機関誌『半文』

文亡ヴェスペル 日常系ミステリ-人文学バトルマンガAURORAのためのプレヒストリー・スクリプト-

小説:折場 不仁 漫画:間蔵 蓮

*登場する人物・機関・組織等は、実在のものとは何ら関係ありません

第31回 ジノ亭(3)

森川と上野原が図書室の見学に行っている間、沢渡は古市の案内で上階を案内してもらうことにした。図書室も見たいけれども、それより屋上に出られるというので、むしろそっちに上ってみたいと思ったのである。武井は迷っていたが結局上野原たちと一緒に行った。

古市に導かれてとことこと階段を上がると、2階の上がり口のところに「関係者以外立入禁止」と書いた小さい立て看がおざなりに置いてある。その横をすり抜けて廊下に出ると、2階も下と同じような作りで、ただトイレの奥がシャワールームになっており、パブの真上に当たるところはスタッフ・ルームというか何というか、奥行きはパブより少し短いが、間仕切りのない広い室内にデスクや書棚・収納棚やホワイトボード、ぼろなソファやテーブルや冷蔵庫やゴミ箱などが雑然と配置された共同研究室様の部屋である。一見したところ事務室にも似た様子だが、ボードに落書きがしてあったり、テーブルにコーヒーカップや将棋盤などが置きっぱなしになっていたり、ソファに枕と毛布がまるまっていたりして、よりくつろいだ親密な、悪くいえばダラしない雰囲気である。

「ここは助手室で、われわれ研究員の普段の溜り場なんです」古市が言った。「来ると、講座の前後はだいたいここに溜りますね。今日はみんな下へ出払っているけれど」

「助手がいるんですか」

「昔はいたんだそうですけどね、JINO華やかなりし時代にはね。今はいないけど、慣習的に助手室と呼んでるんです。奥のデスクが固まってるところにPCが2台あるでしょう、あそこが助手の定位置だったんじゃないですかね。今はそのつど暇な人とか必要な人が、適当にあそこで本を購入したりホームページをいじったりね」

「JINOのホームページって、来る前に拝見しましたけど、ものすごくそのう、古風というか懐かしい感じというか――」

「(笑)オールドモデルでしょう」

「写真もろくに載ってないですよね。レイアウトは当初すごく工夫されたんだなっていうのはわかるんですが、今はもうめったに見かけなくなってきた類の」

「早く作りすぎたんですよね、言ってみれば。十数年前に、まだホームページというもの自体が非常に物珍しかった時代に他に先駆けて作ってしまったので、その当時はたいへん先進的だったと思うんですけど、その後ヴァージョンアップを怠っているうちに、いつのまにかやれる人も暇もなくなって、今では逆にひどく時代遅れな感じになっちゃった。どうにかしたいという声はむろんあるんですけどねえ」

「このソファに毛布がありますけど、ひょっとしてさっきまでどなたか寝てらしたんでしょうか」

「あ、薄田さんがね、そうかもしれないけど、どうかな。この奥が一応所長室になっていて、そこにもソファがあるから」

なるほど「所長室」とパネルのかかったドアを開けると、妙に細長い部屋で、同じくらいボロなソファとテーブルのセット及びデスクと書棚などがあって、書棚からコートやタオルが吊り下がっていて何となく生活感があるのであった。ただし書棚にはろくな本がなく、年代がかった書類ばかりがむやみに押し込まれており、片隅に寝具や段ボールが積み上がっていたりして、「所長室」というよりは、助手室なるスタッフ・ルームに付随する倉庫のような感じでもある。

「薄田さんは毎日のようにいらっしゃるけども、所長然としてここに座ってることはほとんどないみたいで、ほぼ、あっちの助手室のソファにいますね。小池さんもね」と言いながら古市は所長室を出て助手室に戻る。下のパブでドアがふたつ並んでいたあたりの位置にやはりドアがふたつあって、そのひとつが開けっぱなしになっている先は「いちおう会議室なんですが」と古市、「会議も日常は助手室で済ませちゃうから、ここを本来の目的で使うことは最近はあまりないらしい」確かに、助手室の親密で暖かい雰囲気に比べると閑散として、長テーブルと椅子も会議に備えてしつらえてあるというよりは、ただ何となく余ったのを並べてあるだけのような感じだ。壁際に卓球台が立てかけてある。「卓球やるんですか」「ときどき、やってる人いますよ。会議がめったにないのをいいことに台が出しっぱになってることもしょっちゅうで。それでも小人数で集中的に打ち合わせしたいときとか、受講生の個人的な相談に乗るときなんか、この隅っこを使ったりしますけどね」

「受講生も入っていいんですか。関係者以外立ち入り禁止って書いてありましたけど」

「まあね、受講生も古顔になると、講師に用があるときは下の事務室じゃなく直接助手室に来たりしますから。そうなるともう関係者と言えば関係者だしね、そのほうが事がはやく済むことも多い。秦さんなんか新顔なのにけっこう来ますよ」

「あの、こう言うとあれですけど、大丈夫なんでしょうか。下の事務室も相当あけっぴろげですよね。他人事ながらちょっと心配になります」

「あー、まあねえ」古市は笑って、「確かにセキュリティは甘いですね。沢渡さんいろいろ鋭いなあ(笑)。事務室は今日は空っぽのまま開けてたけど、普段は講座の多い午後だけ人がきて番をしてて、他の時間帯は暇な人が誰か座ってるか、ブラインド下ろして閉めてあるんですけどね。いま来た時も確かもう閉まってたでしょう。もっともシャッターじゃなくて単なるブラインドだから侵入しようと思えば簡単で、確かにこれも前々から問題視されてないことはないんだけども、今のところ特に深刻なトラブルがあったって話は聞かないです。あれば、もう少し何とかするんでしょうけどねえ。でも別に取られて困るようなものもないし」

「そうなんですか。受講生の個人情報とかは?」

「それはウチはいまだに紙なので、別途鍵のかかるところに置いてあるから。それに薄田さんによれば、財務記録なんか見られたからって何の恥じることもないそうで。貴重なものといえば本だろうけど、図書室はさすがにカードキーでいちおう防衛してるし、受講料は未だに現金だけど一度にたくさん溜まるわけでもないし、これもヒミツの金庫に入れてあるそうだから」

ジノのヒミツその2か、と思いながら古市の後について、会議室の手前のほうのドアから、こんどは事務室の真上にあたるらしい部屋へ入ると、「ここは応接室ね」という。まさしく応接室らしい応接室で、古びてはいるがそれなりに上等そうな絨毯が敷いてあり、壁も少しく風情のある暗色の板目のパネルが貼られている。「ここなんかも以前は国のお偉いさんなんかがいろいろ訊ねてきたんでしょうけど、今はそれほどでもね。最近では塙保さんの入所式をここでやりましたね」正面上方にいかにも応接室らしく額が飾ってあって、「會而期不」とある。期せずして会う、か、いい文句だなあと思っていたら、「いい字でしょう、それ、何年か前に福富さんが揮毫してくださったんですよ」という。

向かいのドアから廊下に出られた。階段をさらに上って3階に出ると、今度は廊下からT字状に別の廊下が延びていて、両側が教室になっているようである。助手室・所長室の上は2つほどの中くらいの教室に分かれていて、応接室・会議室の上は大教室である。80人くらいは入りそうだ。4階も教室で、小さい部屋が全部で6つか7つある。各教室のドアに週間スケジュールが貼ってあり、見るとだいたいどの教室も週の半分がたは埋まっていて、GenSHAの教室よりも稼働率はいいようだ。「こうしてみるとけっこう講座があるんですね」「そうでしょう、意外にね」「いやそんな」「実際、賑やかな日には3階・4階はけっこう賑やかですよ、受講生たちはおおむね3、4階に出入りするわけで。ただ学校と違ってチャイムが鳴ったりしないし、講座によって開始時間や終了時間もまちまちだから、いちどにわあっと学生が廊下にあふれるようなことはないですけどね」そこここに掲示板があって、新規講座の案内や、いろいろなポスター・チラシが貼ってあるのは大学と同様である。

5階に上がると、同じくT字の廊下の左側には6つばかりのドアがあり、それぞれに名前を記した「表札」がかかっているところをみると、いわゆる教員、もとい研究員の研究室のようである。表札がふたつかみっつ懸っているドアもある。「研究員が全員、部屋を持ってるわけじゃないんですよ」と古市、「古参のかたがたは持ってますけどもね」確かに、いちばん手前のドアに「薄田」、次のドアのノブのすぐ上に「Nob」とあるのは小池信勝のシャレだろう。「だんだん足りなくなったんで、今は2~3人で同居したり、他に本拠のある人は部屋を持たないことも多いです。要するに単に本や資料の置き場所ですからね。塙保さんは要らないとおっしゃって、あと田宮さんなんかも部屋はお持ちでないですね。私は吉井さんのお部屋の片隅に居候しています」見ると4番目の部屋には「UNO」と「UHU」とふたつの表札が懸っており、ウーフーと鵜野は研究室をシェアする仲であるらしい。

向かいはなんと「理科教室」となっていた。教室の中でもここだけは特に鍵がかかるようになっているらしく、古市は内ポケットから鍵をとりだした。「さすがに多少の薬品やなんか仕舞ってありますからね、バーナーとかもあるし」と言いながらドアを開けると、小学校などでもよく見る、昔ながらの理科室である。「古市さん鍵持ってらっしゃるんですね」「あー、ええ、つまり水と火を使える教室がここだけなもんで」「お料理の講座もなさるんですか」「ええ、あくまでも芸能史の枠組みの中でですが。今昔物語やなんかに出てくる料理を一緒に作ってみたりね」「芋粥とかですか」「そうそう、あとフナ寿司とかね」「いいなあ。他に理科の先生は?」「いやーそれも、今はたまに非常勤のかたを呼んでくるくらいのようで。昔は、聞くところでは化学者のかたがいらしたとか。生物学者だったかな。でも設備がこう、古いですしね、ちゃんとした理科のかたに常駐してもらえるような状況ではもうないんでしょうねきっと。一応、隣に「化学準備室」と「物理準備室」があることはあって、そっちにもう少しは高度な実験設備とか道具があると思うんですがね、遠心分離機とか。そっちの鍵は私も持っていないなあ」

「友人でこの春から十協大の生命科学科に移った人がいるんですよ、理科の教員免許をとりたいといって。彼女なんか、よろこびそうですけどね」

「十協大のひとが非常勤で来ることたまにありますから、そういうとき、ついて来られるといいかもしれないですね。それでも年に1講座あるかないかですけど」

「講座がないときは締切なんですか、もったいないですよね」

「普段はなにしろ空いてるんで、あのほらさっきお友達を図書室へ案内していった若い子がいたでしょう、ガウくんていうんですが、彼がときどき入り込んで遊んでるみたいです」

「ああ、さっきの。遊んでるって、実験とかするんですか、ひとりで?」

「ええたぶん。彼、高校生の年頃ですけど高校行ってないので、松ヶ枝さんから教科書や参考書もらって、そこに載ってる実験を自分で順々にやってみてるんだそうで」

「危なくないですか」

「とは思うんですけどね、最初は――小学生とか中学生くらいの頃は小池さんや薄田さんがつきあってやってたって話だけど、最近はひとりでどんどんやるらしいです。準備室の鍵も彼は持ってるんじゃないかな」

「小学生の頃から出入りしてるんですね。どういう人なんですかあの人は。きいてよければ」

「いや私もわりと最近入所したので、昔のことはあんまりよく知らないんですが、御大たちのご友人の息子さん?なのかな、なんか複雑な事情があって、わりと小さい頃から御大たちが半ば預かるような感じで育ったとか」

「ご両親がいない?」

「育てのお義父さんがいるそうですがね。震災直後に生まれた勘定になるようだから一種の「地震っ子」なんでしょう。中学生くらいから学校行かなくなって、ほとんどの勉強はJINOでしてきたみたいな」

「それはすごいなあ」

「大きくなったんで最近ではJINOの使い走りみたいなことをあれこれこなしてくれて、事務室の番なんかも時々やってくれてますね」

「ガウさん、ですか。中国人?」

「いやー、よくわからないです。名前はガウ・ティエンチン、それで漢字で書くときは高いにアッパレと書いて高天晴。でもそれだと普通「ガオ」くんになるところ「ガウ」くんと呼びならわしてますね、なぜだかわからないけど。その育てのお義父さんは永住資格とった英国人だそうですからそのへんと関係があるのかも」問わず語りに語りながらさらに階段を上がるのに沢渡もついてゆく。階段室を上がりきると小さいペントハウスのようになっていて、簡易な丸テーブルと椅子が3脚ほど。片隅に立てかけてあるのは望遠鏡らしいが、そこに収納してあるのやら単に放置してあるのやらよくわからない。「ほら、ここから屋上に出られます」

たかだか5階建てなので屋上といってもさして見晴らしがいいわけではないが、地上から見るよりは少しは空が広く、背の高い周囲のビルの隙間から、西のほうにかすかに残る残照が見える。この間に時刻はそろそろ7時近くなるようで、お天気の良かった今日の夜風はからりとして、それなりに気持ちがよかった。〈アゴラ〉の緑丘が青い影になって見える。その向こうの〈ドーム〉が望めないかと思ったけれども、〈アゴラ〉北辺の高台に隠れているのか、あるいはどれかのビルの陰になっているのかして残念ながらそれらしい形は見えなかった。そのちょうど反対側のあたり、残照を背にしてやや遠く聳えているのは、七本木あたりに最近竣工成った通称〈ブルースネーク・タワー〉、東京タワーに替わる新時代の電波塔兼観光名所としてとみに話題になっている。風圧対策のためか遠目に若干ねじれた形状で、薄青いライトアップがけっこう綺麗なのが、たまたまビルの切れ目から、上三分の一くらいが小さくのぞけて見えるのだった。AISA本社もそのふもとあたりにあるという。

「こんなことお伺いしていいのかどうか」沢渡はためらいがちに切出してみる、「今ではJINOは、AISAとは完全に切れてしまっているんでしょうか。そういう噂をきくんですけど、そんなに簡単に縁が切れてしまうものなんですか?」

「さあ、私はなにしろ完全に畑違いなのでねえ。御大たちもその点については黙して語らないというか、わざとでもないんだろうけど何も語ってくれないし。当時――震災の後で一緒に活動していた研究員たちの多くは物故したり遠くへ移ったりして、ほとんど残ってないですしね。鵜野さんくらいかなあ」

「鵜野さんは古いかたなんですね」

「当時まだとてもお若かったと思いますが、講演やら演説やらでずいぶん活躍してたみたいですよ。今はしょっちゅう海外に行ってて日本にほとんどいないですけどね。まあーやっぱりJINOに勤めただけでは生計が立たないですから、研究員として長く残るのは普通は難しいんでしょうね」

「お給料が出ないって本当ですか」

「うん。出ないんだねえ。いやそれもかつては出てたのかもしれないけどもね、臨時収入がいっぱいあったころは、でもお給料というよりは特別ボーナスみたいなものが支給されてただけじゃないかなあ。今お給料をもらってるのは、資産運用のために専門の会計士を頼んでるんだけどその人と、昼間数時間だけ来て電話番してくれる事務員と、それだけだと思うねえ。それすらだんだんキツくなってるのかもしれない」

「さっきのガウさんも、じゃ無給ですか」

「そうだろうね。何かのバイトで食べてるんだと思いますが、ただ彼に関してはときどき御大たちがお駄賃程度のものをあげてるみたいだね。〈アゴラ〉を連れ歩いて食わせたりね。親代わりみたいなもんだから。可笑しいのは、小池さんはなるべく機会をみつけては彼にいろいろやらせようとしてるんだけど――たぶん仕事を覚えさせるためにね、けどその一方で薄田さんのほうはなるべく仕事はさせまい、勉強だけさせようとしてるみたいで、それでときどき言い争ってるところを見かけるね。それ以外めったに喧嘩しない2人なのに」

