌3になり、タンバリンが入り、ギタリストもコーラスに入り、賑やかになったところで次はまたゆっくりと物憂げな、今度はスペイン語の歌4と続き(この歌はどうやらJINOでのこの2人の定番らしかった)、そのあと一転してギターソロになり、軽快かつ華麗なブレリア、か何か5フラメンコのリズムが一同を魅了する。それまでずっと短調の曲が続いたせいもあってか、長調混じりの旋法が場をパッと明るくするようでもあり、「Ole!」とか「Ala!」とかの掛け声と手拍子でガウがノリを煽るにつれ、喝采を受け止める白髪の青年の表情からは暗さなどいつしか拭い去られたように跡形もなくなり、純然と嬉しさと喜びだけがそこにあるようである。短めの一曲が終わるやいなやまた別のラテン・ポップな快速モダンのスウィングナンバー6になめらかに移行し、今度は途中から吉井がピアノで加わってデュオの掛け合いとなる。ピアノの設置場所のせいでピアニストとギタリストがほとんど背を向け合うような位置関係にもかかわらず、息がぴったりと合って、ガウがそこらの道具で叩き回るパーカッションをベースにして息もつかせぬ速弾きで掛け合いながらクライマックスへ駆け上っていくのに我にもあらず聞き惚れながら、同時に、どこか潤みがちにステージに向けられた薄田の視線をもすぐそばに感じつづけて、沢渡の心は妙に乱れた。


(つづく)

2024.4.10

第32回 In dieser Stadt 〈アゴラ〉にて――つづき(2か月前)

「おーまえ、投げるなよな、鞄さ1。中身、パソコンとタブレットだったよ? おれが落としたらどうすんの?」

「おまえは、落とさねえ。落とさなかったろ?」

「ぎりぎりだったよ! も少しパワー、セーブしろよ」

「したじゃねえか。おまえがぎりぎり受ける程度に加減してんだよ」

「あれで? 迷惑な信頼だなー。チャリのあいつら、常連?」

「まあな。タチはそう悪くねえんだが。年寄りに怪我でもさしたらと思うとな、ふびんでよ」

「あっさり解放したね。タチが悪かったら、どう処理するんだ?」

「あの場じゃ、あれ以上どうもできねえよ、タチが悪くてもな? まあ今晩とか翌晩とか、何日か用心しながら、そのうち折をみつけんだろな」

「……そうだ、もしかして、タチの悪いツツモタセだって思われたんじゃないかな。未遂だけど」

「は、はっ! いいじゃねえか別に。なにおまえ、あの子、カモりたかったか?」

「いや全然。変わっててちょっと興味惹かれたけど、あの子、って感じじゃなかったよ、年上だよかなり。タブレットなんか持って、学生だね――大学生か、大学院生か」

「大学院? へえー」

「そんな感じ。後から来た連れの男ってのも、遠目だけどそんな感じだったな」

「おれよく見てなかったからわかんねえな。おまえ羨ましいのか、ひょっとして」

「ひょっとしなくても、羨ましかったけどね、さっきまで。大学すっ飛ばして大学院行けたらいいのにとかってさ。でも今はもう羨ましくない。なくなったよ」

「どういうんだ、それ」

「なんかね。ふと思ったんだよ。大学院って、ああいう人たちがいるところで――ああいう真面目な、白い服の似合う人たちが行くべきところなんだ。おれは不真面目だからダメだ」

「何だそりゃ。おれだって白っぽい服だぜ今日。真面目ってな、どういう意味だ?」

「うん――何というか――純粋に何かを探求しようという姿勢かな。季節はずれの白い蝶々を追って裏路地にさまよい込むとか――」

「白い蝶々?」

「そう言ってたよ。虫捕り網持って――いつも持って歩いてるんだろきっと。おれよりずっと年上なのに、そんな子供みたいなさ。そういう純粋さは、おれにはないよ。自分ぬきの探究心というか、さ。おれが勉強するのは、まず自分がいてその自分がおもしろいと思うからか、でなけりゃいつか何か自分の役に立つと思うからで、それじゃあ不純だ、ダーメだなって思っちゃってね……ははッ! だからおれは大学にも大学院にも行かないことにする。したよ」