「御大たちご自身はどうやって生計を?」

「基本的にはいわゆる年金暮らしだと思うけれど、他にもいろいろあるんじゃないですかね、ナントカ有識者会議とかそういう。パブの樽酒やなんか薄田さんのポケットマネーだしね。まあ薄田さんも小池さんも独身ですし――地震で奥さんやお子さんを亡くしてますから。いや小池さんは後添いがいるのかな。薄田さんは3人いたお子さんとお孫さんを全部亡くしたとかでね。震災後のあの脇目もふらぬ活躍ぶりは、そのせいもあったんでしょうきっと」

ややしんみりとして風に吹かれているうちに、さすがに少々冷えてきたので中へ入って1階のパブに戻ると、宴はいよいよたけなわの模様であった。相変わらず吉井が軽やかなサロンピアノを弾き続けていたが、人が妙に増えていて、外国人らしき人々がそこここに混ざり、いろいろな言語が聞こえる。英語やフランス語も聞こえれば、何語ともわからぬ言葉も聞こえ、ちょうど〈ドーム〉と〈アゴラ〉の中間をいくような混在ぶりである。南側の奥のあたりの掃出し窓が開かれて、隣のビルとのわずかな隙間に設えられたささやかなベランダのようなところに、屋外パーラーめいたパラソルつきの丸テーブルがふたつほど出してあるのがわかる。小池と森川とあと2名ほどがそちらに移動してホタル族を決め込んでいたが、中はますます混んでおり、森川が戻っているからには上野原と武井も戻ったのだろうが、どこにいるのか俄かには見定めがたい。古市はちょっと厨房へと言って離れていったので、とりあえずまた飲み物を貰おうと沢渡がカウンターに寄ると、バーテンは他ならぬ薄田御大であった。

さすがに気軽にスミマセーンともいかず、どうしようかとためらう間もなく、御大のほうから目ざとくみつけて、「ほい、いらっしゃい。何にする?」と全くもって屈託のない調子である。

「あ、えっとあの」

「ビールもうイった? あそう、どう旨かった?」初めての人だね、と言わないところが他の人たちと一味違うのかもしれない。「何が好き?」

「あ、あのじゃああのジンフィズで」

「ジ・ン・フィーズ一丁!」

「あジンはボンベイ・サファイヤっていうやつで」

「ほほー、古市くんのお仕込みだねえ? さっき一緒に入ってきたろ。どっか見てきた?」

「はい、屋上に行ってきました」

「いいね。何にもないけどね。昔よりは空気がよくなったから、たまーに暗い夜にゃ天の川だって見えることがあるさ。はいよ」手早くジンフィズを作ってよこす。礼を言ってちびちび飲みかけるのを、気づけばじっと薄田の眼が楽しそうに眺めている。この機会にAISAのことを訊いてみたいと思いながら訊けず、つい別の、当たりさわりのないことを訊いてしまう。

「あの、上に理科室があったのでびっくりしたんです。講座があったら出てみたいんですけど、近いうちに予定がありますか」

「理科実験に興味ある? あそう! そう! 理科の講座すぐにはないけどね、うん、秋には、何かあると思うんだ、いま生物化学の人と交渉中でね、そのうちホームページに出ると思うから、そしたら適当に申し込んでくれりゃね。遺伝子とか興味ある? あそう、うん、ちょっと興味あるかもしんないくらいが一番いいんだ、小さい種から大きい花が咲くほうが、大きい種から大きい花が咲くよりか意外でおもしろいだろ。いや大きい花もいいけどね、ハスの花なんかオレ大好きだね、東大の実験所には260種くらいのハスの花の遺伝子が保存されてんだってえけどね、ね、でもオレ一番好きななァ松葉ボタンなんだよな、な、あんなに色とりどりの花つけんのに吹けば飛ぶよな芥子粒よかもっと小ーっちゃい種でさ、なあ。お前さんはどんな花ァ好きだい?」

そういきなり訊かれて、何か気の利いたことでも答えたいと思うのだが、相手がシラフなのか酔っているのかよくわからなかった。薄田のまなざしは若年者に向ける老師の慈愛に満ちたそれに見えて、その実、こちらを突き抜けてどこか遥か彼方に茫洋と向けられているようでもあって、さっき古市からきいた話の印象のせいか、年齢を感じさせない無尽蔵の活気の中に、はかりしれない深い失意もまた複雑に綯交ぜられているかのように感じられて、何か恐ろしいような気がした。もごもごと口籠りながら幾つか花の名前を挙げたが、ちゃんと聞いているのかいないのか、うんうんとうなずきながらも薄田の眼は次第にホールをさまよいはじめ、やがて演台のほうで動きがあるとそちらへふいと向けられた。沢渡もつられてそちらを見やると、吉井のピアノが調子を少し変えて、歌の伴奏をするようである。マイクの前に立っているのはかのガウ青年で、前説も何もなくいきなり歌い出したのは楚々としたフランス語のメロディであった1。声は高めのよく延びる声で、細部に繊細な音高の揺れがあるのが妙に耳を惹く感じだ。ふと傍らを見ると、薄田の眼はまっすぐにガウに向かって、心底いとおしげな、悲しいような光を湛えている。曲が終わると、拍手のさなか吉井はピアノを離れ、かわってギターの音がするので、見るといつのまにかピアノの前、窓とガウの間にギタリストが座っていて、間を置かず次の曲のリズミカルな前奏をかなで始めた。その見紛うことなき銀髪を目にして沢渡はようやく思い当たった――あのとき〈アゴラ〉で見た青年たちだ。人吉が助けられたという2人組、ギターケースを携えて遠ざかっていく後ろ姿だけを沢渡が見た、あの猛禽類なのだった。なぜまたこんなところで音楽を? 一方はしかもJINOで育ったも同然だという。もうひとりの銀髪のほうもそうなのだろうか? 同じくらいの年頃と見え、質素で飾り気のない半袖シャツをきて非常に精悍な感じがする一方で、何だかおそろしく暗い表情をして、顔や腕に青あざのようなものも見える気がするが――しかしあれこれ考えをめぐらすいとまもなく、思わず音楽に聴き入ってしまう。リズミカルでジャジーな短調の、ドイツ語らしい歌は、後できけばヒルデガルト・クネフの往年のヒット曲で2、それから一転して、シンプルなメロディのリフレインがちょっとバラッド調のアップテンポな英語の歌3になり、タンバリンが入り、ギタリストもコーラスに入り、賑やかになったところで次はまたゆっくりと物憂げな、今度はスペイン語の歌4と続き(この歌はどうやらJINOでのこの2人の定番らしかった)、そのあと一転してギターソロになり、軽快かつ華麗なブレリア、か何か5フラメンコのリズムが一同を魅了する。それまでずっと短調の曲が続いたせいもあってか、長調混じりの旋法が場をパッと明るくするようでもあり、「Ole!」とか「Ala!」とかの掛け声と手拍子でガウがノリを煽るにつれ、喝采を受け止める白髪の青年の表情からは暗さなどいつしか拭い去られたように跡形もなくなり、純然と嬉しさと喜びだけがそこにあるようである。短めの一曲が終わるやいなやまた別のラテン・ポップな快速モダンのスウィングナンバー6になめらかに移行し、今度は途中から吉井がピアノで加わってデュオの掛け合いとなる。ピアノの設置場所のせいでピアニストとギタリストがほとんど背を向け合うような位置関係にもかかわらず、息がぴったりと合って、ガウがそこらの道具で叩き回るパーカッションをベースにして息もつかせぬ速弾きで掛け合いながらクライマックスへ駆け上っていくのに我にもあらず聞き惚れながら、同時に、どこか潤みがちにステージに向けられた薄田の視線をもすぐそばに感じつづけて、沢渡の心は妙に乱れた。


(つづく)

2024.4.10

第32回 In dieser Stadt 〈アゴラ〉にて――つづき(2か月前)

「おーまえ、投げるなよな、鞄さ1。中身、パソコンとタブレットだったよ? おれが落としたらどうすんの?」

「おまえは、落とさねえ。落とさなかったろ?」

「ぎりぎりだったよ! も少しパワー、セーブしろよ」

「したじゃねえか。おまえがぎりぎり受ける程度に加減してんだよ」

「あれで? 迷惑な信頼だなー。チャリのあいつら、常連?」

「まあな。タチはそう悪くねえんだが。年寄りに怪我でもさしたらと思うとな、ふびんでよ」

「あっさり解放したね。タチが悪かったら、どう処理するんだ?」

「あの場じゃ、あれ以上どうもできねえよ、タチが悪くてもな? まあ今晩とか翌晩とか、何日か用心しながら、そのうち折をみつけんだろな」

「……そうだ、もしかして、タチの悪いツツモタセだって思われたんじゃないかな。未遂だけど」

「は、はっ! いいじゃねえか別に。なにおまえ、あの子、カモりたかったか?」

「いや全然。変わっててちょっと興味惹かれたけど、あの子、って感じじゃなかったよ、年上だよかなり。タブレットなんか持って、学生だね――大学生か、大学院生か」

「大学院? へえー」

「そんな感じ。後から来た連れの男ってのも、遠目だけどそんな感じだったな」

「おれよく見てなかったからわかんねえな。おまえ羨ましいのか、ひょっとして」

「ひょっとしなくても、羨ましかったけどね、さっきまで。大学すっ飛ばして大学院行けたらいいのにとかってさ。でも今はもう羨ましくない。なくなったよ」

「どういうんだ、それ」

「なんかね。ふと思ったんだよ。大学院って、ああいう人たちがいるところで――ああいう真面目な、白い服の似合う人たちが行くべきところなんだ。おれは不真面目だからダメだ」

「何だそりゃ。おれだって白っぽい服だぜ今日。真面目ってな、どういう意味だ?」

「うん――何というか――純粋に何かを探求しようという姿勢かな。季節はずれの白い蝶々を追って裏路地にさまよい込むとか――」

「白い蝶々?」

「そう言ってたよ。虫捕り網持って――いつも持って歩いてるんだろきっと。おれよりずっと年上なのに、そんな子供みたいなさ。そういう純粋さは、おれにはないよ。自分ぬきの探究心というか、さ。おれが勉強するのは、まず自分がいてその自分がおもしろいと思うからか、でなけりゃいつか何か自分の役に立つと思うからで、それじゃあ不純だ、ダーメだなって思っちゃってね……ははッ! だからおれは大学にも大学院にも行かないことにする。したよ」

「けど薄田さんは、行かしたいんだろ? おまえを、大学によ」

「うん。ずっとそう言ってくれてるけどね、援助もするとか。でも悪いよやっぱり。学費高いし――もっとも、学費はたぶん免除がとれるけど」

「JJ2がどうかしたのか」

「ん、まあもともと変わった人だったけど、最近めっきりボケてね」

「ええ?」

「もう式次第もろくに読めないんだよ。しょうがないからおれが読んでるんだよ」

「おまえが。へえ。結婚式とか葬式とか?」

「葬式だってね――つい最近も一件あったけどね、塵は塵に、灰は灰にってやつだって、もう半分がた忘れててさ。おれが介添えして――そう、そうそれに、ほとんど英語に戻っちゃってるんだよね! もともと口数の極端に少ない人だけども、一応日本語も喋ってたのにさ。往生するよほんと」

「そうか。JJがね……そりゃ知らなかったな。おれ一度見舞いに行くか?」

「ああ――うん、ありがたいけど――たぶんもうおまえのことも、わからないよ。おれのことすら怪しくなってきてるんだから。……ああそれで、ね、つまりJJの代りに御大ふたりがさんざ構ってくれたから今のおれがあるわけで、やっとこれから少しずつ役に立てるかもと思ってるとこなんだから――」

「JINOの役に立ちてえってんなら大学行ったほうがゆくゆくよほど役に立つんじゃねえのか? そういう場所なんだからよ」

「あ、おまえ、まっとうなこと言うね。それはそうなんだけどさ。でもおれ大学行くとしたら理系だと思うんだよ、理系はさすがにJINOでは無理だから。有機化学とか、情報工学とかさ――でもそういうの、趣味的な関心はあっても、それで技術者とか科学者とかになってるおれって想像できない。やっぱり根が文系なんだよなあ、文学とか哲学とか社会思想とか、言語とか、そっち捨てられないけど、でも大学でそれやるのはだるい、ああ、JINOで完全にスポイルされたなおれ!」

「行っといたほうがいいと思うがなあ。アタマ使う商売みつけるにゃよ」

「でも面倒な思いして高卒の資格とったあげく大学行って、今さら必修の語学とか体育とか、同世代がうじゃうじゃ固まって出席とられたりって、考えただけでもぞっとしてたんだ。だからいいんだこれで」

「情報工学っていや、最近な、こっちでもサイバー系3つかそういうのが増えてきてな。情報部ってのを作って――もともとあったんだがそれを拡張して、ハッカー入れて、ってやってるみてえなんだが、どうやら人手が足りねえらしいぜ。おまえやるか」

「そーんなのできるわけないだろ! やっとこれから少し勉強でもしようかってところなのに。だいたいそういうモノの役に立つハッカーなんてね、12、3の頃から才覚あらわしてるもんだよ? おれなんかもう17だよ、冗談きつい。馬齢を重ねたな。サイバー系って、おまえは実働?」

「そう。仕事はサイバーでも、やってるやつは、どっかにいるわけだからな、生身がよ。場所特定したら、おれらが出かけてって、後は芋づる式に――まあそううまく行きゃの話だけどな」

「そういうの聞くと、普通にサイバー犯罪の摘発じゃないかって思えるよね。ネット詐欺とか薬物のネット販売とかそういうのだろ? 警察がやってることと変わりないみたいだな」

「そ思うか? やってるやつは大抵、半グレ上がりか、でなきゃアブレなんで、こっちにゃこっちの目算が別にあるはずなんだが――」

「海外だったらどうするんだ?」

「さあ、水際シメといて上のほうでネゴるんじゃねえかな。けど水際にしろ何にしろ叩くときにゃ、実際ポリと組んでやることも珍しくねえよ」

「それも〈銀麟〉の営々たる勢力扶植の一環てわけだね。けど、それで警察と協力して仕事するにしても、表に出せない暗黒なところは結局おまえたちがやるんだろ?」

「あっちは縛りがきついからな」

「〈銀鱗〉は何でもありか。おまえ、今また保釈中?」

「あー、厳密にゃ保釈とは違うようだけどな。未成年は観護措置取消?とか何とかいうんだ、こないだやっと覚えたんだが――今んとこ金は要らねえらしい」

「何度目?」

「さあ、数えてねえけどな……いま自分がそうなのかどうかもときどき忘れる」

「普通ありえなくないか? そういうののリピーターって」

「入ってもすぐ出るしな? 何か取り決めがあんだろなあ」

「おまえもうすぐ18だろ。成人になるよね。したら金も要るだろ」

「〈銀麟〉が面倒見てくれる。労災だから」

「労災はよかったね! 〈会社〉っていうくらいで、実は情報部だけじゃなく会計課とかもあるんじゃないの。しょっちゅう何十人ぶんか保釈金払っててもお釣りがくるくらい、いい条件結んでるんだろうね」

「どうせ返ってくるんだから、体のいい隠し口座みてえなもんなんだろ」

「気をつけろよな、おまえ。本来おまえあたりの罪状で保釈が認められるはずないんだし、それに、どんな取り決めがあるか知らないけど、成人になったら、これまでみたく、入ったらそうそうすぐは出してもらえないかもしれないよ? どころか――」

「構わねえよ、それならそれで、仕方ねえ――おまえが行かねえ大学へおれが行くわけさ。したら本でも差し入れてくれりゃいい。よそうぜジョブの話。音楽にしよう。おれまた今度いつオフがとれるか、わかんねえからな」

「そうだね。どこでやろう、ここらでいいか。ちょうどベンチ空いてるし」

「さ。何からやる?」

「あー、実はおれこのところドイツ語にハマっててね」

「ドイツ語? フランス語じゃなかったのか」

「それが、ちょっとしたきっかけで――おまえもやる?」

「やらねえ」

「やろうよ」

「やらねえよ!」

「やろうよ。教えるから」

「またかよ。あのな、だからもうちっと実際の役に立つ言語はねえのか? え? ドイツ語だのフランス語だのなんか、そこらで誰も喋ってねえじゃねえかよ。中(チュン)とか韓(ハン)とか、タイ語とかカンボジア語とか、せめてポルトガル語とかよ……」

「チュンはもう大体やったろ。ていうか考えてみればチビのころはチュン少し喋ってたんじゃないか、おまえもさ? おれ高媽(ガオマア)のとこにいたときはまだろくにポン4喋れなかった気がするんだけど、おまえとどうやって会話してたっけ?」

「え。いやポンだったろ? 最初から――そんな気がしてたがな――チュンだったか? かもしんねえな?」

「ポルトガル語はそのうちやりたいけど、順番ってものがあるからさ――悪いけど今おれの手持ちがドイツ語なんだよ。でね、フランス語や英語と違ってドイツ語には格変化ってものがあってさ」

「あー?」

「簡単にいうと冠詞っていうのが、英語はaとtheしか基本ないだろ、フランス語はそれがそれぞれ3種類あるだろ、ドイツ語は4種類あって、それがそれぞれ4通りに変化するんだ」

「うげえ……」

「あとthis とかthat とかも同じように16通りに変化する。ていうか名詞がそもそも変化するんだけど、名詞自体の変化はほとんど消えちゃってて、冠詞とかが代りに変化するんだね」

「そんなに変化してどうすんだ」

「動詞の変化はフランス語と似たようなもんだけど、それと合わせると文の構造がすごくわかりやすくなるんだよ。そのぶん語順がかなり自由になる。もちろん制約はあるんだけど、それで文を乱すことなく、いくらでも長ーく続けられるようになるんだよね」

「ははあ、そりゃ確かにおまえの好みだな」

「16通りといっても、かなりかぶってるから、実際にはそんなにないけど」

「余計ややこしいんじゃねえか?」

「よくわかるね。そうなんだよ」

「やめようぜ。歌にしよう。な」

「あ、そうそれで、ドイツ語の古い歌をね――」

「そうきたか」

「当然じゃないか。ちょっと聴いてみて、これ5

「あー」

「……」

「……」

「60年代のシャンソンなんだけど、悪くないだろ? ていうか、ちょっといいだろ? よくない?」

「も一回聴かして」

「どうぞ何度でも」

「……」

「……」

「……こうか? ♪‐♪‐♪-♪-**♪‐♪‐♪-♪-**」

「そうそう」

「♪‐♪‐♪-♪-**-♪‐♪‐♪-♪-**-」

「Leere, bunte Zigarettenschachteln/und zerknülltes Butterbrotpapier/auf dem Schulweg, den wir täglich machten/seh' ich, als ob's heute wär', vor mir」

「キイそのまんまでいいようだな」

「うん彼女、ヒルデガルト・クネフってすごく声低いから、ちょうどいい」

「ツィガレテン、てひょっとして煙草?」

「そう。Zigarettenshachtelnで煙草の箱。複数形。単数はSchachtel」

「アオフデム・シュールヴェーク?」

「auf dem Schulweg――学校へ通う道で。直訳するとOn the school-way」

「学校なんかろくに通ったことねえな」

「通ったじゃないか小学校4年くらいまでは、一緒に。ときどきだけど。そこはアコガレってもんだよ。続きの歌詞はもっと憧憬に満ちてるよ? 駅の花壇の花を盗んで、母ちゃんにやる誕生日の花束をつくるんだ」

「ほうお」

「でもその後はいいよ? この街をぼくはようく知ってる、この街はぼくの――ええと、zuhausは訳しにくいな――まあ、ぼくのホームタウンだとでもいうか」

「ツォハウス?」

「Ich bin zuhaus、ぼくは家にいる。Ich fühle mich zuhaus、ぼくは家にいるみたいにくつろいでる」

「zuhaus」

「そう」

「Ich……fyleってfeelか?」

「fuehlen」

「fuehlen」

「ウムラウトっていって、uとかaとかの音にeが混ざるんだ。ほら上に点々がついてるやつ」

「あー、あれな」

「Ich fühle mich zuhaus」

「Ich fühle……michzuhaus?」

「michって英語のmeだけどしょっちゅうmyselfの意味で使う、というかフランス語のme(ム)かな」

「Ich fühle mich zuhaus」

「Ich bin zuhaus」

「Ich bin zuhaus」

「いいじゃないか。おまえ相変わらず発音いいな。やっぱ耳がいいんだなあ」

「よしこれでドイツ語できたな。Ich fühle mich zuhaus……here」

「よくわかるね。ドイツ語でも「ここで」はhierで、英語と同じなんだ。綴りは違うけど」

「あそう! 「そこで」はゼアか?」

「da」

「だー?」

「da」

「だー(笑)」

「dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah/こよい いそうの げんげつのした/とりのくろおを ずきんにかざり」

「ああ? 何だっけそりゃ?」

「賢治だよ、宮澤6。ときいろのはるのじゅえきを/アルペンのうの しんさんになげ」

「***! **!」

「あおらみわたるこうきをふかみ/ならとぶなとのうれいをあつめ/じゃもんさんちに かがりをかかげ」

「**! **! **!」

「ひのきのかみをうちゆすり/まるめろのにおいのそらに/あたらしい せいうんをもせ! ジャーン」

「****! って何だおまえこれ(笑)、どうにもなんねえだろ、これじゃあな」

「そうだねえ。けどおれさ、いっぺんこういうのやってみたいんだよね、いや、これじゃなくて、別の、何か長い詩を読むやつさ」

「長い詩を読むって、ただ読むだけか? 朗読?」

「朗読というのでもない、何というか。うーん何というかなあ。歌うというのでもなく。歌と朗読の中間というのでもなく。だっておまえがいるんだから、単に声とその伴奏というのではつまらないよ」

「おれはつまらなくねえよ別に」

「そうかもしれないけど、いや普通の歌は普通にそれでもいいけどさ……」

「あのよ……ハル。おれちょっと、そのう――あー、言い出しにくいんだが――」

「何? 改まって」

「言いにくいな……そのう、JINOによ、吉井さんて人いるだろ? な」

「ああ。うん」

「ピアノがめちゃうまい――」

「あー!」

「それでそのう、一度そのう……な?」

「一緒に? やりたいんだね、あー! いいね! 吉井さんよろこぶよ絶対」

「ほんとに? やってくれると思うか? おれみてえなもんと――」

「何言ってんだよ今さら、馬鹿だな、いいよ、すごくいい――あそうだ! 5月にJINOでパーティやるって言ってるからさ、新しく着任してくる人の歓迎会だとかで。そのときにどうかな。あ、5月だとおまえひょっとしてどっか入ってるかな?」

「いや、たぶん大丈夫……だと思う」

「もう曲の心当たりある?」

「実は――これ7。聴く?」

「聴く」

「……」

「……」

「……」

「…おー!」

「……」

「いいね。吉井さん好きそうだよ絶対」

「――だいぶアレンジしなきゃなんねえけど」

「平気だよ吉井さんなら。へのかっぱだよきっと」

「そうか。だと嬉しんだがな……これ、な、一人で弾いてても今イチ楽しくねえっつか、やっぱ誰かとやりたい。バンドじゃなくてもさ。そ思うだろ」

「思う。思う思う。さっそく訊いてみるよ」

「頼む」

「うんうん。シロが真っ赤になって俯いて口ごもりながら頼んでたって言う」

「やめてくれ……普通に頼んでたって、な」

「わかったわかった。それ前半はひとりで弾く感じ? ちょっと弾いてみて」

「あー……最初のな、このヴァイオリンのメロディが――あ、これおまえ演る?」

「え、おれ? あー、やるとしたら――やるとしたら――ハーモニカかな……しまった今日持ってない」

「じゃそこは抜かして――****」

「……」

「******!」

「ここからだね? ピアノ」

「***!****!」

「おおー(笑)」

「********!」

「Bravo! すごい、おまえさ、本当に、なんで弾けんの? 吉井さんがうまいのはわかるよ。けどおまえはさ」

「……さあ」

「さあ、ってね!……それメンコギターだろ? メンコだってさ――呆れるよ、おれ。ロマの血でも入ってんじゃないの」

「……かも」

「えー?」

「だって――前に聞かしたことあるだろ、おれの、本名つか。よく覚えてねえけどシェロシュなんとかってのさ」

「あーあれ! 冗談だと思ってたよ。ほんとなのか?」

「おれにだって冗談としか思えねえが、ほんとだとすりゃ、あっちのほうの名前だろ。誰から聞いたのかも定かでねえから、わかんねえが」

「風貌は、でもそんなふうには見えないよね、髪と目の色にしたって。それに、それを除けば普通にポンともいえる」

「ごた混ぜなんだろ。でもロマっていや、このローゼンバーグって人もそうだけども、エル・チャロ8ってのがいんだよ、スペインの、どこだかに。〈MeDoc〉9にときどき掲がってんだが、完全にストリートで、よそへは出ねえんだ。そんで左ききでさ。左きき用に弦わざわざ張り替えてんのな」

「へえー」

「普通そんなことしねえけどな? おれもしねえけどよ――けどああいうの、あー、つまり一生ストリートでっていうのな……おれ生まれ変わったらチャロみてえのがいいな……」

「生まれ変わったら、か……おれは、生まれ変わったら、人間じゃないものじゃないものがいい」

「へ?」

「人間じゃないもの、ではない、何か」

「それ人間とは違うのか?」

「違うよ――たぶん。犬とか青虫とか、何でもいいけど、犬や青虫は、自分はひょっとして人間じゃないんじゃないだろうかなんて悩んだりしないだろ」

「おまえ、それで悩んでんのか?」

「いや、別に。悩んでなんかいないよ。いないけどさ。昔ねえ、高媽に言われたんだよ――おまえは人間じゃない、って、さ」

「……」

「だからせめて人間らしくしなさい、祈りなさいってさ。クリスチャンだったからね、高媽も」

「なんでまたそんなこと言われたんだ」

「高媽の死ぬ直前で――おれはまだ6つくらいで、なんだかね、よく覚えてないけど女の子に、何か悪いことしたらしいんだよ。女の子? うん。いやよくわかんないけどさ。5つや6つのガキなんだからそんな大したことするはずもないよね。けど、そんで高媽が怒ってというか悲しんでというか、ね……そんで泣きながらおれのことギュッてハグして、ね。高媽の記憶はそれが最後で」

「……」

「けど、メイにも言われたんだよ実は、同じようなこと。別れるときに。あんたは少うし人間じゃないみたいなところがあるって。だからとても心配だって。ははッ……心配するくらいなら捨てないでほしいよね! けどそう言われちゃあね――だから追わなかったんだ。今だから言うけどさ」

「ふた月くれえ前だったか? 別れたのって」

「三か月かな……なんでこんな話になったんだっけ? 生まれ変わったらって話だったよな。おれ正直、生まれ変わるなら、もうちょっとわけわかる生まれ方したいよ。高媽の子として台湾に生まれるとかさ、JJの子としてイギリスに生まれるとかさ……おれ今やすっかりポン語話者なのに、なんでどの親も違うんだろう?」

「今どき、そう珍しいことでもねえだろ? それに何を今さら」

「いやまあ、ふと、ね」

「おれなんか至ってシンプルだ。オヤッさんって謎の人物がどっかから拾ってきましたという、わかりやすく何もわからねえ。もう未来永劫わからねえだろな」

「オヤッさん亡き後はずっとトニが親がわりか」

「どうだかなあ。最近はそんな気もしなくなってきたな……」

「兄貴は?」

「アニキもなあ――アニキがなあ。あーいや、いいアニキだぜ? いいんだが……」

「〈ポイズン・モス〉10?」

「あー。ずいぶん仕事覚えさしてもらったけどな。もう2年近くなんのかな……もっとかな。多岐川ソリューションズって要するにシマをまたいだトラブル解決屋で、半分はシノギつってもいいけれども、半分は上からジョブが降ってくるんで、もっぱらそっちの危険報酬で食ってるみてえな、な? 何つか、おれ気づいたらそういうとこにいたわけで――15かそこらのときからよ。だから未だに、組織の全貌はよくわかんねえ。ヤクザなんだか、そうでねえのかも――よくわかんねえ組織だよ〈銀麟〉てな、よ」

「……気をつけろよな、おまえ本当に」

「気をつけろったって、つけようがねえじゃねえか。気ィつけてるよ、充分に、十二分に、よ。けどどのみちおれなんか、別の人生選ぼうと思ったら生まれ変わるしかねえんだし」

「……そうでもないんじゃないの」

「え」

「そういうこと言うってことは、別の人生選ぶ可能性が念頭にあってそれを否定してるってことだろ。それはつまり可能性があるってことなんだよ」

「……ハル。おまえって時々、腹立たしいな、え? 余計なこと言わねえでくれよな。おれは、これでいいんだよ。時々こやってギター弾いてあそぶ暇があるだけで充分に、十二分に、ありがてえと思ってんだから。分に過ぎるってかな――♪‐♪‐♪-♪-**-♪‐♪‐♪-♪-**-――ほら、適当に入んな――♪‐♪‐♪-♪-**-♪‐♪‐♪-♪-**-」

「Leere, bunte Zigarettenschachteln/und zerknülltes Butterbrotpapier/auf dem Schulweg, den wir täglich machten/seh' ich, als ob's heute wär', vor mir/Und wir klauten auf dem Beet vorm Bahnhof/Für die Mutter den Geburtstagsstrauß/In dieser Stadt kenn' ich mich aus/In dieser Stadt war ich mal zuhaus'/Wie sieht die Stadt wohl heute aus?/In dieser Stadt war ich mal zuhaus」

「-**-♪!……」

「いいね」

「なんて曲だっけ? 検索する――in die-ser stadt――シュタットて?」

「街」

「in dieser Stadtでin this city?」

「そう」

「格変化してるわけだな」

「そうそう(笑)。そんで1番はそれでいいんだけど、あらかじめ言っとくと、2番で失恋して、3番で街を出るんだよね、もうここは見知らぬ街になっちゃった、一晩泣いて自分は街を後にする、ホームシックなんか感じないよって。でもリフレインがあるからさ――今はどんなふうになってるだろう、ってのが、最後はとっくに街を捨てた後でね――」

「どこの街なんだ? ドイツだろ」

「ベルリン。じゃないかなと思ってるんだけど、わかんないな。少なくとも彼女ベルリンで育ったらしい。戦前にね。曲は1965年かな……壁ができた後で」

「ベルリンの壁、てやつか?」

「歌詞とは直接は関係ないけどね。そもそも詞は別の人が書いてるみたいだし。けどあの壁っておもしろくて、中の人を閉じ込めるっていうより外の人を中に入れないようにするためのものだったんだよね。中へ必死で入ろうとしていっぱい人が死んでるのに、中からは出られるんだ。もちろん東ドイツ領を越えて出るんだけど、飛行機か、止まらない直通列車で、そんなものはまるで存在しないみたいに、文字通りに飛び越えて出入りする。歪んだ時空というかね。電車や飛行機がなかったら、ありえないよね」