「けど薄田さんは、行かしたいんだろ? おまえを、大学によ」

「うん。ずっとそう言ってくれてるけどね、援助もするとか。でも悪いよやっぱり。学費高いし――もっとも、学費はたぶん免除がとれるけど」

「JJ2がどうかしたのか」

「ん、まあもともと変わった人だったけど、最近めっきりボケてね」

「ええ?」

「もう式次第もろくに読めないんだよ。しょうがないからおれが読んでるんだよ」

「おまえが。へえ。結婚式とか葬式とか?」

「葬式だってね――つい最近も一件あったけどね、塵は塵に、灰は灰にってやつだって、もう半分がた忘れててさ。おれが介添えして――そう、そうそれに、ほとんど英語に戻っちゃってるんだよね! もともと口数の極端に少ない人だけども、一応日本語も喋ってたのにさ。往生するよほんと」

「そうか。JJがね……そりゃ知らなかったな。おれ一度見舞いに行くか?」

「ああ――うん、ありがたいけど――たぶんもうおまえのことも、わからないよ。おれのことすら怪しくなってきてるんだから。……ああそれで、ね、つまりJJの代りに御大ふたりがさんざ構ってくれたから今のおれがあるわけで、やっとこれから少しずつ役に立てるかもと思ってるとこなんだから――」

「JINOの役に立ちてえってんなら大学行ったほうがゆくゆくよほど役に立つんじゃねえのか? そういう場所なんだからよ」

「あ、おまえ、まっとうなこと言うね。それはそうなんだけどさ。でもおれ大学行くとしたら理系だと思うんだよ、理系はさすがにJINOでは無理だから。有機化学とか、情報工学とかさ――でもそういうの、趣味的な関心はあっても、それで技術者とか科学者とかになってるおれって想像できない。やっぱり根が文系なんだよなあ、文学とか哲学とか社会思想とか、言語とか、そっち捨てられないけど、でも大学でそれやるのはだるい、ああ、JINOで完全にスポイルされたなおれ!」

「行っといたほうがいいと思うがなあ。アタマ使う商売みつけるにゃよ」

「でも面倒な思いして高卒の資格とったあげく大学行って、今さら必修の語学とか体育とか、同世代がうじゃうじゃ固まって出席とられたりって、考えただけでもぞっとしてたんだ。だからいいんだこれで」

「情報工学っていや、最近な、こっちでもサイバー系3つかそういうのが増えてきてな。情報部ってのを作って――もともとあったんだがそれを拡張して、ハッカー入れて、ってやってるみてえなんだが、どうやら人手が足りねえらしいぜ。おまえやるか」

「そーんなのできるわけないだろ! やっとこれから少し勉強でもしようかってところなのに。だいたいそういうモノの役に立つハッカーなんてね、12、3の頃から才覚あらわしてるもんだよ? おれなんかもう17だよ、冗談きつい。馬齢を重ねたな。サイバー系って、おまえは実働?」

「そう。仕事はサイバーでも、やってるやつは、どっかにいるわけだからな、生身がよ。場所特定したら、おれらが出かけてって、後は芋づる式に――まあそううまく行きゃの話だけどな」

「そういうの聞くと、普通にサイバー犯罪の摘発じゃないかって思えるよね。ネット詐欺とか薬物のネット販売とかそういうのだろ? 警察がやってることと変わりないみたいだな」