「……そういや、ジョブ以外で〈アゴラ〉出たことねえなあ、おれ」

「JINOに連れてってやってるだろ」

「それは別でよ」

「あ、あるじゃないか。ほら小学校の3年のとき? 4年かな、臨海学校みたいなのがあって、みんなでどっかの海へ行った――どこだったか――」

「ああ! あれな? あー、おまえがずっと寝てたやつな」

「覚えてるんだね? そう、おまえがせっかく一日か半日か、時間つくって来たってのに、風邪ひいたか何かしてずっとおれ宿でうつらうつら眠って、おまえが海岸で拾ったものを枕元にいろいろ並べてくれるの気づいてても、だるくて動けないんだよ。ハルもうおれ帰るからな!っておまえが泣きそうに言うのが遠くに聞こえても、やっぱり動けなくって、翌朝までそのまま寝て――目がさめたら枕元に、おまえが置いてった海藻や貝殻やなんかが――ひょっとしてアメフラシもあったかな?」

「いや、覚えてねえな。そんなふうだったか? 覚えてねえ――」

「とにかくそんなようなものが、強烈な海の匂いを放っててね――それが唯一の、海の思い出だよ。あと波の音とさ。結局おれ帰る間際まで起きられなかったから、せっかく行ったけど泳ぎもせず、ろくに海も見ずで。あのときはほんとに悪かったよ、シロ」

「あー、今さら謝られてもなあ。ろくに覚えてもいねえことを……」

「けどあれは本当に悪かったとずっと思っててさ……いつか機会があったら謝ろうと、でもなかなか機会がなくてさ」

「気の長えやつだな。すぐ言えよ。もう10年前とかだろ? とっくに時効だ、んなの」

「あー、でもそういえばおれも、それ以外、遠出したことないな……飛行機に乗ったことない」

「おれはある。一度。ジョブで」

「あるって? うっそ」

「勝ったな」

「くそっ……」


(つづく)

2024.6.14

第33回 廻り舞台

「さすがに日が長いわねー。もう夏至が近いのねえ」

久し振りの「ファウストを読む」自主ゼミを終えると、時刻は18時を回っていたが、梅雨の近づく6月、一雨来そうな空はそれでも充分に明るく、さあこれからもうひと働きしようかというような喜ばしい生活感を、生きとし生けるものどもにあまねく与えてくれるのだった。夕方から始めた自主ゼミも今日は早々に2時間で終えて、さてビールでも、というところ。気温は年々高くなり、暑さはすでに10年前の真夏並みである。

「〈駅馬車〉へ行きましょうか、ね」学部生たちは早々とハケてしまい、例によって斉木に吉井、それに沢渡、上野原、コンというおなじみのメンバー、それに加えて人吉が参加していた。十協大のほうが休講になったとかで、はるばると懐かしい匡坊へやってきたのである。考えてみれば人吉が十協大へ移ってからまだ2か月かそこらなのだが、ずいぶん長く会っていないような、そうでもないような、不思議にざわついた気持ちの沢渡であった。久々の参加といっても、自主ゼミ自体が今年度になってからこれが初回なので、実のところ今なお皆勤の人吉なのである。

「なかなかやれなくって、悪いわねーえ。「古典的ヴァルプルギス」1の山を越えないといけないんだけど、どうやって越えればみなさんがいちばん面白がってくれるか、わからなくって。むずかしいわあ。ね、コンくんどう、古典的ヴァルプルギス」

「え、あ、はい、そうですね、むずかしいというか何というか、それこそ人文的教養がふんだんにないと読めないというか」

「ギリシャ・ローマ神話的なトリビアを、ゲーテのころの人がどれだけ知ってたことになってるのか、をまず知らないと、ツボがわからないですよね」

「そうなのよねえ。でもその前にまず、あなたたちがどこまで知ってるのかを知らないと」

「あ、それはもう、何ひとつ知らないと思っていただければ――」

「そんなこともないじゃん、コンさんなんて意外に変なカミサマ知ってたりさ」

「しばらくはトリビア調査に時間かけましょうね。今度までの宿題にしましょう」

歩きながら道々今後の予定を立てる斉木たちから、少し遅れて吉井と人吉、沢渡がのんびりとゆく。

「ああいう、めっちゃ華麗な登場人物が次から次へといっぱい出てきては、少しだけ喋って次々退場、みたいなのって、どういう演出が想定されてたんですかねー」

「うん。どう思う? きみたちだったらどういうふうに演出する?」

「うーん、わかんないけど、廻り舞台、かなー。舞台がメリーゴーラウンドみたいにゆっくり回るやつ」

「そうそう、うん、ぼくもそうだと思うんだ。当時の劇場、っていうかあっちの劇場はすごく天井高くて、舞台の奥行も深いんだよね。当時でも意外にいろんな照明効果やスモークなんかも使えたしね。けっこう豪華な、高さのある面白い廻り舞台ができただろうと思うよ」

「ごつごつした岩山で?」

「ブロッケン山ならそうだろうけど、ギリシャだから、どうかなあ?」

「あそっかー」

「問題は、現代ぼくらがその辺でやろうとしたとき、どうなるかですよね。そんな大がかりな廻り舞台作れっこないもの。すごく、何か工夫がいりそうですね」

そうこうするうちに〈駅馬車〉に着き、正岡マスターに例によって懇切に迎えられ、隅っこの6人席にうまいこと陣取って、小1時間、『ファウスト』ヴァルプルギスの場の演出についてあれこれ語り合ったが、やがて上野原とコンは何やら研究会の打ち合わせがあるとかで2人して去っていく。人吉と沢渡は何となく名残惜しくてぐずぐずしていたが、

「きみたちが残ったんなら、ちょうどいい。あのね、こないだ、木梨くんに会えたんだよ」

「え? 木…なし、くん? あー…」

「うん、例の〈ボーゲン〉2のさ」

「ああ! 〈ヒーリングスポット・ボーゲン〉。木梨さんて、途中で何か辛くなってやめちゃったっていう人ですね、吉井さんのゼミに出てた」

「そう。こないだのJINOの歓迎会で、彼を知ってるって人に会ってね、連絡先をきいたんだよ。会おうかってことになって、いやぼくも久しぶりだった。彼いまネットワーク・ネプチューンっていうNPOで働いてるとかで――知ってる?」

「あ、いや」

「何というかな、音楽やいろいろなアートを介して地域を活性化するっていう団体で、もとはどこかのホールの運営主体なんだけども、もっぱら、ほら路上にピアノ置いといて誰でも弾けるようにするのとか、あるでしょ、ああいうのとか、現代アートの路上展示とか、そういうことをやってるんだってね。それで面白いから会おうかっていうんで、会ったんだよ」

「はあ」

「それで、例の、〈ボーゲン〉で以前あったっていう集団暴行事件のこと、きいてみたんだ。彼はそのときもうサークルはやめてたけど、もともと小さいサークルだからね、一応事情聴取はされたみたいで。あんまり思い出したくなさそうなんで悪かったけども、そしたら、何だか妙な事件なんだね、あれね」

「そうねー、ちょっとホラーみたいで、怖いわね」

「え、何ですか、何があったんです?」

「通報があって、行ってみたら、メンバーが5人くらい、意識不明で倒れてたんだってね。どうやら互いにそこらのもので殴り合ったらしいとかで。灰皿とか、木材とか」

「木材?」

「防音ボード貼ったりしてたからさ、その余りの資材とかね。けっこう何度も殴られて血塗れになってた人もいて、けど意識が戻った後でみんなに事情きいたら、誰もあんまりよく覚えてないんだって。誰かを囲んでみんなで殴ったような気がするとか、囲んで歌ってただけで殴ったりはしてない気がするとか、いや誰も囲んだりしてなかったとかさ。ちょっとクスリもやってたみたいで、記憶が定かでないんだね。何ていう人だったか、別のメンバー――大野くん、だっけ?」

「小野くん、じゃない?」

「あ、そうそう、その子を囲んでた気がするっていうんで、その小野くんて子も調べられたんだけれども、その子にはアリバイがあって、もう一人のなんとかいうメンバーにも同じアリバイがあって、木梨くんはもちろん関係ないしっていうので、結局、まあクスリと合唱でハイになってお互いに攻撃し合ったんだろうってことになったらしい。それ以上のことは、木梨くんも知らなかったな」

「へえー。確かに変な事件ですね。迷宮入りみたいなもんですよね――けど、その、誰かを囲んで殴るとか、歌うとかって、そもそもどういう?」

「うん、〈ボーゲン〉はもともと歌についていろんな実験みたいなことをやってて、最初は純然と合唱の工夫をして楽しんでたのが、だんだん変な方向へ行ったんで木梨くんはイヤになってやめた、って言ってたじゃない。変な方向って、要するに、歌でいかに人を侵襲しうるかっていうような話で――」

「シンシュウ?」

「侵入するの侵に、襲う。ほら脳の検査やなんかするときに、非侵襲性とかって言うでしょ。ダメージを与えないって意味で。侵襲っていうのは、つまりダメージを与える」

「歌でどうやって人にダメージを与えるか?」

「うふふ、なんか、こやって話してるとバカみたいだって思うじゃない? 歌い殺す、とか――」

「歌い殺す!?」

「そういう話を、よくしてたんですって。木梨くんがやめる直前。『ファウスト』にもあるじゃない、今から自殺しようってところへ、天使の歌声が響いてきて思いとどまる場面。そういうふうに人を、死から引き戻したり生き返らせたりできるものなら、逆に死のほうへ追いやるとか、歌い殺すこともできるんじゃないかとか、そんな話をしてたそうよ。木梨くんは話半分に聞いてて、歌というものをどうとらえるかっていう思想的な話にすぎないと思ってたのにって」

「思想的には、わからないこともないですけどねー。呪いの呪文みたいなのだって、歌の一種だともいえるんだろうし」

「いくらなんでも本当にそんな実験、人でやるとは思えないっていう木梨くんの証言もあって、まあ、うやむやな形で納めたみたいなんだけどね、当時。幸いそれほどの重傷者はいなかったし。サークルは当然閉鎖で、メンバーはその後どうなったか、木梨くんもよくは知らないらしい」

「その小野くんって人がどうこうって言ってなかった?」

「あそうだ、その小野くんっていうのは、やっぱり木梨くん同様そろそろ嫌気がさしてた口で、もとは純然と科学的興味から参加してたらしいんだけど、脳波測ったりして――」

「一箸じゃないのよね。十協大?」

「そうそう、脳科学だか遺伝子工学だかのポスドクで、それが今は一流の科学者になって生化研3のどっかの部署でサブチーフやってるとか」

「え、そうなんだー!」

「人吉さん知ってる?」

「小野先生ですよね! 生化研の。授業取ってますよー。十協に特別講師で来てくれてて。遺伝子の授業。むずかしくてよくわかんないんですけど、へーそんなことやってらしたんですねー」

「どんな人?」

「んー、何というか、小柄で、内気そうなというか、ずっと俯いて喋ってる感じですけど、でも質問に答えてくれるときとか、すごい優しい顔するんですよー。好きな先生ですよ」

「おもしろい縁もあるもんだねえ。事件そのものは、イヤな事件っていうか変な事件だけどねえ。でももう15年くらい前の話だしね」

「〈ボーゲン〉の小屋がまだ残ってること自体、驚きですよね」

鶴巻研二の死が、昔のこの奇妙な事件と何か関係があるようにも思えなかったが、ともかくも〈ボーゲン〉の謎の半ばは解かれたようで、まあすっきりしないところもあるにはあるけれど、小野という人と人吉のうっすらとした絡みもあって、何となく話は自然に収束したような気もする。そのうち人吉が小野ともっと仲良くなるようなことがあれば、また何か聞き出してくれるかもしれない、などと沢渡は漠然と考え、これ以上〈ボーゲン〉の件で頭を悩ますのはやめることにした。なにしろ今年こそ修論を書かねばならないのだから――そういえばまだ「にんぶん」4の件も片付いていない。いや別に片付かないからどうということもないんだけれど。何か小さいトゲみたいに刺さっていて気持ちが悪いから、そうだ、前にこの〈駅馬車〉で会った、弘明寺とかいうあの仏像みたいな探偵5さんに頼んでみたらどうだろう? でも何ていって頼むのかな。心臓発作で倒れた科長が握ってた紙切れにHTMLのコードが書いてあってその中のスクリプトの名前らしいのが「ninbun」ていうんですが、それがどういう意味だか調べてもらえますか、っていうんだろうか。さすがに雲をつかむような依頼で、探偵さんだって困るだろうな……

その探偵、弘明寺至はちょうどそのころ、匡坊と国府の境目あたりにある似たようなバーラウンジで、須崎幸四郎と親しく面談していた。ツルンと仏像めいた面差しの弘明寺が例のまろやかな声音で何やら調査報告をするのを、須崎は人の好さそうなにこにこ顔で、愛想よくうなずきながら聞いている。はたから見るとまことにのどかな光景である。

「……それで、長らく京都におられたんですが」

「はあはあ」

「震災で息子さんを亡くされたのを――あ、息子さんは東京においでだったんですが――亡くされたのを機に上京なさって、どうやらしばらくあちこちに寓居していらした間に養子をとって――いわゆる「地震ッ子」ですね、それでその子を連れて、奥玉に居を構えられたということで」

「ははあ、奥玉。奥玉いうたら、えらい端だんな。住所わかりますかいな」

「はい、これ。けど、住所きくより道きいて直接行ったほうが早いみたいなところですよ。私も、道に迷ったふりして覗いてみましたけども、犬に吠えられてしまって6、どうにもね」

「犬。ほー」

「クマも出ますからねえ普通に、あのへんは」

「クマ! そらまた、えらい山奥なんだんなあ。あそうそれで、その養子いうのんは、どないな縁で?」

「えーと、まあ「地震ッ子」ですから特に縁がというわけでもないんでしょうが、仲野に齊藤道場というのがあって、そこが震災後、子供らの避難所みたいになってたんですね、一時」

「道場」

「総合格闘技のね。その師匠、えーと、齊藤不練さんというのと、安倍さんは昔から友達で、その不練さんのところに転がってた子供らのうち最後に残ったのを安倍さんが貰ったということでしたね」

「その子の血筋は、わかれへんのやね」

「え、わかりませんね。けどちなみにその齊藤さんは今、〈銀麟〉の雇われ武術顧問をしています」

「〈銀麟〉の。へえー」

「〈アゴラ〉の道場に出張してね。それで安倍さんの養子になった行親さんは、現在26歳前後――地震っ子なので正確な年齢は不明――最近まで仲野の道場に通って師範代の役をしていたが、昨年秋から北陸のほうへ長期出張、と」

「ははあ。えらいもんやなあ、細かいことまでよう調べとくんなはったなあ。なんやお友達のこと根ほり葉ほりするみたいなん、おかしなこっちゃで、そんな気ィもあらしまへなんだが、あんまりよう調べがいき届きはるよってな、つい面白うて。えらいもんだすなあ」

「いえ、それほどでも」

「……せやけどそんなド田舎で、ショウジロはん毎日何したはるのやろね。どないして暮らしたはるのん?」

「生活費の出どころは不明です。一時はJINOという人文学研究所で研究員をしたり、あちこちの大学で非常勤講師をつとめていた。今は一見、何もしていないようですね。犬と散歩したり」

「お客を招んだり?」

「客は多いようです。けどもっぱら近所の人みたいですね。森林レンジャーとか、猟友会とか、公衆トイレ清掃部隊とか、そのときどきに招んで、宴会を催したりするようで」

「公衆トイレ清掃部隊? はあー。悠々自適を絵に描いたようやねえ。いやおおきに、おおきに。探偵さんやいうよってに、何か頼んでみたい思てな、ふるいお友達の行方の知れんの、探してもうたんやけど、まるで昨日別れたとこやみたいに、様子がようわかって、嬉しおます。ほなさっそく奥玉とやらへ訪ねてみましょ」

「お役に立てて、よかったです。須崎――幸四郎さん。あのう――」

「ほい。何ですやろ」

「こんなことは訊かないほうが無事なのかもしれませんが。なぜまた、ぼくなんかにお頼みになったんです?」

「なぜまた、とは?」

「だって、この程度のことを調べさせるような、そのう、部下といいますか、お仲間はいくらでもいるでしょうに7

「そやね」

「ぼくが、調べないとは思わなかったでしょうに。というか、調べるも調べないも、ちょっと検索したらわかっちゃうじゃありませんか」

「そやねえ」

「黙って報酬だけもらって帰ろうと思っていたんですよ。けど、どうしても、そのう、お心の内が聞きたくってね。余計なことを聞けば――あれかもしれないとは思ったんですが」

「いやいや、何もおそろしことおまへん。黙って帰らはったら、それだけのことやし、何か訊かはるようなら、今後ひょっとして力貸してもらえるんやないか思て。どないだす」

「どない、と言われましても――けどさすがに〈陌陽〉には――」

「わたしな、こないしてとうに隠居の身やさかい、つねづね、係累と違うお人がひとり欲しい思てましたんや。そういう関わりの一コもないおひとがな。あんさんは見どころのあるお人や。人間観察が好き言うてはりましたやろ。おもろい調査、さしてあげられる思いますで」

「断ったら――?」

「はは、どないもしますかいな。言わはった通り、ちょと検索したら、ワタシがなにもんかたら、すぐとわかりまっさかい、それ知られたからどういうことおまへん。警察かて承知でっしゃろ。ま一般の人は、たいがい同姓同名や思わはるみたいやけえどもな。実際いまはほんまにただの好々爺や。調査いうても、それで何かしょういうのと違います。安倍昭二郎のことかてそうや。知ったからいうて、どうしょういうのやおまへん、ただ時折りな、いろんな人、今どうしてはる、あれこれは今どないなってるいうのん、知っときたい思うさかい。そないな老人の暇つぶしに、現役の社員使われへんよってな」

「……」

「何かもひとつ、訊きたいことおますのやろ。遠慮せずと言いなはれ」

「……鶴巻さんのことは……」

「せやろ。それ訊きたいのやろね。あれはほんまに痛ましいことやった、無念な、な。せやけどあれはほんまに事故だす。少なくとも、わたしらがやったんと違う。ただし、写真盗んだのは確かにわたしだす」

「なぜ――」

「あの日、鶴巻はんが合唱小屋へ行て写真撮った日ィにな、あの小屋でえらい事件がありましたんや。それあんさんかて、調べたらすぐわかるこっちゃさかい言うけえど、仲良し合唱グループの何人かがクスリでトンでもうて、お互い殴りおうてみなボロボロになったちう、なんとも外聞の悪い事件で。その場におらなんだあと2人か3人のメンバーはアリバイがあったちうことで、結局ウチゲバみたいなもんとして処理されたんやが、そのアリバイがあったうちのひとりが、実はわたしの恩人の息子やってね。その子が大勢に囲まれて、なんや怖い目にあって、必死んなってそこらのもんで手当たり次第殴りつけて逃げてきよったんを、わたしが助けて、アリバイも偽装してやりましたのや。……もうとうに忘れとったことやったが、鶴巻はんはあれこれ調べて――つくづく余計な調べもんしてくれはった思うけえども――自分がつい写真撮ったんがその小野いう子やいうことをつきとめたんやね、つまりアリバイは嘘で、ぎょうさんのひと叩いてキゼツさしたんはその子やとわかった、警察に言わんならんちうて、それみな、わざわざわたしに話してくれはった。わたしもびっくりしたけえども、どもならんさかい、もう鶴巻はんにこっちもあらいざらい話して勘弁してもらうしかない思てました矢先にあの事故や。事故は辛い悲しいことやが、取返しのつくもんやないし、この機会に写真やらは処分したろ思てね。ちょっと人に頼んで入ってもらいましたんや。悪おました。けどその子も今はそれなりの地位のある、立派な科学者になっとるさかい、いくら正当防衛やったいうても今更そないな昔のことが表に出たらわややさかいな」

「……そういうことでしたか」

「写真盗んだんが、許せんいうのやったら、仕方のないこっちゃ。この話は忘れとくなはれ。せやけどなあ、鶴巻はんはほんまに、ええお友達やって、あの人がおらんようになってクニマチもなんや、もうあんまり楽しいことおまへん。年寄ると気弱になってあきまへんな。せめてお弟子のあんさんと一緒に、楽しいことしたらどないや思て――それに鶴巻はんあんさんに目ェかけて、よう面倒みたろ思てはったのやろ。あんさんも地震っ子で、身寄りもないいうこっちゃし、わたしが少しでも代わりになれたら思たんやけえど――まあ、大きなお世話かもしれへんね」

「いえ――そんなことは。じゃあ……お引き受けしてみるとしましょうか……」

「ほんまだっか」

「手始めに、というか今度は何を調べましょうか?」

「話の早いお人やな、思た通りや、ほんま、おおきに。おおきに。鶴巻はんもきっと喜んでくれはります。そやね……したら――そやね、東大に今、菅原人躬8いう学者がいてはるさかい――専門は、社会情報学やな――」

「すがわら・ひとみ。社会情報学」

「その人の回りで今どないな動きがあるか、ちょこっと調べてもらえるやろか」

「はあ。どんな動き?」

「それを知りたいんだすがな。本も出してはって、これが面白うて。今いちばん影響力のある学者のひとりだすな。なんや新しい学会作るいう話があるらしさかい、そのコアなメンバーやら、人脈、思想の方向性みたいなんも、わかったら嬉しおます」

「……社会情報学……学会、ですか。へーえ……確かに、意外で面白い調査ですね……それは確かに、社員さんでないほうがいいかもしれませんね」

「それほどバカにしたもんでもおまへんで。せやけどまあ、あんさんの言う通りやろね。……ほな、今回の奥玉の後金と、こんどのそれの前金あわせて1本あげる」

「あ、こりゃ――1本? すごいな……社会情報学とかの動静の情報に、それほどの価値が……?」

「趣味だすがな。くにまちマッピングと同じや。あれこれの人を観察するんに100万ぽっちでは足らんかもしれんけえど。まあひとまずとっとおき」

「いただきます。ありがとうございます」

「おきばりや。期待してまっせ」

「だいぶ遅くなったねえ。エミリさん大丈夫?」

「大丈夫よう。でもあれねえ、人なんて本当に、どこでどうつながってるのか、わからないものねえ」

「人吉くんと小野講師のこと?」

「それもあるし、そもそもJINOで木梨くんの連絡先がわかるなんてねえ」

「そうだ、『ファウスト』をほんとに屋外でやるなら、木梨くんにプロデュースを頼んだらどうかな。街中でそういう不定形なイベントやるの、かれ得意なんじゃないか。ああ、会ったときそれも相談すればよかったね」

「言われてみればそうね! けどプロデュース頼むっていっても――依頼料、高いんじゃない?」

「それほどでもないんじゃないかな、大道具とかみんなこっちでやれば、純粋にプロデュース料だけで済むから、それほど嵩まないと思うなあ」

「そう? じゃ――あら、でもその前にせめてヴァルプルギスの目星をつけなくっちゃ。から手で相談になんか行けないわよね」

「そうだなあ……」

「それより、ネプチューンってそういうストリートイベントが得意なら、彼らなんか、プロデュースしてもらったらちょうどいいんじゃない? ほらJINOでこないだ音楽やってくれた」

「ああ、あの2人ね……いやあ、彼らは〈アゴラ〉でしかやんないでしょ、たぶん。JINOは別として」

「そうなの? 勿体ないわねえ」

「勿体ない、実に勿体ない。一緒にやってみてますますそう思うんだけどね……」

「〈アゴラ〉でしかって、なぜなの」

「なぜって――やっぱり、あんまり表立ってやるのはまずいんじゃないかな」

「そう? 今どきは、そういう人ときどきいるじゃない? 〈MeDoc〉にもときどき出てるわよ、刺青しょったミュージシャンとかって」

「でもそういうのって大体は下っ端で、実際はたいして悪いこともしてないわけでしょ。でもシロくんは、刺青こそ入れてないらしいけど、そっちの世界ではもうかなり名も知られてきてるみたいだし、下手な目立ちかたするとまずいんだと思うよ」

「検索したら何か出るかしら」

「いや、ぼくも検索してみたことあるけど、ほとんど何も落ちてない。誰か見張ってて、情報出ないように統制してるんだと思うな」

「そんなにアレなの?」

「相当アレみたいだね。薄田さんたちはきっとよく知ってるんだろう、ぼくはあんまり深く訊かないことにしてるけど」

「ガウくんはどこまで知ってるのかしら。一見ごく普通なのにねえ。顔つきも体つきも別にイカニモって感じでもないし、背丈も普通だし、ガウくんよりはそりゃ鍛えてる感じするけど、一見ふたりそんなに変わりないじゃない? 仕草だってむしろもの静かで、オラオラな印象なんか全然ないし。白いタテガミが――ウルフカットっていうのかな、ふさふさして可愛いじゃない。普通の子に見えるわよ」

「そう? でも時々、こないだもそうだったけど、ジョブとやらの直後に来ると、やっぱりすごくキッツい顔してるよ、恐いようなさ。それがひとしきり音楽やったり講座に出たりした後では、嘘みたいに優しい、穏やかな顔になるんだけどね」

「講座にも出たりするの?」

「うん、以前に、何だったかなウーフーと鵜野くんが合同でやった、多言語地域の文化と紛争、みたいなシリーズがあったんだけど、それなんかにはよく出てたね。いちばん後ろの席に座って」

「へえ。多言語地域って中央アジアとかバルカンとか?」

「うん。〈アゴラ〉のありかたに通じるものがあるのかも」

「最近も来る?」

「あの後も一回くらい来たかな。御大たちがティエンチンと一緒に飲みに連れ出してたよ。けど先月末からティエンチンのほうが夜ほとんど来られなくなったからね、お義父さんの介護があるとかで」

「介護? あらまあ大変。他人事じゃないわあ」


(つづく)

2024.8.11

第34回 すったもんだ

「……というわけで報告事項は以上ですが、みなさんのほうから何かありませんか」と真弓は物憂い気持ちで言った。今日は6月のGenSHA定例教授会の日である。いつもはてんでんばらばらにいわゆる研究教育生活を送っている教員スタッフ一同だが、月イチの教授会の日だけは会議室で一堂に会し、いわば互いの健在を確認しつつ、一カ月の間にたまった大小さまざまな話題を交換するのである。司会をする真弓のかたわらで、副科長の斉木が真面目な顔で議事録をとっている。

「特にご意見ないようでしたら、それでは報告事項は以上として、さっそく審議事項に入ります――」

報告事項というのはだいたいにおいて学内の上のほうの会議で決まったことがそのまま下りてくるもので、種々様々な規則改正やら、学内組織のちょっとした改編やら、他の研究科と海外大学の提携協定成立の報告やら、GenSHAとは直接関わりのない内容のものが多いから、これらの事項に関しては真弓はなるべく必要最低限の説明にとどめて会議の時間を節約し、それなりの議論を必要とする後半の審議事項により多くの時を費やせるよう心掛けていた。GenSHAは人数が少なく、教授会といっても小規模なサークル程度の規模だから、ラウンドテーブルで実質的かつ対等な議論ができる。きけば何十人もいるような他の研究科では、審議といっても数人の主だった者が代表的な意見を述べ、科長がそれを手早くまとめるという形になることが多いらしいのだが、GenSHAでは事の重大さによっては全員に発言を振ることすら可能で、それゆえ他研究科にくらべて教授会がどうしても長くなりがちである。午後1時半に始めて6時、7時になることも稀ではなく、古参の中にはむしろこの機会を大いに楽しむ者もいた。同じ研究棟に棲みながら意外に普段会えない同僚のさまざまな側面を目のあたりにし、議論の合間に雑談をはさんで予期せぬ交流を果たす中で思わぬ新たな共同研究企画を着想することなども時にありうるからである。しかし昨今はさすがに業務繁多になってきて、そういう余裕のある者は少なくなった。いかなる会議であれ早く終わるにこしたことはないという気分が、GenSHAにもすでに蔓延しつつあった。

「議題1「人事について」ですが――」と、重い気分で真弓は始めた。「先日また御子神副学長のところへ行って相談したのですがやはり、相変わらずたいへん難しく、かといってこのまま鞭々と待ち続けるわけにもいかず、和久さんも定年を迎えて特任に下りられた今、どうあっても来年度の春には新任を迎える必要がありますから、今日は幸い少し時間があるので、みなさんのご意見を伺って対策を立てるべく努めたいと思います。対策というのはつまり、えー、前々からお話ししていますように、我々GenSHAとして中国文学者が必要であるとか、共通教育のために〇〇語が必要であるといった理由では、現状まったく人事を認めてもらえそうにないので、もうひとつ何か、全学として人事に踏み切らざるをえないような説得力ある理由を呈示しなくてはならないわけです。どういう理由でどういう人事案を持っていくことが我々として可能かということについて――今日すぐに結論が出るというわけにはいかないでしょうが、少々ブレインストーミング的にでも、みなさんそれぞれのご意見を承りたいと思うわけです」

会議室にたちまち重苦しい雰囲気が広がったところで、「あのちょっとよろしいですか」と、いつも一番に発言する城崎が口火をきった。「まず前提としてお伺いするんですが、GenSHAのため、あるいは共通教育のため、という理由では通らない、というのはそもそもなぜなんでしょうか。いやまあ、これまでにもお話があったし、だいたいはわかっているんですがね、議論する上でもう一度そこを確認しておいたほうが」

「ありがとうございます。ええ。まあ今回副学長が言っておられたのは、やはり全国トップ10大学に選ばれてしまったこととの関連で。選ばれるにあたって、いわば文科省にいろいろな約束をしたわけで、その約束の目玉としてそのう、今後のよりよい社会構築に向けてインパクトある貢献をなしうる重点領域に特化して研究力・研究発信力を強化するというのがありまして、いやその種の約束を求められたのはむろん一箸だけではないわけですが、一箸は商経研を中心とする社会科学の大学ですから、その重点領域として一箸が挙げたのはほぼそちらの領域に限られていて、当然、文学とか芸術とか哲学とか語学とかは入っていないわけです。で現今、文科省から降りてくる予算が毎年目減りしていてリソースが足りないから、そういう、えー、そういう観点からすれば辺縁的な領域で新規人事を行っている余裕はないということで、人事自体、その重点領域に重点的に特化して行う他はないという」

「しかしねえ、トップ10大学構想についての文科省のサイトや通知なんかをみるとね、確かに重点領域の研究力云々も書いてあるけれども、その一方で、基盤領域の充実、ということだってちゃんと書いてあるんですよね。従来の基盤領域、つまり哲学とかそういう領域も今まで以上に充実させていって、重点領域とあわせて複合的な近未来の新しい大学モデルを確立するというふうなことを文科省は謳ってるんだけども、そっちのほうのことは一箸はどう考えてるんでしょうか」

「ええ、それも副学長にきいてみたんですが、やはり、単に優先順位の問題だということで。基盤領域をおろそかに思ってるわけではないとおっしゃるのは別に嘘ではないだろうと――」