「そ思うか? やってるやつは大抵、半グレ上がりか、でなきゃアブレなんで、こっちにゃこっちの目算が別にあるはずなんだが――」

「海外だったらどうするんだ?」

「さあ、水際シメといて上のほうでネゴるんじゃねえかな。けど水際にしろ何にしろ叩くときにゃ、実際ポリと組んでやることも珍しくねえよ」

「それも〈銀麟〉の営々たる勢力扶植の一環てわけだね。けど、それで警察と協力して仕事するにしても、表に出せない暗黒なところは結局おまえたちがやるんだろ?」

「あっちは縛りがきついからな」

「〈銀鱗〉は何でもありか。おまえ、今また保釈中?」

「あー、厳密にゃ保釈とは違うようだけどな。未成年は観護措置取消?とか何とかいうんだ、こないだやっと覚えたんだが――今んとこ金は要らねえらしい」

「何度目?」

「さあ、数えてねえけどな……いま自分がそうなのかどうかもときどき忘れる」

「普通ありえなくないか? そういうののリピーターって」

「入ってもすぐ出るしな? 何か取り決めがあんだろなあ」

「おまえもうすぐ18だろ。成人になるよね。したら金も要るだろ」

「〈銀麟〉が面倒見てくれる。労災だから」

「労災はよかったね! 〈会社〉っていうくらいで、実は情報部だけじゃなく会計課とかもあるんじゃないの。しょっちゅう何十人ぶんか保釈金払っててもお釣りがくるくらい、いい条件結んでるんだろうね」

「どうせ返ってくるんだから、体のいい隠し口座みてえなもんなんだろ」

「気をつけろよな、おまえ。本来おまえあたりの罪状で保釈が認められるはずないんだし、それに、どんな取り決めがあるか知らないけど、成人になったら、これまでみたく、入ったらそうそうすぐは出してもらえないかもしれないよ? どころか――」

「構わねえよ、それならそれで、仕方ねえ――おまえが行かねえ大学へおれが行くわけさ。したら本でも差し入れてくれりゃいい。よそうぜジョブの話。音楽にしよう。おれまた今度いつオフがとれるか、わかんねえからな」

「そうだね。どこでやろう、ここらでいいか。ちょうどベンチ空いてるし」

「さ。何からやる?」

「あー、実はおれこのところドイツ語にハマっててね」

「ドイツ語? フランス語じゃなかったのか」

「それが、ちょっとしたきっかけで――おまえもやる?」

「やらねえ」

「やろうよ」

「やらねえよ!」

「やろうよ。教えるから」

「またかよ。あのな、だからもうちっと実際の役に立つ言語はねえのか? え? ドイツ語だのフランス語だのなんか、そこらで誰も喋ってねえじゃねえかよ。中(チュン)とか韓(ハン)とか、タイ語とかカンボジア語とか、せめてポルトガル語とかよ……」

「チュンはもう大体やったろ。ていうか考えてみればチビのころはチュン少し喋ってたんじゃないか、おまえもさ? おれ高媽(ガオマア)のとこにいたときはまだろくにポン4喋れなかった気がするんだけど、おまえとどうやって会話してたっけ?」

「え。いやポンだったろ? 最初から――そんな気がしてたがな――チュンだったか? かもしんねえな?」

「ポルトガル語はそのうちやりたいけど、順番ってものがあるからさ――悪いけど今おれの手持ちがドイツ語なんだよ。でね、フランス語や英語と違ってドイツ語には格変化ってものがあってさ」

「あー?」

「簡単にいうと冠詞っていうのが、英語はaとtheしか基本ないだろ、フランス語はそれがそれぞれ3種類あるだろ、ドイツ語は4種類あって、それがそれぞれ4通りに変化するんだ」

「うげえ……」

「あとthis とかthat とかも同じように16通りに変化する。ていうか名詞がそもそも変化するんだけど、名詞自体の変化はほとんど消えちゃってて、冠詞とかが代りに変化するんだね」

「そんなに変化してどうすんだ」

「動詞の変化はフランス語と似たようなもんだけど、それと合わせると文の構造がすごくわかりやすくなるんだよ。そのぶん語順がかなり自由になる。もちろん制約はあるんだけど、それで文を乱すことなく、いくらでも長ーく続けられるようになるんだよね」