「嘘ではないにしても」と逸瀬が口をはさんだ。だいたいいつも人の発言の途中で口をはさむのが逸瀬の悪い癖である。「優先順位を低くするという時点でそれは、事実上おろそかにしていると言えるんじゃないですか? それに優先順位にのっとるといってもおのずから限度があるわけで、語学なんて、共通教育でもGenSHAでも人手が足りなすぎて実質的にもう崩壊の危機に瀕しているというのに、そのことをどうしてわかってくれないんでしょうか副学長はというか執行部はというか」

「わかってないわけではないと思います。これまでに私からもさんざんお伝えしてきていますし、他のいろいろな言語の先生方からも折に触れてお伝えくださっていることで、それはむろんおわかりのはずです」これではまるで副学長の味方をして逸瀬に反論しているようではないかと真弓は思った。なぜ自分が研究科の同僚に対して御子神の擁護をしなくてはならないのだろうか。「なのでいつも謝られてしまって、もう少しだけ我慢して頑張ってくれと――」

「もう頑張れないというのが実情だということを、つまり、わかってくださってないってことですよね」

「いや必ずしもそういうわけではなくて――」そこで例の外部委託の話をまた持ち出すべきかどうか真弓はためらった。御子神はそこをわかっていないわけではない、むしろ逸瀬あたり以上によくわかっている――ということが今や真弓にはそれこそよくわかっているのだが、その困難を打開しようとなると御子神のアタマの中ではつまり、現在の共通教育における語学カリキュラム全体がすでに時代遅れで現状に対応できていないのだからそこから抜本的に改編して、初級、できれば中級までの語学は全て外部委託しようという方向性になるのであり、そういうことをまたここで話しても、逸瀬はじめ何人かの激昂を買うだけであるということも、真弓にはすでによくわかっていた。しかし話さないわけにもいかないので話すと、案の定しばし、大学教員だからこそやれる語学教育云々をめぐる理念的議論が交わされ、それで15分ばかり時間が浪費された。浪費――と、今の自分には思えているのが何か夢幻のようだと真弓は思った――5年前ならば自分はこの種の理念対話を決して時間の浪費とは考えなかっただろう。それは自分たちの基本的スタンスを確認するための、本来あくまでも貴重な対話には違いないのだ、目新しいものこそべつだん何もないにしても。けれども、そんな理念をめぐって身内でいくら気勢を上げたところで、現在の喫緊の事態に対処する何の役にも立ちはしない。語学の必要性と人手不足について執行部がわかってないとか、わかってもらうべきだとか、そんな段階はとうに通り過ぎているのだということを、逸瀬らこそなぜいつまでもわからずにいるのだろうか。語学といえば昨今のご時世ではまず一にも英語二にも英語で、その方面の人材を補うのに急で第二語学まで執行部の手がとうてい回らないのだというようなことも、言えばどうせまた、真弓自身が英語の人間だから他の語種の苦労がわからないのだとして、ドイツ語だのフランス語だの中国語だのの授業運営がいかに大変なことになっているかという話を延々と聞かされるのがオチで、しかし問題はそこではないのだということ、つまり、独仏中やらその他もろもろの、小数言語を含め世界に無数にある言語を学び、その言語で語られ書かれることを深く理解するのがいかに重要なことかを執行部なり文科省なりに理解してもらうことが必要なのではなく――なぜならそんなことは、執行部も文科省も重々承知している、当たり前のことにすぎないのだから、そうではなく、その当たり前のことを説得的に言語化する能力が我々にあるかどうかこそがいよいよ問われているのだということを、我々はようやく認識しなくてはならないのだ。重要だというけれども、それはどのように重要なのですか。それはどのように社会の「基盤」たりうるのですか、他の重点領域とどのように連携して、どのような社会的インパクトの構成に寄与しうるのですか――そのような質問が暗黙のうちに想定されているのであり、それらの質問は、いってみれば、「国民の税金を何に使っているのか」という質問に逐一答えねばならぬ文科省自身が必要とするであろう回答案をあらかじめ求めるものであり、明確な回答案のないような使途に税金を当てることはもはやできない――いろいろな言語を学び、文学や哲学や芸術を学ぶことが「大切だ」とかなんとかそんなような曖昧模糊とした言葉では回答案にならないのだ、なぜなら「大切だ」と言えるようなことは他にもいくらでもあるからだ。多様な言語や文学や哲学や芸術に触れてその面白さを知ることの「大切さ」など、大学の外に出ても世間の多くの人は経験的に、あるいは直感的に知っているのであって、それを知ることは何も大学人の専売特許ではない、しかしだからこそ、「ではなぜ特権的に大学でそのようなことについて教えるのか、教えるとしていったい我々には教えてくれない何を、授業料と引き換えに若者たちに教えてやっているのか」を、明確に説明できなくては、お金はつかない、ということなのだ――単にそういうことにすぎないのだ。言い換えれば、「人文学を学ぶことは何の役に立ちますか?」という古来の問いに、改めて正面きって答えることが求められているのであって、これまでは、何となく「無用の用」だとか「学んで何の役に立つかは、死ぬときにわかる」とか、まるで禅問答のような答えを返すか、あるいは「学んでいればそのうちわかる」として、暗黙知の領域にある問いとして扱うことでこの問いをやりすごしてきたのだろうが、それではもう通用しない。

「要するに、大学で人文学をやる意義というか価値を、改めて言語化する必要に迫られている、ということだと思うんですよね」つい先ごろ中国から戻ってきた根来が言った。「この間の議論に触れてなかったのでわからないですけど、この古い問いが、今どうなってるかというと、「人文学には、今や貧乏国になりつつある問題山積のこの国においてなけなしの税金を当てるだけの価値がなお、ありますか?」という問いになってるということなんでしょう、ねえ。そういうふうに問いを読み替えて、それに直截に答えなくちゃならない、しかも、その答えを求められているというよりも、それ以前に、その問いに答える能力がそもそも我々にあるかどうか、こそが問われてるんだという気がしますね」――その通りだ、と真弓は思う。「答える能力がわれわれにあると証明できれば、つまり人文学にもなお価値があるとみなされるし、逆に、我々にその能力がないとみなされれば、すなわち人文学自体にはもう何の価値も――」

「そういう二項対立を立てるのが、そもそも人文的見地からすれば間違ってるんじゃないでしょうか。我々の側からそんな二項対立的な問いにあえてつきあう義理はないんじゃないですか。お金をくれないならくれないで、別に構わないと思いますけどね、理系みたいに膨大に金かけないと研究できないわけじゃないんだし」

「定年の身で口を出すのはちょっと差し出がましいとは思うんですが」特任教授としてなお教授会に参与している和久が割って入る。「理念上は、逸瀬さんのおっしゃる通り、つきあう義理はないと思いますし、お金なんかいらないし人もこれ以上要らないと突っぱねる覚悟なら、文科省の問いに答える必要もないんだと思いますが、人を補充できなくて困るのは結局のところ学生ですからね。研究者としての我々はそれでよくても、教育者としてはそれでは済まないところがどうしてもあります。このところ受験者が明らかに減ってきている、どころか一時にくらべて激減して、ジリ貧といっていい状況になっているのも、実際のところこの問いなるものと関係があるんじゃないかと思いますねやっぱり。そういう意味では、真に問題なのは文科省でも執行部でもなくて、学生なんだろうと思いますよ。今や学生たち自身が、大学や大学院へ行けばどういう役に立つことが学べるのか、何をどういうふうに身につけることができて、それが将来のキャリアにどうつながるのか、という観点から大学や大学院を選ぶようになっていて、何だかわからないけど何かを学びたいとか、純然と学問の世界に浸りたいと思って進学してくる子なんか非常に僅かになっている。大半は、「何をどのように教えてくれるか」という問いへの答えを求めて、というか当然その答えがもらえるだろうと思って受験してくる、そういう感じが強くします。ここ数年各種の学生トラブルが頻発するのは、そのせいじゃないかと、なんとなく思ってるんですけどね。つまり、何か具体的に自分の益になることを教えてもらえると思っていたのに、黙って背中を見ろとかいって何も教えてくれない、そういうところに期待と実態の齟齬を見いだして不満がつのるとか、そういうことがトラブルに発展するんじゃないでしょうかね」

確かに、そういうこともあるかもしれない、と真弓は考えた。文科省からは「きちんと指導を行っているか、どのような形態で行っているか」などと言う、一時期から見れば噴飯もののチェックまで事細かに入るようになっていて、それによんどころなく対応する形で、一箸でも数年前から、年度初めには必ずあらゆる学生とその指導教員の間で「指導計画合意書」なるものを取り交さねばならないという制度が導入された。その1年間、論文執筆のプロセスをこれこれこのように進めるものとして、学生はこれこれこういう段取りで「研究」を進め、それに対して指導教員はこれこれこのような形で「指導」をしますということを文書にして、学生・教員双方が署名して事務に提出する。導入当時は、まあ文科省がいうんだから無意味だけどしょうがないという感じで誰もそれほど深く考えずに適当に文書を作成して署名していたものだが、今にして思えば当然ながら、これは「指導」のありかたに関して相互の思惑に齟齬が生じてトラブルに発展することを防ぐ意味あいのものでもあったのだろう。考えてみれば恐ろしいことではないだろうか。しかるに「合意書」にこれこれこう書いてあったのに、やってくれなかったのはひどいとか、逆に、「合意書」にこれこれこう書いてあったのに何ひとつ勉強しなかったのだからこれ以上指導する義務はないとか、そんな埒もない訴えが、学生の側からも教員の側からもぞろぞろと出てきている現在である。トラブルを前もって回避するという意味においてはむしろ逆効果なのではないかとすら思う。

「そういうトラブルを回避するには日々刻々どう振舞ったらいいのか、ということを自分で考えられるようになることこそが、本来むしろ人文学を学ぶ意義だろうと思うんですけどねえー」と城崎が首を振り立てながら言う。今日も少し頭痛があるのかもしれない。「全ては合意の上で、ということをあらかじめ明示する制度をつくることで、却ってその種の能力は涵養されえなくなるんじゃないかね。グレーゾーンにおいて身を処す能力が失われるというかねえ。どんな些細なことでも、少しでも不当だと思えば遠慮せずウッタエて出るのがいい、出るべきだという権利意識ばっかり育って――」

「それはちょっと言いすぎというか問題ある発言じゃないでしょうか。能力の涵養は涵養として、不当なことに対して堂々と正面から異議を唱えるために公けに訴えるという正当な手段を選ぶのが、あたかも肥大した過剰な権利意識のなせるわざであるかのように言いなすのは、それこそ不当な言説ですよ? 些細なとおっしゃるけれども、不当な目にあった人にとっては、周りからどんなに些細に見えようともそれは決して些細な問題ではないんです。そういうことを教授会の席で長老が言うなんて、もってのほかのことです、今のは撤回して下さい」

「……いや、別に決してそんなつもりで言ったのでは――」

「撤回して下さい!」

「わかりましたよ。今の後半は撤回します」

一同しんとなる中で真弓は、とりなすすべもなく絶句していた。こんな場面がかつてGenSHA教授会で展開された試しがあっただろうか。同僚の発言に対して、それがどんなものであれこんなふうに撤回を要求するとは。逸瀬はもともとかなり果敢で戦闘的なところのある少壮学者ではあったが、少し前、まだ准教授だった頃までは会議や雑談の場で先輩同僚にくってかかるようなことは一切なく、むしろ誰にでも当たりのよい、空気の読める世慣れた人という印象を持たれていた。それがこのところ古老がどんどん減ってゆく中、教授にもなり中堅のスタンスを確立して教授会での発言力を増すにつれて、この種の攻撃的な側面をしばしば露わにするようになった。先端的現代思想の専門家であることもあってか、コンプライアンス絡みの局面においてことさら嵩にかかるようであって、そこには研究者としての義務感・責任感が強く働いているに違いないという意味ではそれこそ何ら非難すべきことでもないけれども、それでも今にして思えば、かつて大人しく人当たり良く振舞っていたのは、こうして有効に闘ってそのつど(些細な)勝ちを得るためのゲバルトを取得しおおせるまでの間ひそかに隠忍して周囲の機嫌をとっていたにすぎないのかと勘繰られもする――だがそのように勘繰ってしまうこと自体を、真弓はみずから辛く悲しいことに思うのだ。逸瀬は逸瀬で、人文学の価値なるものを、その種の社会闘争におけるインパクトへと強力に繋げうるものだと、それこそが唯一の繋留ポイントだと考えていたりするのだろう。

「トラブルといえば」真弓が固まっているのを見てとって助け舟のつもりか、和久がさりげなく口をはさんだ。「これはうちの大学じゃないんですが最近の事例で、みなさんもご存じかもしれませんが、おかしな剽窃案件がありましたね。学生が自分の論文を盗用したというので指導教員が授業中に非難したら、皆の前で恥をかかされたっていうので学生がその指導教員をハラスメントで訴えたっていう。調査の結果ハラスメントというほどではないけども不適切な言動があったということで、その後博士論文はその問題箇所を含んだままで合格して、その学生は博士号をとった、それで学籍を抜いた後、こんどはその教員が学生と大学とを名誉棄損と剽窃で民間に訴えて訴訟になったっていう、その後どうなったか知りませんが、まあなんだかすごい事例ですよね。世の中どうなっちゃってるんだろうと思いますが、これから着任してくる若い人は大変ですね」

「ああ、それで、人事の話ですが」和久のさりげない誘導で話題が人事に戻ったのにホッとして、かすかな会釈で和久に謝意を示しつつ、真弓は言った。「執行部の意図はともあれ、我々としては可及的すみやかに、当研究科にとって最も望ましい人をとるべく努めなくてはなりません。例えば中国文学の人をとりたいと決めたとして、中国語の人手が足りなくなったとか、前任者が中国文学の人だったからとか、前任者が残していった学生がまだいるから、というような理由ではだめだということです。従来こうだったから、あるいは現状こうだからそれを維持するため、というのでは効きません。それを最大限努力してリソースもかけて維持することにいかなるメリット、意義があるのかということを説明しなくてはならない――なぜフランス文学でも韓国文学でもなく中国文学なのかということを、一段深い、実質のレベルで述べねばならない、ということです」我ながら似合いもしない長広舌をふるっている、と真弓は思い、1年前には思ってもみなかったような振舞い方も、案外できるようになるものだな、と思って卒然とした。何かができるようになることは、それができるようにならないよりは、いいのかもしれない。「しかし今日この場でその議論をするのは、やはりさすがに難しいようですから、また場を改めて話しあいましょう。いまのGenSHAに欠けている、あるいは、あるといい分野は、いくらでもあります。中国文学に限らず、こういう分野を補うといいのではないかという提案を募集します。メールでも口頭でもいいですから、何か御案があったらお寄せください。そのさい、実質的な理由、を添えてお送りくだされば、ありがたいです」また城崎やら逸瀬やらが余計なことを言いださないうちに、この話題はさっさと閉じてしまおう、今日はもうたくさんだ――「思いつきの段階の意見でもいいですので、よろしくおねがいいたします。ではこの件は継続審議ということで――」