「ははあ、そりゃ確かにおまえの好みだな」

「16通りといっても、かなりかぶってるから、実際にはそんなにないけど」

「余計ややこしいんじゃねえか?」

「よくわかるね。そうなんだよ」

「やめようぜ。歌にしよう。な」

「あ、そうそれで、ドイツ語の古い歌をね――」

「そうきたか」

「当然じゃないか。ちょっと聴いてみて、これ5

「あー」

「……」

「……」

「60年代のシャンソンなんだけど、悪くないだろ? ていうか、ちょっといいだろ? よくない?」

「も一回聴かして」

「どうぞ何度でも」

「……」

「……」

「……こうか? ♪‐♪‐♪-♪-**♪‐♪‐♪-♪-**」

「そうそう」

「♪‐♪‐♪-♪-**-♪‐♪‐♪-♪-**-」

「Leere, bunte Zigarettenschachteln/und zerknülltes Butterbrotpapier/auf dem Schulweg, den wir täglich machten/seh' ich, als ob's heute wär', vor mir」

「キイそのまんまでいいようだな」

「うん彼女、ヒルデガルト・クネフってすごく声低いから、ちょうどいい」

「ツィガレテン、てひょっとして煙草?」

「そう。Zigarettenshachtelnで煙草の箱。複数形。単数はSchachtel」

「アオフデム・シュールヴェーク?」

「auf dem Schulweg――学校へ通う道で。直訳するとOn the school-way」

「学校なんかろくに通ったことねえな」

「通ったじゃないか小学校4年くらいまでは、一緒に。ときどきだけど。そこはアコガレってもんだよ。続きの歌詞はもっと憧憬に満ちてるよ? 駅の花壇の花を盗んで、母ちゃんにやる誕生日の花束をつくるんだ」

「ほうお」

「でもその後はいいよ? この街をぼくはようく知ってる、この街はぼくの――ええと、zuhausは訳しにくいな――まあ、ぼくのホームタウンだとでもいうか」

「ツォハウス?」

「Ich bin zuhaus、ぼくは家にいる。Ich fühle mich zuhaus、ぼくは家にいるみたいにくつろいでる」

「zuhaus」

「そう」

「Ich……fyleってfeelか?」

「fuehlen」

「fuehlen」

「ウムラウトっていって、uとかaとかの音にeが混ざるんだ。ほら上に点々がついてるやつ」

「あー、あれな」

「Ich fühle mich zuhaus」

「Ich fühle……michzuhaus?」

「michって英語のmeだけどしょっちゅうmyselfの意味で使う、というかフランス語のme(ム)かな」

「Ich fühle mich zuhaus」

「Ich bin zuhaus」

「Ich bin zuhaus」

「いいじゃないか。おまえ相変わらず発音いいな。やっぱ耳がいいんだなあ」

「よしこれでドイツ語できたな。Ich fühle mich zuhaus……here」

「よくわかるね。ドイツ語でも「ここで」はhierで、英語と同じなんだ。綴りは違うけど」

「あそう! 「そこで」はゼアか?」

「da」

「だー?」

「da」

「だー(笑)」

「dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah/こよい いそうの げんげつのした/とりのくろおを ずきんにかざり」

「ああ? 何だっけそりゃ?」

「賢治だよ、宮澤6。ときいろのはるのじゅえきを/アルペンのうの しんさんになげ」

「***! **!」

「あおらみわたるこうきをふかみ/ならとぶなとのうれいをあつめ/じゃもんさんちに かがりをかかげ」

「**! **! **!」

「ひのきのかみをうちゆすり/まるめろのにおいのそらに/あたらしい せいうんをもせ! ジャーン」

「****! って何だおまえこれ(笑)、どうにもなんねえだろ、これじゃあな」

「そうだねえ。けどおれさ、いっぺんこういうのやってみたいんだよね、いや、これじゃなくて、別の、何か長い詩を読むやつさ」

「長い詩を読むって、ただ読むだけか? 朗読?」

「朗読というのでもない、何というか。うーん何というかなあ。歌うというのでもなく。歌と朗読の中間というのでもなく。だっておまえがいるんだから、単に声とその伴奏というのではつまらないよ」

「おれはつまらなくねえよ別に」

「そうかもしれないけど、いや普通の歌は普通にそれでもいいけどさ……」

「あのよ……ハル。おれちょっと、そのう――あー、言い出しにくいんだが――」

「何? 改まって」

「言いにくいな……そのう、JINOによ、吉井さんて人いるだろ? な」

「ああ。うん」

「ピアノがめちゃうまい――」

「あー!」

「それでそのう、一度そのう……な?」

「一緒に? やりたいんだね、あー! いいね! 吉井さんよろこぶよ絶対」

「ほんとに? やってくれると思うか? おれみてえなもんと――」

「何言ってんだよ今さら、馬鹿だな、いいよ、すごくいい――あそうだ! 5月にJINOでパーティやるって言ってるからさ、新しく着任してくる人の歓迎会だとかで。そのときにどうかな。あ、5月だとおまえひょっとしてどっか入ってるかな?」

「いや、たぶん大丈夫……だと思う」

「もう曲の心当たりある?」

「実は――これ7。聴く?」

「聴く」

「……」

「……」

「……」

「…おー!」

「……」

「いいね。吉井さん好きそうだよ絶対」

「――だいぶアレンジしなきゃなんねえけど」

「平気だよ吉井さんなら。へのかっぱだよきっと」

「そうか。だと嬉しんだがな……これ、な、一人で弾いてても今イチ楽しくねえっつか、やっぱ誰かとやりたい。バンドじゃなくてもさ。そ思うだろ」

「思う。思う思う。さっそく訊いてみるよ」

「頼む」

「うんうん。シロが真っ赤になって俯いて口ごもりながら頼んでたって言う」

「やめてくれ……普通に頼んでたって、な」

「わかったわかった。それ前半はひとりで弾く感じ? ちょっと弾いてみて」

「あー……最初のな、このヴァイオリンのメロディが――あ、これおまえ演る?」

「え、おれ? あー、やるとしたら――やるとしたら――ハーモニカかな……しまった今日持ってない」

「じゃそこは抜かして――****」

「……」

「******!」

「ここからだね? ピアノ」

「***!****!」

「おおー(笑)」

「********!」

「Bravo! すごい、おまえさ、本当に、なんで弾けんの? 吉井さんがうまいのはわかるよ。けどおまえはさ」

「……さあ」

「さあ、ってね!……それメンコギターだろ? メンコだってさ――呆れるよ、おれ。ロマの血でも入ってんじゃないの」

「……かも」

「えー?」

「だって――前に聞かしたことあるだろ、おれの、本名つか。よく覚えてねえけどシェロシュなんとかってのさ」

「あーあれ! 冗談だと思ってたよ。ほんとなのか?」

「おれにだって冗談としか思えねえが、ほんとだとすりゃ、あっちのほうの名前だろ。誰から聞いたのかも定かでねえから、わかんねえが」

「風貌は、でもそんなふうには見えないよね、髪と目の色にしたって。それに、それを除けば普通にポンともいえる」

「ごた混ぜなんだろ。でもロマっていや、このローゼンバーグって人もそうだけども、エル・チャロ8ってのがいんだよ、スペインの、どこだかに。〈MeDoc〉9にときどき掲がってんだが、完全にストリートで、よそへは出ねえんだ。そんで左ききでさ。左きき用に弦わざわざ張り替えてんのな」

「へえー」

「普通そんなことしねえけどな? おれもしねえけどよ――けどああいうの、あー、つまり一生ストリートでっていうのな……おれ生まれ変わったらチャロみてえのがいいな……」