このように苦労しているGenSHAと真弓であったが、そうこうするうちに風向きが変わって、一箸執行部は文科省から、トップ10大学に指名されるにあたって教育スタッフを充実させると約束したのになぜその後教員数が増えないのかというきついお叱りをうけることになった。この2年ほど、GenSHAが全く人事をさせてもらえず我慢している間に、許可を得て人事を進めてきた他部局の新規採用が、いろいろな事情に阻まれてはかばかしく進んでいないことが一因であった。このまま教員数増加が見込めないなら指名を撤回する、とまで脅されて、執行部は方針転換を迫られ、これまで差し止めてきたGenSHAや他の弱小センター、共通教育などの新規人事をも認めざるをえなくなり、手の平を返すように、どんどんやりなさいと各部局の尻を叩き始めた。一見唖然とするような方針転換ではあったが、4月に財務担当副学長=事務局長が交代して辣腕を揮いはじめ、人件費をむやみに締め付けなくとも資産運用でなんとかまかなってゆけそうな目途がついたせいでもあるだろう。結束にあわやヒビが入るかと思われたGenSHAでも一気に新規採用の機運が高まり、「実質的な理由」つきの意見が多いに寄せられ、2か月以上も侃々諤々のあげく結局、「中国を中心として、東アジアの宗教・言語・文化」に関して何らかの専門性を持っている人、というあたりで公募をかけようということになったのである。「宗教」が入ったところがGenSHAとしては新機軸であった――ひとつには共通教育のほうの「宗教と社会」の授業がずっと非常勤で、宗教を扱える専任のひとりもいないのはよくないということがあったが、そればかりでなく、要は正義だの平等だの公正だのといった、GenSHAの面々が多かれ少なかれ関わりを持たざるえない重要なイデオロギーの数々も全てつきつめれば一種のシューキョーであるという一見居酒屋話めいた議論が、これに大いに預かって力あったのである。執行部を説得するための「実質的な理由」については、みなの意見をもとに根来が鋭意筆を揮って文案を作成することとなった。「要するに作文でしょう、ねえ」と根来は言うのだった、「上が気に入ってくれそうな、いいお話、大きなストーリーを作ればいいんですよ。高校の現代文の問題解いてるのと別に変わらないですよね、考えてみれば。その程度のことでアタフタしなくたっていいんだ、なにも、ねえ」

それはつまり、人文学者に求められる言説のスキルというのも、結局その程度のものなのだということか――と考えて真弓はますます憂鬱になるのである。


(つづく)

2024.10.04

第35回 グレーゾーン(2)

「そうすると、こちらからは准教授クラスの者を2人ばかり、そちらの情報学部へ年間を通じて派遣するという感じですかね」

「そう、クロアポ1でね、週2日ほど。2人で1日ずつでも1人で2日でもいいんだけど。すぐ大学院も作るから、そしたら研究科委員会にも出席してもらう形で。どうだろう?」

ここは五本木近いAISA本社の、広報社会連携統括部門下、産学連携部の部長室である。広い窓から燦々と初夏の日差しが差し込んでくるのをブラインドで具合よく遮りつつ、ゆったりした革張りソファに腰を落ちつけて談合しているのは、産学連携部長とその下の学術共同推進課長、および一箸大学教育担当副学長・御子神正と川路補佐であった。学術共同推進課長は小坂部(おさかべ)といって、川路と同じくらいの年齢、大企業の課長としては非常に若手のほうである。その上司の産学連携部長は佐指田(ささしだ)といい、御子神の後輩にあたるので、立場としては御子神のほうが「お願い」に参上しているのではあるけれども、口調は御子神のほうがラフだ。気のおけない知己どうしの遠慮ないやりとりを佐指田も寛活に楽しんでいるようだが、とはいえビジネス上の談合ではあり、気楽な中にも時折り緊張が走る。

「クロスアポイントメントで週2日。そうですねえ、そうなると金額がどうでしょうねえ、そちらは国立大学ですもんねえ、給与落ちることになるでしょ」

「いや最近はいろんな給与体制を導入してるから、柔軟に調整できると思うよ。それに准教授クラスといっても、要するに技術系の優秀なひとで、全体像をわかりやすく語れて、技術の細かいところも知悉してる人がいいわけだからさ。人を統率する立場にいるようなお偉いさんをよこしてくれる必要はないんだ、いつものとは違ってね。商経学部への寄付講義をいつもお願いしてるけれども、そっちはマネジメント全般に関する実地の知見を提供してもらうのが眼目だから、まあやっぱり部長クラスの人をってことになるけどもさ。きみにも来てもらったことがあるよね以前。あれもう何年前だっけ?」

「あー、5、6年前? 部長になったばっかりのときだったから」

「そんなもん? また来てよ、そろそろ。だめ? 忙しい?」

「そうでもないんですけどねえ。ほら日本学術振興会議のスキャンダルがあったじゃないですか、それでいよいよまた再編成が検討されてるんですけどね」

「また? え、また? だって再編成されたけども、何ともなんなかったじゃないの。震災のときには突発的に活躍したけれども、それ再編成前でしょ。それから鳴かず飛ばずになっちゃってさ」

「まあーそれもウチが喰っちゃったとこがあるんだと思うんですがね。震災のときは非常時だったから、振興会議中心に諮問委員会が組まれて、小回りのきく体制で動いたんだけれども、その提言のいちばんメインのものは、要するに住基ネットワークにあたる部分の情報インフラ構築をAISAに任せましょうってことでしたからね。それを大車輪でやったらさ、あとはウチを中心にして動くことになるじゃない、少なくとも実働はね、したらこっちは民間企業だからさ、勝手にどんどんやるじゃないですか、振興会議だの諮問委員会だのはそしたらレモンの絞り滓みたいなもんでさ」

「絞り滓はひどいね! けど大車輪でやりすぎて、いま実はすごく困ってんでしょ」

「それ言わないで下さいよ。おれがやったわけでもないし。ネットワーク部門は今もうぐちゃぐちゃで、どうしたらいいかわからないでいるんですよね、ここだけの話。そりゃ連中の大いなる課題ですけども、ここは産学連携部なんですから。あそう、それで、ほしい技術系の人、ってのはネットワーク関連? むしろデータベース関連ですかね?」

「あー……悪いんだけど、それって、すっぱり分かれてるもんなわけ? 一般のIT企業ではリスク回避のためにあえて分けてるって聞くけども、おたくの場合どうなの?」

「それねえ。そこ一口で説明するのが、つまりなかなか難しいわけなんで――つまりそのへんの難しさコミで語れる人がいいわけね?」

「うん。要するにJIP関連というか」

「JIPかあ。うーん、けど技術的には、そんなに珍しいもんじゃないですよ? 規模がでかいだけで。ウチは言っちゃえばただのプロバイダで、JIP管理っていう意味ではむしろJpanicだしさ。ウチでははっきり言って、顧客名簿に載ってる回線のスイッチを一個一個オンにしたりオフにしたりするだけですもん。だからウチが講師派遣して何かおもしろい話するとすれば、民間企業の顧客名簿がそのままナショナルな登録国民リストだっていう、そこの、いわば運営のノウハウじゃないですかね」

「それはそうだと思うんだけど、そのへん突っ込んだ話ってそれほどできないんじゃない? そこ突っ込んだ話すると、政府というものをいかに運営するかっていう話になって、情報学部の授業というより法学部か政治社会学部の授業みたいになるかも」

「あーそうか。そうねえ……」

「そもそもさ、その、きみたちが「顧客名簿」て呼んでるやつって、基本個人情報って意味では日本最大のビッグデータなわけでしょ。なにせ戸籍を兼ねてるんだからさ」

「まあねえ、出生・死亡とか婚姻・離婚とかの記録はデータベースに載せてますけど、載せてるっていっても要するにJIPの名義変更の記録がそういう記録を兼ねてるわけでさ。子供が分家したのか親が離婚したのか、個別のデータだけ見てもわからないですからねえ、記録をさかのぼって個別に分析しないと。最大のビッグデータとまで言えるかどうか、微妙なところですけどね」

「そこから、むろんある部分つまり年齢構成とか地区別人口密度とかそういう部分は抽出するんでしょ? 投票率とかさ」

「ああ、それくらいはしますよ、オフィシャルサイトへのアクセス頻度とか、どういうサービスをどの程度受けてるかとか、銀行ごとの口座開設率とかは分析してますけどね。政府としてはその程度の分析もないなんて恥ずかしくて他所には言えないでしょうからね、一応分析はしますよ、医療記録とかも」

「うん、医療の個人データの分析はおたくとウチの共同研究でやってるよね、医療経済学の枠組みで。けど他にもっと活用しないの?」

「しないこともないですけどねえ、JIPでしかアクセスできない部分に関してはさ。けど医療データにしたって、どうしてもハンパなデータになりますからねえ、今のところ。違法JIP、という言い方も変なんだけども、違法じゃないわけだから、でもそれの数がとんでもないからね、そもそも地方なんかでは地方自治体そのものが率先して違法JIPを介して、例えば水道サービスとかね、やってるわけですしね。〈ムセン〉2ですら、JIPのある人のとこに居候してれば電気水道ガスなんかいくらでも使えるしね。分析なんかいくらしても、何らかの正確性を担保できるかっていえば、まあ、できませんね到底」

「そうそう、その種の、〈ムセン〉とかの問題というか困難というかをね、逐一細かく把握してる人に来てもらいたいんだよ。それで解決策とか――」

「解決策なんか、ありませんよ今のところ」

「いやだから、解決策がない、っていうまさにその話をさ、技術的困難も含めて、語ってほしいと思うんだよ。まあ政治的に語りにくい部分も多いだろうと思うけど、全部を授業で語らなくてもいい。語りにくい部分については、むしろ情報学部の教員というか研究スタッフに対して語ってほしい。その困難は、技術的にさくさく解決できるもんじゃなくて、政治的にしかっていうあたりの機微も含めて――あ、そうだ! 情報学部じゃなく、商経研にクロアポで来てもらうのがいいんだ、それで、商経研から情報学部に出向して講義をやってもらいながら、商経研と、法と政社と情報と、そのかたがたとで全学的共同研究プロジェクトを組む。そのほうがやりやすいな――それなら報酬の問題も解決が簡単だし、そうしよう、そういうのどう?」

「それだと、今やってるいくつかの共同研究と変わらないんじゃないですか」

「いやいや、そこはあくまでも情報学部を核としてね、国民にとって必要不可欠な情報インフラの再構築を考える、でそのさいどうしても避けて通れない政治的な問題、社会構造と法制度とをひっくるめた国家経営の問題を、全学部総出で知恵を出し合って綜合的に検討する。そうだ2人のうちひとりは法務部の人がいいかもなあ。どうせならそのくらいしないと――」

「あの、口をはさんで恐縮ですが」

「ああ川路くん、なに?」

「東大あたりでそういうの、すでにやっていたりしないんでしょうか。情報インフラと、社会構造と、法制度と、国家経営、とくると確かに一箸の学部の編成と非常によくマッチしますが、ことが大きいだけに、東大がすでに試みていないはずはないという気もするんですよね。そのわりに何も耳に入ってこないというのは、どういうことなんでしょう」

「東大とも何かやってはいるよね。どうなんだっけ小坂部くん」

「え、東大とは今その関連の研究プロジェクトがふたつ走っていて、ひとつは単純に、正規JIPの普及率を精確に調査するという、でもこれが難物でね、なかなか進まないようですね。もうひとつはJIPアクセスの無線化の検討で」

「ムセン化?……ああ、有線を廃棄するっていうことね」

「こっちはこっちで、セキュリティの問題とか、山奥に住んでる人の問題とか、むしろ技術寄りの対策を考える側ですね。これはこれでやっぱり、いまだに広域高速無線入らない地域っていうのが意外にたくさんあったりして厄介で、セキュリティにしても、そもそも無線で個人特定をどうやるのかね、ヴェストリアみたく二重暗号化システムだけでいくのか、いけるのかっていうあたりで苦労してるようですが、しかしそういうところはいずれ何とかなるとしても、それが何とかなったとして正規JIPの普及率がぐっと向上するかといえば、しないだろうなあというのが大方の予測で。東大といえども、さすがにそうそう有為な結論は出ないようですね」

「だろうねえ、それは。そのへんの問題こそ、根幹は実は技術じゃないってことは、誰にだってわかってることで、けど正面きってそう言えないから技術の問題であるかのようなふりをして、みんなやってるわけでしょ。それで解決策がみつかるわけない。実は解決策なんてみつけたくなくて、できればなるべく現状のままだましだまし、何とかうまいことやっていきたい、それが一番だとホントはみんな思ってるでしょ」

「えー、まあーそれは」

「左指田くんだってそう思ってるでしょ?」

「ま、正直いうと、そんなとこですかねえ。だってあまりにも面倒くさいもの」

「だろ? おれだってそう思うもの。けどそれじゃあやっぱり国家としてはダメだと思うんだよね。国家という概念もどうかと思うけれども、現状それに替わりうる概念がないから、国家と呼ぶんだけどね――つまり完全なリバタリアニズムなりアナルコキャピタリズムなりに基づいて営まれる共同体ならともかく、中枢があってそれが国民とその生活を管理するという様相が幾分かなりとも必要とされるのであれば、管理責任というものが中枢には問われてしまうわけでさ」

「そうですねえ。現状では、その管理責任を負うことができる主体があるとすればAISAしかないけれども、建前としてはAISAは中枢でも何でもない、単なる一民間企業だから、そこでスルッと管理責任を放棄することができちゃうんですよね。我々はアレンジするだけであって、管理する責任は政府にある。政府すなわちクライアントが、これこれこういうふうに管理したいから、そうできるようにしてくれって言ってきたら何か考えるけれども、そうでない限り、まあ早い話が、利益にならなきゃ、やらないですからねえ」

「はっきり言うね、佐指田くん。でもそこが一箸の出番なんだ。もともと商科大学なんだから、商売でどうやって利益を上げるか、どうやってうまく商売をマネジメントしていくのか。ね。そここそがウチの強みなんだよ」

「あ、なーるほど」

「だからやっぱりぜひウチと――商経学部と組んでもらえるといいな。川路くんそういうのどう、アリかな?」

「コンセプト的にはアリだとは思いますが。けど予算は、もともと情報学部設置に際してつけてもらう人件費を当てる予定でしたから――」

「あっそうか! 馬鹿だなおれ! あー……」

「商経学部とクロアポにするなら、商経学部で負担しないと。そうなると経済学のかたたちがきっとまた文句を――」

「そーうだよねえ。何考えてんだろうおれ」

「商と経済って、いまだにそんなに仲悪いんですか?」

「そうなんだよ。いや仲悪いってわけじゃないけどね。きみが院にいたころだって、がたがたしてたでしょ。商学者と経済学者って、ほんとに肌が合わないっていうかね、ミツバチとチョウチョくらい仲悪いね」

「ミツバチとチョウチョは、仲悪いも何もないじゃないですか、お互い関係ないでしょ」

「でも同じ花にたかるだろ。接点はそれだけでさ。でもその接点があるから、はたからは関係が深くて仲良しみたいに見えるらしいけど、実際は全く体質が違うからね、経済の人たちってやっぱり極度に概念的で、合理性と効率性を重んじるから、数字だけ分析して、人の感情とか情緒とか考慮に入れずにバサバサもの言うんだよ、それが鮮烈に効くときもあって見事なんだけど、マネジメントはそれじゃできないよなっていうあたりでね、仲悪いわけじゃないけど意見は常に対立するね」

「あの、これ言うと失礼かもしれませんが、そのう、合理性と効率性を重んじすぎるということですと、御子神先生ご自身が若干そのような評判をおとりでは……」

「え、そう?」

「はい、特に人文系のかたがたの間で」

「あーそうか。そうかー。ぼく自身は全然そんなつもり、ないんだけどなあ」

「昔からよく人に嫌われてましたよね、御子神さん。ぼくも嫌いですよ」

「あ! 何てこと言うの佐指田くん!」

「嘘ですよ。けど嫌われるのは、いいじゃないですか。リーダーは人に愛されるより憎まれるべきだっていうセオリーがありますよね。古臭いセオリーだけど有効な部分はあるでしょ。学長がそれじゃまずいだろうけど、副学長でいらっしゃるんだから」