「生まれ変わったら、か……おれは、生まれ変わったら、人間じゃないものじゃないものがいい」

「へ?」

「人間じゃないもの、ではない、何か」

「それ人間とは違うのか?」

「違うよ――たぶん。犬とか青虫とか、何でもいいけど、犬や青虫は、自分はひょっとして人間じゃないんじゃないだろうかなんて悩んだりしないだろ」

「おまえ、それで悩んでんのか?」

「いや、別に。悩んでなんかいないよ。いないけどさ。昔ねえ、高媽に言われたんだよ――おまえは人間じゃない、って、さ」

「……」

「だからせめて人間らしくしなさい、祈りなさいってさ。クリスチャンだったからね、高媽も」

「なんでまたそんなこと言われたんだ」

「高媽の死ぬ直前で――おれはまだ6つくらいで、なんだかね、よく覚えてないけど女の子に、何か悪いことしたらしいんだよ。女の子? うん。いやよくわかんないけどさ。5つや6つのガキなんだからそんな大したことするはずもないよね。けど、そんで高媽が怒ってというか悲しんでというか、ね……そんで泣きながらおれのことギュッてハグして、ね。高媽の記憶はそれが最後で」

「……」

「けど、メイにも言われたんだよ実は、同じようなこと。別れるときに。あんたは少うし人間じゃないみたいなところがあるって。だからとても心配だって。ははッ……心配するくらいなら捨てないでほしいよね! けどそう言われちゃあね――だから追わなかったんだ。今だから言うけどさ」

「ふた月くれえ前だったか? 別れたのって」

「三か月かな……なんでこんな話になったんだっけ? 生まれ変わったらって話だったよな。おれ正直、生まれ変わるなら、もうちょっとわけわかる生まれ方したいよ。高媽の子として台湾に生まれるとかさ、JJの子としてイギリスに生まれるとかさ……おれ今やすっかりポン語話者なのに、なんでどの親も違うんだろう?」

「今どき、そう珍しいことでもねえだろ? それに何を今さら」

「いやまあ、ふと、ね」

「おれなんか至ってシンプルだ。オヤッさんって謎の人物がどっかから拾ってきましたという、わかりやすく何もわからねえ。もう未来永劫わからねえだろな」

「オヤッさん亡き後はずっとトニが親がわりか」

「どうだかなあ。最近はそんな気もしなくなってきたな……」

「兄貴は?」

「アニキもなあ――アニキがなあ。あーいや、いいアニキだぜ? いいんだが……」

「〈ポイズン・モス〉10?」

「あー。ずいぶん仕事覚えさしてもらったけどな。もう2年近くなんのかな……もっとかな。多岐川ソリューションズって要するにシマをまたいだトラブル解決屋で、半分はシノギつってもいいけれども、半分は上からジョブが降ってくるんで、もっぱらそっちの危険報酬で食ってるみてえな、な? 何つか、おれ気づいたらそういうとこにいたわけで――15かそこらのときからよ。だから未だに、組織の全貌はよくわかんねえ。ヤクザなんだか、そうでねえのかも――よくわかんねえ組織だよ〈銀麟〉てな、よ」

「……気をつけろよな、おまえ本当に」

「気をつけろったって、つけようがねえじゃねえか。気ィつけてるよ、充分に、十二分に、よ。けどどのみちおれなんか、別の人生選ぼうと思ったら生まれ変わるしかねえんだし」

「……そうでもないんじゃないの」

「え」

「そういうこと言うってことは、別の人生選ぶ可能性が念頭にあってそれを否定してるってことだろ。それはつまり可能性があるってことなんだよ」

「……ハル。おまえって時々、腹立たしいな、え? 余計なこと言わねえでくれよな。おれは、これでいいんだよ。時々こやってギター弾いてあそぶ暇があるだけで充分に、十二分に、ありがてえと思ってんだから。分に過ぎるってかな――♪‐♪‐♪-♪-**-♪‐♪‐♪-♪-**-――ほら、適当に入んな――♪‐♪‐♪-♪-**-♪‐♪‐♪-♪-**-」