「憎まれるのは嫌だなー。嫌だけど、しょうがない。そうだ、経済の人たちは人の感情をもともと考慮に入れないところで淡々ともの言うんだけど、ぼくは、人の感情は考慮に入れるよ、入れた上で、選別して、無視すべきだと思うときには無視するからね、そりゃ嫌われるよな。学長は無理?」

「どうなんでしょうねー。御子神さんご自身が辛いんじゃないですかねえ。学長やるならも少し人格の陶冶ということをなさらないと」

「人格の陶冶かあ。芸術哲学でも勉強するかなあ。GenSHAでも行って――」

「GenSHA」

「ああ、そういうのがあるんだよ、人文系のね、独立大学院。震災後にできたんだけどさ。そこの人たちになんか恨まれててさ。まあ恨むのもわかるけどね。今回そんなわけでまた少し人事やれるようになったから、GenSHAでも人事やっていいよってなったんだけど、それはそれで、じゃあ何で今まで?っていってもっと恨まれるという(笑)」

「一般教養の授業とかやる人たちなんですかね? パンキョーの授業はぼく好きでしたけどね、学生のとき。院に入ってからも潜ったりしてね、英文学とかそういうの」

「あそう? うん、いや一人ひとり話せば面白い人たちなんだ、優れた人たちなんだろうとも思うしね、でも正直よくわからないからさ、なるべくいじらないように放ってあるんだよ。何しろ今それどころじゃないからね」

「あのー」

「あ何、小坂部くん」

「話を戻して恐縮ですが。それで、もしその、JIPの諸問題を検討する共同研究プロジェクトを新しく立ち上げるということであれば、委託研究ということで、うちから人を派遣することはできると思いますよ。べつにクロアポとかでなく」

「え。あ、そう? ほんとに?」

「情報学部での授業は寄付講義ということにさせていただいて。なにしろ、ウチの利益のことを考えてくださるということですから――」

「ああ! それは実にありがたいな。却って申し訳ない、結果的におねだりするようなことになっちゃうけど――」

「ふたり派遣するとして年間3000万くらいでどうですかね。当座5年間ということで」

「そんなに?」

「いちおう経営会議に諮ってみないとわかりませんが、感覚では、たぶん。けど成果上がりますかね。実質的な」

「そこだよね問題は。結局微温的なところで推移したら何にもならないもんな」

「成果上がらないようでしたら、残念ながら今の話はなかったことに――」

「ちょっとちょっと待って(笑)! そうねー、成果上げるにはやっぱ、人だよね人。そういや、菅原人躬っていう人さ、東大のさ。あの人、共同プロジェクトのどれかに入ってる?」

「菅原人躬。社会情報学のですか。いや、確か、どれにも入ってらっしゃらないと思いますね」

「あそう?」

「『早すぎたスマート化社会』は面白いですけど、彼は、AISAに対しても実はけっこう批判的ですからね。ソーシャル・アレンジメントというコンセプトには同意しても、AISAの実働にはアンチで。アンチというか、アンチ気味というか、AISAの何に対してアンチなのかも言葉を濁されるのが常なので、よくわからないんですけども――なので、かどうかわかりませんが、加わってはおられないですね」

「それは君たちのほうで敬遠してるの? それともご当人が?」

「どっちも、何となく、というところですかねえ」

「アンチなくらいのほうが、いいんじゃないの。というか少しはアンチ要素がないとさ、実質的な研究成果ということでいえば。かれ、加わってくれないかな――」

「テンゼン・コネクションは何かないんですか?」

「ないなあ、残念ながら。政社研に誰かコネのある人いそうだけどね。コネクションていえば、菅原氏もさ、本の中でもあんまりはっきり触れてないじゃない、裏のほうにはさ。何かコネクションあるのかな、〈銀麟〉とさ」

「さあ、わかりませんね、そのへんは。あんまりないんじゃないかなあと思いますけどねえ」

「彼がAISAにアンチなのは、やっぱり〈銀麟〉絡みの部分に関してじゃないのかなあ。あるいはほら、何だっけほらあの研究所……」

「JINO?」

「あそうそう、ジノ研ジノ研。JINOに関しても菅原さんは批判的だよね、オブラートに包んでるけどさ。まあ今になってジングルベル研なんかイジメてもしょうがないっていうのもあるんだろうけど――そうなんだよ、今言ったGenSHAってさ、なんか微妙にJINOと関係があるらしくてさ」

「あ、そうなの?」

「ね、そうだよね川路くん」

「ええ、最近も何人かJINOに呼ばれてたらしいです。でも亡くなったり断ったりでうまく運ばなくて、それで政社研の塙保さんという人がカケモチで参入なさったとか」

「へえー。JINOってだって、それこそもう今、鳴かず飛ばずもいいところじゃない?」

「そうなんだけどさ。でも昔が昔だからねえ、それでおれ、GenSHAあんまりいじりたくないってのもあるんだよなあ。人文学って――おれ人文学ってよくわからないんだよね実際のところ」

「震災後にJINOが目立って活躍したのは、けど人文学がどうというより、それこそ人の問題なんじゃないですかねえ。たまたま傑出した人たちがいたっていう」

「そもそもきみらのほうでは、今もう繋がってないわけ? 事務的な連携だけ? 学術機関なんだから、小坂部さんの担当なんだよね?」

「本来そうですねえ、たぶん。けどもう7、8年前から直接のコンタクトはないようです。どういう経緯で切れちゃったのかわからないですけど、特にケンカしたわけでもないんで、JIPが一段落して定期会合が必要なくなったころに、どっちからともなく疎遠になったんだろうと。いずれにしても勢力が不均衡になりすぎましたしね」

「ふうん。〈銀麟〉とは? これは佐指田くんマターなのかな?」

「いやまあ社会連携部門なんだからそうとも言えますけど、でも本当のところはトップしか把握してないんじゃないかと思いますよ、それこそ、なるべく触らないようにっていう不文律が敷かれててね。実際、わざわざ触らなくたって、やることは大量にありますから。以前に、緊密に連携してたらしいころは、おれなんかもまだ四十代だったかな、わりと何も考えずにそのつど連携というか業務分担?してた感じで、そういうもんかと思ってたんだけどね、まだ非常時の空気が残ってたし、〈銀麟〉先代の祖父江さんというのが、いかにも普通のまっとうな人で、ハーバードか何か出たインテリだったでしょ。〈銀麟〉もだんだん社会的な、えーつまり反社会的でない組織にうつりかわっていくんだろうと予想してたんですよね。けどその祖父江さんが死んで、後継いだのが、なんか意外にも、ヤクザど真ん中みたいな人でしょ。トニ・リーファンて、なんであんな名前にしてるんだか、何人かもわからないような、それで昔の任侠映画さながらのベランメエでね。こっちの社長もそのときはもう亡くなってて、泰三社長が健在だったら何かうまく対応したのかもしれないけど、健一社長のころはそのリキがなかったというか。そうこうしてるうちに現在のね、俊二社長になって、こう言っちゃ何だけれども、俊二社長ってのが、またよくわからない人なもんでね」

「よくわからないって、なんでそんな人、社長にしてんの?」

「いや、いい人ですよ、辣腕だしね。おれもときどき会うけどさ。けっこう強引なことを、でもすらっとやっちゃうんだよ。無口だけど、言うことはまともで、配慮もきくしね。人をそらさないっていうかね。それこそ合理的かつ効率的でね。でもなんか怖いな、おれ。ここだけの話」

「怖いって? あそう。さっきリーダーは愛されるより憎まれるべきだって言ってたじゃないの」

「愛したい感じではないですよね。けど憎らしいというわけでもないなあ。単に怖い。面と向かうとつい言うこときいてしまうというか」

「へえー。それでトニ・リーファンと連携はとってないわけ?」

「ないんじゃないですかねえ。暴排条例策定に力添えたりして、むしろ敵対的なんじゃないですか。けど世間一般の風潮として、あるじゃないですか、強い者がその強さを使って相対的に大きな利益を得るとか、暴力、とかに対する風当たりが、震災前とは比較にならないくらい強くなってるでしょ。〈GINRINコーポレーション〉の社会貢献がそれなりに認められつつあるからこそいやましに、そういう、裏のほうに関する不正規な取扱いに過敏になってるのかどうなのか、またそういう風潮だからあえてリーファンみたいなのがトップに座ることになったのかどうか、いずれにせよ今のところ表だって連携するということが、ウチにとっても世間的に非常に難しくなっているということは言えるでしょうね。だから社長もあえて連絡とらず、暴排条例に賛成したりなんかしながら、様子見てんじゃないかなあ。大胆だけど一方ではひどく慎重な人でもありますから、社長は」

「そうかー。でも〈銀麟〉って、わかんないけどフロントにコーポレーションどっしり立てて、それなりに組織立ってる感じがあるけどさ、おれなんか東京にずっといるからつい〈銀麟〉のことしか考えないけど、西のほうはどうなの。〈陌陽〉とかってのがあるんでしょ。抗争とかしてんのかな?」

「いやー今のところそういう気配もないけどねえ。うちらにとってもそのへんはあんまり謎なんで、むしろそういう西のほうの裏組織については、それこそ〈銀麟〉に任せきってるところがあるんじゃないですかねえ。AISAも出自は関東だからね何といっても。少なくとも関東みたいなね、〈銀麟〉が――コーポレーションのほうですけど――おおっぴらにJIPを詐取――いや詐取じゃないけどね、合法なんだから――えー取得して下層の面倒みるみたいなことは関西にはないですね。言ったようにむしろ地方自治体そのものがそういうことをやってるんで、なので〈陌陽〉とかそういう組織がもし活躍しているんであれば、地方自治体と裏組織のひそかな癒着というか連携が今度は問題になってくるでしょうね。そもそも政党にしたってね、〈幻化改新会〉なんてそれ自体こ言っちゃ何だけど名称からしてアレじゃないですか、そこ触りたくないという」

「うーん、実質的な研究成果っての、けっこう難しい気がしてきたなあ。けどなにしろ、まず実態を知らないとどうしようもないからなあ」

「銀行口座だって、暴排で反社の人は口座作れないことになってるけども、違法だけど違法でないJIP持ってさえいりゃ口座なんか簡単に作れちゃうしね。さっきの医療経済の研究にしたって、裏には裏独自の薬物供給ルートがあってさ、医療報酬の体系さえ独自に築いちゃってて、けどその中で〈銀麟〉と〈陌陽〉がどういう関係になってんだかとか、裏と表がどういう関係になってんだかとか、うちらにはサッパリわからないしね、だからウチのデータだけではぜんぜん網羅的にならないんですよね。あそうそう、でも〈銀麟〉との連携といえば、祖父江氏のころ以来の実務的連携はもちろん今でも大いにあるわけで、例えば介護問題とかでね」

「介護? あー」

「おれも詳しくないけど、同じ部門の、福祉部のほうでね、やってると思いますよ。介護はもう今なにしろたいへんな問題でしょ、リソースがなくってね、それこそヤクザな連中が寄ってたかって食い物にしてるようなさ、そこを少しずつ何とかするのに、〈銀麟〉と提携してるそうですよ」

「コーポレーションのほう? 裏のほう?」

「両方……というか。もちろん建前は表とですがね」

「ははあ。裏でやっつけて――つまり暴力的に措置しておいて、表へ取り込むわけ?」

「まあそんな感じで」

「はあー。で表へAISAが援助というか、要するに税金を投入する建前? はあー」

「実際には〈銀麟〉がそこで収奪したものが若干こっちにも回ってくるんですがね。ここだけの話ですよ? こんな話だって表だってはできないんですから」

「え、そんな危ない話ここでしていいの? 大丈夫なの?」

「だからここだけの話ですよって。社長と、社会連携部門の部門長と、おれと小坂部くんと、あと何人かが知ってるだけだから」

「ええ! それやばいんじゃないの、おれはともかく川路くんに――」

「信用しますよ。大丈夫ですよ、知ったからってそうそう消されやしないですから」

「消されるってそれ!」

「証拠は何ひとつないわけだから」

「ちゃんと説明つくようになってるわけ?」

「うん、なってるんだねこれが。小坂部くん説明してあげてくれる?」

「え、つまりですね、東京都の場合ですと例えば〈アゴラ〉の住民の住民税として一括でウチの税務部に振り込まれてくるんですよ、例えばですけどね。つまり〈アゴラ〉は今や半分以上は違法JIPなんだけども、それみんな正規の住所に紐づいていますよね、けどあそこの住所って、全部ひっくるめて「八千代田1丁目1」 3なんですよ、今でも」

「あー!」

「なんでそこに住んでる人はみな同居してるっていう態なもんで、正規JIPも違法JIPも住民税は全部一括で〈銀麟〉というかコーポレーションの口座から振り込まれることになってるんですね。まあ中にはむろん昔から正規に自分で払ってる人たちもいますけども、最近ではそれはむしろ例外みたいなもんで――ていうか震災直後から住んでる〈銀麟〉幹部なんかむしろ正規に自分で払ってるケースが多いですが、それも形としては直接ウチにじゃなくって、家長としてのリーファンの口座つまりコーポレーションの口座に振り込む。コーポレーションはそれを集めて、その中に、大枚の不当収益をこっそり混ぜてよこすわけです、自分で税金払えない人のぶんとして」

「ははあ――」

「表立っての会計はだからカンペキですね」

「驚き入るよね! けど〈アゴラ〉の人にだって郵便とか宅配便は届くんだろ? 住所みんな同じだったら困るんじゃないの?」

「事実上はむろん細かく番地に分かれてますけど、それはあくまでも内部的な私的な番地分けだってことになってるんで。住民もそれ知らない人多いんじゃないかなあ」

「そうなんだ――おれも不明にして知らなかったよ。当然、警察もグルなんだろうな。グルっていうと語弊があるだろうけど。まあそのくらいのことは菅原さんだって知ってるんだろうなあ。知ってる人はわずかだってさっき言ったけど、その不当収益の話さ、けど実際は相当たくさんの人がうすうす知ってたりしないの?」

「ありえますね(笑)」

「公然の秘密ってこういうことを言うんだね。本に書けないわけだ。そういう、本に書けないようなことがいっぱいあるのって、どうなんだろうねえ。というかそれを本に書けないことが問題だ、と言うべきなのかなあ」

「昔からそんなもんじゃないですかね。ときどき暴露本とか出たりしてさ。そもそもグルっていえばJpanic自体が、〈銀麟〉やら〈陌陽〉やらとグルってか震災以来ずっとネゴってるんじゃないんですかね。でなきゃこんなことになるわけないもの。あそこの業務って異様に秘匿的でねえ、ウチに回してくれるぶん以外のぶんについては口が堅いったらありゃしないんで、どうしようもありませんよ。けど今んところ、それでもAISAもそれなりに利益出して、なんとか回していけてるし、国民生活も少しずつ向上するんであれば、それでいいんじゃないかという考え方もあるでしょ」

「向上してんの?」

「まあ、ある部分では。ただ、無統制な部分はどんどん無統制になっていくというのは否めないんで、そこが問題ですかね」

「そこだなあ。うん。やっぱり問題をJIPに限ろう。介護とかそういう問題は抜きにして。なんか、今日来た目的からはズレちゃって、恐縮なんだけど、ありがたい話だから、じゃあぜひお願いしたいな」

「情報学部の専任人事のほうは、どうなさいますか」

「うん、それはまた別途、考え直そう。なんかぜんぜん別の話になっちゃって、学長になんて説明したらいいのかなーおれ……」


(つづく)

2024.12.19

 

おりば・ふじん/一橋大学大学院言語社会研究科