「Leere, bunte Zigarettenschachteln/und zerknülltes Butterbrotpapier/auf dem Schulweg, den wir täglich machten/seh' ich, als ob's heute wär', vor mir/Und wir klauten auf dem Beet vorm Bahnhof/Für die Mutter den Geburtstagsstrauß/In dieser Stadt kenn' ich mich aus/In dieser Stadt war ich mal zuhaus'/Wie sieht die Stadt wohl heute aus?/In dieser Stadt war ich mal zuhaus」

「-**-♪!……」

「いいね」

「なんて曲だっけ? 検索する――in die-ser stadt――シュタットて?」

「街」

「in dieser Stadtでin this city?」

「そう」

「格変化してるわけだな」

「そうそう(笑)。そんで1番はそれでいいんだけど、あらかじめ言っとくと、2番で失恋して、3番で街を出るんだよね、もうここは見知らぬ街になっちゃった、一晩泣いて自分は街を後にする、ホームシックなんか感じないよって。でもリフレインがあるからさ――今はどんなふうになってるだろう、ってのが、最後はとっくに街を捨てた後でね――」

「どこの街なんだ? ドイツだろ」

「ベルリン。じゃないかなと思ってるんだけど、わかんないな。少なくとも彼女ベルリンで育ったらしい。戦前にね。曲は1965年かな……壁ができた後で」

「ベルリンの壁、てやつか?」

「歌詞とは直接は関係ないけどね。そもそも詞は別の人が書いてるみたいだし。けどあの壁っておもしろくて、中の人を閉じ込めるっていうより外の人を中に入れないようにするためのものだったんだよね。中へ必死で入ろうとしていっぱい人が死んでるのに、中からは出られるんだ。もちろん東ドイツ領を越えて出るんだけど、飛行機か、止まらない直通列車で、そんなものはまるで存在しないみたいに、文字通りに飛び越えて出入りする。歪んだ時空というかね。電車や飛行機がなかったら、ありえないよね」

「……そういや、ジョブ以外で〈アゴラ〉出たことねえなあ、おれ」

「JINOに連れてってやってるだろ」

「それは別でよ」

「あ、あるじゃないか。ほら小学校の3年のとき? 4年かな、臨海学校みたいなのがあって、みんなでどっかの海へ行った――どこだったか――」

「ああ! あれな? あー、おまえがずっと寝てたやつな」

「覚えてるんだね? そう、おまえがせっかく一日か半日か、時間つくって来たってのに、風邪ひいたか何かしてずっとおれ宿でうつらうつら眠って、おまえが海岸で拾ったものを枕元にいろいろ並べてくれるの気づいてても、だるくて動けないんだよ。ハルもうおれ帰るからな!っておまえが泣きそうに言うのが遠くに聞こえても、やっぱり動けなくって、翌朝までそのまま寝て――目がさめたら枕元に、おまえが置いてった海藻や貝殻やなんかが――ひょっとしてアメフラシもあったかな?」

「いや、覚えてねえな。そんなふうだったか? 覚えてねえ――」

「とにかくそんなようなものが、強烈な海の匂いを放っててね――それが唯一の、海の思い出だよ。あと波の音とさ。結局おれ帰る間際まで起きられなかったから、せっかく行ったけど泳ぎもせず、ろくに海も見ずで。あのときはほんとに悪かったよ、シロ」

「あー、今さら謝られてもなあ。ろくに覚えてもいねえことを……」

「けどあれは本当に悪かったとずっと思っててさ……いつか機会があったら謝ろうと、でもなかなか機会がなくてさ」

「気の長えやつだな。すぐ言えよ。もう10年前とかだろ? とっくに時効だ、んなの」

「あー、でもそういえばおれも、それ以外、遠出したことないな……飛行機に乗ったことない」

「おれはある。一度。ジョブで」

「あるって? うっそ」

「勝ったな」

「くそっ……」


(つづく)

2024.6.14

 

おりば・ふじん/一橋大学大学院言語社会研究科